第2話

小山さんは、ほどなく興味を示した。もちろんその男にでは無く、私の示した関心にである。


「美奈子さんは、知らなかったですね」


そういって話してくれたのは、その男がごく最近、近所に住み始めたということ、それから、どうやら都会の言葉だから、東京の人だろうということだった。


「幾つぐらいか、知ってますか?」


「さぁ、美奈子さんより、少し年上か、そんな感じじゃないですかねぇ。ひどく、落ち着いてらっしゃって、話し方も、旦那さまと話していても、変わらない感じでしょう。絵も描かれるようだし、旦那さまも、『どうぞご勝手に』と、おっしゃってねぇ」


 それだけでは、あまりに不確かな男の情報に、今更ながら、この小山さんや叔父は、お人好しだと思う。


不気味な色白の男は東京の男で、歳も知れない。



「でもねぇ」


小山さんは続けた。


「美奈子さんがいるから、ちょっと、気を遣ってもらった方がいいですよねぇ。まさか、勝手に家の中までお入りになることもないでしょうけど、でもねぇ」


小山さんだけでは、決められないようで、私もそれ以上は言えなかった。男の名字は、伊佐木(いさき)と分かって、また、会いにきてほしい気もしたのだ。


小山さんは、思いがけないことをする。


私が伊佐木という男の話をして、三日後には、その伊佐木がお茶に呼ばれて、そのまま、同じ夕食の席に着いていた。


向かいに座った伊佐木は、整った顔をしていた。ぱりっとしたシャツを着て、歳は三十過ぎくらいだろう。


私はコロッケに箸を伸ばしながら、さっきから伊佐木を質問攻めにしていた。


「伊佐木さんはおひとりで、何をしてらっしゃるんですか」

「友人の家を管理してます」


「彼女はいるんですか?ご家族は?」

「家族は四国です。彼女はいません」


「弟さんとか、妹さんとかいません?」

「兄が一人いました」


「いました?」

「えぇ、事故で。五年も前ですが」

「あぁ、すみません」


 私は、伊佐木の持つ「かげ」の理由を一つ見つけた。小山さんが気をきかせて、伊佐木にご飯のおかわりをすすめたが、断られた。


話はいつのまにか叔父のことになり、叔父について詳しくない私は、伊佐木と小山さんの会話から学ぶことが多かった。


「…義隆さんの収集に対する意欲には、感服します」

「…まぁ、ご趣味で長くやってらっしゃるのよねぇ。でも、防虫剤の取り換えが厄介で、この前もいくつか、廃棄しました」


聞いていると、どうやら叔父は昆虫の収集家。それもかなりの入れ込みようで、伊佐木は、それが目当てでもあるようだ。


でも腐ったとかなんとか、そんな気持ちの悪い話を、デザートのババロアを皿にすくいながら、よくできるものだ。


私は、苺味のババロアの光沢に、スプーンの反射を重ねて、伊佐木の顔を映してみた。


第一に、私は伊佐木の顔に惹かれていた。はっきりとしたイメージを持たないその顔は、発する言葉によって、歪むことはないと思われた。

それに対して彼の名字は、私に特別な感情を思い出させた。


「伊佐木」という名字は、私が学生時代に好きになったあの人と同じだった。これは、運命の策略なのかもしれない。


二人のやりとりは、時間など関係ないように、ゆったりとしたものだった。話の内容に、どちらも真剣ではない声の調子。


叔父の話など、本当のところ「どうでもいい」ということを隠すでもなく、かといって、無関心でもなく、景色のような会話。


ときおり、伊佐木の少し太い声と、息遣いにどきりとした。


最初は、久しぶりに聞く男の声だからかと思ったが、何か、私の感情にふれるものがあるのだ。

これは言わずと知れた「共感」かもしれない。伊佐木と私には共通項がある。これは私の勘だ。


それでも私たちは、「夕食に呼ばれた隣人と、居候の女」以上のことには、ならなかった。


伊佐木は、向かい合った私に、いったい何度、視線を合わせただろう。まともに見たのは、一回も無かったはずだ。どうして、そんな不自然さがあるだろう。


二度目だった。今度は夜の暗がりに、電柱の光の向こうに消える伊佐木を、見送った。




「いいですねぇ」


食後の片づけをしながら、小山さんが言った。


「若いうちは、ときめくものがたくさんあって」



私は残り物にラップをかけながら、首を振った。


「そんなこと、ありませんよ。私だって、死にたくなる時はあるんです」


小山さんは沈黙の後、こう言った。


「娘も、そんなこと言ってましたね」


私は、ふれてはならないことに、また、ふれたようだ。私が願わなくとも、あっちからもこっちからも、悲劇のシナリオが降ってくる。


小山さんは、苦労を重ねた笑顔で、私に言った。


「美奈子さんは、きれいよ。もっと自分を大事にしてね」


 そのとき私は、小山さんに「理想のお母さん」なる面影を見た。

子どもの頃、教会に行って見上げた白いマリアは、ここでは人間のようだ。


慣れないものばかりだと、疲れてしまう。けれど、いま受けとめないと無くなってしまうかもしれない貴重なものは、頑張ってでも自分のものにしたい。


私は、小山さんの娘のような気持ちで、すこし涙を流した。

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