第三章(五)

 ワシントン市内のホテルのロビーに、コレット神父は足を運んだ。フロントのマネージャーの男が、駆け寄って来る。宿泊こそしたことは無いが、教皇が倒れて、ガザーロ枢機卿が度々アメリカに来るようになってから、何度となく呼び出されたので、すっかり顔馴染になっている。

 マネージャーがエレベーターに案内してくれる。一般の宿泊客は乗れない特別のエレベーターだ。マネージャーがドアの脇にあるスリットにカードを走らすと、ドアが開いた。二人して乗り込み、最上階まで昇る。

 エレベーターの中では、二言三言、挨拶がてらの世間話をした程度だ。ホテル側も事情がわかっているので、あまり突っ込んだ話しはして来ない。ホテルの人間でも国務長官が泊まっているのを知っている者は少ないはずだ。

 ドアが開くと、その階専用の接客係が出迎えて、コレットはマネージャーから接客係に引き継がれた。

 接客係が客室のドアにあるインターホンで、コレットの訪問を知らせるとドアのロックが外れる音がした。ドアを開けてもらい一礼して中に入った。

「よく来てくれた。まあ、座ってくれたまえ」

 ソファーにくつろぐ国務長官に勧められて、向かい側のソファーに座る。

「明日、お帰りになると伺いましたが」

 国務長官お付きの神父から白湯を受取る。

「ああ、いつまでも、ヴァティカンを留守にしているわけにはいかん」国務長官は白湯を一口すする。「それに、近々、コンクラーヴェが開かれる」

「次期教皇選挙ですか。やはり、国務長官が最有力候補なのでは」

 コレットは、国務長官の瞳を窺う。

「私はもう歳だ。今更教皇になる気は無いよ。ゲラルド大司教を推薦しようと考えている。彼なら適任だ」

「国務長官の一番弟子ではありませんか。それでは、引き続き国務長官として、教皇の補佐をなさるのですね」

「これまで、三代の教皇に国務長官として仕えてきたが、前教皇、現教皇と改革推進派が続いたので、私も苦労したよ。彼らに任せていては、ヴァティカンは崩壊していたに違いない」

 腹立たしげに国務長官は言い捨てた。反りが合わない教皇に長年国務長官として仕えていたのは、教皇の補佐をするためではなく、むしろ改革推進を阻止するためだというのは関係者なら皆知っている事実だ。

「しかし、コンクラーヴェを開催するとなると、教皇猊下の容態を、発表しなければならないのではありませんか」

「明日、一度ヴァティカンに帰り、後日正式に教皇を迎えに来る積もりだ。もう、こんな茶番はお終いにしよう。教皇の崇拝するマリアも今度ばかりは助けてくれなかったようだな」

「そうですとも、神はイエス・キリストあるのみ。複数の神などいりません」

「マリアは崇拝の対象ではあるが、礼拝の対象ではない。マリアを神として扱うなど言語道断だ。教皇が、マリアを神として認める回勅を出したいと言ってきた時は、開いた口が塞がらなかったよ。教皇は気がふれたのかと思ったくらいだ」

 枢機卿は、笑い顔とも泣き顔ともとれる顔で、首を振った。

「それは、大衆への迎合です。改革など名ばかりの、信者へのパホーマンスでしかないじゃないですか」

「これは、キリスト教の根幹にかかわる大問題だ。キリスト教からイスラム教が発生したように、新しい宗教が出来、再び宗教紛争が起こるではないか」

「お心をお静め下さい」怒鳴るような声で叫ぶ国務長官をなだめる。「奥の者が驚きます。何、それも後暫くの辛抱。間もなくヴァティカンは本来の道に戻ります」

「いや、すまなかった。つい興奮してしまった。聖職者として恥ずかしい限りだ」

 国務長官は、コレット言葉に安堵したのか、気持ちを落ち着かせるように、大きく深呼吸して、先程より静かな声で謝った。

 コレットは、枢機卿に顔を近づけ、小さな声で語りかけた。枢機卿を落ち着かせるためではなく、お付きの者に聞かせないためだ。

「しかし、FBIが黙って教皇猊下を引き渡すでしょうか」

「発表してしまえば、こちらのものだ。もし拒めば、FBIは威信の回復どころか、全世界のカトリック信者を敵に回すことになる。彼らもそれ程、馬鹿ではあるまい」

「ですが、癒しの天使たちが、こちらに向かったとの情報もあります。それを盾に取られては、無理やりに連れて帰るわけにも、いかないのではないですか」

「おいおい、君らしくないな、コレット君」国務長官は、口もとを軽く歪ませて笑った。「歌で教皇の意識が戻るなんて、本気で思っているんじゃないだろうね。彼女たちは、ただの歌の上手い少女だ。天使などではない」

「教皇猊下の意識が、彼女たちの歌により、一瞬だけ戻った事実があります」

「あんなものは、偶然にすぎない。もし本当に歌で意識が戻るなら、それこそ奇跡だ。それに、彼女たちは病気らしいじゃないか。そんな人間に奇跡など起こせんよ」


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