第24話 日陰の世界
授業終了のチャイムが鳴り、現国の教師――山田が出ていったのを確認して大きく息を吐き出した。
「もぉ~、どうして忘れてたんだよぅ……ばかユウキ……」
安西から彼を放課後の補修に連れてくるよう言われていたのを授業中に思い出し、なぜ保健室で釘を刺さなかったのかと後悔していると、綾乃がやってきた。
「大きなため息。今日から補修だっけ?」
「うん」
「大変だね」
「でもべつに補修が面倒とか、そういうのじゃないんだ。ただちょっと考え疲れて……知恵熱でそう」
別の事を考えながら授業を受けると、教師の言っていることが見事に右から左へ流されて、我に返った時に焦って追いつこうとするからいつも以上に頭を使っている気がする。
「あははっ。あいつの授業は仕方ない、催眠効果あるもん。あたし寝てたし」
「やっぱり? でもあやのんが寝るなんて珍しいね」
現国の授業はあまり注意されないのを良いことに、部活前の貴重な睡眠時間として認識している生徒が多数見受けられた。少なくとも俺が入院して学校を休む前までは真面目に授業を受けていたはずの綾乃も惰眠に甘んじていたのを、視界の片隅で確認した。入学してもう大分時間が経っているからか、だんだんとそう言った集中力の取捨選択が生徒たちの中で定着してくるのはよくある話。とはいえ、照月学園は腐っても進学校だ。現国の教師である山田曰く、「寝るのは構わないケド、テストで点を取れるんだよネ?」だそうだ。赤点なんて取ろうものならどうなることか……俺は寝れる自信が無い――とはいえ真面目に受けていたわけではないから結局どちらもあまり変わらない気がしてきた。
「あたしはそんなに優等生じゃないから」
「おーし、ホームルーム始めるぞー」
綾乃が自嘲したところで担任の安西が教室へ入ってきたので、綾乃が自席へと戻っていく。安西が教室に入ってくると、もう一日が終わった気になる。それは俺だけじゃないらしく、ちらほらと大きく伸びをして気怠そうな声を出したり大きなあくびをしている人がいる。
安西は期末テストまで一週間を切っているからしっかり勉強しろよーとか、明日はプール開きだからはしゃいで怪我すんじゃないぞーとか、簡単な連絡事を済ませ、終礼。これからクラスメイトたちは部活動へ勤しんだり、まったりと放課後の時間を満喫するのだろう。
「二ノ宮」
すぐに安西に手招きされたので、若干足取り重く教壇に上がる。
「天羽どうだった?」
「それが……」
「ダメかー」
「すみません……。今からもう一度探して時間までには連れて行きます」
「……分かった。一五分後に西棟の空き教室な。これ補修科目のスケジュール。……本当は昨日渡すはずだったんだが、ギリギリまで調整してた、すまん。教科書持ってない分は貸してもらえるから、担当の先生に言うんだぞ」
安西から説明を受け、プリントを二枚手渡された。どこぞの有名進学塾並みのみっちりとした手厚い補修体勢に、若干やる気が削がれそうになる。家に着くのは二一時は過ぎるなこりゃあ……。
「言わなくても分かると思うが、もう一枚は天羽の分だ。よろしく頼むぞ」
「あの」
俺はずっと考えていた疑問を口にした。
「もし補修に参加しなかった場合、どうなりますか……?」
安西は教材の大きな三角定規で背中を掻いた。
「んー、本人次第だが、最悪留年か退学だろうなあ」
「……わかりました、探しに行ってきます!」
安西の言葉を聴いて、背骨が真っ直ぐになった。泣き言を言っている場合ではない。すぐに探しに行こう。
本日補修を受ける三教科は……現国・英語・科学。幸いどれも今日の時間割に組み込まれている。机の上に広げていた教科書とノート、筆記用具を鞄にぶち込んで、俺は教室を飛び出した。
廊下がいつもより暗い。いつのまにか雨が降り始めていた。空には重く分厚い雲が広がり、ザーザーと大粒の雨を降らせている。夏本番前の梅雨の時期、か。窓から入り込んでくる湿った外気はひんやりとしていて、走ると短くなった袖から入り込んできて、一瞬ぶるっとなった。
彼のいる場所が分からない以上、俺が向かうべき所は一つしかない。
「――星野先生、天羽くんいますかっ!?」
階段を駆け下り、一階にある保健室の戸を開け放って開口一番に叫ぶ。椅子に座って事務机と向かい合い、コーヒーカップを口許へ運ぼうとしていた星野女史が振り向いた。
「びっくりしたあ。天羽少年ならついさっき出てったわよ」
「分かりました、ありがとうございますっ!」
扉を閉めて、左右を確認する。廊下の奥に彼の姿は見えないが、まだそう遠くへは行っていないはずだ。俺はエントランスホールへ向かって走り出した。
東棟一階にある保健室からエントランスホールまでは50m程度。大した移動距離ではない。ところがホールに到着しても彼の姿は見つけられなかった。既に外へ出たのかと土間へ降りてロータリーの方へ目を向けるが、傘が複数見えて背格好だけではまるで人の区別がつかない。一度式台の上に戻って彼のロッカーを探し出し、中身を確認する。まだ外履きは入っていた。
(――帰ったわけではないのか……?)
「……なにしてんの?」
ふいに声をかけられた。ホールの方へ目を向けると、そこに居たのは名も知らぬ小柄な男子。……いや、見覚えがある。昼休み、踊り場で天羽に殴られそうになっていた男子生徒だ。
「キミ、あのときの! あのあと大丈夫だった?」
距離を詰めようとして、手を開いて突き出された。近付くな、ということらしい。俺たちの間に段差があったから背が大きく見えたが、いざ正面から向き合うと身長は優希と同じくらいだった。小柄に見えたのは、天羽が相対的にそれだけ大きかったから。
その男子は前髪が長く、加えて眼鏡をかけているせいで目元が隠れてよく見えなかったが、微かな隙間からギロリとこちらを睨んでいる双眼が覗いていた。そして不愛想に、口を小さく動かす。
「……キミに心配される筋合いはない。それより、質問に答えてくれる?」
えらく刺々しい物言いだった。何か悪いことしたかな?
「あ……えっと、天羽くんがどこにいるか探してて……帰ったのかどうか確認したの」
「それだけ?」
「う、うん……」
「へえ……ならいいや。でもねユウキちゃん、キミみたいな子が、あんなクズに目を向ける必要はないよ。それじゃ」
昼休みのことを根に持っているんだろうか。……いや、彼の口振りだと、何か別の意味を含んでいるように聞こえる。
俺はその場を立ち去ろうとする彼を呼び止めた。
「ねえ、待って! ――天羽くんのこと、知ってるの? それに、あなたは……誰?」
彼は半身だけゆっくりと振り返り、
「ボクは鏡」
そう、名乗った。
「あいつのことはよぉーく知ってる。どれだけ腐ったヤツかってことをね……。だからキミは関わらない方が良い。昼休みのときみたいに、ボクの邪魔だけはしないでくれ」
「邪魔……?」
殴られそうになっていたところを止めたのが、邪魔だったということか? どういうことだ……あれはどう考えても危機的状況だったはずだ。
「そういうことだから、ヨロシク」
「ねえ、ちょっと待って! 天羽くんのこと知ってるの!? 知ってたら教えて――!」
背中を向けて早々に歩き去ろうとする鏡の手を掴んだ。その瞬間――
「や、やめて――っ!」
一瞬、どこから発せられたのか分からないほど甲高い、女子のような可愛らしい悲鳴が聞こえた。
「え……?」
「あ……」
突然のことに愕然としていると、鏡は俯きそっぽを向いた。まさしく空気が凍ったような沈黙が、その場に訪れる。
もしかして――
「今のって……?」
「――っ」
問い
先ほどまで低い声で会話をしていた相手が、女子のような奇声をあげるだろうか……?
疑念を抱きつつも補修開始時刻が迫っていることに気付き、天羽探しを断念せざるを得なくなってしまった。
「――ハイ、ここまでで質問あるカナ?」
恐る恐る手を挙げると、山田が俺を指した。
「全然関係ないことなのですが……今天羽くんが来てないのですけど、わたしが書きとったノートを見せれば出席したことになりませんか……?」
尋ねると、山田は眼鏡をくいっと上げてから、
「愚問ダネ」
一刀両断された。
「
「それは…………」
「もちろん学ぶ意志のある者には私たちは教えるヨ。だがキミもカレも、もう高校生ダ。子供じゃない。来ない生徒一人に対して「ほーらおいでこっちだヨ。どうして来ないノ? 何かあったノ?」って言うところまで面倒は見られない。解るカナ? 友達想いなのは結構だが、今は自分のことに集中しなサイ」
愚行だということは重々承知の上だったが、こうも正論を突き付けられてしまうとどうしようもなかった。
「はい……すみません」
「ヨロシイ。では簡単な問題を解いてみようカ――」
山田の言う通りだ。俺も休学していた分を取り返すために集中しなければならない。病欠とはいえ、出席が取れていない分来週の期末テストで少しでも点数をとって巻き返さなければならない。
しかしペンが思うように走ってくれない。いちいち何かに引っかかるように止まってしまう。
天羽は、言ってしまえば不良だ。不良生徒に対する考え方は人によって違う。
親身になって相談を聞き常に気にかけてくれる星野女史のような教師もいれば、山田のように問題は当人で解決してもらうしかないと、端から関わらない者もいる。
天羽は確かに他人だ。
だが他人だからといって、彼を放っておいてしまっていいのだろうか……。
――本人次第だが、最悪留年か、退学になるだろうなあ。
――無責任なお願いだとは思うが、せめて同じクラス同士なら、あいつのことは見捨てないでやってくれないかぃ。あいつは……天羽は敵ばっかり作るからよぉ。
安西と大阪の言葉を思い出す。このままだと留年、もしくは退学になってしまう彼を、このまま見捨ててしまっていいのだろうか。
それともこれは余計なお世話? 調子に乗ってる?
――さっき言ったことは本当。あたしはこれからもこのスタンスを変えるつもりはないし、ユウナもそうだと思う。これからも、きっと……――でも……
でも――
ふっと、綾乃の言葉を思い出した。あのあと、綾乃はなんて言おうとした……?
いや、まてよ――綾乃の記憶ならば知っている。過去、どこか似たような状況で、似たような言い回しをしていたかもしれない。優希がその場に居合わせていたのだとすれば――
記憶領域をフル回転させ、綾乃が過去に口にした言葉をもとに、記憶を掘り起こす。掘り起こすと言っても、場面ごとに切り取られた写真を高速でスライドさせながら、その中から似ている情景を探すような作業だ。直接的に関連付けられている記憶しか思い返せないからこそ、綾乃の言葉をヒントに記憶を辿るしかない。俺としては優希の記憶を勝手に漁っている気がして複雑な気分だ。
どこだ、どこだ、どこだ……――?
思考世界の時間は一瞬だ。だからどれだけ奮闘していたのかは判然としない。
だが――
――ユウキなら、変えられるんじゃないかなって思うよ。
「あった……」
「ナニが?」
呟いた瞬間、教室内にいた五人の受講者と教師山田の視線が一斉に向けられていた。
「いえ、あの……消しゴムが見つからなくて……ありました……えへへ」
俺は咄嗟に消しゴムを掲げて見せた。
♪
中学に入学してしばらく経った。クラスではひと月も経たないうちに友達グループというものが出来上がってきて、授業合間の休み時間だけでなく、昼休みもグループで固まって行動するのが日常的な風景になりつつあった。
その中で私は、どこか決まったグループに属するということはしなかった。よく言う「友達百人できるかな」精神でいたこともあり、クラスの皆と仲良くしたいと思っていたから、毎日違う人と遊んだし、皆も私を快く受け入れてくれた。
そういう日々がさらに二週間続いた頃。クラス内でギスギスしている瞬間がちらほらと垣間見えるようになった。当然私は気になってその険悪な空気の正体を掴もうとするのだが、先にクラスの子から「ユウキちゃん、あっちいこう?」と、半ば無理やり意識を逸らされ、私も特に気にせずに金魚の糞みたいにくっ付いていった。
だから最終的にその本質に突き当たったのは、入学してから半年が過ぎた頃のことだった。
もうその頃には男子を含めたクラス全員の子と話をして、顔も名前も完璧に覚えていたし、隣のクラスの子たちも名前を呼んで挨拶を交わす仲になった。
それなのに、私はまだ一度も話したことがない子がいることに気付いた。
しかも、それは同じクラスの子だった。
その子は確かにずっとそこに居た。けれども、何故だか今まで全くと言っていいほど見えなかったのだ。
教室内では一言も誰とも話さず、休み時間になるとふらっとどこかへ消えて、授業開始ギリギリに戻ってきて、昼休みになるとまた居なくなって、そしてまた放課後になるとさっさと一人でどこかへといってしまうその子の名は――。
「茅ヶ崎さん」
月曜日の昼下がり、私は友達から昼食に誘われたのを断って、その子のことを校内中探して回った。一日目は時間が足りなくて見つからずに諦めたけど――翌日、ついに図書室の隅っこの窓際の席にその子――茅ヶ崎さんがいるのを発見した。
やっぱり。茅ヶ崎さんはその日も一人ぼっちだった。ひとりきりで、静かに弁当を食べていた。図書室は本を読むところなのに。
「図書室に通うのはガリ勉か根暗な奴だけだ」
皆、口をそろえてそう言っていたのを思い出す。図書室は初めて来たけど、静かで落ち着く場所だ。賑やかな教室もいいが、ここでお昼を食べるのもいいかもしれない。
そんなことを考えながら、私は早速茅ヶ崎さんに声をかけて、隣に座った。
茅ヶ崎さんはまるっとした体格で、顔もふっくらしている。小さい頃にテレビで見た、菓子パンのヒーローみたいだなと思った。
……思えば、間近で見たのはその時が初めてだった。どうして私は今まで知らなかったのだろう。
私が隣に座ってから、茅ヶ崎さんはゆっくりと首を動かして、私の顔を見てきた。かと思うと、すぐに正面に向き直って、慌てたように弁当箱の蓋を閉めると、そそくさと私の傍から離れていった。
「待って、茅ヶ崎さん!」
すぐに私は追いかけた。すると、茅ヶ崎さんは止まらずに図書室を飛び出していった。
「茅ヶ崎さん!」
私も図書室を出て追いかける。そこから、私と茅ヶ崎さんのおいかけっこが始まった。茅ヶ崎さんはなかなかに俊敏で、脚力には自信があったけどその日は上手いように逃げられてしまった。
だから次の日は、昼休みになった瞬間に声をかけた。
「茅ヶ崎さん、一緒にお昼食べよ?」
言うと、茅ヶ崎さんはおろおろと視線を彷徨ませるだけで、「いいよ」とも「ダメ」とも言わなかった。しばらくの間茅ヶ崎さんが黙っていると、クラスの女の子たちがやってきた。
「優希ちゃん、そんなことより私たちとご飯食べない?」
「おかず交換しようよー」
誘われたのは私だけだった。そうして三人に囲まれているうちに、いつの間にか茅ヶ崎さんは教室から姿を消していた。
次の日の昼休み、トイレに行くフリをして図書室へ茅ヶ崎さんを探しに行った。だが、図書室に茅ヶ崎さんはいなかった。
また一から虱潰しに探してもいいが、私は作戦を変えることにした。
その日の放課後、部活へ行くのを少しだけ遅らせて、飼育委員の仕事で茅ヶ崎さんがよく世話をしているという情報を担任から聞き出し、ウサギ小屋へ向かった。
ウサギ小屋は北東の校舎裏に位置している。体育館へと続く渡り廊下へ行く道の反対側へ進み、外履きに履き替えて裏口から外へ出た。裏口は普段は学校の技能技師の人しか出入りしない場所だ。そこから飛び石のように等間隔に敷かれている歪な石の上を渡り歩き、進む。体育館の方からは部活が始まったのだろう、笛の音と掛け声が聞こえてきた。
ウサギ小屋へと続く小道は、今の時間は校舎の陰に隠れていて、少し寒かった。頭上には木々が生い茂り、木漏れ日がところどころ地面に模様を描いていた。
やがて足元の石がなくなって、ところどこに雑草が生えたこげ茶の地面が現れた。今までの固い石とは対照的に、湿っていて柔らかい土の上を踏み歩いた。
そうして見慣れない景色を越えた先に、ウサギ小屋が現れた。
「こんにちは、茅ヶ崎さん」
小屋の中でウサギを眺めている茅ヶ崎さんの隣に、茅ヶ崎さんに倣ってしゃがんだ。視線はずっとウサギを見つめていたけれど、しばらく待っても茅ヶ崎さんはその場を離れようとはしなかった。私から逃げることはあっても、ウサギからは逃げなかった。
私は嬉しくなって、自己紹介をすることにした。
「わたしは、二ノ宮優希だよ」
「にのみや……?」
すると、ようやく茅ヶ崎さんが私に興味を示してくれた。……と思ったら、
「………………ふーん。あたし、そういうの興味ないから……」
ぼそぼそとした声で、拒否されてしまった。
だけども、私はその程度で折れたりはしない。訊いてみたいことがたくさんあるのだ。
「どうして、茅ヶ崎さんはいつも図書室にいるの?」
「本読むの好きだからに決まってるでしょ。それ以外ないじゃん」
茅ヶ崎さんの返答はツンケンしていたが、きちんと答えてくれた。私は嬉しくなって、さらに質問した。
「ウサギ、好き?」
「…………まあ」
こちょこちょとくすぐるように撫でている茅ヶ崎さんに倣って、ウサギを触ってみた。
「かわいいぃ~。私もウサギ好きだよ。……って言っても、ウサギがいるの知ったのつい最近なんだけどね、あはは」
飼育委員の存在はしっていたが、何を飼育しているのかまでは知らなかった。そもそもウサギ小屋が普段誰も通らない場所にあるため、立ち寄る者もさほど多くない。
そういえば、ここにも陽は射していない。日陰の世界は、どことなくもの寂しい雰囲気がある。
私の傍にいた白いウサギが、ぴょんぴょんと茅ヶ崎さんの方へと移動した。茅ヶ崎さんは野菜くずの入ったボウルの中からニンジンを取り出し、白いウサギの口もとへと運ぶ。
「名前とかあるの?」
「…………らびちょふ」
「ラビチョフ?」
訊き返すと、茅ヶ崎さんは頷いた。
「面白い名前だね! ロシアっぽい! 茅ヶ崎さんが付けたの?」
「ち、違う…………誰が付けたのかは知らない」
「じゃあじゃあ、こっちの茶色いのは?」
もう一羽、奥にいる茶色いウサギを指して尋ねる。
「らびーにょ」
「ラビーニョ! 色黒! 南米!」
「……べつに関係ないよ」
「あっ!」
一瞬だけだったが、その反応を私は見逃さなかった。
「茅ヶ崎さん、今笑った……!」
「…………そう?」
「そうだよ! 笑ったよ! 茅ヶ崎さん、もっと笑えばいいのに。そしたらきっと、皆茅ヶ崎さんが本当は明るい子だって分かってくれるよ!」
私は、茅ヶ崎さんは読書が好きでいつも一人でいるから、皆から距離を置かれているのだと思い込んでいた。だからその提案をした時は、何も疑わずに、心の底からそう思っていた。
「茅ヶ崎さん……?」
茅ヶ崎さんはラビチョフを見て、俯き黙っていた。その肩に、触れようと手を伸ばしたとき。
「あ、二ノ宮さんこんなところにいたんだぁ? もう、探してたんだよぉ?」
いきなり小屋の外から声が掛けられた。外へ出ると、同じクラスであり、同じ部活の女子友達が二人、体操着姿でそこに居た。
「鈴木さん、遠藤さん! ごめんね、ちょっと用事があって……」
部長には断りを入れたのだが、上手く伝達されていなかったのかな?
「用事って……」
と、遠藤さんが首を傾げる。その隣で鈴木さんが小屋の中をのぞき込んだ。
「茅ヶ崎さんと一緒に、ウサギの世話をしてたんだ」
「ウサギ?」
「二人も触ってみる? すっごく可愛いよ!」
「へぇー、私けっこう興味あるんだよねぇ」
そういって、鈴木さんが小屋の中へ入っていった。私も続こうとして、遠藤さんに腕を取られた。
「優希、先輩たちが遅いってカンカンだったよ。そろそろ行こう?」
「え? でも……」
「あとは私がやっておくよぉ」
小屋の中にいた鈴木さんが微笑んだ。
「う、うん」
私は遠藤さんに無理やり引っ張られて、体育館の方へ連れていかれた。
慌てて体育館へ向かい、更衣室で体操着に着替えてから部長に挨拶に行くと、
「お、二ノ宮来たな。用事は澄んだの?」
と、あっけらかんとした態度で訊かれた。遠藤さんの口振りでは叱られるのかと思っていただけに、拍子抜けしてしまった。
「はい、もう大丈夫です」
気にはなったが、特に確かめず練習に参加した。
(そういえば、茅ヶ崎さんにバイバイを言いそびれちゃったな……)
それから5分ほど遅れて、鈴木さんが体育館に現れた。アップを始める鈴木さんに近寄って、声をかけた。
「鈴木さん、さっきはありがとう」
「あぁー、いいのいいの。気にしないでぇ、私ウサギ好きだからぁ。それより今日のペア決まってるぅ?」
「ううん」
「じゃあ一緒に組もっかぁ」
「うん、よろしくね」
私は鈴木さんとネットを挟んで向き合うと、シャトルコックを天井高く打ち上げた。
そして、翌日――金曜日。
茅ヶ崎さんは学校を休んだ。担任曰く、風邪らしい。
「え、飼育?」
放課後、掃除の時間にもう一人の飼育委員である櫻井くんに声をかけると、きょとんとした。
「ああ……実はさ、俺一回も世話したことないんだよね」
「そうなの?」
「うん、ブ――じゃなくて、名前なんだっけ、あいつ。あの……えっと」
「茅ヶ崎さん……?」
「そう、茅ヶ崎! 茅ヶ崎にまかせっきりだったからさ。あいつウサギ好きらしいじゃん? だから好きでやってるのに仕事奪うのも
「でも、茅ヶ崎さん今日休みだから……どうしよう……」
不安な表情を浮かべると、櫻井くんが自分の胸を叩いた。
「俺やっとくよ」
「櫻井くん、やってくれるのっ?」
「おう、まかせとけ」
櫻井くんは白い歯を見せて笑った。私はその言葉に胸を撫で下ろし、その日の放課後は真っ直ぐ部活へ向かった。
練習中はあまり考えている余裕はない。けれどもなんだかんだ、どうしてもウサギのことが気になってしまい、帰宅する前にウサギの様子を見ることにした。
時刻は19時を過ぎ、外はほぼ真っ暗だった。校舎から漏れる微かな光を頼りに校舎裏へ向かう。昨日は気付かなかったが、小屋の近くには電灯があり、木の陰からLEDの淡い光が射していた。
その光の中に、半開きになったウサギ小屋の扉が浮かび上がる。
「誰かいるの……?」
こんな時間に人がいるとは思えなかったが、声を飛ばしてみる。しかし誰の返事もない。
悪寒を感じて、思わず体を抱きしめた。汗はしっかりと拭ったはずだが、冷えてきたかもしれない。自然と及び腰になって、そろりそろりと小屋の扉に手をかけた。
「ひゃあっ!?」
――その瞬間、小屋の中から何かが飛び出し、足元を駆け抜けていった。
びっくりして思わず飛び退いてしまう。一瞬なので正確には捉えられなかったが、獣の類のようだった。
「野良猫……? ――っ!」
それが中で何をしていたかは、すぐに合点がいった。
「ラビーニョ! ラビチョフ!」
二羽の名前を叫び、小屋の中を見渡す。が、暗くてよく見えない。急いでポケットから携帯端末を取り出し、フリックで懐中電灯モードに切り替えて、中へ入る。手前から、ゆっくりと目を凝らしながら探していく。
「ラビーニョ……!」
茶色いウサギが奥の隅でじっとしているのを発見した。そして、その反対側に――
「ラビチョ…………――っ!?」
白いはずのウサギが赤く染め上がり、変わり果てた姿で横たわっていた。
土日を挟み、月曜日がやってきた。
朝から足取りが重く、胃がずっとキリキリしている。茅ヶ崎さんになんて声をかければいいのか、ずっと悩んでいた。
今、ウサギ小屋にあの二羽の姿はない。
白いウサギのラビチョフは野良猫に食い殺され、茶色いウサギのラビーニョは足に致命傷を負っていたため、動物病院でしばらく治療してもらうことになった。
先週の様子を鑑みても、かなり愛情を持って接していたはずだ。そのことで塞ぎ込まなければいいのだが……。
教室へ行くと茅ヶ崎さんの姿はなかった。彼女はたとえ朝早く学校へ来たとしても、時間ぎりぎりまでどこかで時間を潰している。図書室か、ウサギ小屋か……。しかし自分から探しに行く気力は沸いてこなかった。結局、いつもどおり担任が教室に入ってくる少し前に、茅ヶ崎さんは教室にやってきた。私が声をかける勇気を持てないまま担任が来て、朝のHRが始まった。
私が事前に告知を受けていた通り、HRで飼育していたウサギが野良猫に殺されたことが、クラス全員に告げられた。ウサギ小屋の錠が外れていて、野良猫の侵入を許してしまった、と。ざわざわと教室がどよめく中、私は怖くて茅ヶ崎さんの顔を見られず、ずっと下を向いていた。
担任は櫻井くんに昨日は変わりなかったかと尋ねると、櫻井くんは「昨日はちゃんと閉めました」と述べていた。私も金曜の夜に櫻井くんに電話をして確認したが、想定外の出来事に櫻井くんも驚いていた。
それに対して他の男子から「嘘つけ、お前が鍵閉め忘れたんだろ」と野次が飛ぶと、
「いや、ほんとだって! 昨日はちゃんと閉めて帰ったから!」
と怒鳴り返した。
反応を見る限り、彼は嘘をついていない。それは担任も感じたのだろう。
「先生も調べたが、留め金の部分が少し緩くなっていた。だから先生は誰かを責めるつもりはない。これは悲しい事故だ。だが、たとえウサギの命でも、ひとつの命に変わりはない。できれば、後でラビチョムのお墓に祈りを捧げてやってくれ」
「――ラビチョフです……」
自然と、言葉が漏れていた。
「え?」
「亡くなったウサギの名前、ラビチョフです……」
「あ……ああ、そうだったな。すまん。ラビチョフな、ラビチョフ。まあ、そういうわけだから――」
後の担任の言葉は、耳に入ってこなかった。
皆、それは悲しい事故として、早くも記憶の片隅に片付けようとしているのが解る。私もこのまま忘れてしまえたら、どんなに楽だろう。
ただ私は、そこで一つの疑念に捕らわれていた。
――はたして、これは本当に悲しい事故なのだろうか?
その日の四時限目は体育だったが、さすがに見学することにした。
バレーボールコートの横で体育座りをしながらクラスメイトの試合をぼーっと眺めていると、目の前を茅ヶ崎さんが通りかかり、私は咄嗟に顔を伏せた。まだ、茅ヶ崎さんと向き合う準備が出来ていない。
茅ヶ崎さんは私の前で一瞬立ち止まった――ような気がした。何かを言おうと思ったのかもしれない。だが、何も言わずに通り過ぎていった。
そのまま授業が終わり、昼休み。しかしどうしても食欲が沸かず、胸の奥がもやもやとしていたので着替えてすぐに更衣室横のトイレに籠った。一人きりになると、自然と金曜日のことを思い出してしまう。
私はペットを飼っていたことはないし、祖父も祖母もいない。
だから“別れる”という経験が、初めてだった。それも、一生ものの“別れ”だ。どれだけ願っても、もう会うことはできない。
櫻井くんのせいにするわけではないけど、やっぱりあの時「私がやる!」って言っておけば良かったって。餌をあげて、しっかりと自分の手で鍵を閉めて、バイバイって言えば良かったって。
誰のせいにもできないからこそ、そういった後悔が沸々と浮かんできて……。
ついには、堪えきれずに涙が零れてきた。
私はまだ、一日しか面倒を見ていない。でも、茅ヶ崎さんはもっと悲しいはずだ。
落ち込む茅ヶ崎さんを想像してしまうと、それが申し訳なくて、涙が止まらなかった。
「わたしのせいだぁ……っ」
そう。そうなんだ。私がもう少し気を配ってやれていたなら――。あるいはあの可愛らしい、小さな命を救えたかもしれないのに……。
一人、便器の蓋の上に座ってボロボロと涙を流していると。
「――あ、ブスザキ居た!」
「こんなところにいたんだ? 探してたんですけど」
声とともに複数の足音が響いてきた。私は泣いているのを知られたくなくて、咄嗟に声を押し殺した。
「ねえブスザキ、ウサギちゃん死んじゃったって、どう思う?」
聞き覚えのある声――遠藤さんの声だ。だがいつもより強めの口調で、別人みたいだった。それにブスザキって……誰の事だろう……?
「訊いてんだから答えろよ! ウチらさ、ブスザキが泣いてるんじゃないかって思って慰めに来て上げたんだよ、わかる?」
二人目の声。これも聞き覚えのある声。隣のクラスの
「それともぉ、悲しくて声も出せなくなっちゃったのぉ?」
三人目――鈴木さん。
どう考えてもそれは慰めに来た感じではなかった。どちらかというと――
「べつに……あれくらいじゃ泣かないから……」
そして四人目。一番近い。ちょうど扉の向こうからする声は、茅ヶ崎さんだった。
そこで私はようやく、遠藤さん、二戸さんが言っているブスザキというのが茅ヶ崎さんの呼び名であることに気付いた。
「どういうこと……?」
思わず口に出すが、次の瞬間に放たれた音にたちまちかき消されてしまった。
「はぁっ!? なんで泣かねえんだよ! 泣けよ! ウサギが死んで悲しくないワケ!?」
隣の隣の扉が激しく音を立てた。続いて荒々しい足音とともに、入り口付近に居た遠藤さんの声が扉の前を通り過ぎていく。直後、突き当りにある掃除用具入れに重い何かが当たり、ガシャンと大きな音を立てた。私はただただ驚いて、身を縮こまらせた。
「悲しいけど……泣くわけないじゃん……どうせアンタたちの仕業でしょ?」
弱々しく、だが静かな闘志を宿した茅ヶ崎さんの声。周りの恫喝にも屈しないという強い意志が感じられる声だった。
「どうしてそんな悲しいこと考えるのぉ? それじゃあまるで、私たちが殺したみたいじゃなぁい?」
「先生は金属の留め金が緩んでたって言ってたけど、いくらウサギ小屋が古くても鍵は頑丈だったし、簡単に外れるようなものじゃない。毎日世話してたんだから、それくらい知ってるよ……!」
「だからってぇ、私たちが犯人にされる理由にはならなくなぁい?」
「自分の胸に聞いてみな……!」
バシッ――。
皮膚を叩く音がした。
「つかさ、お前最近マジでウザいよな」
「調子こきすぎじゃね?」
「だいたいさ、なんでウチらの優希と一緒にいるわけ? ウサギの飼育くらいひとりでやれよ!」
「二ノ宮さんは優しいからアンタみたいなブスとも話してくれるだけだから。調子にのんじゃねえよこのブス!」
再度、ガシャンと音が響いた。
「アンタは優希に話しかけるな。優希が汚れる」
ここまで何一つ状況をできていない。訳が分からず、頭の中が真っ白だった。
茅ヶ崎さんは、鈴木さん、遠藤さん、二戸さんの三人にいじめられている……? そしてまたどうしていきなり私の名前が出てきたの……?
いきなり?
これは、つい最近始まったことなのだろうか――。いや、そもそも私が茅ヶ崎さんを気にかけ始めたのがつい最近になってからだ。ウサギ小屋の存在を知ったのもつい最近で、それは茅ヶ崎さんのことを追いかけていて気付いたことだ。
あのウサギ小屋の中でラビチョフが亡くなったのも、茅ヶ崎さんが三人に罵詈雑言を浴びせられているのも、私が茅ヶ崎さんに話しかけてから起きたこと。
それだけを考えれば、今扉一枚を隔てた向こうの世界で起きている出来事は私のせい、ということになる。
しかし肝心なのはそこじゃない。自己嫌悪に苛まれるのは一旦やめだ。
茅ヶ崎さんは、私が知らなかっただけで、入学してからずっとウサギの世話をしていたはずだ。あの校舎裏の、日陰の世界で。そして、間違いなく教室にもいた。
だが私はそんな彼女を知らなかった――いや、見ていなかった。意識していなかった、とまで言えるかもしれない。
でなければあの校舎裏の世界に足を踏み入れたときの、トトロの森に迷い込んだかのような未知なる場所への期待は得られようがない。
ずっと過ごしていたはずのクラスの中で見つけた一つの存在を、追いかけようとはしなかっただろう。
なぜ、私は知らなかったのか……。
私は、担任と同じだ。
私は、遠藤さん、鈴木さん、二戸さんと同じだ。
私はウサギ小屋の存在を知らなければ、皆と同じようにウサギの名前すら知らず、担任の間違いに気付くことすらなく、ただの悲しい事故として忘れ去っていっただろう。
私はそれを、皆よりもたった三日早く知っていただけだ。皆が五十歩歩いたところを、百歩歩いたと主張しているに過ぎない。
私は、皆と何も変わらない。担任の間違いを正す権利もない。
こうしてトイレに籠り、自己嫌悪に苛まれる資格もない。
だから私は――
「やめてっ!」
目の前にある一枚の隔たりを取り払って、叫んだ。
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