第2章 ABC殺人考察

 捜査本部、いわゆる帳場は通常、事件が起きた管轄の所轄署に立つが、今度の事件は県北の村上むらかみ市と県庁所在地の新潟市で起きたため、ここ新潟県警本部に捜査本部が立つようだ。過去何度か捜査会議に列席している私と理真りまも、県警の会議室には来たことがあまりない。

 さすがに所轄署のものよりはずっと広い。それに比例して、続々と集まる警察官の数も相当なものだ。村上、炉端町ろばたちょう管轄の所轄署や、その周辺所轄からの応援の警官も含まれているためだろう。

 並べられた長机の席がほぼ埋まり、時計の針が会議開始時刻に近づくにつれ、話し声もおさまってきた。私と理真は定位置である一番後ろの長机に並んで席を取る。


「時間だ、では始める」会議を取り仕切るのは、いつものように城島じょうしま警部だ。「まずは、これが今日県警に送付されてきた郵便物だ」


 前方スクリーンに、先ほど見せてもらった手紙が映される。資料はデータ化されパソコンを使ってプロジェクターでスクリーンに投影されている。城島警部の横で制服姿の婦警がノートパソコンを操作しているのが見える。

 中にはこの文面を初めて見た刑事も多くいるようだ。あちこちでどよめきが起こる。


「この文面を受け、村上市五十谷いそや管轄の瀬波せなみ署、中央区炉端町管轄の西堀にしぼり署に連絡を取り、炉端町へは本部からも応援を出し捜索を行った。瀬波署からはすぐに回答が来た。先月だから、十月十日だな。確かに伊藤いとうという名前の女性が亡くなっている。もっとも事故として処理されたとのことだが」


 城島警部は、一課で丸柴まるしば刑事から聞いた話を繰り返した。そして第二の事件の詳細に話を移す。


「続いて炉端町のほうだが、四階建ての『ロバタ第二ビル』の屋上から死体が発見された。所持していた免許証から身元が判明した。被害者は、六田龍好ろくだたつよし、二十八歳。職業は市内の建設会社に勤める土木作業員。屋上貯水タンクの裏に俯せに倒れており、背中に刺し傷。他に目立った外傷はないことから、死因はこの傷が原因での失血死と見られる。凶器は残されていなかった。目下解剖中だが、現場での見立てでは死後一日程度経過しているものと見られる。付近への聞き込みで、被害者他、怪しい人物の目撃情報はなし。現在、伊藤、六田、二名とも交友関係や死亡前数日の行動を当たっている」


 城島警部が話し終えると、最前列に座っていた刑事が手を挙げて発言する。


「村上市で死んだ伊藤という女性は、事故死として処理されたということですが、捜査に問題はなかったのですか」


 その発言の直後、苦々しげな表情を作った団体がいた。瀬波署から来た刑事たちだろう。


「それについては」と再び城島警部は、「俺も報告書を読んだが、所轄の捜査に問題はない。事故として処理されて然るべき案件だという印象を受けた」


 瀬波署の刑事たちは、ほっとしたような表情を浮かべた。


「しかし」城島警部は続け、「今回、このような犯行声明、と言っていいだろうな、が送られてきた。もちろん再捜査は行う必要がある」


 一同の視線は再びスクリーンに注がれた。警部はさらに続ける。


「それで、今後の対策だが、当然この犯行声明を無視するわけにはいかない。被害者二人それぞれの怨恨、そして同一犯による連続殺人の線はもちろんだが、それと同時に、もうみんなも気付いているだろうが、犯行声明によれば、犯行は、いろは順、地名と被害者名字の頭文字を会わせる形で無差別殺人を行う、と宣言していると取れる。怨恨の線以外でも、無差別殺人の可能性も視野にいれて捜査を行う必要がある。二件とも、地名は、市区直下の地名が使われている。『い』『ろ』ときて、次は『は』だ。『は』の付く地名のある所轄署に、当該地域を重点的にパトロールするよう通達する。それと、狙われる被害者のほうだ。まさかこの犯行声明を公表するわけにはいかないから、所轄は地名とともに、そこに在住する、『は』で始まる名字の住人宅を特に注意してパトロールしてもらう。これは慎重にやってもらわなければならない。住人自体に注意を促すのが手っ取り早いんだろうが、そんなことをしたらパニックを引き起こしかねないからな」


 確かにその通りだ。

 城島警部の話は終わった。捜査員たちは再びざわつき始める。


「過去に似たような不可能犯罪が起きたことがあるそうですね」


 そう発言したのは、城島警部の隣に座っていた織田おだ刑事だ。その視線は最後列に座っている私の横、つまり理真に向けられている。織田刑事は、民間人が警察捜査に介入してくることを快く思わない警察官の代表選手のような存在だ。当然、理真にも厳しく当たる。


安堂あんどうさん、さっそく捜査会議に出席なされていますね。素人探偵の視点から、何か過去の事件との関係性があれば、ご教授願いたい」


 それを受け、理真は、はい、と答え、ゆっくりと立ち上がり、


「この手の不可能犯罪、いわゆる『ABC殺人』の元祖は、イギリスで起きた事件です。その際には、地名、被害者の姓名両方のイニシャルが会わされていました。Aという地名で、A.Aというイニシャルの人物が殺害される、といった具合ですね。今回は、被害者側のイニシャルの一致は名字のみに留まっています。日本人名の場合、姓名ともに同じ文字が揃うケースは希なため、そこは簡略化したものと思われます。それと、イギリスの『ABC殺人事件』では、犯行現場にABC鉄道案内という本が残されていました。これは間違いなく自分の犯行であるという犯人からのメッセージですね。今回の事件にはそういった犯行の目印のようなものはないということでした。大きな相違はこの二点でしょうか。

 それと、城島警部は、県下の所轄にパトロール強化の通達を出すとおっしゃいましたが、果たしてこの事件が県下のみに留まるでしょうか。イギリスの事件は、イギリス全土を舞台に行われました。我が国で過去に同種の事件が起きた際も、被害は複数の府県に跨るなどしていました。せめて近隣県警にも通達し、巡回強化や捜査協力を申し出るべきだと思いますが」


 それを聞いた城島警部は、


「ふむ、そうだな、隣県の山形、福島、群馬、長野、富山、各県警にも連絡して情報の共有と警戒を行おう」

「はい。それと、被害者は両名とも、地元に在住していたのでしょうか?」


 理真のその質問には、城島警部から目配せを受けた中野なかの刑事が答える。


「最初の被害者、伊藤孝子たかこは、殺害場所の村上市五十谷いそや在住でしたが、二番目の六田龍好は違いますね。現住所は新潟市西区徳倉とくくらでした」

「であれば、『は』で始まる地名に在住する該当名者が必ずしも狙われるとは限らないわけですよね。どこか別の地域に住む被害者を連れてきて、『は』の地名で殺害する、ということも考えられます。それと、もうひとつ『ABC殺人事件』との相違点があります」

「それは何ですか」


 と城島警部。織田刑事は、理真の相手が警部に移ったのが面白くなさそうに腕を組んでいる。


「犯行声明です。元祖『ABC殺人事件』では、犯行が行われる前に声明文が送りつけられています。『何日にどこそこを警戒せよ』といった内容のものが」

「日にちと場所まで指定してきていたのですか」

「はい。ですが、これは当時と現在の警察力の差違を考えれば、妥当な変更点だと思われます。日にちと場所まで指定したら、現在の警察の捜査力と機動力をもってすれば、犯行を行う前に犯人が逮捕されてしまう可能性が非常に高いですから」

「それでは、今回の犯人は、あくまで『ABC殺人事件』をなぞる目的で犯行を行うが、犯行声明については、自身の安全を考え、犯行を終えた後出しにすることにした、と?」

「そこまではまだ。現在得られた情報から考えるに、この犯人は、何から何まで『ABC殺人事件』の模倣を行おうという意思はないように思われます。犯行現場に『ABC鉄道案内』に当たる遺留品を残していない、事前に送る犯行声明がないことは先ほど上げましたが、それ以外に、題材からしてアルファベットでなく、いろは順です。今の時点では、犯人の様相、目的を推察することは難しいですね」

「目的か……」城島警部は椅子に深くもたれて腕を組んだ。「いろは順に殺害を行うということに、何の目的があるのか。単に本命の殺人をカムフラージュするため、なのか」


 そこで中野刑事が挙手、発言する。


「これ自体が、犯人の罠ということは考えられませんか」

「どういうことだ?」警部は再び机に上半身を乗りだし、中野刑事に問う。

「この犯行声明が送られてきて、当然俺たちは『は』の地名を警戒しますよね。そうすることで、その地域の外側の警備は手薄になる、そこを狙って犯行を行う、という」

「『は』の地名が囮だということか……ということは、次に行われるのが、犯人本命の殺人ということか?」

「はい。もしくは、それ以降――」

「そのためだけに、無関係の人間を二名かそれ以上殺害するというのか?」


 織田刑事が、ここで再び声を上げた。中野刑事が返答に窮したのを見て、


「本命の殺人をカムフラージュするために、数件の〈捨て殺人〉を行うというのか。リスクが大きすぎる。人を殺すというのは相当な精神的負担だぞ。それも、何の恨みもない相手を、ただ捜査の目くらましのためだけに殺すなど、なおさらだ。それに、本命の犯行動機が怨恨なら、いくらカムフラージュしたとて、個別の被害者の身辺を洗えば確実に犯人に辿り着く。そこで必ず無関係な殺人を犯したことが仇になるだろう。アリバイ、物証、目撃証言、何かしら必ずボロは出る。いざ逮捕されたら、当然のその〈捨て殺人〉も罪状に加えられる。殺人行為の代価に見合うとは思えん」


 立ちっぱなしの理真も、織田刑事の言葉には頷いている。確かにその通りだ。


「犯人が、そんな理性的な考えが出来ない精神だとしたら、どうでしょう」中野刑事も負けじと持論を戦わせる。「もしくは、犯人が、いろは順に誰かを殺すことだけを目的とした快楽連続殺人犯シリアルキラーだとしたら? 捨て殺人なんてものはなくなります。全てが犯人が望む殺人になるんですから」

「そうだとしたら、今回は素人探偵の出番はなくなるな。快楽連続殺人犯シリアルキラーが相手なら、警察の物力と機動力、そして鑑識や科捜研の科学力が全てだ」


 織田刑事は、言葉の最後で理真を見た。理真はそれをきっかけに着席した。これも確かにその通りだ。犯人が一定の意図を持った連続殺人なら、個人の探偵の推理が物を言うが、無差別連続犯が相手では分が悪すぎる。個人の力がこの手の犯罪捜査に寄与できるならば、犯行現場の状況や遺留品から犯人像に迫る、プロファイラーの出番だろう。


「この犯行声明から、何か犯人に繋がりそうな情報が得られると思うか?」


 城島警部は、会場全員を見渡して聞く。手を挙げたのは丸柴刑事だ。


「この声明文には、頭語と結語が使われていますが、『かしこ』という結語は女性が用いるものです。『いろは』という署名も女性的な響きがあります。犯人がわざわざ自分の性別を限定するような表現を使ってきたというのは理解できません。ですから……」

「裏をかいて犯人は男性だと」


 城島警部の答えに、丸柴刑事は頷いた。


「警察がそう読むことを考えて、本当に女性、ということも」と中野刑事。

「堂々巡りだな……」

「安堂さん」口を開いたのは織田刑事だ。「何かお考えはありませんか。素人探偵なら、この手の犯行声明を目にする機会も多いのでは。ぜひご意見を伺いたい」


 今日の織田刑事は絶好調だな。理真は、では、と再び立ち上がる。


「この文面、差出人は、犯行を止めて欲しいようなことを書いていますが、全くそんな気はない、ということは確実です。文面からは、次に『は』の地名で『は』で始まる名字の人間を殺害するように受け取ることが出来ますが、この文のどこにもそんなことは書いていません。犯人は次に『は』とは全く関係のない殺人を犯すかもしれない。例えば、『いろり』とか、『いろえんぴつ』という言葉の順に殺人を犯すつもりだった。いろは順に犯行が行われるというのは、警察が勝手に推理したこと、自分はそんなことはひと言も書いていない、『いろは』という署名も、ただの名前で犯行とは関係ない。というわけです」


 これには織田刑事も、うーむ、と唸り、城島警部は腕を組んでため息をついた。


「もちろん」理真は続ける。「本当に『は』で犯行が行われるという可能性のほうが大きいですが、それにしても、場所もターゲットも、頭文字が『は』だという情報だけでは、未然に事件を防ぐことは難しいでしょう。本当に犯行を止めて欲しいのであれば、もっと具体的な情報を書いてくるはずです。犯人は、止めて欲しいと書いておきながらその裏、止められるわけがない、と思っているはずです。つまりこれは、単なる犯行声明ではなく、犯人から警察への挑戦状という意味合いが強いのではないかと考えます」


 ふざけやがって、と織田刑事は小さく吐き捨てた。城島警部も表情をさらに厳しくして話し出した。


「今日は十一月五日。五十谷の事件が先月十日。炉端町の事件との間は約一ヶ月空いていることになるが、次の犯行も同じくらい空くという保証はない。迅速に確実に捜査に取りかかろう」


 城島警部の締めの言葉に、会議室全体が、はい、と大きく答えた。その後は、『は』で始まる県下の地名のピックアップ、及びそこが管轄となっている所轄署への連絡、隣接県警への情報提供と協力要請、引き続き『い』『ろ』二件の事件捜査等、担当の割り振りを行い、解散となった。



 私と理真は、捜査一課室へ戻り、コーヒーをいただいていた。

 刑事警官は全員捜査に出払っているため、部屋にいるのは私と理真の二人だけだ。会議で織田刑事が言っていたように、犯人が快楽連続殺人犯シリアルキラーなら、理真の出番はないだろう。過去に快楽連続殺人犯シリアルキラーの犯行を名探偵が解決した事例もあるが、犯人が犯行後に残した僅かな手掛かりを元に推理を巡らせてのものである。明日は第二の事件、すなわち『ろ』事件の現場へ、丸柴刑事と赴くことになっている。探偵のアンテナに引っかかるような手掛かりが見つかるだろうか。

 窓の外はもう暗い。警察の方々は、夜遅くまで大忙しだろう。何しろ犯行の場所も期日も掴めない。今までにない大掛かり、広範囲の捜査になるはずだ。しかし、こうして犯行声明が送られてきた以上、当然手をこまねいて見ているわけにはいかない。


「いろはにほへと ちりぬるを……」と理真が突然、「わかよたれそ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす……全部で四十七文字」


 いろは歌を言い終えた。さすが作家だけあって、そらんじられるとは。ちょっと見直した。


「犯人は、四十七人も殺すつもりなのかしらね。ABC殺人のアルファベットが二十六だから、それと比べて圧倒的な量ね」

「そうだね。どうして犯人はいろは歌を連続殺人の題材に選んだのかな」

「ひとつ言えるのは、取りこぼしがないってことね」

「どういうこと?」

「アルファベットなら、日本人名には合致しない文字がある。『L』とかね。ら行はローマ字では『R』を使うからね。『Q』とか、『X』なんてのも使いようがない。外国人をターゲットにするか、オバケのQ太郎とか、ミスターXを殺すしかない。でも、いろは歌なら、何かしら合致する名字はあるでしょ」

「なるほど」


 オバQどうのというのには、あえて突っ込まないでおいた。


「いろは歌には『ん』が入っていないことも好条件ね。旧字体の『ゐ』と『ゑ』があるけど、それぞれ『い』と『え』の名字の人を二人ずつ殺せば勘定は合うわ」

「何て恐ろしいことを……」

「もちろん、そこまでの犯行は許さないわ。何とか次の殺人が起きる前に、犯人を確保できればいいんだけど……とりあえず今日は帰ろう。お腹空いたわ。途中で何か食べていく?」


 理真は空になった紙カップをゴミ箱に捨てた。私は帰り支度でブラインドを下ろすため窓へ寄った。暗い空が見える。星のひとつも見えないのは、雲がかかっているからだろう。この夜空の下、どこかに潜んでいるのだろうか。次なる獲物を吟味する、犯人『いろは』が……

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