第20話:病床の偽善者
今年も本格的に暑くなりそうな時期。神父は、ただでさえ『はしたない』茜が更にそうなる時期だと既に悟り、諦めている。その茜本人も、今現在はいかにもだるそうに冷房の効いた懺悔室に籠っている。電気代がもったいないので神父もそこにいるのだが、彼女のその恰好はとてもではないが今年で成人の娘の格好ではなかった。
「あー暑い!」
そう何度もリピートする彼女の現在の格好はと言えば、足腰丸出しの自分で切ったと見える白いタンクトップに、こちらも自分で切ったと見えるハーフパンツ姿だ。いつもならば「買ったモノは大事にしなさい!」と言い聞かせるところだが、彼女が今来ているのは『寄付』された古着だ。与えた側もきっと喜んでいる事だろう。……神父としては不服だが。
「神父はさぁ、よく僕に『はしたない』って言うけどさ、だったら僕の部屋にも冷暖房入れてよ! って話だよ!」
「……」
おかしなことに、彼の視界が一瞬ぐらりと揺れた。
「……聞いてんの? 大体神父だってその恰好は暑いでしょ? 夏にわざと暑いカッコする意味が解んないよ! 聴いてんの、神父?」
「いや、聴いている。……どうやら私も年には敵わないらしいな。何やら視界がぼやけるん――」
「ちょ! 神父!」
言い終える前に、彼は大きな音を立てて倒れた。どう見ても小さい教会では、この音量でも十分に礼拝堂に響き渡った。神父の様子を検めて見るが、外傷は特になし。心臓も動いているし、脈もあるし、呼吸もしている。以前和也との別れの際にもらっておいた、彼の受験生時代のノートの大事な部分を暗記していたおかげで、とりあえずの処置には困らなかった。
「あのデブも、伊達に智也の面倒見てたわけじゃないんだよね」
そう言いながら、彼の様子を細かく観察し、そのノートに記された症例と照らし合わせていく。流石に医学部のノートの上に、和也のあの呑気な性格からくる雑な文字は解読に時間がかかる。従って、この場合は救急車を呼ぶのが最も適切だと判断した。
「……お久しぶりですね、神木さん」
そう言って微笑んだのは、『組織』が秘密裏に手を回している病院の、神父の担当医師だった。正確な病院の名は『美柳病院』で、主に外科と内科だが、他にも大量の専門的な部門別の医師がいる総合病院だ。最近は小児科も新たに始めたらしく、そちらも順調なようだ。
茜にとっては嫌な場所でしかなかった。ある『事件』がこの病院で起こり、それがきっかけで茜と神父は互いに非常に険悪になったことがあった。あの時の容疑者――茜と同じ歳の当時の『彼女』は、今も入院しているのだろうか。
「こちらこそお久しぶりです。……それで、どうなのでしょうか? 私はどこか悪いのですか?」
すると相手はこれまでの表情を一変させた。その顔には「説明すべきか?」と書いてある。……これで思い当たる事は特にないのだが、こんな態度を取られると気になるのが人情だ。
「具合は相当悪いんですか?」
神父――患者名『神木』は慎重に質問を重ねる。その心情を察したのか、相手の医師も気を引き締めたようだ。「では、」との前置きの後に本題だ。
「……神木さんは暑気当りと認知症の初期段階です。確かに寿命自体は健康体ですし、それほど影響がありませんが、記憶はどんどん薄れていくでしょう。……娘さん? ですよね、彼女は?」
茜には別室で待っているよう言い聞かせておいた。余計な心配などかけたくないから。それが、今回の場合は神父にとって幸運だった。
「……認知症……」
つまりは所謂ボケの初期段階。神父は唇をかみしめ、身体が震える。
――何という事だ……。
「お気持ちはお察しいたします。しかし、病気とは向き合わなければ。幸い、寿命は……」
医師の励ましの言葉にも思わず怒鳴っていた。
「ふざけるな! 私はまだ、あの男に……大西に『復讐』を遂げていない! それを忘れるという事は、妻子を忘れることと同義だ!」
この医師は『機関』の手が回っているので幸いだが、他の相手ではこうはいかなかっただろう。医師は黙っている。ここで神父はある気配を感じた。
振り返ると、そこには青い顔をした茜が二本の茶の入ったペットボトルを手に立ちすくんでいた。彼女はぼんやりした様子でそれを無感動に落とした。
「……神父?」
「茜……お前は、聴いていたのか?」
険しい顔をした神父の問いに、彼女はただ無感動に首を縦に振った。
――同じだ、『あの時』と。
彼女の母親が亡くなった、あの時の『無』の表情を彼女はしていた。瞳も無感動なガラス玉のようだ。何も映さない、もしくは映ったものを反射させる鏡のような、そんな瞳をしている。
「……神木さん、貴方には入院をお勧めいたします。せめて、夏の間だけでも養生なさってください。彼女のためにも」
『茜のため』、そう言われてしまえば、神父には断る理由などなかった。
「はい。お医者様の仰る通りに致します」
神父もまた茜の『無』が移ったかのように機械的にそう返していた。相手が『機関』の人間であったことは唯一の救いだった。
こうして神木修一はしばらくの間だけ入院生活に入る事になる。茜のことは気がかりだが、過酷な環境に慣れている彼女ならば自炊も出来るし、今年で成人なのだから多分大丈夫だろうと思った。
「……」
初めてついた病床で、神父は考える。
――私のしてきたことは、はたして本当に『善行』だったのだろうか?
聖書にはこうある、『汝の敵を愛せ』というニュアンスの言葉が。自らの『敵』――大西隆を未だに許せないでいる。『許す』ことも不可能なのに、『愛する』? これこそ不可能だ。だが、彼の『娘』――宮下茜は『愛している』。しかし、本当にこれは『愛』なのだろうか? ただ単に、茜に自分の娘の面影を重ねているだけなのではないだろうか?
それで『愛」だと主張するのは、キリストが最も嫌う『偽善』でしかないのではなかろうか?
「……」
茜は大事な『娘』。間違いなく。これは、この感情は理屈ではない。誰かを愛おしいと思う気持ちに、一体どんな理屈が必要だろうか?
病床の『偽善者』、神木修一はそんな事を考えながら本日分の祈りを終えた。
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