第22話 ユウジョウホログラフィー
それは例えて言うなら、映画館で上映開始から居眠りをしてしまい、目覚めたときには終盤の重要な局面を迎えていたときのような置いてけぼり感といえる。
「復帰して早々のお前にこんなこと言うのもなんだが、早速今日の放課後から復学者を対象にした補修授業を行うから……二ノ宮、ちゃんと来いよ」
一限目の数学が終礼を迎えるなり、教壇の上にいる数学担当兼我がAクラスの担任である安西に手招きされて行くと、そう告げられた。およそ三週間も休学して入院していたことに加え、その前は優希の対人恐怖症の件でごたごたしていたために、一学期の授業はほぼまるっと頭から抜け落ちてしまっているといっても過言ではない。だから補修を受けられるのは優希としてはこの上なくありがたい話だった。聞けば来週末には、もう期末テストとかいう大イベントが迫っているとか。けっこうなタイトスケジュールじゃないか。
ひとつだけ気掛かりなのは、俺が授業内容を頭に入れたところで優希への互換性はあるのかどうかだが、よくよく考えれば俺が優希の記憶を幾許か知り得ている時点で心配は無用なのだろう。その辺は神様とやらが上手く手配してくれることを願いたい。
「はい、わかりました」
「ああそれと、お前のほかにこのクラスからもう一人、天羽が参加する予定だから、もし見かけたらお前からも逃げないように言っておいてくれ。なんなら暇な男子に協力を要請して拉致してもいい。授業は休んでもいいが――いや、休むのはダメだぞ? 補修までサボられたらさすがに進級が難しくなるからな」
「天羽……」
今日はやけに隣の席の彼の名前を耳にするな。とはいえそれ以前から彼のことが妙に気掛かりだったのは確かだ。学校に来て初めて会ったのが彼だった……というだけではない、何か別の要因から、頭の中にしこりがあるような違和感が、彼の名を聞くたびに意識させられる。そしてその違和感は、どこか既視感があった。遠い記憶の片隅にある――優希のものではない、
どのみち二度もお願いされてはもはや彼のことを無碍にも出来ない。昼休みにでも探しに行ってみるか……。
パパーン!
「うわっ!?」
自席へ戻ろうと踵を返そうとした瞬間、破裂音が教室に鳴り、びくんと体が跳ねた。何事かっ!?
振り返ると、教室の後方にAクラス全員が立ち並んでいた。そして、皆の口が一斉に開かれる。
「「優希ちゃん、退院おめでとう――!!」」
息を合わせて斉唱するクラスメイトたち。
「へっ……?」
「いやあ、ありがとう。ありがとう」
「ザイセンじゃねーから!」
「脇役はさっさと舞台から降りな!」
なぜか自分のことのように手を挙げて主張する安西に、綾乃と男子から一斉に野次が飛ばされる。
「ひどいなー。俺も時間稼ぎで貢献したろ? ちゃんと次の授業までに片付けておけよー」
「大丈夫ですよ!」
「先生ありがとねー!」
続いて女子たちから感謝の言葉が飛び、安西は日誌をパタパタと振りながら教室を出ていった。
「はい、ユウキちゃん。これ、クラスの皆から」
声がして、気が付くと目の前には赤城由利が居た。ピンクと白、赤色の花を中心としたフラワーアレンジメントを抱え、それを俺に向かって差し出してきた。
「えっ……えぇ……っ!?」
まさかすぎるサプライズに、手が震えていた。小さな鉢植え程度のサイズのアレンジメントを受け取ると、落とさないようにしっかりと抱きかかえた。
まさかクラス全員から祝ってもらえるなんて想いもしなかった。
腕の中からふんわりとした匂いが漂ってくる。生花の芳香で鼻腔が満たされるのと同時に、じんと心の奥底から熱が込み上げてくるのを感じた。
「あっ、ゆ、優希ちゃん……!」
「あ……っ」
目の前の赤城由利があたふたとポケットからハンカチを取り出すと、俺の目元を拭ってくれた。
――ああ、また泣いてしまった。
意識するとよりいっそう止め処なく涙が溢れ出てきて、綾乃がフラワーアレンジメントを預かってくれた。
泣いていることが恥ずかしくなって、後ろを向いた。
目の前の黒板には先ほどの授業で安西の手によって書かれた数式が並んでいた。これ以上涙を流すまいと、数式を読んでいると……
「あっ……」
階乗の数式の解が消され、いつの間にか『退院おめでとう!』の字が書かれていた。
どうしよう。涙が止まらない……。
運動会のときも。今もそう。
もう、優希のことを仲間外れにする者は誰も居ないんだ。優希を見つめる皆の目は、はじめてここにきた時とは比べようがないくらいに――。
言わなきゃ……今の気持ちを、素直に……!
涙が溢れてくるのをなんとか堪えて、皆の方を向いた。そしたら皆がしてやったりと、得意げに笑っているのが見えて、また涙が零れそうになる。それでも踏ん張って、目元を拭って、
「……ん、な…………ありがとう……っ!」
精一杯笑顔を作って、言ったけれど。
すぐに顔を伏せた。やっぱり我慢できなかった。
ここにはいない優希の代わりに祝福を受けている罪悪感とか、この先自分がどうなるのか分からない不安とか、その他諸々考えられなくなるくらい、自分のことのように、どうしようもなく嬉しくて。
俺はまた、しばらく泣き続けた
優希が泣き虫なのか、俺が泣き虫なだけなのか、はたまた両方なのか。
――いや、違う。
「こんなの……泣くに決まってるじゃん……」
それ以上に、皆のやさしさが暖かいのだ。
結局、その日はほぼ一日中「ありがとう」しか口にしていなかったように感じる。
二限目終了後には茉利奈から「退院祝いには石鹸に限る」と、綺麗にラッピングされた食洗器用洗剤をもらった。二ノ宮家のキッチン事情を知らない俺からすると、喜んでいいのかすぐには分からなかったが、石鹸と言いつつ固形のものではなく食洗器用洗剤なのが茉利奈らしいところ。何よりも自信満々に渡してきたのがおかしくて、笑ってしまった。
「いただきます」
さて俺がいない間に屋上で昼食を摂るのが二人の間で習慣付いていたらしく、今日からユウナと綾乃のランチタイムに再度混ぜてもらうことになったお昼休み。
六月にもなるとどうしても雨天の日が多くなるが、今日は降水確率60%というどっちつかずな数字であるにもかかわらず、空は依然として曇天なままではあるが、雨だけは降らない少し涼しい気候だった。
「あやのんが退院したときもお祝いしてもらったの?」
俺は素朴な疑問をぶつけてみた。
「うん。ユウキの時と違って、あたしの時は男子がうるさかったけどね」
それは想像するのに容易い。
「綾乃ちゃんもなんだかんだ男子に人気だからね」
「あたしはちっとも嬉しくないっ」
「泣いた?」
「泣いてないよ。……泣かないよ、ユウキじゃあるまいし」
綾乃が鼻で笑って一蹴した。
「ん? なんかバカにされてる……?」
「あたしはコテコテの演出で泣けるほど、心が純粋じゃないって意味だよ」
「私も無理だなあ」
綾乃の言葉にユウナが頷く。
「ユウキはやっぱすごいよ」
ユウナは入れ替わっていた時のことを話しているのだろう。ユウナはみんなと打ち解けるのではなく、空気になることで解決を図ろうとしていた。その方法も悪くはないが、今ほどの充足感が得られたとは到底思えない。
「……そういえば」
ユウナは、まだどこかに孤独を引き摺っている。
優希のことは、もう俺が心配するまでもなく支えてくれる人がいる。ユウナ、綾乃、茜、七夕ちゃん、明夫さん、クラスの皆、そして安西先生。例え以前のように心が折れそうになっても、皆が支えてくれるはずだ。
――だが、ユウナはどうだろう。
優希の一件にとりあえず片は付いたが、まだ解決したとは言い切れない。俺自身としても、気掛かりがいくつかある。このままいつ訪れるか分からない成仏の時を待つのではなく、俺がここに居る限り、できることをしてあげたい……!
「ユウナ、最近クラスで……どう? 何か悩み事とかない?」
「え? いきなりどうしたの、ユウキ……」
「Hクラスの委員長のリサちゃんから、あんまり馴染めてないって聞いたから……」
「…………」
「私は……気にしてないよ?」
歯切れの悪い回答だった。俺の目には、それが無理をしているように映っていた。
だからなんとかしてあげたいと、余計に思ってしまった。
「この前、ワケあって一度Hクラスの皆と話したことがあるんだ。みんな優しくていい人たちだったよ? 挨拶するだけで、ユウナもすぐに打ち解けられると思う!」
「私は……いい、かな……」
「大丈夫、ユウナならできるよ! だって、わたしたち双子なんだから――!」
そのとき、タコさんウインナーが地面に落ちた。
「あっ」
「あ……」
俺と綾乃が短い音を発した。
「……………………」
そして、静寂が訪れる。
屋上の空気だけが妙な圧力をかけられているような時間は、三秒もなかったかもしれない。俺はその一瞬、何が起きたのか理解できず、状況を把握しようと脳をフル回転させようとしていたからか、一分くらい口をぽかんと開けていたような気がした。
――そして、凍結された時間が解凍されたとき、我に返った頃には目の前にユウナはいなかった。
「――ごめん、ちょっと用事思い出したから、先行くね」
「えっ、ユウナ……待っ――!?」
その声が聞こえたとき、ユウナの背中は鉄扉の向こうへと消えていった。ガチャンという鉄扉の閉まる音と共に、まるでたった今ユウナが横を通り過ぎたかのように、風が俺たちの間を駆け抜けていった。
ユウナを、怒らせたのか……?
それすら理解できずにユウナの消えた方をただ茫然と見つめていると、
「……一応、確認なんだけど……さ、」
綾乃の声がして振り返った。綾乃はユウナが居た場所を見つめたまま問いかけてくる。
「……ユウキ、中学のときのことって、どこまで覚えてる?」
「中学……?」
いきなりどうしてそんなことを問われたのか分からなかったが、混乱する頭をなんとか落ち着かせ、優希の記憶を辿った。
俺が知っている優希の過去は少ない。運動会当日、綾乃が家まで迎えに来てくれた時に接触した際、中学時代の記憶をいくつか思い出した。だがそれはあくまで綾乃と関係のある記憶だけだ。その日の夜には、新田誠治が操っていたユウナと接触したことで、ユウキが引き起こしてしまった事故当日の記憶や、それに関連する前後数週間の記憶を思い出すことができた。同じように、優希の日記から過去の一場面を思い出すことはできても、映像のフィルムが抜け落ちたように、その前後の記憶までは思い出せなかった。
つまり俺が直接的に触った、見た、聞いたことがある人との時間に関する記憶や、間接的に触れた過去の事象に関しては不鮮明ながらも思い出すことが出来るが、それ以外の記憶に関しては空っぽのまま。しかしながら、触れればその人との記憶が必ず思い出せるわけでもなかった。明夫や七夕や茜との出会いの記憶はユウナからなんとなく話を聞いたから知っているだけで、触れても実際に思い出すことは出来なかったし、そもそも一番付き合いが長いはずのユウナとの記憶は、既に何度も触れているが半年以上前――今年の一月より前のことは何も覚えていない。
「あっ……」
それで、暗に綾乃がいわんとしていることを俺は理解してしまった。
「綾乃ちゃん……わたし……」
「覚えてなかったのなら、いいよ。あたしは、ユウキのことは知ってるから、どんな気持ちでさっきの言葉を口にしたのか、分かる。本当にユウナのことを想って言ったってことも。――たぶん、それはユウナも同じ」
綾乃は怒るわけでも、悲しむわけでもなく、ただ淡々とそう告げた。箸を進めるのを止めることなく、平然とした態度で座っている。
あまりの落ち着き様に、咄嗟に尋ねた。
「あやのんは……どこまで知ってるの?」
だが、綾乃は静かに首を振った。
「……実は、なにも知らないんだ」
「え……?」
意外だった。綾乃の口振りから、ユウナの過去について聞いているものだと思いこんでいた。俺のその心を察したのか、「ただね」と綾乃が言葉を付け足した。
「ここでユウナと二人で食べてたとき――いや、うん。あたしも気になってたから、それとなく探りを入れてみたんだけどさ、上手いこと話を受け流されちゃって、それっきり。……それで、なんとなく解っちゃった」
綾乃は弁当箱に残った最後のおかずである卵焼きを頬張り、ほどよく咀嚼してから飲み込んで、言った。
「――あ、これ以上は踏み込まない方がいいんだな……って」
綾乃は手早く弁当箱を重ねて巾着の中へしまうと立ち上がり、スカートを手で払った。
「もしあたしがユウナの立場だったら、そうしてほしい、って思うよ。だから、私とユウナは……仲良く食事はできても、お互いに一歩を踏み込むことはない――そういう関係なんだ」
「……………………」
返す言葉が見つからなかった。あんなに楽しそうに話していたはずの二人が……。綾乃が、そんなことを考えているなんて。一時は見えない何かで繋がっているとさえ思えるくらい、暖かくて、確かなものだったはずなのに。いきなり脆弱で、うすっぺらい別の何かに変わった気がしてならなかった。
「気を悪くさせたなら、ごめんね。色々言ったけど、ユウナのことは好きだし、友達だと思ってる。でも、さっき言ったことは本当。あたしはこれからもこのスタンスを変えるつもりはないし、ユウナもそうだと思う。これからも、きっと……――でも」
「でも……?」
「…………ううん。なんでもない。あたしもちょっと用事あるから、先に行くね。ユウキも早く食べないとお昼終わっちゃうから。――あ、あたしのはホントだから。じゃ」
綾乃はごまかすように笑って、手を振りながら屋上から去っていった。
ガチャン、という二度目の音が、誰も居ない屋上に響き渡った。
後に残された俺は、まるで白昼夢でも見ていたかのような、孤独感に苛まれた。
綾乃が言っていたことは、嘘ひとつない本音なのだろう。だがそれは、あまり嬉しい言葉ではなかったかもしれない。できれば聞きたくなかった。だが、綾乃は躊躇することなく、それを俺にぶつけてきた。綾乃が想う、ユウナを。綾乃が考える、自分という存在を。
「…………」
正直なところ、どうしていきなり綾乃がそんな話をしてきたのか理解できなかった。俺がユウナの過去の琴線に触れることを口走らなければ言わなかったのかもしれない。しかし俺がユウナのことをどうにかしたいと思っている以上、いずれぶちあたる問題だったのかもしれない。
だとしたら――。
もともとそこに在った“たしかなもの”というモノ自体が偽りで、元からそこに“脆弱で薄っぺらいもの”が存在していたということになる。
――灯台下暗し。
俺が見ていた景色は、視界の奥に照らされた、華やかな世界だけだったのかもしれない。
俺は、何も見えていなかっただけなのだろうか――?
「…………あっ」
気がつくと、足元にタコさんウインナーが転がっていた。
七夕ちゃんが作ってくれた弁当は相変わらず美味しかった。
ただ、何とも言えない胸のつっかえがあって、存分に味を楽しむ余裕がなかったので、俺は半ば無理やり喉の奥に弁当箱の中身を押し込むと、空になった容器にユウナが落としたおかずを入れて、下へ降りることにした。
気のせいか、先ほどよりも空が厚い雲に覆われ、屋上から見渡せる景色も暗い。
視線を戻し、鉄扉のノブに指をかけたときだった。
「――もういっぺん言ってみろッッ!!」
と、階段の方からどすを利かせた男子生徒の声が響いてきた。――誰だ?
静かに鉄扉を開けて奥を覗くと、三階と屋上の踊り場で体格の良い男子生徒の背中が見える。
「あ」
目を凝らすと、彼の背中よりもずっと体格の小さい男子が、壁際に追い詰められている状況であることが分かった。
「…………っ」
「――チッ」
そして、追い込まれた男子が小声で何かを呟いたように見えた――次の瞬間には、彼の拳が固く握りしめられるのが見えて――
「だめぇぇぇっ!!」
叫び、俺は走り出していた。
――そして、俺は意識を失った。
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