20 絢咲桜
桜を閉じ込めた翡翠色の
崩壊していく防壁の隙間から桜の姿を確認。位置を見定め、詩織は空中に展開していた足場を蹴り、桜に向かって頭から飛び降りる。
飛び降りたのとほぼ同時に桜が周囲全体に青い霊力の波を放った。
予測よりも桜の行動が早い。
だがその行動は予測の内。
霊力の波は詩織を捉えることなくすり抜けていった。
すぐにまた二度目の霊力波が放たれる。二度目の霊力波も同様にすり抜けると桜は即座に背筋を正し、両手を打ち合わせた。手元で打ち鳴らした音を霊術で増幅し、音波による索敵を行ったのだろう。
しかし、霊力で構成されていない音波であろうと、詩織を捉えることはできない。
あらゆる索敵を行っても詩織を捉えることができず、桜は混乱していることだろう。
それも仕方のないことだ。桜は唯識の力に対していくつかの思い違いを、そして、詩織の
リリスが居た手前、詩織は桜に〈
いや、おそらくリリスが居なくとも詩織はそう述べただろう。
たしかに詩織は〈
それは嘘ではない。
だが、詩織が習得している識はそれだけではない。
詩織が使える識は、〈
詩織は
歴代唯識の中で二人しか記録されていない六識の使い手、その三人目が詩織だった。
詩織は今、自身が発する六つの識を全て消して桜に向かって落下している。
識を消した詩織は眼に見えない。音を発しても誰もその音を聞き取ることができない。匂いも熱も感じ取れない。たとえ相手に触れても、触れられても何も感じ取られない。
だがそれでも、あらゆるものをすり抜けられる完全な透過状態というわけではない。
〈
単純な格闘攻撃や、霊力で構成されていない炎の攻撃を桜が放てば、詩織はそれらをすり抜けることはできない。
詩織の手が地上に居る桜へと届く距離までもうわずか。
だが桜は驚異的な身体能力により可能となる超高密度の神経加速を使いこなす。
ほんのわずかな数秒を桜は莫大な時間に引き延ばすことができるのだ。
一瞬たりとも油断はできない。
気がかりは今のところ一つ。
桜の行動が早く、足場として使った防壁がおそらく感知されてしまったということ。
残った防壁の存在から唯識の弱点が推測されれば、詩織が向かって来る方角が桜の頭上しかないということにたどり着くだろう。
だが向かって来る方角が分かったとしても、詩織の居る正確な位置までは分からない。
だから桜は先ほど行った炎を爆発させるような周囲全体、広範囲の攻撃をしかけてくるはず。唯識の弱点に辿り着いていなくとも、仕切り直しのため同様の行動を取る可能性が高い。
その後だ。
桜が全体攻撃を放った後。その対処、詰め方がこの決闘の勝敗を決める要となる。
詩織は気を強く引き締めながら桜に向かって落ちていく。
しかし、どれだけ近づいても桜は動こうとしない。
上空を見上げたまま、構えもなく、体の力を抜いた自然な立ち姿。
位置を計り損ねている? 意識を奪おうと触れた瞬間に攻撃を仕掛けようとしている? それとも何も気付いていない?
唯識の力を使用し、霊術が使えなくなっている詩織に考えを詰める時間はない。
詩織は桜に向かって伸ばした手に集中する。
桜の首筋に詩織の指がわずかに触れる。そしてすぐさま詩織は唯識の使用を止め、自身に
防壁を纏ったのとほぼ同時に桜が全方位に向けて爆炎を放った。
間近で放たれた炎を防壁で防ぎきるも、その勢いまでは殺せず、詩織は大きく炎に吹き飛ばされた。
体勢を崩しながら着水。炎の勢いに押されて水面上を滑っていく。
どうにか踏みとどまり、詩織は呼吸を整えながら状況を確認する。
燃え盛る赤い炎と噴き上がる蒸気の中、水面上に立つ桜の姿を捉えた。
桜は目を閉じ、静かにその場で停止している。
その力を使用すれば触れた相手の意識を奪うことができる。
だが意識を奪うまでに相手に触れて完全に魂を捉える必要があった。その時間は最速で二秒。それは唯識を警戒している桜の前ではあまりにも長すぎる時間。
だが、〈意識〉以外の五識。それらは相手に触れたその瞬間に力が発揮される。
つまり詩織が今桜に行ったのは〈
桜は今、五つの識が完全に遮断され、〈
限りなく死に近い、魂がむき出しとなった世界。
長い時を生きた妖怪ですら五つの識を封じられれば発狂し、自己が保てなくなり、詩織が意識を奪うまでもなく気絶する。
しかし桜は違った。
降り注ぐ光る花びらの中、桜は静かに水面上に立ったままでいる。深い青の霊力も変わらず溢れ出ており、身体強化も維持されたままのようだ。
なんて強靱な精神力。
「さすがは、桜様です」
詩織は桜に向かって水面の上を歩きながら、胸元に収めていた
神核の存在を隠していた識を全て解く。
詩織の左手に赤い光を放つ柄のない短剣が姿を現す。
「桜様。この決闘、私の勝ちですね」
詩織は
そして神核の剣先を桜の胸の中心に向け、突き立てた。
しかし、そこで詩織の動きが止まった。
果たしてこれでいいのか。こんなやり方で桜を国神にして、本当にいいのだろうか。
(桜様はここで終わることを望んでいる……。でも私は、桜様に恨まれようと桜様に生きて欲しい。桜様のお傍に居たい。……やっと、やっと出会えたのに……っ!)
すっと詩織の目から涙が滲み、零れて落ちる。
「何もかも諦めて死を望んでいた私に生きろと……一緒に、世界にそっと恋をしようと、そう言ってくれたのは桜様、あなたじゃないですかっ!!」
桜に神核を同調させるには、鬼神の炎の封印が強まっているこの今しかない。
迷っている時間は、ない。
詩織は涙を拭い、覚悟を決めた。
強い光を放つ紅の短剣を後ろへ引き、一気に桜の中心目がけて突き刺そうとした――――その時、
「――!?」
バシッと詩織が手に持つ神核が弾かれた。
突然動き出した桜の右手によって。
詩織の手から落ちた
「はぁ……はぁっ……っ、今のは……!?」
今まで呼吸を止めていた桜が右手で胸を押さえながら荒い呼吸を繰り返す。
(まさか、
詩織は桜から後ずさる。
桜に触れたあの瞬間、間違いなく桜の五つの識を封じた。
そして識封じは決して数十秒で解けるようなものではない。
戸惑う詩織の目に、水底へ沈んでいく、赤い光を放つ神核が映り込む。
(もしかして、神核が……!)
封じたはずの識の回復。
詩織は
「…………私は……」
桜の吐き出した声にはっとして顔を向ける。
「私はっ……!」
ゆっくりと桜は構えを取り、
「――――私は、負けたくない!」
焦点の取れていなかった深い青の瞳が詩織へと向いた。
桜が水面を蹴り、高速で飛び出す。
今までと違い、隙だらけな直線的すぎる動き。
体を一つ横にずらすと桜は真っ直ぐに詩織の横を通り過ぎていった。
追撃はない。
詩織を大きく通り過ぎた桜は背を向けたまま静止している。
先ほどまで識が封じられ、あらゆるものを認識できなかった桜が今、たしかに詩織の位置を捉えた。
おそらく
桜の胸元に神核を突き立てていたあの時、神核が桜に反応し、封じていた識が回復してしまったと思われる。
だが桜の様子からして全ての識が回復したようには見えない。
桜は今、回復した識の感覚と、その識の回復によって取り戻した正常な〈
詩織は再び戦闘態勢を取っていく。自身の体に防壁を纏わせ、さらに自分と桜との間に防壁を展開していく。
詩織の霊気は極めて薄く、距離を隔てての感知は不可能。であれば桜の先ほどの突撃は回復した識で詩織の居る位置を捉えたということ。
まず確実に目は見えてはいない。〈
詩織が思考を巡らせる中、
「
穏やかな声で桜は言った。
「――――え?」
「〈
桜が紅蓮の炎を纏い、消えた。
詩織は桜の不意な言葉でわずかに反応が遅れる。
そのわずかは致命的だった。
赤い閃光が視界を切り、詩織の纏っていた防壁が崩され、腹部に熱を持った痛みが襲う。
気付けば詩織は空高くへと打ち上げられていた。
そして飛ばされた詩織よりもさらに上空で巨大な炎が渦を巻いていた。
詩織は絢咲雛との決闘で一度〈
本来、〈鳳凰天下〉は相手を宙に打ち上げてからすかさず高速の連撃が続く。こうして宙に打ち上げた後の追撃がなく、〈鳳凰天下〉の最後の一撃のみに絞っているのは、やはり桜の識がまだ封じられているからなのだろう。
桜が広げていた豪炎が一点に集束し、高速で詩織目がけて落ちてくる。
詩織は迫り来る桜との間に防壁を五つ展開。
しかしダメージを受けて展開した防壁の精度は低く、桜は防壁を次々と貫いていく。〈
回避はできない。あれを完全に受けきれる防壁の展開も間に合わない。
ならば。
詩織は桜に向けて左手を突き出した。
その左手が触れる空間に全神経を集中させ、空間の識を引き下げる。
詩織の手元からすっと白い円が広がっていき、円の中に真紅の炎を纏った桜が入り込んだ。それと同時に詩織は唯識の使用を止め、白色の空間に霊力を一気に解き放った。
「〈
ギィン! っと甲高い音を鳴らして純白の嵐が荒れ狂う。
桜の〈
強大にして純粋な力と力がせめぎ合う。だがその均衡も束の間。〈唯識無境〉は〈鳳凰天下〉の勢いを完全に打ち消し、桜の炎を散らせた。
勝てる。
そう確信したその時、淡々とした声で桜はそれを口にした。
「〈
桜の足下に桜色に光る花びらが現れた。
それは、桜色の炎だった。
空から舞い降る光の花びらと変わらない、とても小さな炎。
そして、その炎が〈
きん、と高く澄んだ音が骨身に直接響くような衝撃を伴って響き渡り、同時に、詩織が放つ〈唯識無境〉が一瞬で桜色の炎へと姿を変えた。
(〈唯識無境〉を――――いや、私の霊力を燃やした!?)
あり得ない。
他者の霊力を自分のものとして扱うには双方の協力は必然。相手の意志を無視して霊力を利用するとなれば術式の
まして詩織の攻撃として放った〈
(霊力そのものを燃やす炎……まさか、それが桜様の〈
黒い魔獣の腕を持つ男が展開していた凄まじい
霊力が乱れる空間の中、後から飛び込んで霊撃、防壁で抑えこむ。あまりにも無謀だ。そう思いながらも詩織は桜を信じて黒魔女へと向かった。そして次に詩織が目を向けた時には、とてつもない霊力量を持っていたはずの闇塊は跡形もなく消え去っていた。
あの時桜は、霊撃や防壁で闇塊を相殺させたのではなく、この〈
「〈
桜が続けて術名を口にする。
絢爛たる炎が桜の右足一点に集束し、花のように咲き開く。
「ああ、なんて、美しい……」
桜色の鮮やかな炎を纏った蹴りが詩織へと振り下ろされる。
桜の
その炎に熱はなく、とても優しい、暖かな炎だった。
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