第四章(二)
通されたのは、机と椅子が置いてあるだけの、殺風景な部屋だった。花暖は机の前の、パイプ椅子に座らされた。椅子が一つしか無かったので、ハリーは花暖の背中を守るように立っている。
やがてボスが現れた。一00キロは、優に超えているであろう体に、戦闘服をまとい、狂犬病にかかったブルドッグのような厳つい顔の男だった。いかにも、テレビや映画に出て来そうな、悪役顔で、怖さよりも可笑しさが込み上げて来て笑いを押し殺すのに必死だった。
ボスは、机に備え付けてある椅子に座り、花暖を睨んでいる。さすがにこれには恐怖を感じた。さっきまでの可笑しかった感情は完全に消えてしまった。
「ようこそ、お嬢さん。お会い出来て嬉しいよ」
脅すような、低い声でボスが口を開いた。
「私たちを、どうする気なんですか」
消え入りそうな声で言った。あまりに小さすぎて、後ろにいたハリーにも聞こえていたかどうかわからない。
「何だって、聞こえないな。そんな声で、よく舞台で歌えるもんだ。やっぱり、一人じゃ怖いのかなお嬢ちゃん」
馬鹿にされ、大声で笑われたので、花暖は腹が立った。さっきまでの恐怖は怒りに変わっている。発声練習は、先程済ませたばかりだ。大きく息を吸い、下腹に力を込めて、一気に吐き出した。
「家に帰して」
地声よりも低い、テノールで叫んだ。金切り声で叫ぶよりも、この方が、相手に対する衝撃は大きいはずだ。
ボスは、耳を押さえて、顔をしかめている。効果はあったみたいだ。
「残念だが、それはできない」耳を押さえたまま、首を横に振った。「お嬢さんには、もうしばらく、我々に付き合ってもらう。おっと、大声はもういい」
叫ぼうとしたが、先に制されてしまった。
「貴様たちの目的は何だ」出鼻をくじかれた花暖に代わり、ハリーが質問する。「お前たちの背後には、誰がいるんだ」
「それも言えない。言えるのは、ミス・トヨシマの歌声は、我々の計画の邪魔になるという事だけだ」
「教皇様の治療の妨害ですか」
今度は普通の声で話した。さっきのが効いているのか、花暖が口を開きかけた途端、ボスの顔が歪んだ。
「ノーコメントだ。そのような、質問には答えられない。それに、知らない方が、君たちのためでもある。我々のスポンサーを知ってしまったら、君たちは永久に帰れない」
「そのスポンサーとやらはは、我々をいつまで拘束しろと言っているんだ」
「さあね、スポンサーが連絡して来た時が契約の終了だ」言いながら、花暖の顔を覗き込む。「しかし、今すぐ、帰る方法もなくはない」
花暖は、身を乗り出す。
「どんな、方法なんですか」
「簡単な、方法だ。スポンサーが邪魔なのは、お嬢さんの歌声だ。だから、歌えなくなればいい。そうだな、声帯を切り取るか、妹のように、声が出なくなればいい」
「下らぬ方法だ。取引できるわけがないだろ」
ハリーが間髪入れずに叫ぶ。
花暖は驚愕して、声が出ない。足が小刻みに震えている。
「喋られなくなるんじゃない。その魔法の声が出なければ良いんだ。喉に傷を付けるなりすれば、あの声は使えなくなるはずだ」
下を向いたまま、首を横に振る。それが、精一杯だった。
「ほう、嫌かね。私はすぐに、承知すると思ったがね。君は、その才能のために、辛い思いをしていると聞いているよ。その声が無くなれば、もう悩まなくてすむんだ。家にも帰れる。悪い話しじゃないと思うがね」
「カノンの歌声は、世界中の人々が待ち望んでいる。それを失うなど、世界の損失だ。承諾などできるはずがない」
「でも最近は、仕事が来ないそうじゃないか。世間なんて冷たいもんだ。しばらく姿を見せないと、すぐに忘れられてしまう。今なら、それ程騒がわれずに引退出来る。いい潮時なんじゃないのかね。所詮は、物珍しかっただけなんだ」
「嫌です」
ようやく、一言だけ、言い返せた。自分の今までが、全て否定されたのだ。花暖の自尊心が言葉を吐かせた。
「君がそれ程、歌に誇りを持っているとは、思わなかったよ。お祖父さんに、無理やり歌わされて、歌を憎んでいると、感じたがね」
「そんな事、ありません。歌は好きだし、祖父を恨んだりなんて、していません」
「それでは、何故、歌わないんだ。いくら仕事が無いと言っても、小さな仕事は取れるはずだ。それを、今までのスタイルにこだわっているから、歌えないんだ。それは妹への嫉妬じゃないのかね。仕事が来ないのを妹のせいにして、無意識に、当て付けているだけなんだ」
「そんなの、考えすぎです」
目を逸らして弱々しく否定した。そう言うしかなかった。
「そうかね。でも、思い当たる節があるんじゃないか。それとも、妹を一度も、恨んだ事が無いとでも、言うのかね」
「いい加減にしろ」ハリーの、ボスを恫喝する声が響いた。「カノンを精神的に追い詰めるのが目的なら、我々は今後、貴様たちとは、話合いの時間は持たない」
「私は、ミス・トヨシマに、ここを出て行くチャンスを与えているだけだよ。そのための決心をさせてあげているのさ」
「さっきも言ったが、そんな条件は飲めない」
「お嬢さんも、同じ考えかね」
再び詰め寄られて、返答に迷う。ただでさえ、わからなくなっていた自分の気持ちが、ボスによって掻き回されたのだ。
考えあぐねていた花暖は、ようやく、一つの光を見出した。
「私には、教皇様を治療する使命があります。世間の人は、どうかわからないけど、少なくとも、教皇様だけは、私を待っていてくれていると思います」
自分の存在理由は、今はこれだけだと、自分の言い聞かせた。
「君は、教皇にそんなに、恩義があるのかね。君と教皇に交流があったとは思えん。それ程、教皇を助けたい理由は何だ」
ボスの言葉に、花暖は再び黙り込むしかなかった。
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