第20章 断罪は誰のために

「一昨日、あなたと瀬峰せみねさんは申し合わせて仕事を休み、役所へ行った。婚姻届を出すために。それはいずれ明らかになってしまうことは避けられませんが、少しでも計画に支障をきたさないために、瀬峰さんはあなたに固く口止めを約束させたんですね。体調が優れず病院へ行ったということにして。

 午前中の早い時間に用事を済ませた瀬峰さんは、家には戻らず、長谷川はせがわさんに電話を掛けます。最後の確認だったようです。ですが、その時点ですでに保永ほながさん、あなたと婚姻届けを出していた瀬峰さんは、もう計画を実行することを心に決めていたのかもしれません。最後に声を聞きたかっただけだったのかも」


 それを聞いた保永は、ことさらつまらなそうな顔をした。


「長谷川さんには、自分から電話があったことは警察には話さないでくれと頼んだそうです。少しでも犯行動機から目を逸らさせようとしたのでしょう。

 長谷川さんとの電話を終えた瀬峰さんは、最後の仕事に向かいます。まず、深夜に病院に入り込み、いつものような犯行声明文を作ります。あの夜、瀬峰さんの家にはずっと刑事が張り込んでいましたが、瀬峰さんは一度も戻らなかった。瀬峰さんが犯行声明文を職場で作っていたことは間違いないでしょう。作り終えた犯行声明文の入った封書を、郵便の束の中に紛れ込ませます。何通もの封書を輪ゴムで束にしたものですから、翌日、保永さん、あなたがそれをそのまま投函してくれると考えていたのでしょう。そして瀬峰さんは星見ヶ丘ほしみがおか公園へ向かいます。自らの計画を完結させるために。

 公園に向かうまで、瀬峰さんはどこかで時間をつぶしていたのかもしれません。瀬峰さんの死亡推定時刻までには時間があるためです。それとも、すぐに公園へ向かって、ひとりで過ごしていたのかもしれません。あの公園は瀬峰さんにとって特別な場所だったのですか」

「……僕に訊いてるんですか?」


 不意を突かれたように保永は顔を上げた。理真りまは頷いて、


「はい。あなたは、公園に着いて真っ先にあの物見やぐらへ向かっていきました。そこに瀬峰さんがいることが分かっていたかのように。瀬峰さんから聞いたことがあったんじゃないですか」

「……ええ、そうですよ。あの公園は、先生と長谷川がよくデートした場所だったそうです。あのやぐらがお気に入りで、夜に富山の夜景を見るのが楽しみだったって、そう言っていたことがありました」

「そうだったんですか。では、瀬峰さんは夜のうちに公園に行き、ひとりであそこに上って夜景を見ていたのかもしれませんね」


 私はその姿を想像した。かつて愛し合った恋人と一緒に見た夜景を、今はひとりで見ている。その数時間後には、自ら命を絶つ覚悟を秘めて。どんな心境だったのだろう。理真は話を続ける。


「夜のうちに公園に着いたかもしれませんが、瀬峰さんは自らの死亡時刻を翌朝と決めていました。今まで犯人は、第一の事件を除き、まあ、これはでっちあげの殺人だったわけですが、すべて被害者殺害直後に犯行声明の封書を投函しています。一連の犯行との齟齬を防ぐため、今度もそれを崩そうとはしなかった。

 保永さん、私たちが初めて瀬峰さんを訪ねたとき、私たちを送るついでに郵便を持って部屋を出ましたよね。瀬峰さんが出す郵便物は、一旦デスクのトレイに集めて、日に一度か二度まとめて投函するという形を取っていたんですね。投函係は保永さん、あなたです。昨日の朝は、前日休んだため、仕事が溜まっていると思われます。わざわざ仕事の合間に郵便物を出しに行くとは思えません。郵便物を出しに行くとしたら、お昼休み。当然近くのポストに投函するはずですから、消印はこの辺りの郵便局になる。その時間に合わせて瀬峰さんは死ぬつもりだった。つまり、星見ヶ丘公園で瀬峰さんを殺した犯人が、富山市街まで下りてきて犯行声明を投函。それにかかる時間を逆算して瀬峰さんは自害する。あなたの行動に左右される計画ですが、もしかしたら前日のうちに、翌日出勤したら、お昼休みに郵便物を出しておいて欲しいと、ひと言頼んでおけば済む話のため、瀬峰さんはそうしたのかもしれませんが」


 理真は保永に返答を求めたのだが、保永は興味がないように黙ったまま。仕方ない、というふうに小さくため息をついて、理真は続ける。


「一方、通常通り出勤した保永さん、あなたの行動です。あなたは瀬峰さんがその日も休むことを知っていたのですね。自分は翌日も休む、と瀬峰さんに聞かされていたのですか。ともかく、瀬峰さんのデスクのトレイには郵便の束があります。瀬峰さんにお昼に出すよう言われていたとしても、仕事が忙しく元々お昼に出すつもりだったとしても、午前中の早い段階で、あなたは見つけてしまった。郵便物の中に新潟県警宛ての封書があるのを。それを見られないように、瀬峰さんは他の封書の間に隠すように挟み込んだのだと思いますが、保永さん、あなたはそれを見つけてしまった。束を床に落とすでもして、輪ゴムが解けバラバラになったのでしょうか。それとも、瀬峰さんがいないのをいいことに、誰にどんな手紙を出しているのか、ひとつひとつ見ていったということも考えられますが」

「まるでストーカーですね」


 保永は笑った。自嘲気味な笑いだった。理真は続ける。


「新潟県警宛ての封書。それを見つけたあなたは、何が書いてあるのか中身を確認せずにはいられなくなった。警察や私が瀬峰さんを疑っていることは知っていましたから。ですがもし、ただの挨拶便りなどであった場合を考え、元通り封ができるように、カッターで丁寧に封を切ったのですね。でも、そんなたぐいの内容ではないことは薄々感じていたのではないですか。何ひとつやましいことのない便りだったら、封筒の裏に差出人の名前と住所を書くはずですからね。その新潟県警宛ての封筒に、そんなものは書かれていなかった。

 中身を見たあなたは全てを悟ったのではないですか。瀬峰さんが立てた計画、いろは殺人の全て、そして、瀬峰さんが自分と入籍した目的、何をしようとしているかを。あなたは瀬峰さんを止めるため、犯行声明文に書かれている星見ヶ丘公園へ向かった。私たちが追跡していることなど構っていられなかったでしょう。あんな無謀な運転をしていた理由も理解できます。瀬峰さんの命が掛かっていたのですから」


 一昨日の追跡劇を思い出す。雪道を走っているとは思えないスピード。スリップしてガードレールにぶつかっても、全く意に介しもしない。あの保永の鬼気迫る運転は、瀬峰を救おうとしてのものだったのだと考えれば納得がいく。


「そんなあなたの行動など露知らない瀬峰さんは、公園の物見やぐらの中です。携帯電話も電源を切っていたため、あなたからの発信も届きません。

 時間が近づきます。瀬峰さんが自殺すると決めていた時間が。もしかしたら、自刃する瞬間を誰かに見られるかもしれないと思ったのか。瀬峰さんは死ぬ体勢に、やぐらの床に仰向けに寝そべって、腹部にナイフを突き立てるという方法をとった。あのやぐらのほぼ中央に寝そべると視界はどうなるか。隙間なく立てられた丸太ログと大きな屋根のために、外が一切見えなくなってしまうんです。

 瀬峰さんはその体勢のまま、しばらくいたのでしょう。色々なことを思い出していたのかもしれません。外では雪が降り始めましたが、瀬峰さんはまったくそのことに気が付きません。風もなく、雪がやぐらの中に舞い込むこともなかった。もしかしたら、気が付いていても何とも思わなかった可能性もありますが、聡明な瀬峰さんのこと、この状態で雪が降ったらどういう結果となるか、考えが及ばなかったとは思えません。そうです、周りに雪が積もった状態、そこには誰の足跡もない、いわゆる〈雪密室〉の中で人が死んでいる。その状況を見て他殺だと思う人がいるでしょうか。瀬峰さんの自殺だと一発で看破されてしまいます。同時に瀬峰さんに一気に疑惑が降りかかります。全ての計画が見抜かれてしまうかもしれない。

 保永さん、あなたも公園へ向かう途中に雪が降り始めたのを見て、そこまで考えていたのではないですか。瀬峰さんがあの公園で自害するなら、間違いなくあの物見やぐらを選ぶだろうと。もし、瀬峰さんの自害を止めることが出来なかった場合、自分が駆けつけると、すでに瀬峰さんが亡くなっていた場合、どういう結果となるか。

 公園に着いたあなたは、すぐさま物見やぐらを目指します。案の定、周りは足跡ひとつないバージンスノー。すぐ後ろからは警察が追ってきている。追いつかれるまでほとんど時間はない。見上げると、やぐらに瀬峰さんの姿は見えない。そこに姿が見えないというのは、どういうことか、死に場所はそこではないのか、そうでなければ、瀬峰さんはすでに立っていられないような状態であるのかもしれない……」


 保永の表情が曇り、目が潤んできたように見えた。そのときのことを思い返しているのだろうか。理真もそれを認めたようだったが、話を続ける。


「保永さん、あなたはやぐらに上がり、そこに仰向けに倒れた瀬峰さんの体を見つけました。腹部にはナイフが突き立っています……間に合わなかったことを知った」


 保永は伏せ気味になって顔に手をやった。汗を拭うような仕草だったが、ここは暖房も満足に効かない底冷えのする地下階。汗ではなく、別のものを拭ったようにしか私には見えなかった。その動作が終わるのを待ってから理真は、


「それを確認したあなたに出来た行動はひとつだけでした。その腹部に刺さっていたナイフを引き抜く、そしてそれを持って立つ。これだけでした。そこへ中野なかの刑事が現れる。その瞬間あなたは、瀬峰さんの自害を隠蔽するため、彼女の計画を守るため、三人目の『殺人鬼いろは』になったのです」


 理真の話が終わったことを感じ取ったのだろう。保永は背筋を伸ばす動きをして、ため息をひとつ吐いた。そして、


「……証拠は」と理真の顔を見て、「証拠はあるんですか。今の安堂あんどうさんの話を保証する証拠は」


 すでにその目に刺していた潤みはなくなっていた。


「そうですね。まず、仁藤にとうさんが移動に使った瀬峰さんの車。県境を跨ぐ移動には、高速道路や幹線道路の使用が不可欠です。自動車ナンバー自動読取システム、いわゆるNシステムの記録を探せば、仁藤さんが運転している瀬峰さんの車が見つかるでしょう。どうして瀬峰さんの車を仁藤さんが運転しているのか、瀬峰さんは何かしら言い訳を考えていたのかもしれませんが、それよりも、車の運転が出来なくなったという仁藤さんや瀬峰さんの証言が怪しくなります。

『い』殺人のでっちあげに使う事故を探した新聞などはとっくに処分されていたようですが、瀬峰さんのパソコンの履歴に、地方ニュースを頻繁に閲覧した記録が残っています。犯行声明文は瀬峰さんが職場のパソコンを使って作製していたと思われますが、パソコンのファイルというのは、消去してもプロの手でデータを復元できる可能性があります。

 仁藤さんの死についても、狂言による自殺だったと考えてもう一度現場や遺留品を調べれば、何かしら不自然なところが見つかるかもしれません。実際、当初、犯人との揉み合いで付けられたものと思われていた仁藤さんの体に付いた傷は、他者を介さない状態で付いた傷だと科捜研の調べで看破されています。そのときはまだ仁藤さんは他殺であると疑われていなかったため、それらは犯人の手から逃れる際に転倒するなりで付いた傷だと思われていましたが。

 六田ろくださんと芳賀はがさんを呼び出すのに、直接仁藤さんが接触した可能性もあります。仁藤さんの写真を持って聞き込みに行けば、近くの人が誰か目撃しているかもしれません」

「全部僕です。僕が仁藤さんと組んでやったんです。先生は無関係です」

「それは苦しい説明ですよ。カウンセリングはカウンセラーとクライエントが二人きりで個室で行うんですよね。六田さんのことをどうやってあなたが知り得たのか。まさか瀬峰さんが、いくら助手に対してとはいえ、クライエントの秘密をぼろぼろ打ち明けるような人だったとは思えません。仁藤さんとの打合せにしてもです。二人きりで密室でのカウンセリングという形だから、あそこまで綿密に計画を立てられたのでしょう。仁藤さんはカウンセリングに出掛ける以外では、家に人を呼ぶこともどこかに出掛けることもなかったと近所の人たちから証言を得ていますから、あなたが仁藤さんと個人的に接触できたかは大いに疑問です。だいたい、瀬峰さんの車を計画に使う意味がない」

「それがどうしたって言うんですか」


 理真の推理を聞き終えた保永は、ぶっきらぼうに言い放った。これには虚を突かれたのか、すぐに二の句を告げない理真を見たまま、


「先生も仁藤さんも、もう亡くなってるんですよ。本人の自白はもう取れないし、安堂さんの推理を裏付ける決定的な証拠や証言が必ず出てくるとは限りませんよね。それらの捜査に当たる警察官の労力もばかになりません。ただでさえ最近の警察は、『いろは殺人』に執心するあまり、他の事件への対応が疎かになっているとマスコミに叩かれています。ついこの間までは、『まだ犯人を逮捕できないのか』なんて叩いてたのにね。警察を動かすのにも費用が掛かります、それらは市民、県民の納めた貴重な血税ですよ。僕がやった。それでいいじゃないですか」

「何を言っているのか理解できません」

「そんなわけないでしょ」保永は笑みを浮かべ、「僕が自白してるんだから、僕を逮捕して、それで終わりにしたらいいんですよ。起訴、送検に何かしら証拠が必要だったら、でっち上げればいいじゃないですか。僕の家のパソコンから犯行声明文の文書ファイルが発見されたとか」

「そんなこと、できるわけないでしょう」

「そうですか? 警察って、そういうの得意なんじゃないですか? そうだ、こういうのはどうです? 僕が先生のカウンセリングを盗み聞きして六田のことを知った。芳賀のことは過去に酔った拍子に先生から聞いていた。仁藤さんは僕がうまく説き伏せて実行犯にした。僕だって一人前じゃないとはいえ、カウンセラーの卵です。瀬峰先生という絶好の手本が身近にいますしね。傷心の老人ひとり手玉に取るくらいわけありません。しかも、僕は仁藤さんに殺意を抱いていたんですよ。先生と仁藤さんがただならぬ関係にあったと、カウンセリングの盗み聞きで知ってしまったんです。嫉妬に駆られた僕は――」

「いい加減にしなさい」


 理真は静かに、しかし強く声を張り上げた。保永は口を止めたが、すぐに何事もなかったかのように、


「先生を公園の物見やぐらに呼び出したのも僕です。理由は、そうですね、恐喝です。僕は先生の裸の写真を持っているんですよ。これも酔った勢いで無理矢理撮影したんです。先生が長谷川に電話をしたのは、それについての相談だった。もちろん、そんなことを他人に知られたくないから、固く口止めをさせました。どうしても口を割ることになっても、全く嘘の別れ話だと言ってくれと。長谷川のやつ、相当刑事さんに脅かされて喋らされたんじゃないんですか? そして、もう写真はデータと一緒に返してやるからと言って公園に呼び出し、いろは殺人に見せかけて殺害する。僕との婚姻は、先生を『保永』姓にさせるためですよ。もちろんヌード写真をネタに強要したんです」

「やめなさい」


 しかし、理真の言葉はまったく無視された。


「殺害動機は……嫉妬ですね。いつも一番近くにいたのに、まったく相手にされなかったことを根に持っての犯行です」


 理真を睥睨へいげいするかのような喋り方で語っていた保永だったが、その部分を口にするときだけは、いつもの口調に戻ったような気がした。すこし寂しげな。


「あの車の運転はですね、喜びに震えて興奮していたためです。いざ、先生を殺すと決めたときから、僕は自分の中に今まで知らなかった自分を発見したんです。この手で先生を殺すところを想像すると、もう、抑えられないくらい興奮したんです。それをネタにして、何度もイキましたよ。もうすぐ、想像でなく本当に先生を殺してしまえるかと思うと、興奮の余り、あんな無謀な運転を――」


 激しい音がした。理真が椅子から立ち上がって身を乗り出し、鉄格子の扉部分を掴み勢いよく揺すった。さすがに保永も、やれやれ、といった表情で口を閉ざした。理真が何か言うのを待っているようだったが、沈黙が流れるのみだったためか、再び口を開いた。


「安堂さん。そういうことにしませんか。確かに、証拠や証言をかき集めて、先生と仁藤さんを被疑者死亡のまま送検することは可能かもしれません。でも、それで警察は面子を保てますか? みすみす犯人を自分が立てた計略のままに死なせてしまって。犯人の思う壺にハマったということじゃないですか。警察の力を天下に喧伝する証が必要なんじゃないですか? 快楽連続殺人犯シリアルキラーが犯したと思われた無差別殺人。しかし、警察は犯行の裏に隠された計画を暴き犯人を見事逮捕したという首印が」

「保永さん、私の知っている警察官は、皆、犯罪を憎み、市民の平和を守るため身を粉にして働いている人たちばかりです。決して、あなたの言うような証拠の捏造なんかに力を貸しません。耳を傾けもしません。面子なんて気にもしません」

「じゃあ、世間の、この事件に対する捉え方はどうです。犯人である先生と仁藤さんの自殺も自らの犯行計画の一部でした。それを聞いて世間の人たちはどう思いますか。結局犯人の目的は達せられたんじゃないか。犯人は納得のうえ死んだんじゃないか。警察の手が自分に及ぶ前に。犯人の勝利という解釈になりますよ、この事件は。警察力、治安維持、探偵の力に不安を憶えて当然ですよ。探偵は快刀乱麻を断つが如き推理で見事、犯人の目論見を看破し、犯人に望んだ自殺などさせることなく逮捕した。これでこそ、世間の警察や探偵に対する信頼は揺るぎなく、安心した生活を送ることが出来るというものじゃないですか。僕が、その憎むべき犯人、恐ろしい『殺人鬼いろは』になろうって言ってるんですよ」


 理真は黙って首を横に振る。


「これだけ言っても?」と確認するように保永。


 理真の答えは変わらない。変わるはずがない。

 ふう、と息を吐いた保永は、口元に諦めを含んだ笑みを浮かべたように見えた。


「安堂さん」姿勢を正し、鉄格子を挟んで立つ理真を見あげながら、「この謎、解く必要があったんですか」

「……あります。このままではあなたは、殺人罪で起訴されることになるんですよ。保永さん、あなたが犯した罪は、瀬峰さんの体からナイフを抜き取ってやってもいない殺人を告白し、捜査を攪乱したことだけです。証拠隠滅と偽証罪。交通違反は大目に見てくれるでしょう。犯してもいない罪であなたが過剰に裁かれる必要はありません」

「僕がそれを望んでるのに?」

「それは関係ありません」

「安堂さん。あなたが余計なことをしなければ、『殺人鬼いろは』はまだ生き続けていたんです。長谷川は婿入りして辺見姓になる。先生が自殺の場所に『星見ヶ丘公園』を選んだのは、思い出の場所で頭文字が『ほ』だったから、だけじゃありませんよ。殺害場所を地名に限定しないためです。あいつ、婿入りしたら東京の本社に行くことになりますよね。エイチスティールの本社がある場所、知ってますか? 本社ビル周辺一帯が『辺見へんみパーク』っていう名前の複合施設なんですって。笑っちゃいますよね。あいつ、気が付くかな。周りの誰かが教えてあげるかもしれませんね」


 保永は少し笑い声を上げ、


「安堂さん。もう一度訊きます。この謎を解く必要はありましたか。殺された六田と芳賀は強姦魔ですよ。殺されて当然とまでは言いませんけれど、殺されても仕方のない人間だと思いませんか。加えて、仁藤さんも、先生も、自分で納得したうえで死んでいったんです。安堂さん、あなたは二人の思いを無駄にした。そういうことになりませんか」


 理真は首を横に振り、


「人を殺すということは、とても重い罪です。相手がどんな悪い人間でも、殺す相手が自分自身でも、許されることではありません。許してはいけない。それに、殺人を犯して幸せになった人はいません」

「ふふ、立派ですね。さすが名探偵だ。安堂さん。このままだったら僕は殺人罪で何年も刑務所暮らしだったでしょうね。でも、あなたが謎を解いてくれたおかげで出てくるのはずっと早くなりそうだ。送検や裁判に時間がかかるだろうから、二年。二年くらいでしょうかね。僕が務めを果たして娑婆に戻ってこられるのは。あと二年。一緒ですね」

「何がですか」

「仁藤さんの娘さんを殺した犯人が出所する時期とですよ」


 保永は薄い笑いを浮かべ、


「僕は二年後、そいつらを殺します。長谷川も」

「何を馬鹿なことを言ってるんですか。そんなこと、瀬峰さんや仁藤さんが――」

「望んでいます」


 保永の強い言い切りに、理真は言葉を止めてしまった。


「あの二人はそのために命まで差し出したんです。僕が継ぎます。二人の意思を」

「できるわけがない」

「あなたが止めるからですか。いいですよ。二年後、また会いましょう、安堂さん」

「保永さん!」理真の声が鋭くなる。「瀬峰さんが、あなたに何も語らなかったのはなぜですか。瀬峰さんはあなたに全てを語って、全面的に協力を求めることもできたはずです。そのほうが確実に計画を遂行できた。瀬峰さんはあなたの気持ちに気付いていた。共犯として取り込むこともできたのに、そうしなかったのはなぜですか。あなたの手を汚させたくなかったからじゃないんですか。あなたと籍を入れたのは、『ほ』の名字を手に入れるためだけだったんですか。そうじゃないでしょう――」

「やめて下さい。彼女は僕の妻です。妻のことは、夫である僕が一番よく分かっています」


 保永は寂しげな笑みを浮かべた。その右頬を一筋の涙が伝った。拭うことはしなかった。


「人を殺したら幸せになれない? そんなの当たり前じゃないですか。幸せになることは権利であって義務じゃない。幸せになることを目的としない人生だってあります。安堂さん、あなたを責めたり、考えを否定するつもりもありません。ただ、分かってほしいんです。いや、分かってほしいとも思わない。放っておいてほしいんです。

 妻との結婚生活は短かったでしたけれど、とても充実した幸せな時間でした。一生分の幸せでした。胸を張ってそう言えます。仁藤さんも、妻がとてもお世話になった恩人です。それに報いるのが夫の務めだと思っています。これが僕の答えです。もう、話すことは何もありません。帰って下さい」


 寂しげだった保永の笑みは、話すうちにその様相を変えていった。鋭く、冷たく。まるで、殺人犯、いや、殺人鬼のような……

 理真は言い返すことはせず、黙って顔を伏せた。これは理真の、名探偵の敗北なのか? 私から見えるのは後ろ姿のため、その表情を窺い知れない。

 理真、泣いているの?

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