17 魔に反する者達
桜を支えながら飛行する詩織は神都平日神宮の南正門を抜けて祭祀場へと急行する。
既に騒ぎは起きていた。
黒々とした靄が祭祀場全域をすっぽりと覆っている。
あの靄は先ほど真明の森で見たものと同じもののようだ。
靄は少しでも触れれば体内の霊力を大きく乱す。その異常性を感じてか中に入ろうとする者は見られない。
だが詩織は躊躇なく、一気に黒い靄の中へと侵入した。
詩織の胸元には
神核のおかげか、詩織の霊力はこの黒い靄の中でもほとんど乱れずに済んでいる。だが神核と同調を果たしていない桜にはその効果がないようで、黒い靄の中に入ってから桜はまた苦しげに喘ぎだした。
ほの暗い靄の中でもはっきりとした白い光を放ち続けている祭祀場、その舞台が見えてくる。
祭祀場は苛烈をきわめる戦場となっていた。
祭祀場の光る舞台、そこでは御影が伸縮する二刀の水の剣を自在に繰り広げ、黒い獣の仮面をつけた男を宙へと追い込んでいた。
観客席に居る人々はみな祈るようにその戦いを見ている。
舞台外には強大な存在感を放つ大型の魔物が五体、各所に散らばっている。
どの魔物も数十人を相手にして戦っている。しかしどれだけ攻撃が直撃しようと魔物達は全く怯むことなく暴威を振るっていた。
数では圧倒的に勝っている。だがこちら側の形勢が悪いのは目に明らかだった。
「……ありがと。ある程度回復できたわ。霊力も制御できてきたし、ここからは自分で飛ぶ」
そう言って桜は詩織から離れた。
桜はかろうじてといった感じで宙に浮く。
「私はリリスを仮面に取り込んだあのクソ野郎をぶっ飛ばす。あんたはこの厄介な靄を展開してるあのクソ
桜が顔を向けた先には十の影――その中心には黒いドレスを纏った女。
「今あの女の周りには半分魔物となった奴が九人守りを固めてる。けどあんたなら、唯識の力を使えば突破することができる……そうでしょ?」
空から霊撃を撃ち続ける者達をどうにかしようという動きはあるようだが、少しでも攻撃を仕掛けるそぶりを見せれば霊撃の集中砲火を浴びることになる。
そしてそれを掻い潜ったとしても障害はまだ立ちはだかる。
今ほど
霊撃の集中砲火と巨大な防壁により地上からの攻撃は完全に封じられている。
霊力が乱れるこの空間で飛行術、空蹴りを使っての接近も難しい。
だが桜の言うとおり唯識の力を持ち、霊力に乱れのない詩織なら、あの鉄壁を崩すことができるだろう。
「この靄さえなくなれば私も戦える。だから――」
観客席全体から大きな悲鳴が上がった。
見ると舞台の上で
黒い獣の仮面をつけた男は先ほど見た時よりもさらに上空へと上がり、仮面に手をかざしていた。
男の右腕が魔物のものへと変化する。
そして男は黒い魔獣の腕を御影に向け、信じられないほどの高密度な霊撃を展開し始めた。
そのとてつもない莫大なエネルギー量に詩織は思わず身震いする。
「桜様、アレは危険です! まず私がアレを防いで――」
「頼んだわよ」
言い終えるよりも先に桜は宙を蹴り、魔獣の右腕を持つ男の方へと飛んでいった。
まだ桜の体は完全に回復しきっていない。それに加えてこの霊力が乱れる空間。そのような状態であの莫大なエネルギー密度の霊撃をどうにかできるというのか。
わずかに迷うも、詩織はすぐさま黒ドレスの女に向かって上空へと飛んだ。
(心配など無用。あの御方は私の神様、絢咲桜様だ。私は桜様に与えられた使命を果たす!)
半分魔物と化した者達が急速接近する詩織に気付く。
詩織は近づきながら目標の黒いドレスを纏う女よりもさらに高い位置へと上昇していく。
その最中、無数の霊撃が詩織を襲う。
全方位から詩織に向かって軌道を変えてくる禍々しい追尾弾。詩織は自身を覆うように透明な防壁を展開。向かって来る霊撃を真っ向から全て受け止め、掻き消した。
目標より高度を取った。
黒ドレスの女と半分魔物と化した者達が空を仰ぐ。
だがもう遅い。
詩織は唯識の力を使用し、姿を消す。世界から姿を消した詩織は重力に引かれるまま真っ直ぐ黒魔女に向かって落ちていく。
詩織が姿を消したことに気づいた黒魔女は自身の周囲全体に強烈なマイナス質の霊撃を放射した。
触れるものすべてを破壊する漆黒の絶対領域。
しかし詩織は、すっと、その霊撃空間を何もないかのようにすり抜けた。
黒魔女の首筋に触れる。意識を奪い取り機能を停止させる。
魔女の霊撃が消えるのを確認し、唯識の力を解除。そして詩織はすぐさま足場となる防壁を空中に展開し、その上に着地。それと同時に地上から、きん、と鈴の音に似た高く澄んだ音が、夜空の隅々まで染み渡るように響き渡った。
黒ドレスの女は黒い影に包まれて、黒装束を纏った白髪の少女に姿を変える。
数秒して
意識を失った少女をどうにか右手で抱え、詩織はすぐに舞台へ目を向ける。
倒れた御影の近くに桜が立っている。魔獣の右腕を持つ男が展開していた超高密度の霊撃はどこにも見当たらない。
舞台に破壊の形跡はなく、観客席も無事だ。
つまり、体内の霊力が乱れる空間の中、桜はあの超高密度の霊撃を完全に相殺したということになる。
いったいどうやって。
「……!」
周囲から異様な気配を感じ取る。
気付けば九人の半分魔物と化した者達が詩織を取り囲んでいた。
詩織の腕には先ほどまで彼らが守っていた少女がいる。だがどうにも様子がおかしい。先ほどまで人形のように動いていた彼らとは何かが違った。
そして、半分魔物と化した者達は詩織が抱える少女を気にすることなく、一斉に攻撃を仕掛けてきた。
詩織は一つ息をつき、正面に左手をかざす。
詩織の手元からすっと白色の空間が円状に広がり、放たれた攻撃、半分魔物と化した者達、その全てを包み込む。そして、
「〈
詩織が静かにそう呟くと、白色真円の空間がギィンっと甲高い金属音のような音を鳴らして暴風の如く荒れ狂った。
空間内にあった攻撃は全て消え去り、九人の半分魔物と化した者達は一斉に影に包まれ、空から落ちていく。
詩織は空中に霊力の網を九つそれぞれ展開し、落下していく彼らを受け止めた。
詩織は再び舞台を見る。
舞台では鎧を纏った巨大な魔物が一体、赤い業火に包まれて倒れているところだった。その倒れていく魔物の側に両手に炎を纏わせて戦う桜の姿を確認する。
炎に焼かれた魔物は影に包まれて人の姿へと戻っていく。
靄がなくなったことにより先ほどまで戦っていた者達も力を取り戻したようで、さらに舞台の外れで大型の魔物が三体、それぞれ影に包まれて消えていった。
これで
見ると男は先ほど見た位置からほとんど動いていない。どうにも今まで戦いに加わらず傍観していたようだ。
魔物を倒した桜は着地すると同時に発光する舞台を蹴り、高空で陣取る男に向かう。
炎の爆発と共に空を切って接近。高速の一撃を放つ。
紅蓮の炎を纏った桜の右拳は男の右足で受け止められていた。間髪容れずに桜は次撃を打ち込むも再び右足で止められる。防御されるのと同時に桜は流れるように男の死角へと回り込み、赤々とした炎の蹴りを炸裂させた。
男は一切揺るがず、桜の嵐のような猛攻を右足一つで受け止めていく。
応酬の最中、男から一撃喰らったのか桜がわずかに仰け反る。そして男は左手で桜の腕を掴み取り、舞台に向かって桜を投げ飛ばした。
男の追撃はない。
桜は空中で受け身を取り、綺麗に舞台の上に着地する。
「……言ってくれるわね。あんたも同じでしょうに。……いいよ。なら見せてやる」
桜はすっと息を吸い、ゆっくりと息を吐きだしながら構えをとる。
「勘違いしてほしくないんだけど、別に手加減してたわけじゃないから。あんたの仮面の中に居る妖精達をすぐにでも解放したい。でも、さっきまで死にかけてたし、いきなりアレまで使わされたからさ……だから――」
男は桜から何かを感じ取ったのか、突然動き出した。黒い霊力を体中に漲らせ、強烈な衝撃波と共に空を突き抜ける。
「だから今、ようやく全力が出せる」
桜の全身を青い霊力が電光の如く迸る。
そして、桜が消える。
次の瞬間にはドンッ!! と凄まじい轟音と共に、空気が爆発したかのように大きく吹きつけた。
空中で白髪の男が持つ魔獣の右拳と桜の深い青の
奔流する光の中、絶え間なく鈍く重い音が響き、視認できない速度で青と黒の光と影が乱舞する。
(これが、桜様の全力……!)
詩織は思い返す。
桜はどれも圧倒的な強さで敵を倒しているが、霊力の使用を控えるため――いや、そもそも本気を出す相手ではなかったか、最低限の霊術だけで戦ってきた。
だが今、桜は溢れるほどの青い霊力を全身に走らせ、超速戦闘を繰り広げている。
これが本気で戦う桜の姿だ。
五大基礎霊術、その一つは〈
戦闘においてまず使用することが前提となっている霊術だ。
詩織も戦闘中、さらにはこれまでの移動等においても随時使用してきた。
身体強化の効力は、元々の身体能力が高ければ高いほどにその強化の度合いは比例して高くなっていく。そして桜は
故に、身体強化を使用した桜の速さは――――まさに神速。
詩織は身体強化の一種、
詩織の左右の瞳に翡翠の光が灯る。
さらに続けて
そうしてようやく詩織の目は桜と魔獣の右腕を持つ男の戦いを捉えることができた。
桜は溢れ出る深く青い壮麗な霊気を纏い、高速を越えた速度で空間を自在に駆けて戦っている。
黒い魔獣の右腕を持つ男は桜の速度に追いついておらず、押されているように見えた。
しかし男が持つ獣の右腕は何か特殊な力を宿しているらしく、右腕に少しでも触れると桜は大きく速度を落としていた。男はその右腕を軸にして戦うことで高速化していく桜と渡り合っているようだった。
数瞬の中で行われた百を越える攻防の末、桜の拳が深く男の内側を捉えた。
男は後ろに引いて体勢を立て直そうとする。
その時、桜は瞳力を強化し神経加速を行っている詩織の目でも捉えることができない――まるで空間の転移としか思えない速度で男の背後へと回り、追撃を喰らわせた。
そこから桜は青い残光を引いて一気に拳を見舞わせていき、再び詩織の目から消えた。
気付くと上空には力なく体勢を崩した男の姿があった。
まだ意識があるのか右腕の変化は解かれていない。
そして舞台の方からズズっと何かが擦れる音。
舞台上に桜が姿を現していた。
いつの間にか桜の両足からは詩織の下駄が消え去っていて、桜は裸足だった。
桜は身体を低く下にずらし、右足を中心にして構えを取る。
「〈
桜の右足から紅蓮の炎が燃え上がる。
桜が消え、ダンッ! と地面が弾ける大きな音が遅れて続く。そして赤い炎の閃光が上空に居る魔獣の腕を持つ男を次々と切り裂いていく。
(これは、雛様の……!)
赤い閃光の連撃が終わり、一瞬の間を置いて真上から一直線に紅蓮の矢が男を貫いた。
爆音と共に赤い炎と粉塵が巻き上がる。
立ちのぼる煙の中から一つの影が現れる。
その影の顔には紅白の鮮烈な光を放つ
数秒して、わっと歓声が場内を埋め尽くした。
先ほどまでこの場にいる観客含めた全員が生きるか死ぬかの瀬戸際に居た。それにも関わらず混乱はほとんど起きていない。
これを儀式の演出と思ったのだろうか。
とにもかくにも全体の空気は弛緩し、歓声で満ちている。
黒い靄が消えたからだろう、
事の重大さを理解している者達が動き出したのを見て、詩織はすぐさま行動に移る。
詩織は抱えていた少女と先ほど霊力の網で受け止めた者達から仮面を回収していく。
祭祀場舞台で倒れている御影の元には各地の巫女達が集まっていた。巫女達は懸命に声を上げて御影の手当を行っている。
その聞こえてくる声からして御影はどうにか生きているようだった。
上空での仮面を集め終えた詩織は地上に降り、急いで桜の元へ向かう。
消耗して動けないのか、桜は舞台の大きくあいた穴の近くで座り込んでいた。
「桜様!」
「……お疲れ。靄がすぐになくなってくれたおかげでだいぶ助かったわ。なんつーか、やっぱ、あんた凄いのね」
桜からの賞賛の言葉に歓喜で心が舞い上がる。
だが詩織はすぐにリリスのことを思い出し、回収した仮面を桜の前に置いた。
「桜様、早くリリスさんを解放してあげましょう」
「……ええ」
「桜様、これらの仮面の破壊をお願いしてもよろしいですか? 私は残り六つの仮面を探して破壊してきます」
「分かった」
詩織は地上にある残りの亡化の仮面を見つけ出しては唯識の力を使って姿を消し回収。そして人集りから離れた場所で仮面を破壊する。
仮面を破壊していく中、
妖精達だ。
仮面に閉じ込められていた妖精達が解放され、上空にて溢れ広がり、万を超える妖精達で空は極彩色へと染まっていた。
詩織は再び桜の元へ戻る。
桜の周りには綺麗に二つに割れた仮面が散らばっている。
そして桜の手には、まだ形を留めている仮面が一つあった。リリスが呑み込まれた黒い亡化の仮面だ。
詩織は桜に無事六個の仮面を破壊できたことを伝える。
詩織が上空で回収してきた仮面が十、今ほど破壊してきた仮面が六、天道洞窟で破壊した仮面が二、そして桜が手に持つ仮面と合わせると十九個。桜に話をしたという男の話を信じるならこれで全部だ。
あと一つ仮面を壊せば捕らわれた妖精達全員を解放できる。
だがどうしてか、桜は先ほどからじっと手に持つ黒い亡化の仮面を見つめたまま動かないでいた。
「桜様……?」
「……大丈夫。私がやる」
桜は一つ呼吸をして、仮面を二つに割った。そして空へと放り投げる。
宙に上がった仮面は光を放ち、閉じ込められていた妖精達が次々と開放されていく。
そして、溢れ広がる光の中から勢いよく桜達の方へ飛んでくる光る球体が一つ。
『桜ーっ!! 詩織ー!!』
「リリス……っ!」
勢いよく飛んできたリリスが桜の胸にぶつかり、ぽふんと跳ねた。
桜は両手でぎゅっとリリスを抱きしめる。
「リリスっ……リリス……。よかった……無事で、ほんとによかったっ」
「リリスさん、ご無事で何よりです。……そして、ごめんなさい。私が至らないばかりにリリスさんを危険な目に遭わせてしまいました」
「あんたのせいじゃない。私が、守れなかった。絶対に守るって言ったのに、私は……。リリス、本当にごめんなさい……」
『二人とも、なにを、言っているの……? こんな危険な事に巻き込んだのは私なのに……それなのに、二人は助けに来てくれて……おかげで、みんな仮面から出ることができたわ。桜、詩織……ありがとうっ! 本当に本当に、ありがとう!!』
「……リリス……」
少しして桜は静かに頷き、そして空を見上げた。
詩織も空を見上げる。星々よりも賑やかに輝く光に満ちた夜空がそこにはあった。
「あんた達は本当に綺麗よね。……美しい。これの方が答えとしてしっくりくるわ」
桜は抱きしめていたリリスをそっと離し、ゆっくりと立ち上がった。
そうして一歩、二歩と後ろに下がってリリスから距離を取る。
『桜……?』
「ごめん、リリス。もう、行かないと」
『……桜っ……。……ねえ桜、仮面、少しだけ外して』
「え? うん、分かった」
桜はリリスに言われた通り、右手を使って仮面を顔から少し外した。その隙間にリリスが入り込む。すると桜の体がぴくんと大きく揺れた。
仮面の隙間からゆっくりとリリスが出てくる。桜は石のように固まっている。
「リリス……アレ、ほんと、冗談、だったのに。……ありがと。凄く嬉しいわ」
桜は右手で仮面を付け直す。
『逃げ出した時、不安で、怖くて仕方なかった。もうみんなと会えないかも知れない。殺されるかもしれない。そんな恐怖と絶望の中で桜と出会った。桜が私を助けてくれた。傍に居てくれた。勇気をくれた。希望をくれた。桜のおかげで私は、救われたの……』
桜は黙ってリリスの言葉を聞く。
『ねえ桜っ……私たち、また、会えるよね?』
そして桜は何も答えず、詩織とリリスに背を向けた。
「じゃあね、リリス」
桜はその場で軽く跳ねてすっと体を浮かせる。
『……桜っ!』
桜の足が光る舞台の上に着き、次の瞬間には大きく風が揺らぎ、桜はその場から消え去っていた。
「桜様っ……」
『詩織……、桜は……』
「……大丈夫です。桜様は、大丈夫です。約束します。リリスさん、また必ず桜様と一緒にお会いしましょう」
『……うん……っ! 詩織……。詩織も、本当に本当にありがとう』
「私こそ、リリスさんにたくさん助けていただきました。心から感謝しています」
『詩織、約束よ。また三人で、一緒に……』
「はい、約束です」
詩織はリリスに深く頭を下げ、
詩織は急ぐ。
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