第一幕 マーエラ

一章 二つの手

 いつも見る夢を見た。


 目覚まし時計はまだ鳴っていない。遮光カーテンの合間から漏れる朝の光が瞼を刺激する。


 私――萱野琴音かやのことねは寝返りを打ち、枕に顔を埋めた。


 ぎゅっと心臓を掻き出されるような痛みが走る。

 でも、ずっとそうやっているわけにもいかない。このまま布団に潜っていては、確実に高校を遅刻してしまうだろう。倦怠感にさいなまれながらも、のそりと起き上がった。

 夏も近い時期なので、半袖にするかどうするか一頻り悩む。結局は、半袖の上から袖の長い紺色のセーターを着ることにしたけれど。

 リビングテーブルにぽつねんと置いてあったパンとゆで卵を飲み込みながら玄関へ向かう。


「行ってきます」


 返答はない。しんと静まり返った家。両親はともに働いているから仕方ないと言えばそれまでだ。

 小学生の頃……祖父母が生きていた頃は「いってらっしゃい」とにこやかに彼らは送り出してくれていたっけ、と思考を巡らせ、その思考を首を振って打ち消した。

 今はもうないものを考えたところで、その時間を手繰り寄せることはできない。

 そう。


 ――もう、私はのだから。


 溜め息を一つ吐き、外へ出た。

 通学路は賑わっている。おはよう、とクラスメイトから声をかけられて挨拶を返す。でも、決して一緒に登校したりはしない。それが私の常だ。

 ひとたび学校の中に入れば友達と一緒に行動したりはするが、外では別だ。

 手を繋いで照れくさそうに登校している者たち――きっとカップルだろう――を尻目に、私は背筋を丸めて足早に歩く。


(どうして、付き合おうなんて思うんだろう)


 理解できない。

 色恋沙汰に疎い、という次元の話ではないかもしれない。

 私は、人を好きになるという感情を、生まれてこのかた一度たりとも味わったことがなかった。


 ――ああ、素敵だな。


 初恋がまだの者であっても、かっこいい異性を見ればそう思うものだろう。しかし、私はその気持ちすら感じたことがない。


(異常、なんだろうか)


 ふと、自身に対してそんな不安が過ぎる。


「わあ……見て見て! 今日の空、すごい綺麗っ」


 と、私を追い抜いて行った女子生徒が、隣を歩く男子生徒に言った。男子生徒は眠いのだろう、大きな欠伸をしてから空を仰ぐ。


「んー、そう? いつもと変わらないと思うけど。それにしても姉さん、朝っぱらから元気過ぎるよ。もう少しテンション下げて」

「何それ、失礼な――……」


 女子生徒と男子生徒は軽口を叩き合いながら、学校へと向かう。

 私は立ち止まり、視線をそっと持ち上げた。



 広がっていたのは、遮るものが何もない、鮮やかな朱と黄金の色彩が入り混じった幻想的な空。美しく、それでいて夕立を予感させる、雲一つない空。



 溜め息を零す。


(なんだか、綺麗過ぎて作り物っぽい)


 ……ずいぶんと長い時間、人目も気にせず道のど真ん中で佇んでいたが、遠くから聞こえてきた予鈴チャイムの音によって我に返った。


 慌てて走り出…………そうとした瞬間。


 ――私が数秒前まで佇んでいた場所に、透明な糸が舞った。


「……っ」


 見覚えのある糸。それは、私の過去を呼び戻そうと揺さぶってくる。


 ぐにゃりと進行方向の空気が歪んだ。そして、きーんと耳鳴りが襲ってきた。



『…………って』



 ……声がした。

 救いをもとめるような、女性の声。

 声の主の姿を探したが、私の前にあるのは空間のひずみだけ。


「ちょっと……」


 嘘でしょ。

 そんな言葉が口から零れた。

 何故なら、いつの間にか……私以外、そこには誰もいなかったから。登校途中の生徒が多数いたはずなのに、誰一人としていない。

 ドンッと地響きとともに、光の糸で幾重にも包まれた――光の繭が出現する。

 逃げることも忘れ、私は呆然とそれを見つめていた。

 糸を掻き分けて姿を見せたのは、緩くウェーブがかった金髪の男だった。彼はこちらに視線を向けるやいなや、すうっと翠色の瞳を細める。


「迎えに、マーエラ」

「マーエラ……?」


 この男は一体なにを言っているのだろうか。

 マーエラなんて単語、知らない。知っているわけがない。


 ――そう。私はそれを――……。


 知ッテイテハ、イケナイ。


「私の名前は、マーエラなんてものじゃないですけど」


 気丈にも男に言い返した。小刻みに震える声で。

 男は肩を竦める。


「……初代マーエラは何も伝えていないのか」


 少々苛立ちを含んだ声色で彼は呟いた。

 私は、じりじりと後退した。それにともない、男は一歩、また一歩とこちらに近寄ってくる。金色の髪が金糸に混じって舞う様は、絵画の世界を覗き見ているかのように美しい。

 幻想的で、異常な光景だ。


「だが、貴女は自身の能力を知っているはずだ。“マーエラ”」

「ですから、私はマーエラなんて――」


 ピクリと、私の眉尻が意図せず上がる。

 男はその変化を見逃さなかった。彼はすかさず自らに絡みついている糸のうちの一本を、私へ押しつけてきた。


「亜空間に糸を垂らし、様々な『道』を繋ぐことのできる者」


 どくん、どくんと鼓動がうるさい。


「異なる二つの空間を、繋げることができる糸を紡ぐことのできる者」


 私は胸元で、ぎゅっと拳を握った。


「――どうやら、知っているようだな」


 男の確信を込めた言の葉に対し、うつむく。顔面が蒼白となるのが自分でもわかった。


 ――『琴音、決して言ってはいけないよ』


 ……あの時の約束が、胸に去来する。


 ――『琴音』


 飛び散ったものは、何だったか。


「マーエラ。貴女を害するものは全て、俺が排除しよう」


 どうして私の秘密を、彼が知っているのだろうか。

 わからない。

 わからないが、彼は知っている。

 私の秘密を。誰にも明かしてはいけないと言い含められてきた、あのことを。


「わ、私は何も知らな――」

「嘘だな」


 ざっくりと、男は私の言葉を切って捨てた。


「…………」


 それ以上の反論は浮かばず、唇を引き結ぶ。

 自身の力について、深いことを知らないというのは事実だ。


 私は幼い頃より、祖父母からずっと言われてきた。


『どうやらお前には、先祖返りの異種な力が宿っているようだ』


と。


 遠くから、祖父の声が木霊する。


『その力は、むやみやたらと使ってはいけないよ。使えば、その力を欲する者に連れ去られるからね』


 最近は全く使っていなかったこの力。

 空間に数多ある糸を引き、それを紡ぎ……好きな場所へ行けるという能力。


「説明は後だ。俺はカイ。マーエラの頂に立つべき者よ。……貴女のいるべき場所、地球ダルテバスへ」


 男は、私に無理矢理握らせた糸ごと引っ張ってくる。

 しかし、それを私は拒否した。


「い、や――」


 なんとか絡みつく糸を引きちぎろうとするも、手に巻き付いてくる糸はただの糸ではなく――何らかの意志を持っているようだった。

 誰かが操っているのだろう。逃れようとする私の手に、『逃がさない』と言いたげにきつく巻き付いてくる。糸ごしに、執念のようなものが、びりびりと肌を刺激してくる。

 目の前の男――カイが操っているのだろうかと思ったが、糸は彼からにじみ出ているものではない。

 歪んだ空間の先から伸びている、無数の金糸。

 それは私を誘うように波打っていた。


(このままじゃ、連れて行かれる)


 カイは私をここではないどこかへ連れて行こうとしている。

 ダルテバスなどという、聞いたこともないところへ。

 これが、祖父母の言っていた『力を欲する者』なのだろうか。

 十六年生きてきて、このような者が私のもとへやって来たことなんて一度もなかった。だから、こういう時にどうすれば良いのかという対処方法が全く浮かんでこない。

 焦りだけが、思考を満たす。

 そんな私を、カイは強引に光の繭の中へ引き入れた。

 ……その時。


「――――コトネ」


 凜とした声が落ちた。


「な――……」


 カイは目を丸くする。彼が纏っている光の繭が、ぐにゃりと歪んだ。

 必死にカイから逃れようとしいている私の前に、白く細い手が現れる。その先にある爪は、錆色をしていた。


「コトネ、こちらへ」


 私の名前を呼ぶ声。

 一瞬戸惑うも、反射的にその手を掴もうとした。

 しかし、カイはその手を躊躇うことなく手にしていた剣でもって裂く。

 血しぶきが上がる。

 びくんと手は痙攣し、その場から掻き消えてしまった。

 あとに残ったのは、多量の血。

 ひっ、と喉奥から小さな悲鳴が洩れる。

 少し前まで、何の変哲もない朝の登校風景だったはず。なのに、どうしてこんな――……。

 恐ろしさと生理的に受け付けない血のニオイに、私はすくみ上がった。

 硬直して動くことができない私を見て、カイは今のうちだとでも思ったのだろう。

 私の腕に光の糸を絡ませてきた。

 あっと言う間もなく、空間は歪み――道が拓く。

 眩い光と何もない空間に放り出され……。

 視界に広がるは、金色の糸だけ。自らに纏わりつく金糸。それはどこからか途切れることなく送り込まれてきている。そして、私の体を手繰り寄せようとしている。

 どこかへ。……知らないところ《ダルテバス》へ。


(いやだ)


 ――行きたくない。

 ぼんやりと日々を過ごしてきた。しかし、そんな日常を送ることができる場所に、ずっといたい。安穏と、今までもこれからも過ごしていきたい。

 私は目に力を入れ、ぐいっと糸を引いた。ぴん、と糸が張り詰める。


「! やめろ……っ」


 私が力任せに糸を引くのを、カイはやめさせようとしてくる。しかし、ここで譲るわけにはいかない。


「勝手に連れて行こうとしているくせに……命令しないで!」


 おっとりしている、つかみ所がない。

 それが友達からの、私の評価だった。実際、あまり物事に頓着せず、当たり障りない行動や言動しかしてこなかったから、その評価は間違っていないと思う。

 でも――……。

 今、私は髪を振り乱して叫んでいる。先程出会ったばかりの男ともみ合いになっている。いつもの私なら、あり得ないことだ。必死になることなど、皆無に等しかったのに。

 しかし、このまま流れに身を任せても、嫌な結果しか生まれないと私の中から声がするから。

 だから、私はカイから強く腕を掴まれても、頑として糸を引く手は緩めなかった。

 次の瞬間、ぐん、とたしかな手応えを感じた。

 見えない意思が誘おうとしている場所とは、違う場所が拓いた気配。

 私の足許から重力が掻き消えた。


「……っ」


 ぶわっと足下が底抜け状態となり、そのまま落ちる――と思いきや、上へ上へと引っ張られる。


「くそ……!」


 私だけが空間より弾き飛ばされそうになる中、カイは私の手を取り抱き込んだ。

 ――眩い光は輝きを増幅し、私とカイの体を光の輝きと同化させた。



 ◇



 どのくらいの時間が経過しただろう。一瞬かもしれないし、数分、数十分経ったかもしれない。

 白い光が収束したと思った途端、ずんと重力が体を圧した。

 そのまま下へ落ちる感覚が全身を支配する。ぐっと、私を抱きかかえていたカイの腕の力が強まった。

 そして、衝撃が私を襲った。

 ごろごろと、カイに抱きしめられたまま地面を転がる。慌てて顔を上げると、目に映っている景色は砂塵舞う場所。

 息を吸い込むほどに、砂の細かい粒子が喉奥を刺激する。私は紺のセーターの袖ぐりで口と鼻を覆った。


(……ていうか、無傷だ……)


 私は全くの無傷だった。あれほど激しく地面へ叩きつけられたのにも関わらず。

 それはきっと、カイが私を庇ってくれたからだろう。

 私を抱きかかえたまま地面へダイレクトにぶつかったカイは、もちろん無傷ではない。彼は砂まみれとなって、転がったまま動かない。微かに肩が上下しているから、きっと死んではいないはずだ。

 庇ってくれた彼へ一言お礼を言わねばと思ったものの、そもそもこんなことになったのは彼のせいだと思い直し……。

 私は、何も言わずカイから距離を取る。

 カイは呻き声を上げながら片膝をついた。翠の双眸が、ゆっくりと開く。

 ……砂塵はやがておさまり、周囲の様子がくっきりと浮かび上がってきた。

 至る所に黒い旗がはためいている。旗の中央には、虎のような動物――背に翼があるから確実に虎ではない。ペガサスのような優雅さはなくどう猛な動物だ――が火を噴いているエンブレムが刻まれていて。

 彼は呆然としたような表情を象り、盛大に舌打ちした。


「よりによってバムール帝国か……っ」


 カイが発した声と同時に、ぎんっと甲高い音が鳴る。それは、私の目と鼻の先でかき鳴らされたもの……剣と剣がぶつかり合う音だ。

 いくつもの傷がついた剣のおもてには、瞠目している私の顔が映り込んでいる。


「ナチュードには一歩たりとも踏み込ませぬぞ!」

「帝国の犬が……っ」


 彼らは憎しみを含んだ言葉をぶつけ合い、剣と剣をぶつけ合う。それらが接触したところには、小さな火花がチカチカと舞っている。

 腰を抜かしてしまい、動くことができない。

 そんな私の肩を引き、カイは羽織っていた白いマントを被せてくる。


「こ、ここは――……」


 やっとのことで声を絞り出した。


「バムールの王都・マノボロと隣接する町――ナチュードだ。絶えず諍いが起きている地域で……。はあ、ルルロ教国へ直通する手筈だったのに……何のためにマーエラ女王へ頼んだのか」


 ぶつぶつと独りごちながら、彼は私を支えてその場から離れようと足を進める。

 そこへ――……。

 一つの人影が、私たちの方へ近づいてくる。

 剣のぶつかり合いや怒号に対して頓着するでもなく。人影はただ一直線にこちらへ向かってくる。

 カイは私だけが聞き取れるような小さな声で、


「――良いか、戦場とは知らずに迷い込んだということにする。喋らず、後ろにいろ」


と命令に近い言葉を放った。

 死にたくなければ、と付け加えてくるカイに対して私はただ頷くしかない。この状況を切り抜ける術を、私は持っていない。

 ……人影はやがて、琴音たちの目前で歩を止める。

 それはボロボロの外套に全身を包んでいた。顔が隠れるくらい、目深にフードをかぶっている。立派すぎる留め具が、外套のボロボロさを際立たせていた。

 すっと、人影の被っていたフードが、強い風によって後ろへ流れる。

 現れたのは、美しい少年だった。

 肩で切り揃えた黒髪。宝石が如き輝きを放つ紫の双眸。

 ……切れ長の瞳は、私だけを映し出している。


「…………?」


 カイに見向きもしない少年に対し、私は小首を傾げた。知り合いではないはずだ。こんなところに知り合いなんて、絶対にいない。いるわけがない。

 まるで私たちがここへやって来るのを知っていたか。少年は虚ろな表情で、静かにこちらへ手を差し伸べてくる。その手の甲には……包帯が巻いてあった。


「コトネ」


 少年は私の名を呼んだ。


「……君は、僕と一緒に来た方が良い」

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