第4話 「蟷螂」

1.

僕が小学校から中学校までの間、父親の仕事の都合で東北地方の県庁所在地を転々と引っ越した。秋田県のA市に引っ越して2年が経過した頃、僕たち(僕と父、母、妹)家族は市内のHというところに一戸建てを借りて暮らしていた。

家の前には道路に面した小さな庭があって、夏になると蟷螂の大きいのが何匹も庭の草むらに現れた。当時、僕は小学校の六年生だったと思うが、無性に昆虫が好きで蟷螂も恰好の遊び相手となったのだが、蟷螂にしてみれば随分迷惑だったと思う。

今になって考えれば、子供の頃の僕はすごく残酷で、昆虫好きだとはいうけれども、昆虫を見つけては手にとって観察したと思えば、そのまま殺してしまうのが常だった。僕個人の意見だが、蟷螂はゴキブリ同様に意思を持った昆虫だと思っている。一匹殺すと、他の蟷螂が殺虫者に向かって憎しみを込めた恐ろしい形相で(明らかにそう見えるのだ)大きな翅を拡げて翔んで攻撃してくるのだ。

僕がそれを実感したのはこの時だった。この時もいたずらに草叢に見つけた蟷螂を一匹殺してしまったのだ。すると側にいたもう一匹の大きな蟷螂が僕めがけて翔んで襲いかかってきた。「虫は感情を持っている」と実感した。僕が殺したのは番いのオスだったのだ。それでメスが復讐のために僕を襲ってきた…そう思った。僕はそれを振り払って地面に落ちたその蟷螂の長いろくろ首とぼてっとした胴体の間を掴んで捕獲した。すると蟷螂は長い鎌を後ろ手に引っ掛けて僕の指をグイグイと掴んで自分の顔に近づけてからあっという間にガブリと齧りついたのだ。

僕は噛まれた痛みに驚いて、蟷螂のろくろ首を右手に持ったまま、胴体を左手の指で掴んで左右に引っ張って引き千切って殺したのだが、蟷螂は胴体を引き千切れられたろくろ首だけになっても僕の指に鎌を引っ掛けて僕の指を引き寄せて、さらに齧りついてきたのだった。死んでもさらなる蟷螂の執念というか怨念に僕は恐怖したものだ。

2.

それから家の近所を歩いていると誰かにつけられているような気がするようになった。当時は特に県庁所在地といっても田舎のことであるから雑草が生えた空き地ばかりで、その草叢の中から何者かが僕を睨んでいる雰囲気を強く感じるようになった。

ある日のこと、小学校からの帰り道。僕は小学校からブラブラと歩いて自宅に向かっていた。僕と妹は学校区から外れた小学校までバスで通っていたが、少しだけ放浪癖のある僕はバスに乗らずに自宅まで歩いて帰ることも少なくなかった。歩いているのは大人ばかりという市の中心地の中をぶらつきながら帰宅するのは楽しかった。寺ばかりの寺町や飲食店が集まった繁華街の中を歩くのは大人になったような気がしたものだ。

賑やかな市街地を抜けて家の近くまでくると辺りはもう薄暗くなっている。田舎では薄暗くなった郊外の住宅地を歩く者は少ない。おまけに住宅地といっても家はまばらで家の灯りだけでなく街灯も少ない。当時の道はまだ舗装されていなくて路傍の両側から背の高い雑草が道中に垂れ下がっていた。今にも何かがその草叢から飛び出してきそうな恐怖に駆られた。僕は早足で家路を急いだ。すると、路傍の空き地に生えている草叢の中から何者かが話をしている声が聞こえた。

「あいつだよ」「妹とその亭主を殺したガキだな」と聞こえた。妹と亭主を殺した? 誰が? 殺人犯がこの近くにいるのだろうか? 子供心にも恐ろしかった。

「まだガキのくせに残酷なことをするもんだ」「頭が変なんだろうさ」また声が聞こえた。足を停めて声が聞こえた空き地の草叢を見つめた。声が聞こえなくなった。

「何だ、気のせいか…」僕は再び歩き出した。

すると「ガキが逃げちゃうぞ」「早く殺しちまえ」「逃がすものか」と、また声が聞こえた。

すると辺りの空き地からザワザワザワと何かが這ってくるような気味悪い音がしだした。その音に合わせるように背の高い雑草がバサバサと倒れていく。「わ、化け物だ」恐怖した僕は家に向かって走り出す。背中に背負っているランドセルがバッタンバッタンと音をたてる。

「逃がすもんかい」また声がした。僕の目の前からだ。道を見ると数えきれないほどの蟷螂が這って来る。やっと気がついた、僕が殺した蟷螂の復讐だ。「ぎゃああっ!」と叫んだつもりだったが声が出ない。

「よくも妹夫婦を殺してくれたな、たっぷりとお礼をしてやる」後ろから声は聞こえた。その声の主は普通の蟷螂よりも大きかった。大型犬ほどの大きさだ。そいつは左右の鎌をバチンバチンと合わせて僕を睨んでいる。

「わーーーーっ!!!ごめんなさいっ」腰を抜かした。路上にヘナヘナと崩れ落ちる。背中に背負っているランドセルから教科書や筆箱が飛び出した。身動きができなくなった。四方八方から無数の小さなカマキリが僕に向かって這い迫ってくる。

「首と胴を引き千切ってやる」大型犬の大きさの蟷螂が左右の鎌を三角形の顔に近づけて鋭利な刃物のような口先をギリギリと音をさせながら磨いている。「もうダメだ」僕は奴の鎌でバラバラに斬り千切られて、あの三角顔に食い殺されるんだ…と思うと同時に気を失った。

それから僕はどうにか家まで辿り着いて母と妹に蟷螂に襲われたことを話したが信じてくれるはずはなかった。

これ以来、僕は蟷螂だけでなく虫を見つけても殺すことはなくなった。

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