なきっつらにふぁみりー

真白流々雫

第1部

ぷろろーぐ ~終わりと始まりのプレリュード~


 ――気が付いた時には、もう何もなかった。

 目の前には灰色の空が広がり、視界の片隅では黒煙こくえんが空へと立ち上っている。

 全身の感覚はほとんどなくなっていたが、腹部のあたりに微かな温もりを感じた。それが何なのか手探りで確かめようにも、指先の一つもロクに動かせない。直前の記憶からかんがみるに、この不気味な温度はおそらく、傷口から大量に流れている血だろう。

 あれから何がどうなった? 

 だが神経が使い物にならない以上、もう周りの状況は一切確かめようがない。ただ一つ否応いやおう無しに思い知らされるのはまさに今この瞬間、自分の命のともしびが消えかかっているということ。自発的に呼吸をしようとしなければ、すぐにこと切れそうだった。

 嗅覚はまだあるのか、鼻の奥に残っている空気は焼けただれた不快な臭いがした。何のにおいかまでは判別できない。

 全身の一切を動かすことができずに、ただぼーっと。曇天の空を見つめながら、思う。

 空がもっと綺麗だったら良かったのになあ。

 今際いまわきわ――人が死ぬその最期のときに観るとわれている走馬灯やらフラッシュバックやら、何かしらあっても良いものだが、思考を巡らすのも今の状態では億劫で、意識的に何かを思い出すという行為は出来ない。そもそも思い出したい素敵な想い出なんて、俺にあっただろうか。

 びっくりだ。こんなにあっさり、最期のときを迎えようとは。

 さらに驚くべきは、身体が壊滅的な状態でも不思議と痛みを感じないことと、心が少しも動揺していないこと。

 最期のときを想像したことはないが、もっと何かこう……儚いものかと思っていた。生への執着とか、死への抵抗とか。いや、それらは全く逆の醜い方か。

 そんな勝手な思い込みもあったせいか、まだ夢を見ているんじゃないかと疑ってしまうほど、現実離れした感覚だけはあった。

 それとも、これこそが"死"というものなのだろうか。

 ふと。

 はたしてすぐそこに迫る死を実感した途端、まぶたが恐ろしく重くなっていく。光がだんだんと消えていった。

 ……もう何も聴こえない。見えない。感じない。

 俺の人生が終わる。

 やがて暗闇の中に、意識がゆっくりと溶けていく――。


 ぽつん。


 ――その時、異変が起きた。

 初めは小さな点だった。

 ぽつり。またぽつり。点が一つ、また一つと次第に数を増していく。やがて点はしずくとなり、水面みなもに落ちた雫の波紋が広がるように、不思議なぬくもりがどこからともなくじわじわと広がっていくのを感じた。

 そして火急かきゅうに拡散していき、深く沈んでいた意識が徐々に覚醒していくのが分かった。

 それは身体全体が優しく包まれるような、とても心地よいぬくもりだった。


 ――ああ、そうだ。


 すべてを失いかけた世界で、たった一つだけ。

 そのとき俺は――空から雫が落ちてくるのを見た。


 それは、小さな女の子がこぼした涙だった。


 ――どうして泣いているの?

 声を発したつもりだったが、骨振動すら感じない。意識が戻ったとはいえ、長続きするものでないことはすぐに分かった。

 顔をくしゃくしゃにした少女の口が動く。しかし少女の口から出た言葉を察してやることは叶わない。

 なんにせよ、他人であるはずの少女が自分のために泣いてくれているという事実が……ただ嬉しかった。

 俺には何もない。

 ないと思っていた。

 だが唯一。この少女が自分の心を満たす大きな存在になってくれた。

 それだけでいい。

 それで満足だ。


 ――泣いていたら、せっかくの可愛い顔が台無しだ。ほら、


 頑張って微笑みかけようとするが、やはり頬の筋肉は使い物にならない。声が届いているのかどうかも判らない。

 だが、懸命につくろった意思は届いたのか。

 少女は目元に一杯溜まっていた涙を拭うと、下唇を噛み締め泣くのを堪えていた。それでも口元をひくひくと痙攣させ、また涙を振り払ってから改まって俺の顔を覗き込んだ。

 そして、今まさに笑顔をたたえんとする少女の後ろから、一筋の光が射す。

 その陰で少女の顔は見えなくなり、視界が光に浸食されていった。

 そのまま光に包まれるように。


 ――俺、大塚祐樹は16年の生涯を終えた。

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