第四片 明らかになる真実 10
そうか、みずきが……。
カリンの胸を、あたたかいものが満たしていく。
(まったく……いずれ殺さなくちゃいけない相手なのに……)
嗚咽が漏れた。
ありがとう。彼女を――央霞を、ここによこしてくれて。
その央霞は、カリンと陽平を庇うようにしてモルガルデンと対峙している。
風を受け、燃えさかる炎のように黒髪がなびく。
その背中は、この上なく頼もしいものとしてカリンの目に焼きついた。
「はしゃいでいるな」
央霞は感情を抑えた声で、モルガルデンに言った。
「勝負の日までは大人しくしていろと言ったはずだが」
「身内の不始末を処理してただけだ。テメェにゃ関係ねえよ」
モルガルデンは嘲るように返す。
「それとも、ソイツが内通者だと認めるかい? それならいちおう、こっちが休戦協定を破ったことになるだろうよ」
「ふざけたことを。あちこち破壊し、無関係の人間を大勢巻き込んだろう」
「だってソイツが逃げるからよゥ」
「……そうか」
なにかを断念したように、央霞は息をついた。
「そんなことより、わざわざ出てきたってことは、ここでやり合うつもりなのかい? 聞いてた話よかちとはええが、傷はちゃんと治ってんだろうな、アァ?」
「問題ない。自分の身体の状態は、常に正しく把握している」
そう言うと、央霞は羽織っていた上着を脱ぎ、足許に落とした。
「そいつァよかった――って、テメェ丸腰じゃあねえか」
「それが?」
周囲の気温が二度ばかり下がった――少なくともカリンには、そう感じられた。
カリンたちの側からは見えないが、おそらく央霞は瞳に静かな、しかし激しい怒りをたたえ、モルガルデンを睨み据えているのだろう。
思い浮かべるだけで背筋が凍る。
そんなものを、真正面から受けとめてヘラヘラ笑っていられるモルガルデンは、よほどの阿呆か、さもなくば央霞にも匹敵する化物だ。
「わかったわかった。そんじゃ、まずは素手にて仕るとしようかい」
モルガルデンの両手から武器がかき消えた。使い魔を刺青にもどしたのだ。
岩石のような拳を打ち合わせ、ニヤリと歯を剥く――次の瞬間。
武器と同様に、モルガルデンの姿が消滅した。
現れたのは、央霞の眼前。腕を振りかぶり、立て続けに拳を繰り出す。
攻撃をガードしながら、央霞は一度だけ、カリンたちに視線を送った。
「離れていろ」
そう言われても、すぐには動けない。
央霞は、右ストレートをダッキングでかわすと、その腕とモルガルデンの襟許をつかみ、身体を反転させた。
豪快な背負い投げ。モルガルデンの巨体が、空の彼方へ飛んでいく。
間髪をおかず、央霞はその後を追った。
「逃げよう……いまのうちに……」
カリンは陽平に声をかける。だが、少年はぶんぶんと首を振った。
「逃げない」
驚くカリンに、陽平は大丈夫だ、というように笑いかけた。
「おーねえは、離れていろとは言ったけど、逃げろとは言わなかった」
「それって……」
カリンは、央霞の走っていったほうへと視線を向けた。
陽平がうなずく。
「おーねえは勝つよ。だから、逃げる必要なんてない」
モルガルデンが着地点で待ち構えていると、すぐに央霞は現れた。
常人離れした脚力は、モルガルデンをして目を瞠るほどのものだった。
駆けつけた勢いのまま、央霞が殴りかかってくる。
けれん味も小細工も一切ない、真っ正直なストレート。面白い。モルガルデンは、それを正面から迎撃した。
鏡合わせのように、まったくおなじ姿勢から。
繰り出される拳と拳。ぶつかり合い、心地よい衝撃が腕から肩、全身へと伝わる。
「すこし痺れたか」
モルガルデンは、右手を何度か握ったりひらいたりした。
「へっ。いいねえ」
久しくなかった強敵との戦いに、モルガルデンは昂ぶっていた。
全身の細胞が、喜びに打ち震えているのを感じる。気力が充実し、神経も研ぎ澄まされている。いまなら、どんなにわずかな隙も見逃さない自信があった。
相手がやる気満々なのもたまらない。これがカリンを痛めつけたことへの怒りによるものだとしたら、その甲斐があったというものだ。
タタン、と素早く左右にステップ。身体が羽根のように軽い。央霞が息を吐いた瞬間に、予備動作なしに突っ込む。連続の突き。拳速は音の壁を超え、空気を破裂させる。
央霞はまともに受けず、横に払っていなした。肘が飛んでくる――防御動作に組み込まれた流麗なる反撃。防ぐ。さらに掌打がくる。モルガルデンは地を蹴った。 遅い! 遅い! 遅い! そのまま背後にまわり込む。
側頭部を狙って蹴りを放った。振り向きもせず、央霞は身を沈めてかわす。後方への足払い。モルガルデンは再度地を蹴る。
「ハッハァ!」
自分の声を置き去りにするほどの速度で駆ける。央霞は目で追うのがやっとのようすだ。
「ついてこらんねえか? オレには、カリンみてえな完全な飛行能力はねえが、そのかわり地上での機動力なら誰にも負けねえ!」
央霞の周囲を高速で駆けまわりながら、死角から拳と蹴りを叩き込む。
はじめのうち、モルガルデンの攻撃を何発かしのぐごとに、央霞は反撃を試みていたが、攻防が長引くにつれ、徐々にその回数は減っていった。
ここが勝負時と、モルガルデンはさらに激しく攻めたてる。
そしてついに、央霞は完全に守勢にまわった。ガードをかいくぐった拳が数発。腹部を捉え、身体が宙に浮く。
「もらった!」
とどめの一撃を加えるべく、モルガルデンは再度、央霞の背後を取ろうとする。
そこで突然、目の前に手が現れた。
「な……ッ!?」
とっさのことで、かわすことができない。
モルガルデンの顔面を、その手がはっしと受けとめた。まるで、飛んできたハエをつかまえでもするように。
勢い余って前に出た両脚が、虚しく宙を掻く。
そのまま、後頭部から地面に叩きつけられた。
「な……え……?」
モルガルデンは目を瞬かせた。
なにが起きた? 央霞か? だが、いまのいままで、奴は……。
「立てるか?」
央霞が、こちらを見おろしながら訊ねる。
「お……おう」
多少頭がぐらぐらしたが、思ったよりダメージは小さい。それよりも、戸惑いのほうが勝っていた。
「よし」――央霞がうなずく。
同時に、下腹部に拳が突き刺さった。足が浮き、身体がくの字に折れ曲がる。たまらず、モルガルデンは逆流した胃液を吐き散らした。
「!? !?」
「今度はどうだ?」
央霞がまた訊ねる。
モルガルデンは、呻き声をあげながら、芋虫のようにのたうつばかりだった。
絶好のチャンスにも関わらず、央霞は追い討ちをかけてこなかった。どうやら、こちらが落ち着くのを待っているらしい。
(……クソが! 舐めやがって! 余裕ブッこきやがって! 許さねえッ! ぜってー後悔させてやるッ!)
呼吸を整えるや、モルガルデンは跳ね起きた。そのまま、油断している央霞の顔面に拳を突き出す――が、それよりも速く、央霞の踵が肩に落ちてきた。
「デェッ!?」
衝撃に耐えきれず、膝が崩れた。
ふたたび地面に這いつくばったモルガルデンは、信じられない思いで央霞を見あげた。
なんなのだ、コイツは。なんだというのだ。
「いちおう急所は外しているんだが。やはり、手加減は難しいな」
「ヒィ……ッ」
モルガルデンはうつ伏せのまま身体の向きを変え、距離を取ろうとした。
央霞は、ゆっくりと後を追ってくる。
「クッソォォオ! なんなんだテメェはッ!!」
《ファシュブ》を大剣に変え、振り向きざまに斬りつける。
央霞は右手を持ちあげると、手首のスナップを利かせて剣を弾いた。
こつん、と、まるでいたずらした子供の額を小突くような、実に何気ないしぐさで。
さらに央霞は、大きく一歩踏み込み、逆の手を引く。若干のひねりを加えながら前へ。
また、身体が浮いた。脇腹に、拳大のくぼみが出来ている。肋骨が何本か粉砕されたのがわかった。
声もなく吹っ飛ぶ。地面に顔を擦る。弾む。何度も弾む。途中、なにかに激突した。それでも勢いは止まらない。転がる。手をのばす。なんでもいい。なにかをつかんで止まらないと……。指を曲げ、地面をひっかいた。なおもまだ、勢いに身体をひきずられる。
「オオオオオオオオオオッ!」
叫んだ。力いっぱい爪をたて、ようやく停止する。いったいどのくらい飛ばされたのか。信じがたいパワーだ。オーガだと? いやいやいや。これは、そんなもの遥かに超えている。
「なんだ、素手で戦うのはもう終わりか?」
すぐ上で声がした。おそるおそる顔をあげると、腰に手をあてた姿勢で央霞が立っていた。
それならそうと教えてくれないと――などと、彼女はぶつくさ言っている。
「お前だけ武器を持ってるのに、こっちは素手とか、フェアじゃないだろう。――あ、いや。むしろそのほうが対等な条件に近づくのかな?」
「なにを……言ってやがる……」
混乱するモルガルデンに向かって、央霞はさらに意味不明な言葉を吐いてよこした。
「言い忘れていたがな。私は、武器を持ったほうが弱いんだ」
道端に腰をおろし、カリンは流れる雲を眺めていた。
その左手を、陽平が握ってくれている。
「逃げないとか言ってごめん」
申し訳なさそうに、少年は言った。
「それよか、病院だったよね」
「平気よ。休んだら、楽になったから」
硬化させた皮膚で傷を塞ぐことで、止血はできている。失った体力も、だいぶもどってきていた。
「本当に大丈夫?」
「もう。心配性ね」
かつて弟や妹たちにそうしたように、右手をのばして陽平の髪をなでる。クセのない、柔らかな髪。
央霞の心配はしていなかった。陽平の言葉もあったが、なによりカリン自身が、央霞の負ける姿を想像できなかった。
それでも、道の向こうから央霞の姿がもどってくるのが見えたときは、すこしほっとした。
央霞は、気絶したモルガルデンの襟首をつかんで引き摺っていた。央霞自身は、特に大きな怪我をしているようすもない。
圧勝――だったのか。
半ばわかっていたことであっても、背筋に冷たいものが走った。
彼女に笑いかけるとき、顔がひきつりはしないかとヒヤヒヤした。
「コイツはどうする?」
モルガルデンを持ちあげて、央霞が訊ねる。
ここに捨てていってもいいのだが、しつこく付け狙われても厄介だ。
「わたくしが連れて帰りますわ」
気取った声音とともに、白衣の美女がカリンたちのそばに降り立った。
「お前は、たしか……」
央霞が顔をしかめる。
「わたくし、覇王ヘリデ・マイテの末裔にしてアビエントラントの騎士、アルメリア・デ・ヘルメリアと申します」
「む。あるめりあで、へ…………そうか」
「いま、なにかを途中であきらめたように聞こえたのですけれど、気のせいかしら?」
央霞とのやりとりで、アルメリアに戦う気がないとわかり、カリンは緊張を解いた。
「まったく。単独で暴走したあげく、いつのまにか負けているなんて、不様という他ありませんわね」
「前にもそんな人がいたような……」
「なにかおっしゃいましたか?」
「いーえ。なにも」
にこやかな笑顔で訊ねられ、カリンはすぐさま否定した。
「今回のこと、謝罪いたしますわ」
アルメリアは、モルガルデンを肩に担ぐと、央霞に向かって頭を下げた。
「それと感謝も。このお馬鹿の暴走を止め、もうひとりのお馬鹿を助けて頂きましたこと……」
「えっ」
カリンは目を丸くした。まさか彼女の口から、そんな言葉が出るとは思わなかったのだ。
「カリンさん。あなたも、こんなつまらないところでくたばるなんて許しませんわよ。あなたは、わたくしの……その……
早口でまくしたてると、アルメリアはカリンに背を向けた。
ゆるく波打つ金髪を割って、コウモリの羽根が現れる。
カリンは声をかけようとしたが、アルメリアはまるで逃げるように、建物の屋根の上を飛び去っていった。
カリンよりも長いその耳が、赤く染まっていたように見えたのは気のせいだろうか。
「なんなの、アイツは……」
アルメリアの姿はもう見えない。裏切ったわけではないのだと、せめてひと言伝えたかったのだが。
いまとなっては、綾女の部屋で文句を言い合ってすごした日々が懐かしい。現金なものだ。あのエリート騎士のことを、あれほど毛嫌いしていたというのに。
「カリン姉ちゃん」
陽平が、カリンの袖をひっぱった。
「もどっておいでよ」
「でも……」
「私からも頼む」
央霞が言った。
「弟を、誰かがそばで見ていてくれれば、安心できる」
「いいの? どうしてもあなたを倒せないとなったら、彼を人質に取るかもしれないわよ」
「そのときはそのときだ。だが、いまはまだ、自力でなんとかするつもりなんだろう?」
「まあね」
カリンは苦笑した。
どうしてこうも見透かされてしまうのだろう。そして、それがあまり不快ではない。
「そうだ! みずきに、あなたが《欠片の保有者》かどうか、たしかめるよう頼まれてたんだわ」
「みずきに?」
「ええと、どうしようか。とりあえず、さわってみてもいい?」
「構わないが……」
央霞は、どこを? という顔をした。そんなことを訊かれても、カリンにもよくわからない。
「か、欠片のありそうなとこ?」
「となると、心臓だろうか」
央霞はシャツの胸許をはだけさせた。
「ちょ、ちょっと!」
「誰かに見られたらどうすんだよ!」
あまりに躊躇がなさすぎて、かえってカリンや陽平のほうが狼狽えてしまう。
なるべく乳房にはふれないようにして、カリンは央霞の胸に手をあてた。
(やばい。これ、余計に意識しちゃう……)
集中しなければ。カリンは目をとじ、央霞から感じられるアルマミトラの気配だけに神経を向けた。
おなじ《欠片の保有者》であっても、発せられる気配は一人ひとり微妙に異なる。
いまは山茶花や千姫もそばにいることが多いため、彼女たちの気配も多少混じっているが、やはりもっとも強く感じられるのは、カリンが《こちら側》にやってきて最初に感知した、みずきの気配だった。
「どうだ?」
「うん……あなたは、ちがうと思う」
「そうか」
央霞の表情からは、ほっとしているとも、残念に思っているとも取れなかった。
「まあ、みずきは喜ぶか」
「知ってたの?」
「アイツの考えそうなことくらいわかる」
「あー……そーですか」
しれっとのろけられ、カリンはげんなりした。
そうだった。央霞はこういうことを平気で言える奴だ。
本当に、こんな調子で、自分の入り込む余地なんてあるのだろうか。
そこまで考えて、ハッと我に返る。
(な、なに!? 私、なにを――そんなんじゃないから! そんなんじゃ……そ、そうだ。これはアルマミトラの力のせい! 《保有者》同士が惹かれあう……って、央霞が《保有者》じゃないなら、その理屈はおかしいじゃない!)
カリンは、身もだえしながら自分の頭を掻き毟った。
桜ヶ丘姉弟が、不思議そうにそのようすを眺めていた。
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