第肆話-因島海賊編(肆)

 磯撫での傍には姿勢を崩した船長が倒れている。

 それに視界の端に帆景は誰よりも早くに動き出していた、助けなきゃ、と帆景の脳が意識するよりも早くに駆け出していた。

 帆景の行動の素早さは、予め待ち構えていた鶴をも凌駕し、咄嗟に伸ばされた手を掻い潜って磯撫でに向けて突っ走った。

 誰もが気付く前に帆景は仲間を助けるための最速解を選択する。

 それは因島海賊三代目頭領、因島帆景の持つ調書であり、同時に弱点ともなり得る諸刃の特性であった。


「頭領様、退いてださいッ!」

「退けるもんか」


 遅れて帆景は思考を開始する。

 気付いた時には行動していることがある、後になってから理由や根拠を裏付けされることが儘ある。

 今回に限って云えば、譲れない一線を超えないために、帆景は駆け出したと云うことになるのだろう。

 帆景は全神経を眼前に立つ磯撫でに集中させる。

 迷うことはない。選択を終えているのならば、後は突っ走れだ。

 帆景は腰の後ろに備えた脇差を鞘から引き抜いた。


◆◆◆


 磯撫での傍で姿勢を崩した船長が倒れている、それを救うために帆景は誰よりも早くに駆け出していた。 

 帆景の馬の尻尾のような後ろ髪は、咄嗟に伸ばした鶴の手をするりと抜けて先へ行く。


「頭領様、退いてださいッ!」

「退けるもんか」


 帆景は容赦なく磯撫でに向かって行ってしまった――止められなかった、そのことに深い後悔を覚えながらも鶴は下唇を噛み締めて弓矢を構える。

 磯撫で如きに可愛い妹を傷つけさせるわけにはいかない。その使命感が心臓を掻き毟りたくなる後悔から振り切らせて、より現実的な次善策を鶴に取らせた。

 帆景を援護するための射撃を、帆景が危険少なく切り込むための射撃を、身体強化で加速する帆景よりも早くに放たなければならない。猶予は数秒もない、鶴は意識しての速射は得意ではない、何時もよりも躰が鈍く感じられる、帆景の生命がかかっている状況が無意識に躰を強張らせている。些細な違和感に過ぎない。許容範囲の誤差だと聡い感覚を切り捨てて、鶴は可愛い妹を護るため、やすりに抑えられたように心を削りながら矢を放った。

 信じろ、矢は狙いを外しても前を駆ける帆景には当たらない。百発百中を実演する腕は、最低限の期待には応えてくれる。

 その鶴の予想通りに矢は狙い通りの位置を捉えられなかった。その誤差は三寸約11cm、帆景を外れて、磯撫での鱗のない脇腹に突き刺さった。

 調子が悪い、何時もは誤差一寸約3cmで計算できる、いや調子が悪いわけではない。躰の調子が良い時に訓練をしているから良い結果しか出ないだけだ。精神的な調子も含めれば、実戦では期待した通りの結果が得られることが如何に難しいことか身を以て理解している。

 鶴は息を吐きながら次射を構えた。

 的の中心を射抜く百発百中の腕前も、今となっては的に当てるだけの百発百中の腕に成り下がる。信頼度は明らかに低下してしまうが、それを受け止めなくてはならない。そのもどかしさに歯噛みしつつも、鶴は今出来る選択の中から最善を選び続けることで少しでも最良の結果へと導かなければならなかった。

 現状、鶴にとっての最低限の結果とは、帆景の無傷の帰還である。それ以上の結果は有り得ても、以下は有り得ない。有り得てはならないと宇宙の法則で定められている。

 鶴は意識をより深い領域へと沈み込ませる。側頭部付近に鋭い激痛が走ったが、止めずに脳を酷使し続けた。

 磯撫での脇腹を矢で射抜いたことで生まれた隙、帆景が逃すはずがない。

 極限近くまで高められた身体強化は帆景の黒髪を真紅に輝かせる。


「やらせない、やらせるものかッ!」


 此処が踏ん張りどころだ、回転率を上げた鶴の頭脳が悲鳴を上げる。

 構うものか、と鶴は激痛を甘受する。

 此処からが佳境の始まりだ、と鶴は気を引き締め直した。


◆◆◆


 鶴が生み出してくれた好機を逃すわけにはいかない。

 帆景は甲板を踏み締めて、更に加速する。出力を高めた魔力が帆景の躰を真紅に輝かせる。

 動物の尻尾のように揺れる黒髪から零れる魔力の残滓が、砕いた宝石の粉のように煌めいて帆景の軌跡を記した。

 逆手に握り締めた脇差が鈍く太陽の光を反射する――帆景は頭領であっても武人ではない、故に武具に拘りを持ち合わせていない。必要最低限の役割さえ果たせば良いと考える帆景の脇差は世間一般的に「なまくら」と称される代物だ。それを帆景は鈍器を持つように振り被ると、赤兎の如し、一足飛びで磯撫での懐に切り込んでみせた。

 そのまま藤壺の鎧に覆われた側頭部を帆影は柄頭で強打する、わざと呼ぶも烏滸がましい力任せの打撃だ。

 全体重を乗せた渾身の一撃であったにも関わらず、小柄で非力な帆景では妖怪を怯ませることもできなかった。

 帆景は歩調を刻んで、魚の急所である鰓を狙って、片手で突きを放つ。放たれた脇差の切っ先は、磯撫でが少し身を捩るだけで狙いが逸れ、藤壺の鎧に阻まれる。

 そのまま磯撫でが躰を回転させたかと思うと、おろし金の尾鰭が帆景を襲った。咄嗟に飛び退いて回避を試みるが――間に合わない、せめて致命傷を避けるために脇差を縦に構えて受け止める姿勢を作る。次の瞬間、ガッと固い物同士が衝突する音が耳に入った。視界の端に薄っすらと軌跡の残滓が脳裏に残る、弾かれた矢が宙を舞っている。放たれた矢が尾鰭に当たり、僅かに軌道を変えてくれたことで帆景は無傷で間合いから逃れることができた。


「ありがとうございます。しかし三代目、お退きください」


 先の攻防で船長が無事に安全圏まで逃れたのを横目に確認するも、帆景は尚も磯撫でと対峙し続ける。お前の相手は私だ、と睨み続ける。

 藤壺の鎧は物理的な攻撃への耐性が強い。ならば因島海賊で最も魔法が得意とする帆景が先陣に立つ方が被害が少なく済む見込みが高い、そんな理屈は関係なしに帆景自身が戦いたかった。仲間が傷付くことに比べれば、自身が傷付くことは怖くなかった。

 それに今は鶴が背中から援護してくれている、そのことが何よりも心強い。

 此れなら行ける、と帆景は魔法陣を脇差を持ってない方の掌に展開する。あとは魔力を注ぎ込むだけで魔法が発動する、大陸宗教では円陣式と呼ばれる技術だ。


「“蛍火ほたるび”」


 魔法陣から三つの火球が生み出されて、帆景を守るように周囲を漂わせる。

 正式名称は生命魔法せいめいまほう円陣式えんじんしき火属性ひぞくせい爆裂魔術ばくれつまじゅつ蛍火ほたるび”。云ってしまえば少ない魔力でも放てる低燃費の小規模爆裂を目的とした魔法だ、殺傷能力は低いが衝撃力だけはある。

 次いで帆景は腕を振って、船員からの注目を集める。

 今から攻め込むぞ、という合図だ。特に取り決めがあったわけじゃないが、何かしたいかは判ってくれるはずだ。帆景は振っていた腕の人差し指を立てると、そのまま指先を磯撫でに向ける。


「……いい加減に退きなさいよッ!」


 鶴の悲痛に叫ぶ声が聞こえた、それを無視して帆景は甲板を蹴って攻め込む。

 これが頭領として間違っていたとしても家族を守ることに迷いはない、躊躇もない、即決できるように帆景は魂に刻んでいる。守れるときに守りたい存在を守れないようでは等量である意味がない。だから此処で退く訳にはいかなかった、帆景は絶対不退の意思を以て人類の脅威に挑む。

 その際、帆景は火球の一つを先行させて、相手の顔付近で爆破させた。藤壺の鎧を軽く焦がす程度の威力しかないが、怯ませることには成功した。

 今が好機だ、と脳が訴えた。行け、と心が叫んでいる、ならば行け、だ。

 生み出した隙を狙って、帆景は再び死地へと赴いた。


◆◆◆


「あんの莫迦!」


 頭上高くに挙げた腕を振ってみせた時には目を疑った。せっかく死地から救ったというのに、あの莫迦妹は好き好んで再び死地へと赴こうとしている。


「いい加減に退きなさいよッ!」


 その言葉が届いたか届かなかったか帆景は磯撫でに突っ込んでしまった。

 鶴は舌打ちをしながらも可愛い妹の助けるために二度、三度と続けざまに矢を放ち、磯撫での攻撃を逸らしては意識を削いだ。

 視界の端に映る船員共を見て、鶴は口の端を噛み千切る。


「お前らは一体、何をぼさっと見てやがるんですかッ! 私達の頭領様を危険に晒したままで良いのか頓馬共めッ! さっさと動きやがれってんだッ!!」


 八つ当たりに近い想いで怒鳴り散らす。

 突然の奇襲に武器がないから攻め切れないのは単なる準備不足だ、遠距離からの攻撃は帆景を書き込むから危ないというのは鍛錬不足だ、妖怪相手に近接戦は危険だと云うのならば帆景はどうして危険を買って出ているか考えるべきだ。弓使いだから簡単に云えるのだと云うのであれば、大祝鶴は手元に武器がなくとも可愛い妹を助けるためであれば、素手でも殴りかかりに行ってやる。本当は今すぐにでも駆け付けたいが、それが出来ないから奥歯を噛み削って必死に耐えている。

 脇差一振りで妖怪相手に応戦する帆景を弓で援護しながら前に歩み寄る、一歩、また一歩と弓を射ながら逸る思いを必死に堪えて、じわりじわりと永劫に近い時をかけて、少しでも早く辿り着けるように、しかし慌てずに矢で磯撫での意識を削ぎ落す。それでも何時、帆景が磯撫での攻撃の対処を誤るか判ったものではない、帆景は武人ではない。自分のように鍛錬を積んだ人間じゃない、食い縛りすぎて歯茎から鉄の味がする。

 弦を引き絞る指先から血が流れる。溶岩のように滾る熱い血が腕を伝う、されとも鶴の意識は冷静に、より冷静に、燃え盛る炎を凍らせる思いで矢を放ち続けた。

 既に十数本の矢が磯撫での腹部に突き刺さっている、しかし倒れる気配がなかった。

 非力なのは帆景だけじゃない、妖怪を前にすれば鶴とて同じことだ。人間と妖怪の間には隔絶した身体能力の差がある、人間は妖怪を相手に膂力では敵わないと世界の法則として成り立っているのだ。無論、生命力も人間の比ではなく、矢が十数本程度が刺さったところで致命傷には至らなかった。

 だが、それがどうしたと云うのだ。

 それが可愛い妹を傷付ける免罪符になるとでも云うのか、万が一にでも掠り傷を付けてみろ。殺すだけでは済ませないぞ、同族全てを根絶やしにしてくれる。地獄に堕ちるのは当然として、更に地獄の底まで追い詰めて、此の世と彼の世から完全に消滅させてやる。

 不安定な精神とは裏腹に粛々と矢を放つ鶴に、急に磯撫でが振り返った。

 今まで無視して来たのが我慢できなくなったのか、それとも鶴を先に倒してしまった方が面倒がないと判断したのか、それは判らない――しかし鶴は微笑を薄っすらと笑みを浮かべる。

 それでいい、と誰にも聞こえないような小声で呟いた。


「お鶴、逃げてッ!!」


 帆景が叫んだ、それは聞けぬ命令と云うものだ。

 鶴は舌舐めずりをして、両足を広げた低い構えで迎え討つ姿勢を見せる。私の可愛い妹を虐めた償いをさせてやる、極刑だ、とにかく極刑に処してやる。

 その時、帆景が横から磯撫でを止めようと雑な動きで脇差を振り被った。斬ると云うよりも叩きつける動作、それを磯撫では尾鰭を振り回して一蹴し、帆景の躰が馬の後ろ脚に蹴とばされたように吹き飛んだ――殺す、殺意に鶴の躰が緑色の輝きを放つ。

 磯撫では帆景を追撃せずに鶴を向き直ると、鮫の躰で御辞儀するように身を丸めた。おろし金の尾鰭を甲板に叩きつける、そして地面を蹴るようにして、磯撫では矢の如し鶴を目掛けて飛びかかった。

 その瞬間、磯撫では自分が間合いに入るまで待っていたのだな、と鶴は悟った。

 不退転の意思は揺るがない、殺すと決めた。だから殺す。

 激情に身を委ねる。思えば、帆景を傷付けた非は鶴にもあると云える。磯撫でが自分へと矛先を向けた時に帆景を護ることよりも磯撫でを迎え討つことを考えてしまった、優先順位を履き違えた、その意識の緩みが帆景を傷付ける結果となってしまったのだ。後悔してもし足りない、口の端から血が流れ落ちる、過ぎたことは仕方ないと誰かが云う、しかし後悔せずにはいられない。

 弦を限界以上まで引き絞る、弓が軋んで悲鳴を上げている。構うものか、あと一撃で仕留めてくれる。

 その時、やけに周りが静かだと思った。

 世界には今、鶴しか居ない。全ての力の源が指先に集束されている、世界から色彩が抜け落ちていった。

 前を見据える、磯撫でが大きな口を開いて突っ込んできている。そして、その妖怪の瞳がやけに綺麗なことに気付いた、さぞかし潰し甲斐がありそうだ。

 その瞬間、世界が鶴色に染め上げられる。全てが激情で埋め尽くされる。

 引き絞った弦を指先から解き放つ、弓が砕ける音を耳にした。


 ――ストッ、と標的を捉える音が鳴る。


「ぐぎゃあああああああああっ!!」


 甲板と水平に飛来してきた磯撫では、悲鳴を上げながら棹立ちのように躰を大きく逸らすと、甲板の上を二転、三転と転がっていった。

 まだ元気が良いじゃないか、この程度で済まされると思うなよ。

 鶴は折れた弓を投げ捨てると矢筒から逆手に矢を握り絞めて、身悶えしている磯撫でに跳びかかった。


◆◆◆


 なんて無茶をしているんだ。

 帆景は甲板に全身を打ち付けた激痛に呻きながら矢一本で磯撫でに襲い掛かる鶴の姿を見て、帆景は嘆いた。

 骨が折れたわけじゃない、咄嗟に脇差を盾代わりに使ったから肌も削られていない。代わりに脇差の刀身が折れてしまったが、帆景の武器は脇差だけではない。まだ魔法がある、因島海賊でまともに魔法を扱えるのは帆景だけだ。

 激痛を無視して起き上がろうとして、脇腹付近に鈍痛が襲って吐き気がした。足に力を入れようとすると骨と内臓が刺激を受けて、上手く力が入らない。

 起き上がれるはずだ、しかし立ち上がるのにも苦労する。その間にも鶴はもう磯撫でを射程に捉えていた。

 守るはずだったのに危険な目に合わせてしまっている、これでは危険を買って出た意味がない。蛍火の一つも残っていれば援護も出来たが、あれはもう自分の身を護るために使い切ってしまった。

 自分の不甲斐なさに拳を握り締める、その間にも鶴は接敵していた。

 磯撫でが激痛に暴れているのを意にも解せず、鶴は藤壺に覆われた顔面を素手で握り上げると残されたもう片方の目に矢を突き立てると、そのまま目を抉り抜いて距離を取る。磯撫での声とも呼べない悲鳴が上がる。妖怪特有の真っ黒な血が噴水のように噴き出し、周囲に撒き散らされ、鶴の持つ矢には真ん丸の目玉が刺さっている。


「今だ、放てッ!」


 船長が号令を下す、何時の間にか周囲を取り囲んでいた船員達の手から一斉に槍や銛を磯撫でに向けて投擲された。

 その半分以上が藤壺の鎧に弾かれたが、それでも残った何十本以上が磯撫での肌を突き破った。藤壺が幾つか欠けたのが判った、しかし、それでも尚、磯撫では倒れない。

 両目を失っても、全身を矢や槍や銛で貫かれても、磯撫では死ななかった。悲惨にも想える姿で磯撫では躰を引きずるように海へと帰ろうとする、逃げようとしている。

 それを大祝鶴が仁王立ちをして遮った。何処から調達したのか手には弓を持っている、普段使っているものに比べると随分と小柄だ。


「忘れもの、です」


 ギチギチと弦を引き絞る、備えた矢には目玉が付いていた。

 気配を察したのか磯撫では力を振り絞り、大きな口を開いて鶴へと襲いかかった。

 しかし動きが鈍い、鶴は磯撫での口の中、更には喉奥を目掛けて矢を放つ。

 それを呑み込んだ磯撫では、大きく背後に仰け反り、そして倒れた。

 ビクン、と最後に大きく躰を痙攣させて動かなくなる。


「……穢らわしい」


 次射を構えていた鶴が呟き、弓を降ろすことで漸く戦いが終わる。

 磯撫での躰が崩れる、紙粘土を削るように黒い塵となって空気中に飛散する。真っ黒な血は蒸発し、風に巻かれて消えて行った。

 結果としては誰一人として怪我をすることはなかった、予想外に苦戦を強いられてしまったが結果は上々と云える。

 そのことに帆景は安堵の息を零したが、到底、赦し切れない蟠りがある。

 上手く行ったから良いものの、あのような無茶な振る舞いを誰が許可した。危ない橋だ、一歩、間違えれば死んでいたのかも知れないのだぞ。

 そう思うと腸が煮えくり返って来た。


「お鶴!」


 ある程度、激痛は和らいでいる。鈍痛がまだ躰の芯に響くが耐えられない程じゃない、それよりも一発、殴ってやらなきゃ気が済まない。


「お鶴ッ! お鶴ッ!!」


 呼ぶ声に鶴が振り返り、今にも泣き出しそうな顔で見つめて来る。どうやら無事だと云うことに帆景の心も解される。本当に無事で良かった、鶴は大事なのだ、因島海賊の仲間は皆特別に大事だが、鶴は特別に大事なのだ。本当に、本当に良かった、どうして、こんなにも大事に思っていることを判ってくれないのだ。傷付いて欲しくないということが判らないのか、怒りが込み上がって来る。安堵よりも怒りが上回る。


「お鶴はなんという無茶をしてくれるのよッ! 命に関わる怪我を負ったらどうするのよッ!! 鶴は弓使いで近接戦の心得なんて持ってないじゃないッ!」


 帆景の怒声に鶴は呆気に取られた顔をしており、それから大きく息を吐き捨てた。

 こいつはまるで判っちゃいないッ!


「こんの莫迦鶴ッ!!」


 感情のままに帆景は思い切り振りかぶって張り手を打ち下ろした――しかし鶴の方を捉える前に、手首を掴まれて防がれる。


「莫迦とッ! 私のことを莫迦とッ!? 他人のことを莫迦と云えた立場ですか、この莫迦頭領がぁッ!!」


 鋭い衝撃が頬を突き抜けた。あまりにも不意なことで、ぺたん、と尻餅をついた。遅れて、じんじんとした痛みが熱を持ち始める。

 鶴が怒りの形相で睨み付けているのに気付いて、自分が張り手を打たれたことを察した。


◆◆◆


 帆景を叩くのは意外と手が痛かった、帆景を叩いたという実感が強く心に残る。

 いくら可愛いからと云っても、赦して良いことと悪いことがある。今回は明らかに後者だった。

 この莫迦は自分の命を勘定に入れていない。きっと誰もが無傷で済んで良かったと思っているはずだ。しかし現実は違う、少なくとも大祝鶴にとっては違う、守ろうとするのは良い、しかし自分の命と引き換えに守ろうとするのは駄目だ。そんなことをされても嬉しくない、そんなのは苦しいだけだ。

 助けるにも方法がある、鶴であれば弓を使うし、帆景であれば魔法を放てば良い。妖怪相手に一人で挑むなんて正気の沙汰じゃない、自殺行為だ。魔法抜きの素手で熊に勝負を挑むのと同じようなものだ。もっとやりようはあったはずなのだ、しかし帆景は一番に自分の命を賭けた。それが赦せない、絶対に赦してはならない。

 もう一度、叩いてやろうと鶴は腕を振り被った。そこで帆景の様子が変なことに気付いた、今にも泣き出しそうなのを唇を噛んで堪えている。

 帆景の外見相応の幼い姿に鶴は戸惑った、しかし振り上げた拳の収めどころが判らなかった。


「――――ッ! ああ、もうっ! どうして、どうしてッ!! 頭領があんな無茶な真似をしなくちゃならないんですかッ!!」


 感情の吐露を防げない、怒り任せに鶴は怒鳴った。


「弓使いに自重を説くのであれば、先ずは自分が自重ってものを見せて、部下に態度を示すのが筋ってもんでしょうがッ!! 帆景が傷付くところなんか誰も見たくないってことを理解して云ってるんですかね!? ええ、本当に、この自分勝手な頭領さんですねえッ! もっと自分を大事にしてくださりやがれってんだ、このすっとこどっこいめッ!! 帆景の身勝手で帆景を愛する私が傷付いて苦しむことになるんですよッ!!」


 云い終えて、鶴は息を切らしながらも帆景を睨み付ける、帆景もまた涙を溜めた目で鶴を睨み返していた。

 まだ判っていないようだ、と今度こそ頬を叩いてやろうと手を振り上げる。それを背後から優しく、握られて止められた。

 振り返れば、因島海賊一の紳士面。当関船の船長が首を横に振ってみせる。


「貴方は間違っていません。が、これ以上はなりません」


 窘められて、鶴は息を大きく吐き捨てて、全身から力を抜いた。

 少し云い過ぎたのかも知れない。そう想って愛しい妹の方を見ると、帆景が立ち上がるところだった。

 静かなのが逆に恐ろしかった、怖いわけじゃない。嫌な予感がしたのだ。


「そんなのは、私だって同じだッ!」


 帆景が大声で喚いた、涙が頬を伝っている。


「私だって鶴が大事よッ! そんなことも判らないのッ!? 鶴が傷付くところを見て、平気でいられるはずがないじゃないッ!! それは他の皆だって同じだ、私は誰も失わないって決めてるんだからねッ!!」


 云い終えると帆景は目元を拭いながら、逃げるように関船の隅っこへと向かって歩いた。

 居心地の悪い静寂に鶴は舌打ちする、大事だって云ってくれて嬉しいはずなのに気分は最悪だ。

 爪先で甲板を蹴る。何度も、何度も、何度も、繰り返しても気分は晴れない。足が痛くなるだけで無意味なことだと判っている。

 それでも落ち着かなかった。苛立ち過ぎて、側頭部が痛くなってきた。拳で頭を何度か小突く、それもまた意味のない行動だと判っている。

 ああもう、どうすれば正解だったというのだ。頭の悪い自分では判らなかった。


「大丈夫、ちゃんと三代目も判っています」


 船長に云われて、鶴は数度、頭を掻き毟って、睨み付けた。


「そもそも貴方が甲板端で不用心に突っ立ってたのが事の発端じゃないですか」

「老骨の耳に痛い話ですな、どうにも昔のようにはいきません」


 船長に八つ当たりに近い愚痴を零すも受け流され、鶴は肩透かしを食らった気分に脱力し、帆景とは反対側に向かって歩いた。

 どうにも上手くいかない、もっと云いようがあったはずなのに自分にはそれが出来ない。

 やはり自分は莫迦なのだと鶴は深く後悔する。

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