第四章(四)
花暖とボスの対峙は続いていた。
教皇を治療して、花暖に何のメリットがあるのか。それが本当に、花暖の使命なのか。その問いかけに答えを返せずにいた。
ボスに言われたように、教皇様にはサンピエトロ広場で行ったコンサートの時に、一度会っただけの人だ。恩義があるわけでもないし、それ程親しみを感じたわけでもない。なのに、何で必死になっているんだろう。花暖が歌ったところで教皇が目覚める確証は無いし、もし成功しても世間からは特異な目で見られて、再び不本意なイメージが付いて回る事になる。
可憐な姉妹歌手から、癒しの天使。歌の仕事もそれに限られ、それこそ世界中の病院やホスピスを引きずり回されるはめになるだろう。
それが嫌なんじゃないが、自分の生き方を他人に左右されるのが、我慢ならないのだ。祖父の呪縛から逃れられないまま、また別の他人によって、人生が決められる。それが、花暖にとっては、死にたいくらいに辛い。
「家に帰りたくなのかね」ボスが水を向けて来た。「妹や家族にも会いたいだろう。君にとって悪い取引じゃないと思うよ」
「妹には何もしないで。あの子は私よりも歌が好きなの」
落ち込んでいた事も忘れて叫んだ。
「スポンサーの依頼は、君だけだ。我々は、それ以上の仕事をするつもりは無い。追加の依頼があれば別だがね」
亜麗亜が無事と聞いて安心したが、それと同時に、先程まで花暖を支配していた憂いが心に広がって来た。
「もうそろそろ、答えを出してくれないか。我々も暇じゃないんだから。ここで、いつ開放されるともわからない時間を過ごすか、その美声を代償に、今すぐ家族のもとに帰るか、答えは二つに一つだ」
「どちらも、選べません」
花暖は弱々しく、首を横に振る。
「おやおや、何とも我儘なお嬢さんだ。あれもこれもなんて、自分勝手にも程がある。何かを手に入れるには、何かを捨てなければならないのが、世の中の道理ってもんだ。人魚姫は、王子様に会うために声を引き換えにして人間になったんだ。君も家族と会いたければ、時間か声を犠牲にしなくてはいけないんだよ」
「勝手な理屈を言うな」ハリーが怒鳴る。「お前たちの都合だけで、話しを進めるんじゃない。そんな取引などしなくても、もう間もなくFBIの捜査官たちがここを突き止めてなだれ込んで来るはずだ。そうなる前に我々を開放して、さっさと逃げる事だ。FBIを敵に回したんだ、捕まれば、ただでは済まないぞ」
「その心配には及ばない。我々はそんなに馬鹿ではないよ。それに、スポンサーが既に、手を打っているはずだしね」
ハリーの恫喝にも、余裕の表情を浮かべているボスを見ていたら、花暖は苛立ちと、憤りを覚えた。
「私は、あなたたちのような人の、言いなりには、なりません」声は震えているが、はっきりと言い切った。「教皇様が、私を待っていて下さっている以上、この声をあなたに渡すなど出来ません」
ボスの目の色が変わったような気がした。何かを企んでいるのかも知れない。
「君は、カトリック信者なのかね」
「違います。でも、困っている人がいるのなら、助けてあげたいのが人間です。宗教など関係ないでしょ」
「しかし、ヨハネス二四世を助ける事によって多くの人が苦しめられるとしたら、それでも助けたいのかね」
「教皇様は、人を苦しめるような人ではないはずです」
「キリスト教は、過去二千年間に悪の限りを尽くしてきた。他の宗教を駆逐し、十字軍の遠征においては破壊と剥奪。女性との交わりを否定しているくせに、聖職者自ら宮殿に女性を引っ張り込み、神聖な場所を、売春宿に変えてしまった。そんな宗教の頭を助けたいのか」
「言われなくても、知っています。この仕事を引き受けた時に、私なりに調べました。でも、あなたの言った話しは、全て大昔の中世の事じゃないですか」
「昔の話しだけじゃないさ。愛を説いておきながら、第二次世界大戦中には、ナチスのユダヤ人迫害を黙認し、ナチスと手を組んでいた時期もあったんだよ」
「でもそれは、今の教皇様が行った事じゃないでしよ。ヨハネス二四世は世界平和のために尽力されていると聞いています。そんな昔の、腐敗した教皇たちと一緒にするなんて失礼です」
「でも、あんな爺を助けて何になるんだ。君の歌で教皇を目覚めさせたところで、後何年も生きられないさ。このまま、意識の無いまま、死なせてやった方が、親切ってもんだよ。神様の近くに行けるんだから、教皇も本望だろうさ。それに、あの爺さんが目覚めなくても、教皇の代わりは、いくらでも湧いてくるよ」
「もし、次の教皇様が、悪い人だったら、どうするんですか。次の人に教皇の座を譲るにしても、後の人が悪い行いが出来ないような、道を作らなければならないはずです」
「要らぬ心配だ。聖職者など、金と権力と性欲にまみれたクズばかりだ。誰が教皇になったところで大した代わりばえはしない。それより死に損ないの状態が続いているからややこしいいんだ。金さえくれれば、私が天国の門を開いてやってもいい」
「あなたこそ、クズよ」花暖はいきなり立ち上がり、あの大声で叫んだ。「人の命をお金でやり取りするなんて、人間のやることじゃないわ」
「君は、私に対する反抗心だけで、その身を危険に晒すのかね。教皇より前に君が天国に行くはめになるぞ」
ボスは、耳を押さえながらも、花暖を脅す。
「違うわ。私はカトリック信者でもないし、教皇様に恩があるわけでもない。でも、私の歌を必要としているなら歌ってあげる。歌う事が私の存在理由だから」
不思議と、脅しも気にならなかった。それどころか、言葉を発する度に震えていた声が凜と引き締まってくるのが感じられた。
「また見世物になるだけだぞ。そして、飽きられて、見捨てられるんだ」
「構わないわ。今度は私が決めたんだから。誰のせいでもない、自分の責任で選んだのよ。もし、それが悪い方向に行ったとしても後悔なんてしないわ」
花暖は、それだけ言うと、ボスに背中を向けた。
「あなたとは、もう話す事はありません。部屋に帰ります」
ハリーと目を合わすと、ハリーはにっこり笑った。出会って初めて見る笑顔だ。
花暖は肩を抱かれて、ドアに向かって歩いて行った。
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