1日目 21時45分


「満足した?」


 部屋へと戻り、再びベッドの縁へと腰掛ける。変わらず紫煙を燻らせる凍子さんは、僕の顔を見ると小ばかにしたように口角を吊り上げる。その様に湧き上がった怒りを、どうにか胸の奥へと落とし込む。凍子さんも僕と同じ被害者。文句を言ったって、怒鳴りつけたって何も変わらない。

 灰皿にその先端をこすり付けるようにして煙草の火を消すと、凍子さんは今度は少しだけ優しく笑い、それから僕の左手首にそっと触れた。そこには、良く分からない時計型の装置が取り付けられている。


「最初に言っておくね。これは外せない。無理やり外そうとしてもいいことは何もない。だから絶対に外そうとしちゃ駄目。いい?」


 言って、凍子さんは自分の左手首を僕の前に翳してみせる。僕に付けられたそれと同型の装置が、ほっそりとした手首に巻き付いている。納得はしがたかったけれど取り合えず頷いてみせると、彼女は満足したように何度か首を縦に振った。


「訳が分からなくて、混乱していると思う。わたしもそうだったからよく分かる。だけど今は我慢して、わたしの説明を聞いて。君のためにも。お願い」


 あれ、と、不思議な感覚が胸に生まれる。部屋を出て周囲を徘徊する前よりも、凍子さんが少しだけ優しいような気がする。

 煙草を吸っている姿を見るのは何だか嫌だし、いつも笑顔だった1年前の彼女とは少し違うけれど、それでも目の前の女性は僕の知る凍子さんなんだと、不思議な安堵感に身を包まれる。

 分かりましたと答え、一度深呼吸。それからゆっくり、彼女の顔を見た。


「うん。君はやっぱり、頭がいいね。パニックを起こされたらどうしようかと思っていたから、安心したよ」


 凍子さんは言う。やっぱり、が少し気になる。僕は以前から、凍子さんにそう思われていたのだろうか。頭がいいだなんて彼女に思われるようなことをした記憶はないけれど、それでも少し嬉しい。


「理由も経緯も分からないけれど、わたし達は今実際に、この場所に閉じ込められている。これから話すのは、全部私が実際に確認した情報だから、それを理解したうえで、落ち着いて聞いてほしい」


 真剣な眼差しで、凍子さんは言う。分かりましたともう1度返し、僕は音を立てずに唾を飲み込む。

 凍子さんが一緒で良かった。率直にそう思った。僕一人だったら、きっと冷静ではいられなかった。もしかしたら今頃泣きそうな顔で、エレベータホールの金属扉に体当たりをしていたかもしれない。


「わたし達をここに閉じ込めた連中は、わたし達に直接危害を加えるつもりはない。その証拠に水も食事も定期的に提供される。まあ水は、洗面台の水道水だけど」


 直接、と凍子さんは言った。では、間接的には危害を加えられることもあるのだろうか。いや、それよりも。


「定期的にって、えっと、凍子さんっていつからここにいるんですか? もしかして僕よりも、ずっと前から……?」


 定期的に食事が提供される。それは多分、何日かをここで過ごして初めて口にすることのできる言葉だ。尋ねれば、凍子さんは頷く。少しだけ、寂しそうな表情を浮かべながら。


「1ヶ月前からだよ。だから、ここのことは大抵理解してる。話、続けるよ?」


 1ヶ月前。凍子さんは言った。それはつまり、凍子さんが1ヶ月間も脱出を果たせずにいるということでもある。それは僕にとって、絶望的とも言える事実だ。だけど見方を変えれば、それは喫緊の身の危険がないということでもある。


「わたし達は2日に1回、この建物の20階から23階の何れかに移動して、ゲームに参加する。そのタイミングでだけ、エレベータも動くし、階段に続く金属扉の施錠も解かれる。ゲームが終わったら、またこの場所へと戻ってくる。それぞれの部屋にね。ゲームの詳細に関しては後で話す。取り合えず、ここまではいいかな?」


 凍子さんの言葉に、僕は首を横に振る。よくなんてない。多分重要だと思われる単語が、理解できない。


「さっきも言ってましたよね、ゲームって。何のために参加するんですか? ていうか、参加しないとどうなるんです?」

「これも詳しくは後で話すけど、参加しないとペナルティがある。まあわたし達は囚われの身だから、参加は強制なわけだよ。逆らうことはできない。で、参加する意味だけど、強制とはいえ参加する目的は明確にされてる。ここから脱出するためさ。端末は見た?」


 次のゲームまで14時間。寝ぼけ眼にも耳にした言葉だ。端末と言うのは、よく分からない。首を振ると、凍子さんはおもむろに立ち上がり、ついて来るようにと僕に命じる。歩き出した背を追って、再び廊下へと出た。

 絨毯の感触を靴下の裏に感じながら、エレベータホールへと向かう。前を行く凍子さんの背中。見つめていると不思議な感覚に襲われる。凍子さんってこんなに小さかったっけと、何だか締め付けられるような、妙な痛みを胸に覚える。


「これ」


 エレベータホールの隅。階段に繋がっているという金属扉とは反対側の角に、僅かに壁の落ち窪んだ箇所がある。その四角い窪みの中には何も映っていない真っ黒な液晶画面。床から伸びた細長い銀色の円柱が、15型程度の液晶部を支えている。


「腕輪の液晶画面を、リーダーに翳して。ここ。この黒いところ」


 液晶画面を囲む金属枠の直ぐ下に、赤外線の受信機のようなものが備え付けられている。凍子さんが腕輪と呼んだ時計型装置をそっと翳せば、液晶画面が小さな駆動音と共に点灯した。


『No.216 日下部幸也くさかべゆきや 300coin』


 画面には僕の名前。そして聞き覚えのある数字。隣にある300coinというのは何だろうか。


「これは販売機。自分が所有しているcoinを使って、様々な物品を購入することができるの。画面にタッチして」


 言われるがままに画面に触れれば、名前と数字が消え、代わりに幾つかのボタンのようなものが表示される。円形に5つ並んだ四角いボタンには、上から時計回りに「食料」「娯楽」「生活」「情報」「権利」と記されている。


「何が買えるかは、後でじっくり見てくれればいい。取り合えず今は、権利をタッチして」


 黙って指示に従う。「権利」と書かれたボタンに人差し指でそっと触れると、また画面が切り替わる。ボタンが消え、代わりに映し出されたのは3行だけの表のようなもの。左側に物品の名前が、右側には「購入」と書かれたボタンがやっぱり存在している。


「ゲーム不参加。パートナー召還。プレミアムゲーム参加……。それから、脱出。脱出って……」


 訳が分からない。権利のボタンを押して表示されたリストの中に、脱出の2文字。つまりはcoinとやらで、脱出権を購入しろということだろうか。

 大きく息を漏らす音が耳元で聞こえ、続いて台詞。うんざりとでもしたかのように、或いは疲れ果てでもしたかのように、凍子さんは呟いた。


「わたし達はね、ゲームに参加してcoinを稼ぐの。そうして貯めたcoinを使って、脱出権の購入を目指す。馬鹿げてるでしょ?」


 凍子さんの憂いを秘めた端整な顔。美しい、だけど強い意志を湛えた真っ黒な瞳。

 見つめ頷き、僕もまた小さく、息を吐いた。





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