第四片 明らかになる真実 6

 それから起こった出来事は、ある意味で夢のようだった。

 汗に濡れた身体を丁寧にタオルでふかれ、手作りのおかゆを食べさせてもらう――そのあいだじゅう、カリンはずっとふわふわしっぱなしだった。

 央霞の料理は、具材の数が極端に少なく、切り方も大雑把で、豪快という言葉がよく似合っていた。なんと言うか、実に

 くすりと笑みが零れた。

(久しぶりに笑った気がする……)

 腹が満たされると、いくぶん気分も落ち着いた。

 それから、カリンは天井を見つめた。何度か深呼吸を繰り返す。息苦しさは、もうなかった。

 こうしていると、昔、風邪をひいて寝込んだときのことを思い出す。

 そういうときは、ふだん厳しい父も優しくしてくれたし、母はカリンが寂しくないよう、ずっとそばにいてくれた。

 アルマミトラとの決戦のあとも似たような状況だったのに、どうして思い出さなかったのだろうと首をひねる。

(ああ、そうか……)

 騎士となってからの彼女は、家族のために必死だった。

 動けない自分がもどかしく、はやく治さねばと気ばかり焦っていた。

 だから、子供が親に甘えるように、世話をすべて相手に任せるということもなくなっていた。

 まさか、敵である央霞の手で、そんな気持ちにさせられるとは思ってもみなかったが。

「なにがあった?」

 食器を片づけてもどってくると、央霞はカリンに訊ねた。

 カリンが《欠片の保有者》として覚醒したことを告げると、央霞は「そうか」とだけ答えた。

「嬉しくないの?」

「なぜ?」

 央霞は微笑する。

「なぜって――」

「他人の不幸を喜ぶ趣味はない。それがたとえ、みずきの敵であっても」

 カリンがアルマミトラの側につけば、それは、これまで背負ってきたものに対する裏切りとなる。

 そのことを、彼女はわかってくれているのだ。

「変わってないの」

 天井を見あげたまま、カリンはくちびるを噛みしめた。

「私はカリン・グラニエラ――アビエントラントの騎士――その意識は、すこしも変わっていないのよ。損なわれた記憶も、たぶん、ない」


 なのに――


「自分がアルマミトラだというはっきりとした意識や記憶も、おなじように私の中にあるの。どうして……! いっそ、記憶も人格も上書きされて、まったくの別人になってしまえばよかったのに……!」

 悔し涙がつたい落ちて、枕を濡らした。

「……それとも、これからだんだんそうなっていくの?」

「みずきは否定していたな。基本的な人格は、あくまで当人のままだと」

「そう……」

 央霞が、ベッドの横に椅子を持ってきて腰を降ろした。

 頬のあたりに、視線を感じる。

「ねえ……私はこれから、どうしたらいい?」

「私がこうと言えば、きみはそれに従うのか?」

「どうかな……でも、あなたの言葉なら――」

 言葉を濁したのは、ヤケになっているという自覚があるからだ。

 しかし、自分自身が殲滅する対象であると知ったいま、使命を果たすことにどんな意味を見出せというのか。

 しばらくのあいだ、央霞はじっと考え込んでいたが、やがて静かに口をひらいた。

「実を言えば……きみたちの戦いにはあまり興味がなくてね」

「はあ?」

奈落人アビエントと《欠片の保有者》の戦いのことだよ。最終的に、みずきが無事でいてさえくれれば、私にとってはどうでもいい。だから、きみの去就について、私から言えることはなにもない」

「呆れた……どんだけあのが好きなのよ」

「おっ。だいぶ調子がもどってきたな」

「茶化さないで」

 すまない、と央霞は肩をすくめた。

「みずきが大切なのは否定しないよ――と言うより、できないし、するつもりもない」

「前から思ってたけど、それだけの力を持ってる割りに、あなたの望みってちっぽけよね」

 本気になれば、どんなことでも叶えられそうなのに、央霞はひとりの少女の幸せが大事なのだと言う。カリンからすれば、あまりに不可解という他ない。

「ちっぽけでいいんだよ。私は、自分が規格外だという自覚がある。そういう人間は、大きなことを為そうとしないほうがいいんだ」

「どういうこと?」

「大きな力は、それが動くとき、かならず周囲との軋轢を生む。そして――身近にいる大切な者をも巻き込み、不幸にする」

 他の誰かが言ったのなら、きっと自惚れが過ぎると思ったことだろう。

 しかし、央霞に限って言えば、それがすこしも大げさに聞こえなかった。

 央霞は、両手を膝のあいだで組み、なにかを考えるように、そこにじっと視線を落としている。

 彼女が誰のことを言っているかは、訊かずともわかった。

「きみたちといっしょにいた奈須原綾女――彼女とは去年、剣道の大会であたった。大会には、自分にどの程度の力があるのか試すつもりで参加したんだが……」

 央霞の顔が曇る。

「いまでも後悔しているよ。あのときは、幸福になった者より、不幸になった者のほうが明らかに多かった。奈須原が剣道をやめずにいてくれたのは、個人的には嬉しいが、それでも、私への恨みからきみたちに住居を提供し、巡り巡ってみずきや山茶花を危険に晒すことになった」

「それはあなたの責任じゃ――」

「災いは、いつ、どんなかたちで降りかかるかわからない」

 その言葉には、カリンの知るどの央霞にも似つかわしくない諦念があった。

 はじめて《アード》たちを使いこなせたときや、新たな能力を得たときに、酩酊にも似た万能感を味わった経験はカリンにもある。

 だが、強さというものは所詮、力の一要素にすぎない。

 央霞ほどの者であっても、あるいは彼女のように強いからこそ、身に染みて実感できるということもあるのだろうか。

「そう言えば」

 カリンは、さっきからずっと気になっていた疑問を口にした。

「どうしてあなたはここに?」

「それは私のセリフだと思うぞ。どちらかと言うと」

「はあ?」

 カリンは目を瞬かせる。

 よく、意味がわからない。

「なにしろ、ここは私の家だからな」

「えっ」

 一瞬、頭が真っ白になる。


 私の家。私の家。私の家私の家。私の家私の家私の家私の家私の家わたわたわた――


 はははこやつめ。いったいなにを言っておるのやら。

「つまり、ここは私の家で、きみが使っていたのは私の部屋だ」

 噛んで含めるようなその説明も、まったく頭に入ってこない。

「え――じゃ、じゃあ、陽平の二番目のお姉さんって……」

「やっぱり、気づいてなかったか」

 央霞が、ふうっと息をつく。

「え……な、なんで? 央霞は知ってたの? ええっ? い、いつから……」

「居候がいるということは、電話で聞いていた。詳しいことは、家にもどったときに話してもらったんだが……ちょうど、きみがいなくなった日だよ。というか、私より先に気づいていてもおかしくなかったはずだぞ」

「そ、そんなこと言われても、そう判断する材料なんてどこに――!」

「名字がいっしょだったろう」

「桜ヶ丘なんて、よくある名字だと思ってたのよ!」

 カリンの叫びを聞いた央霞は、渋い顔をして、ううむ……と唸った。

「思い込みというのは怖いものだな。……と言うか、きみが素直すぎるのか?」

「ちょっと! その哀れむような目、やめなさいよ!」

 カリンは涙目になった。

 あんまりと言えばあんまりな己の間抜けさ加減に、この場から消え去りたい気分だった。

「そ、そうだ! 陽平は? 陽平も帰ってきてるの!?」

「いや。いまはサッカーの練習にいってるよ」

「そう……」

 カリンは胸を撫でおろした。

 もちろん、陽平のいない時間を狙って来たわけだが、心の準備のできない状態で彼と再会するのは避けたかった。

「彼は、変わりない? 運動ができるなら、元気ではあるんだろうけど、言動や記憶におかしなところは……」

「いや、特にはなにも……なぜだ?」

「私、陽平に術をかけたの」

 央霞の目つきが険しくなるのがわかった。

「操心術といって、その名の通り、人の心を操る術よ。最初に会ったとき、思わず使ってしまったの。『私の嘘を信じるように』って……」

 カリンは、自分の二の腕に爪をたてた。

「いまはもう解除しているけれど、これはとても危険な術なの。本来の記憶や価値観と、術による刷り込みとの齟齬が大きいと、心を壊してしまうこともある……そんな術を、私は彼にかけてしまった……あなたの……あなたの大切な……家族に……ッ!」

 いったん話しはじめると、言葉が次々に口をついて出た。

 それは、ずっとカリンの胸の奥でくすぶり続けていた後悔の念であった。

 言葉にすることで、はっきりとしたかたちとなり、抑えがたい感情となって溢れ出す。もう、どうしたらよいかわからなかった。

 もしも央霞が、この場で自分を断罪するというのなら、甘んじて受けてもよいとさえ思えた。

「そうか」

 央霞の声は、凍てついた刃のようだった。

 当然だ。カリンだって、アスターたちになにかあれば、おなじ反応をするだろう。

 央霞の手が、こちらに向かってのびてくる。

 カリンは覚悟を決め、目をとじた。

 首をへし折られるか、あるいは頭をつかまれ、壁に叩きつけられるか。

 ひと思いにやってくれ、などというのは虫のいい希望だろう。

 ところが、実際に央霞がしたのは、カリンの目許に滲んだ涙をぬぐうことだった。

「なんで……」

 カリンは本気で戸惑った。彼女に優しくされる資格など、自分にはないのに。

「陽平は大丈夫だ。ぴんぴんしているよ。むしろ、きみをいかせてしまったことのほうに傷ついているくらいだ。どうして、きみの苦しみに気づいてやれなかったのかってね。――これは推測だが、きみは術による負担をなるべく小さくするために、最低限の嘘しかつかなかったんじゃあないか?」

 カリンが無言でいると、央霞は「やっぱり」と微笑んだ。

「で、でも……それでも私は、彼に酷いことを……」

「陽平は、

「え――?」

「落ち込んではいたが、きみとのことを話すときだけは、すこしだけ、弾んだ声をしていた。実際に見たことはなくても、きみとすごした日々が、アイツ陽平にとってとても大切で、得難いものだったということはわかる」

 央霞の口許が、自嘲するように歪んだ。

「情けない話だが、私も含めてうちの家族は、これまでアイツをあまり構ってやれていなかったからな。だから、きみがアイツの面倒を見てくれたことに対しては、とても感謝している」

「そんな……私はなにも……」

「きみが出ていった理由も、だいたい想像がつく。巻き込みたくなかったんだろう?」

 央霞の澄んだ黒い瞳に見つめられると、またしてもカリンは、なにも言えなくなってしまう。

「それが最善だったと、私も思う。だが、なんとかもう一度、陽平と会ってやってはくれないか?」

 うなずいてしまいたいという激しい衝動に、カリンは駆られた。あまり、いい別れ方ができなかったという自覚もある。

 だが、いまさら会ってなにを話せというのか。

「心の整理がついていないことはわかっている。しかし、だからこそ、アイツと会っておくという選択も、悪くないと思うんだが」

 カリンはかぶりを振った。

「できないわ……よけいに苦しくなるだけよ」

 そうか、と央霞は短く言っただけで、それ以上食い下がろうとはしなかった。

「そうだ、カリン。きみが《欠片の保有者》だという話だが、いまはまだ、誰にも言わないほうがいいだろう」

「それは……そうね。モルガルデンたちが知ったら、私を殺そうとするだろうし……」

「私も、このことは胸にしまっておく」

「みずきにも秘密にするつもり?」

「アイツは私の意思を尊重してくれるとは思うが、断言はできない。もうすこし状況を見極めてから判断すべきだと思う」

 なによりもみずきが大切と言うクセに、そういう部分では恐ろしく冷徹だ――否、公正と言うべきか。

「ありがとう。助かるわ」

「気にするな。それと、これも忘れないうちに」

 央霞が取り出したのは、紅く輝く宝石だった。

「カーバンクルの――! なんで……」

「陽平から預かったんだよ。空船公園できみが立ち去ったあと、これが残されていたそうだ」

 やはり、あの場所だったか。

 きっと、モルガルデンに殴られたときに落としたのだろう。

「アイツ……人のことを散々悪く言ったクセに」

「きみがこの家にもどってきたのは、これを探すためか?」

「そのとおりよ。……でも、いいの?」

「ないと困るんだろう?」

「そうだけど……」

 考えてみれば、どの道もう、タイカに援軍を要請することなどできない。下手をしたら、カリンを狩ろうとする敵がさらに増えることになる。

 もし使うとすれば、それは、彼女の任務が果たされたときだ。

「央霞。聞いて」

「うん?」

 凛々しい眉がわずかに下がり、黒い瞳がカリンを見つめる。

「私には、アビエントラントを裏切ることはできない」

 仮に家族のことがなくとも、きっと――

「臆病だと、笑ってくれていいわ」

「そうする理由がないな」

「だから、私はあなたと――あなたたちと戦うわ。こんなによくしてもらったのに、申し訳ないけど」

 カリンの言葉に、央霞は深くうなずいた。

「わかった。いつでも来い」


 ああ……そうだ。

 央霞ならば、当然そう答えるだろう。

 そんな相手だからこそ、私は――


「ありがとう」

 カリンは目を伏せ、こうべを垂れた。

 また、涙が零れたが、決して不快ではなかった。

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