お腹を空かせたケット・シー END
今まで夜に来ることはほとんどなかったが、沢山の光で埋め尽くす街並みは昼間とは別の表情を見せ、中々の景色だった。
MY丸太椅子ではなく、リリィと私の椅子になったその場所に腰を降ろす。
「レイン。なんであの時あのグレーの猫が喋る猫とは違うって思った?」
「それは……」
どこからかガサガサと音がする。
草むらを掻き分ける音。
「おい……」
「シー」
私は立ち上がり口の前に指を運びながら音がする方向を探す。どうやら高台のすぐ近くの草むらからその音が聞こえるようだ。
私はその草むら周辺を無言で指差す。
やっと気づいたのかその場所になんの躊躇いもなく、リリィは突き進んでいった。
リリィが見覚えのあるお土産を持って戻って来た。
「こいつ多分、あの喋る猫だよな?」
リリィはグレーの猫をしっかりと抱き抱えていた。グレーの猫の口には包みに入った水色の飴がぶら下がっている。間違いなくその飴は私がリリィと出会った時にリリィが投げていた飴だった。
「おいっ さっさと喋りやがれ。お前にも聞きたいことがある」
「お、降ろしてくれ」
リリィはゆっくりとグレーの猫を下に降ろすとグレーの猫は器用に二本足で立った状態で話始める。
「猫が飴を食べても、問題ないと思うか?」
「ハァ?」
「頼みがある。この包みを開けてくれないか? しばらく食事をしてなくて死にそうなんだ」
「開けるのは別にいいけど、そんなもん舐めてもお腹一杯にはならないだろ? まぁこっちの質問にちゃんと答えるんなら考えてやる」
「わかった。知っていることは全て話そう」
リリィは飴の包みを開け、私の手の平にのせた。
「え?」
「いや器がないじゃん。だから」
変なところで細かった。というかなぜその役目が私なのか?断る理由もないので仕様がなくグレーの猫の口元に運ぶ。
「じゃあいただきます」
「……どうぞ」
まるで何かに取り憑かれたようにペロペロと飴を舐め始めた。
「フガッ……フガッ」
「ン……プフー」
くすぐったい。
そしてかつて体験したことのない手のベタベタ感が私を襲った。
「あの時お前はなんで三島トマリの家にいた?」
「あの家に住んでいたからだ。そして人間を襲っていたあの猫もだ。つまり私達はトマリに育てられていたということだ」
「お前ともう一匹との関係は?」
「兄弟だ。私の兄だ」
「最高の紛らわしさだったぞ。お前の回りくどい喋りも含めて。どうしてトマリを殺したのは、自分じゃないってあの時ハッキリ言わなかった?」
「あの時私に向かってきた自分の顔を鏡で見れば、あの時の私の気持ちがわかるだろう。あの目は理由も聞かずに生き物を殺す目だ。そんな人間を前にして私が出来るかことと言えば、逃げること以外にない」
「トマリを殺したのもお前じゃないってことでいいのか?」
「当然だ」
「兄貴があんな風になった理由は?」
「その前に聞いておきたい。あいつは……どうなった?」
「当然殺したよ。さくら橋の下の河で」
「……そうか」
「アタシはここにいる。兄貴の仇をとるか?」
「いや、私にそんな力はない。殺されて当然の存在だった」
「で? なんであんな姿に?」
「死者一名。入院した怪我人一名が出ているにも関わらず、なぜ一切報道されていないかわかるか?」
「さあ?」
リリィが私に視線を送る。考えてみたがわらないので、それに答えるように首を傾げた。
グレーの猫はゆったりと漂う私とリリィの?マークを吸い込みながら再び話し始めた。
「それはダイノ・コア製薬が圧力をかけているからだ」
「なんでそこでダイノ・コア製薬が出てくる?」
「兄はトマリの父親である三島コウジが、リーダーをしていたプロジェクトP・Rという実験に無理矢理参加させられて出来たモンスターだ」
「なるほど動物実験か。で? そのプロジェクトP・Rってのはなんなんだ?」
「プロジェクトP・Rはパトリオット・リターンズの略だ。ダイノ・コア製薬が米国のある機関から依頼を受け発足したプロジェクトだ。自分の中にある強い愛情や愛国心を反転させるウィルスを注入し、自分が心から守りたいものが、気づかぬうちに攻撃目標になるように思考を変換させる。つまり愛情が強ければ強いほど相手を殺し。愛国心が強ければ強いほど母国を滅ぼそうとするテロリストになる」
「じゃあお前の兄貴が三島トマリを殺したのって……」
「トマリのことがどうしようもなく好きだったからだ」
「それは……不幸な話しだ」
「それを知らずに、殺す役目を自ら選んだ貴様もまた、不幸だと思わないか?」
「そうか? アタシは自分の選んだ選択が不幸だとは1ミリも思わない。ある日を境に目の前の問題から逃げないと決めたんだ。仮にその選択が結果的に不幸だったとしても、その日に感じたミニサイズの幸せな瞬間。そうじゃない不幸な結果。それら全てを大好きな彼女の曲を聞くように体内に染み込ませ、気持ちの良い明日を迎える準備をする。それが私の生き方なのさ」
「いい意味で、若いんだな」
「さあね。それよりダイノ・コア製薬はなんでそんな実験をするんだ? その実験が成功したとしてその先に何がある」
「敵対国の人間を、大量に拉致してプロジェクトP・Rで完成したウィルスにより、愛国心の強い人間を母国に返せば、強靭な意志をもったテロリストが母国で母国の人間を殺してくれる」
「そんな手間かけなくても、アメリカが本気を出せば、どの国だって潰せるだろ」
「それは戦争だけじゃ片付けられない事情があるからだ。逆に言えば、それを理由に戦争を始めることも出来る。あの国が内包している問題は星の数より多い。可能であるなら、それを試さずにはいられない。人間が進化を続け、終着駅に辿り着いた時、もしその駅に一人も人間がいないとすれば、それはあらゆることを試し続けた成れの果てさ」
「なんかよくわからない話しになってきてるけど、ようは人を殺すためのプロジェクトってことだ」
「そうなる」
「変な話しだ。人を助けるために薬を開発する製薬会社が、人を殺すために動物実験をするなんてな」
「知ってしまえばなんてことはない。矛盾の先にある真実は、いつだって人間同士のいざこざか、なんの恥ずかしげも無く欲望を剥き出しにした、金儲けがほとんどだ」
「人間じゃないお前が言うと、説得力があっていいな。お前が人間の言葉を話せるのも、プロジェクトP・Rの影響なのか?」
「いいや。私は実験されていない」
「じゃあどうして人間の言葉が話せる? どうしてアタシの言葉が理解できる?」
「生まれつき話せた訳じゃないんだ。約二ヶ月前、葬式帰りのような喪服姿の男が人間の言葉を話せる自分を不思議に思うかと聞いてきた。わたしはその時点ではまだ言葉を話せなかったので、その男がなんの話をしているのか理解できなかったがなにを言っているのかは理解できた。男はわたしの額に人差し指で四角のような模様を書いた。その日、道に迷った一人の侍を黒猫が助ける夢を見た。朝目覚めると、その黒猫が自分の前世であることを思い出した。言葉を話せるようになったのはその日からだ」
「太田道灌を自性院まで導いた黒猫。日本で最初に誕生したケット・シー名前は、知恵を吸う闇。自分の部屋は小さい図書館みたいに本が一杯あって、そこであなたは大好きな本とあなたを慕う猫達に囲まれて暮らしていた。それがあなたの前世」
私の言葉にグレーの猫は、まるで面白動物写真のように口を開け、呆然としていた。
「レイン。お前もまさか千里眼の力があるとか言うんじゃないよな?」
「人を襲うグレーの猫が、ここにいる喋るグレーの猫とは、別の猫だって気づいたのには理由があるんだ」
「なんだよ、その理由って」
「リリィ私は、望めばあらゆる生き物をひと目視ただけでその生き物の前世が視えるんだ。ここにいる喋る猫の前世は黒い猫だった。だけど人を襲うグレーの猫を見た時、見えた前世は全く同じグレーの猫だった。今の話しを聞いてわかった。遺伝子操作で突然変異した瞬間、あのグレーの猫はその姿のまま新しい生を受けた」
「これじゃあまるで変人達の夜会だ。白須ミナイが加われば盛大に盛り上がりそうだ」
確かに白須ミナイがいればそうとう盛り上がりそうだ。
ついでに世界が何月何日に滅亡するのか聞いてみるのもいいかもしれない。
私はもう一つ頭に引っかかっていることがあった。
グレーの猫を真っ直ぐ見つめその疑問をぶつけた。
「どうして女性ばかりを襲ったのかな?」
「あくまで予想だが、兄はトマリを殺したことを認識していない可能性がある」
「なんで?」
「兄は突然変異して、人を襲うようになってから、トマリの記憶が薄れていったのではないだろうか。恐らくトマリを殺した後、薄れていく記憶の中、最後に残った記憶は三島トマリという存在から、自分を愛してくれていた顔も名前も分からないただの女の子に変化した。つまり最後に残ったのは、女であるという性別だけが残った」
「てことはトマリを探したいけど顔が分からないから、女性ばかり襲ってたってこと?」
「私はそう考える」
私&グレーの猫の話を聞いていたリリィが、納得いかない顔で強引に話しを奪い去る。
「さっきから普通に聞いてたけど、ダイノ・コア製薬のことも含め、なんでそこまで詳細に詳しく話せる?」
「詳しくは話せないが、トマリのパソコンを操作しダイノ・コア製薬にハッキングしていた」
「その毛むくじゃらの手で?」
「そうだ。大丈夫だ、問題ない。それよりお前達はすでに、ダイノ・コア製薬にマークされていると考え行動した方がいい。ただじゃ転ばない企業だ。サンプルデータ採取のため、恐らく今回の一連の事件を監視していたはずだ。すでに命を狙われている立場にあると考えるべきだ」
そこまでは正直考えていなかった。
そもそも考える余裕などなかった。
「お前はどうか知らないけど、アタシにそんな心配は必要ない。お前はさっきどうやって兄貴を殺したか聞かなかったな」
「……ああ」
リリィは丸太椅子の下に捨てられたジュースの空き瓶を、足でコロコロと移動させ、空き瓶を足で踏み付けバラバラに解体した。その中で一番大きくナイフのように鋭利に尖った破片を手に取り、手の平に大きなバッテンを刻みつける。
みるみる内に血液がリリィの手の平で踊り出す。
その真っ赤な刻印を分かりやすくグレーの猫に見せつける。
「お……おい。なにをしてる?」
「生憎、この世に生を受けてから、この体内で命を感じたことなんて一度もないんでね」
そんな告白を同情するかのように傷口が静かにゆっくりと塞がっていった。
「なるほどな。殺されなかったのではなく、殺せなかったということか。だがなぜ傷つかない?」
「アタシの前世はワラキア公ヴラド三世七番目の隠し子だ」
「コンスタンティン・クセナキスの生まれ変わり? 確か……ルーマニアで最初に誕生したヴァンパイア。ヴラド・ツェペシュの息子であり七番目の隠し子。だがお前がそいつの生まれ変わりだとして、なぜその力を引き継いでいる」
「そんなんアタシが知るか。なにかやり残したことでもあるんだろ。それにアタシはヴァンパイアじゃない。傷つかないだけ」
「お前はいいとして、こいつはどうする?」
グレーの猫が私を指差す。
というか肉球差す。
「守るさ。絶対にっ」
「……無謀だ」
リリィが私の頭をグルングルンと回しながら言った。
目が回る。
私は立ち上がり無言でグレーの猫を抱き上げ、モフモフした身体に顔をつける。
「な、なにを……している」
再びトマリのことを想い出し涙がポロポロとこぼれた。
「リリィ?」
「どうした?」
「私がこの猫さん、飼っちゃ駄目かな?」
「アタシに聞かないでそいつに聞けよ」
私とリリィは猫さんを見つめる。
「……いいのか? こっちとしても、できればそうして貰えると助かる。トマリの家にはもう戻れない。三島コウジの精神状態はすでにまともじゃない。恐らく次は私が実験のために連れていかれるだろう。それに……私に、野良猫生活は耐えられない」
「じゃあ決まりだね。フフ」
泣きながら笑った。
鼻水も出てくる。
「なぜ笑う?」
「だって、猫さんクサイんだもん。帰ったらまずお風呂だね」
「現在のわたしの体臭が人間に対して不快感を与えていることは理解している。大丈夫だ。入浴は嫌いじゃない」
「レイン。本当にこいつ飼うのかよ。アタシは嫌だぜ。お前の家に行くたびにこんなニュースキャスターみたいな喋り方の猫がいるなんて」
「貴様とはいつか出るとこに出て、白黒つけた方が良さそうだな」
「出るとこに出れないだろうがっ」
その時なんとなくこの高台に来るための唯一の一本道である林に囲まれた上り坂を見ると、こちらに向かう人影が見える。その人物の軽やかな足取りは、迷うことなく私の立っている場所に向かって来ていた。
生きる喜びを表現したような歩き方。
きまぐれな夏の風でさえ傷ついてしまいそうな黒くて長い髪。
十一月。嫌いな男子に告白されて振った帰りに降った初雪のような白すぎる手。嘘が嫌いな瞳。
世界の秘密を解き明かしたような微笑み。
永遠に見ることはできないと理解した直後だったのに。彼女は私の前にその姿をなんの前置きもなしに見せつける。それはまぎれもなく私がついさっき死んだことを受け入れた三島トマリ本人の姿だった。
「トマ……リ? どうして……」
「レイン。元気にしてた? ごめんね心配かけて。安心して、私は死んでないから。殺させて」
「本当に無事でよかっ……」
「殺させてよ」
「え!」
「一度でいいの。お願い、殺させて」
「トマリ?」
「私……今すぐレインを殺したい」
「な、なんでそんなこと言うの?」
「私おかしいこと言ってるかな? だってただ殺したいだけだよ」
「もうやめてよトマリっ やっと会えたのに……こんなのってあんまりだよ」 「でもレインのことも好きだから……殺さないと」
「トマリの言ってることが私には理解出来ないよ……ねえトマリ、織田先
輩と羽田先生、それと池田君も行方不明なんだけど一緒じゃなかった?」
「織田先輩は十四回。羽田先生は九回。池田君は七回……じゃなくて八回か」
「どういう……こと?」
「私が学校の屋上からみんなを落とした回数」
「落とした……って」
「うん。落としたの。人間て以外に丈夫なんだよ。なかなか死んでくれないから、回数が増えちゃった」
「嘘……だよね?」
「嘘じゃないよ。当然人を殺すのはよくないことだって分かってる。でも必要なことだからちゃんとやらなくちゃいけないの」
「人を三人も殺すことが必要って意味わかんないよ。トマリの言ってることが私には理解出来ないよ」
「証明した。私はちゃんと証明したんだよ。そしてレインがその最後。だからちゃんと殺させてね」
もうなにを言っても無駄に思えた。トマリの言ったことが仮に嘘だったとしても、それを平然と喋り続けるトマリがあの頃とは全く別の生き物のように思えてくる。一点の曇りもないその瞳と、昔からテンションが上がると外国人のように、身振り手振りを加えながら話す癖。そんな時は紛れもなく真実を語っているということを想い出した。
送信を続ける私の言葉達は全てトマリの足の下に落ち、ぐちゃぐちゃに
割れて、使い道のない生卵のように無意味な物になった。
「あの人が最後に気づかせてくれた。レインが小学校の頃私に教えてくれた秘密、あの時はあまりに突拍子もない話で笑っちゃったけど今なら分かる。確実にその事実を受け入れたんだ」
「なんのこと?」
「忘れちゃったの? ケット・シー。私の前世がケット・シーだよってレインが教えてくれたのに」
「……ケット・シー」
「それを……想い出した。私の前世……歴代ケット・シーの中で最も多くの人間を殺した、猫の王様。最初の虹」
「トマリ……」
「その事実を思い出した私は今この街で再び猫の王様になった。人間なのに猫の王様。なんか矛盾してるよね」
トマリは微笑みながら、夜空を照らす満月を見つめながらそう言った。
トマリが行方不明の三人を殺した。どうしてそんなことをしてしまったのか私には分からない。私の知るトマリは殺されるような弱さはあっても、人を殺すような強さは無かったはずだ。屋上から三人を何度も落としたということはつまりグラウンドにあった血の水たまりは彼等の血。凹みは高い屋上から落下した時の痕。
「おい嘘つき猫っ 三島トマリは死んでないぞ。どうなってる?」
「私の兄が三島トマリを襲うのを確かにこの目で見た。生きているはずがない」
「おいっ」
「待て考えてる。きっと……こいつもプロジェクトP・Rの感染者だ。愛する三人を屋上から落として殺害し、殺したいほど愛する人間はレインで最後ということだろう」
「……なんだよそれ」
トマリもプロジェクトP・Rの感染者?コウジおじさんは自分の娘のトマリを実験台に?トマリがこんなにもおかしくなってしまったのはそれが原因。平然な顔で私にトマリ捜索を頼んだコウジおじさん。狂っている。コウジおじさんは完全におかしくなってしまったんだ。
「レルバ。どうしてあなたが人間の言葉を話せるのかはあとで聞くね」
「三島トマリ。レインを殺したらもうあとには戻れなくなるぞ」
「初めから戻る道なんてなかったんだよ……きっと」
「殺したいという気持ちはウィルスが原因だ。その感情を受け入れる必要はない」
「……かもね。だけどもう今となってはどうでもいいかな。うん」
「そんなことはない」
トマリが突然右手を真っ直ぐ上にあげる。すると林の中から次々と沢山の猫達が現れ、その数は瞬時に膨れあがり三百を軽く超えた。町中の全ての猫達が集まったような大群は私達を完全に包囲し、獲物を見るような六百以上の目が妖しく光っていた。普通の猫達だとしてもこの数は恐怖だ。
「レイン。どうして三人の遺体が見つからないと思う?」
「……なんで?」
「それはね……無いから。遺体はもうどこにも無いの。ここにいる猫達が綺麗に食べた。骨は猫達の大量の唾液で完全に溶かしたの。だから遺体はもう存在しない」
「……」
トマリが昔から変わらない穏やかな表情で、次々と差し出す情報全てが私の想像を遥かに超え、眩暈が始まる。今にもこぼれ出しそうな憂鬱さの吐き出し口を探していると、私の両腕の中に収まっていた猫さんが私の腕をポンポンと二回叩き地面を見つめた。指示通り私は猫さんをゆっくり地面に降ろす。猫さんはすぐに二本足で立ち上がった状態のまま周りを睨みつける。
「よく聞けっ ここに集いし同朋達よ。わたしは日本で最初に誕生した猫の王、知恵を吸う闇。皆も一度は知恵を吸う闇の伝説は聞いたことがあるはずだ。あの話はおとぎ話などではない。実在するわたしの話だ。その女の国は近い内に必ず崩壊する。人間が治める猫の王国など聞いたことがない。その女の国を抜けるなら今だ。その気がある者はすぐにこの場から去れ。その女が治める偽りの国に留まる者。ここにいる女二人に危害を加える者は、我々が作り上げた我々のみに適用されるルール、猫が猫殺害を認める特例法174条に基づき全ての者を抹殺する」
「レルバ……一体なにを……」
「本物のケット・シーを見るのは初めてか?」
猫さんの盛大なハッタリにお互いの顔を見合わせる猫達はポツポツと林の中に消えて行き、最後に残った猫は偉大な前世を持つ猫王たった一匹となった。
「猫の集会はもう終わりかよ?」
一人残ったトマリにリリィが呟く。
「彼等はあくまで死体処理担当。レインを殺すのは私。だから問題ない」
「そうか。だったらさっさと始めようぜ」
リリィは返答を待たずにトマリの顔を鷲掴みにして、全体重を載せて小さい頭を地面に叩きつけた。
「な……なんだ……お前?」
その言葉にトマリを見ると、覆われた顔から唯一見える口がニヤリと嫌な微笑みを作りだしていた。
そんな不敵な笑みよりも異常で、目を疑いたくなるような日常から逸脱した光景が目の前に広がっていた。地面に叩きつけられたはずのトマリの身体が地面から十五センチほど浮いている。まるで身体の下に見えない透明のガラス板があり、それによって支えられているかのようにしか見えない完璧な浮遊。長い黒髪も地面に触れるのを嫌うようにゆらゆらと地上十五センチを漂っていた。
「ケット・シーが操るのは人間の言葉と……魔法」
「魔法だって?」
「そう魔法。ていうかそろそろその手、離して」
「……チッ」
「人間一人を浮遊させるには本来二十七の行程を経て実現するんだけど、私はイメージするだけで一瞬で浮遊させられる。なぜなら人体浮遊の術式を世界で初めて構築したのが私の前世である最初の虹だから。だからこんな話をしながらでも、あんな風にレインを浮遊させることもできるってわけ」
「なっ!」
気づいていた。私は数分前から確実に浮いている。リリィが心配そうな顔で私を見つめる。大丈夫だよリリィそんな顔しなくても私は平気。自分の意思とは無関係に浮いてるのは少し気味が悪いけど。
「やめろ。やめてくれっ」
心からそんな風に思っているであろうリリィの初めて見る悲しい顔。
「どうして? どうしてレインにそこまでこだわるの?」
「お前と同じで……アタシもレインが大事なんだ」
「やっぱりあなた邪魔……飛べっ」
リリィの身体がゆっくり上昇する。高く高く。高く高く。女の子が手の力を緩めて飛んで行ってしまった風船のように。瞳に映るその身体は小さく小さくなっていく。リリィと満月が重なって一つになった辺りで上昇は停止した。あの異常な高さから落ちてもリリィは死なないだろう。でも痛みは確実にある。あんな高さからの落下は痛みなんて中途半端な言葉じゃ表現できない。
「トマリ。やめて。殺したいのは私なんでしょ?」
「そうだよ。だから邪魔する人間も……殺すの」
トマリがリリィから視線を離すと落下が始まる。
「やめてぇぇぇぇぇぇぇ」
目を閉じ両手を広げたリリィが急降下する。
人が落ちて行く瞬間を私は見ている。
人が落ちて行く瞬間が私の網膜に映っている。
人が落ちて行く瞬間に私は無力を知る。
人が落ちて行く瞬
グシャバキッ
高所から人間が地面に勢いよく叩きつけられる落下音は嫌になるくらい
想像通りだった。地面に突き刺さる肉と骨の音は、私の頭蓋骨にも突き刺
さり強く振動した。恐る恐るリリィを見ると脚と首があり得ない角度に曲
がり、得体の知れないアート作品のように停止していた。眼球から流れる血液が落下の衝撃を物語っている。なのに私の目から涙は出ない。さっきの化け猫との戦闘の時に見た、肉体の再生が始まる気配はない。そもそも今心臓が動いてるのかすら分からない。
「レイン。私はあの三人が好きだったの。本当に心から愛していた。だから本当は殺したくなんかなかった。でもあの時は止められなかったし、そうしなきゃって思ったんだ。今もレインを早く殺さなきゃならないって思うの。だからお願い」
「ウチにはそうは視えないね」
背後からの声に振り返ると松葉杖を両脇に抱えた白須ミナイがそこにいた。
「誰? あそこに転がってる骨が飛び出した肉の塊になりたい? そうして欲しいならすぐに望みを叶えてあげる」
「三島トマリはウチにそんなことしないよ。初めまして。ウチの名前は白須ミナイ。あんたが飼ってた猫に襲われた被害者の一人さ。安心して。ウチはあんたの邪魔をしに来たわけじゃない。ただ言いたいことがあったから来ただけ。ウチ的には別にあんたがプロジェクトP・Rに実は感染してないとか、行方不明の三人を病的な方法で殺した理由が実は告白して振られた逆恨みによることとかそんなことはどうでもいいんだ」
「な、なにを言っているの?」
トマリがプロジェクトP・Rに感染していない?白須ミナイの言葉にトマリは俯き、言われたくなかったことを言われてしまったような顔をしていた。
「知らない振りしたって無駄だよ三島トマリ。ウチには大体のことが視えてるんだから。あんたはさっきレインにあの三人を本当は殺したくなかったって言ったけど、それは嘘。あんたは三人に想いを伝えたものの見事全員に振られた。殺したのはプロジェクトP・Rとかいうウイルスが原因じゃない。単純に自分の愛を否定されたことに対しての逆恨みさ。そこで残念だったのはあんたが魔法を使えてしまったこと。簡単に人を殺せてしまうお手軽な力が使えてしまったことさ。男に振られたぐらいであんな殺し方をする理由がウチには分からない。でもあんたはそれを実現させた。より病的な方法で。そうしたのは自分ではなく、あたかもウィルスが原因であるかのように装おって」
「……もう黙って」
白須ミナイの話しを聞いて私は理解した。多分最初に殺された織田先輩
はトマリがあの日、海で話した二年間思いを寄せていた先輩だ。そして恋
愛小説が大好きだったトマリには、自分の恋愛に確固たるイメージがあった。それらが全て否定され叶わないと理解し選択した。
本来なら選ぶはずのない隠された解答を……
「まあウチにはそんな話しはどうでもいい。ただ嘘が嫌いでさ」
「散々聞いてもないことベラベラ喋っておいてどうでもいい?」
「ウチが今から話すことを聞けば三島トマリも今話した自分の恥ずかしい話なんてどうでも良くなるはずさ」
「だからなんの話し?」
「三島トマリ……あんたはここで死ぬ」
「はあ?」
白須ミナイは首から長く垂れ下がっている銀の懐中時計に目を向けた。
「もう二分を切ってる」
「有り得ない。私が死ぬはずない」
「これだけ話してもまだ理解できない? 三島トマリは想像力がないのかな? もう視てきたんだよ。あんたがちゃんと死ぬところ」
トマリがここで死ぬ。やっぱりリリィが殺すんだろうか?
「じゃあ……どうやって死ぬのか教えて」
「残念だけど三島トマリがそれを聞いても回避はできないよ」
「……」
「人の死はそう簡単には覆らない。ウチが視たんならそれはもう決定された事象と言っていい。仮に人一人の決定された死が覆るとすればそれに見合ったエネルギー それに見合った奇跡のようなものが必要になる。だけどウチはそれを視てない。助けにきたわけじゃないんだ。ウチがここに来たのはね、三島トマリがここで確実に死ぬことを伝えにきたのさ」
「……そう。こんなことになるくらいなら一方的にただ好きでいるだけで良かった。勇気を出して前に進もうなんて考えるんじゃなかった。ねえレイン。恋愛小説が大好きだった私の恋愛がこんなに恋愛小説からかけ離れたものになるなんて笑っちゃうよね……」
「……トマリ」
「明日は……」
トマリの言葉が突然停止して穏やかな顔から驚きの顔に満ちた表情へと変わった。そして目一杯に見開かれた瞳でゆっくりと自分の背後を見た。
「どうして……死んだはずじゃ……」
「……レイン。アタシを嫌いにならないで欲しい。もう……こうするしかないんだ」
トマリの背中にピッタリとくっついたリリィの姿がそこにあった。リリィはそう言いながら胸元に手を当て目を閉じた。少し痛そうに表情を歪め胸元に当てていた右手を開くと、ミニチュアサイズの錆びたレイピアのような形をした物体がリリィの血液に塗れて出現した。今度はそれを強く握り締めるとミニチュアサイズの錆びた剣はリリィの右手から消えていた。それからすぐにリリィの右手から黄金色の強烈な閃光が生まれる。あまりの眩しさに私は目を覆う。
ビュン
ビュン
そんな聞きなれない音に目を開くとリリィの右手にはミニチュアサイズから実物サイズへと変貌を遂げた本物の剣が握られていた。
今にもトマリを突き刺そうとその先端はトマリの胸に向けられている。
リリィの顔はトマリを殺すこと以外に今は興味がない。そんな表情だ。
そんな最終宣告のような表情に私は一度目を閉じ暗闇で九枚の輪になったドア達に囲まれた自分の姿をイメージする。それが人間の前世を視るための手順だった。ゆっくりと目を開き、トマリの前世である最初の虹を見つめる。喋ることのないケット・シーは見られていることに気づいたのか私を見つめ返していた。
「レイン……お願い……助けて」
トマリの救済を求める震えた声。
「諦めろ。この状況だってお前が選んできた様々な選択肢の中の一つなんだ。お前は考えに考え……考えるのをやめたんだ。残ったのは他者をおもちゃみたいに傷つける。それだけさ。そんなことをしても無条件で自分を許してくれる相手のリアクションをお前はずっと願ってる。レインなら許してくれると思ったんだろ? プリンセスケーキ並の甘さだぜ。ほんと笑える」
リリィはそう言いながら剣の先端でトマリの胸を捉えながら右手を後ろに引く。
「終わりだ」
カチャ
ヒュン
「……レイン?」
「……」
トマリの命を奪うために走り出した剣の先端は、トマリの足元にある草むらに突き刺さっている。私の両手はまだ剣を握ったままのリリィの右手を強く握っていた。
「駄目だよリリィ……そんなことは私が絶対にさせない」
「なんで止めたレインっ こいつは殺さなくちゃダメだろ?」
私には視えていた。最初の虹は明らかに苦しそうな顔をしている。私はこの重く冷たい剣で地面ではなく最初の虹を突き刺した。トマリの前世である最初の虹に実体がないことは分かっている。今までこんなことをしたことはない。最初の虹のこの顔は痛み?きっとこの剣になにか不思議な力があるということだろう。
「……くっ」
私はリリィの右手ごと剣を持ち上げ、もう一度最初の虹を突き刺す。草むらの上に横たわる最初の虹は完全に動かなくなりキラキラした光の粒子のようなものが見えたあと、その光と一緒にゆっくりと消失していった。
「なにをしたレイン?」
「……最初の虹を……殺した」
その言葉にリリィは少し考え込んで、目を丸くして現状把握に努めるトマリに視線を向け直す。
「なぁ もう一回浮遊させてくれよ?」
「……浮遊って?」
「魔法だよ魔法。イメージするだけで人間を浮遊させることができるってさっきお前言っただろ? お前の前世である最初の虹が作った人間を浮遊させる魔法だよ」
「……なんの話をしているのかわからないんだけど」
「……そうか」
「ていうか……なにしにここに来たんだっけ? レイン。今日ここで約束してたっけ?」
「……うん。もういいの。トマリと会えただけで」
「そう。私そろそろ帰るね」
「……うん」
帰って行くトマリの背中を見つめる。トマリはついさっき自分がした話すら覚えていなかった。最初の虹を私が消したことによりトマリの頭から魔法や前世による記憶が抜け落ちていた。私が人間一人の前世を消した。
前世そのものも。
その前世がなんだったのかを思い出した人間の記憶すらも。
「リリィ……私は人間一人の前世を……」 「綺麗に消した。もうあいつは魔法を使えない。単なる三島トマリ」
「トマリはこの先どうなると思う?」
「殺すつもりだった奴の未来なんて考えてないよ」
「そう……そうだよね」
「花園レイン。なぜ三島トマリを殺すのをやめた?」
「私はリリィにそんなことして欲しくなかったんだ」
「簡単に言ってるけど……これは良くない」
「なんで?」
「ウチが視た通りにならなかった時、そのルートは確実に死の連鎖を呼び最悪の結末で終了することになってる」
「その死の連鎖にお前が含まれてなきゃいいな」
「……」
「なんだよ。冗談だろ?」
「今の五月雨リリィには花園レインのしたことの意味が理解できないみたいだからまたにするよ」
白須ミナイは最後まで納得いかないような顔で、無言のまま帰って行った。
トマリはただキラキラとした普通の恋愛がしたかっただけなのに、思い続けた時間の長さと魔法が使えたことにより最悪のシナリオに変換されたのだ。最後に思うのはトマリがプロジェクトP・Rに感染していなかったのに、なぜ私の所に来たのか?私に全ての罪を打ち明けて止めて欲しかったのだろうか?それともリリィが言ったように私にだけは他者を傷つけ続ける自分を受け入れて欲しかったのだろうか?
トマリに三人を殺した記憶はもうない。それを知っているのは私達だけだ。残された結果の未来をこの先私達は傍観するしかないのだろうか?
「……それとも」
「レインさっさと帰ろうぜ。これ以上空腹に耐えられない」
「……そうだね」
「帰りにコンビニに寄ろう。そして今日はレインの家で、前に好きだって言ってた映画を見る。そしてアタシは泊まる。今決めた」
「ええ? あれ土曜日に見るんじゃないの? それに明日学校だよ」
「いいかレイン。お前も知ってると思うが世間はゴールデンウイーク終盤だ。どんな理由があるのかは知らない。もしかしたら学園創設者がゴールデンウイークにとてつもない恨みがあるのかもしれない。アタシの知る限り学校という機関の中で、ゴールデンウイークが存在しないのは斗明学園だけだ。だから休むのを恐れるな」
「いや別に恐れてないし。わかった。だけど部屋の掃除はさせてね」
「よしっ 手伝ってやる」
「駄目だよ。見られたくないのっ」
「斗明学園になぜゴールデンウイークがないのか知らないのか?」
「猫。お前知ってるのか?」
「ああ。帰ったら聞かせてやる」
「絶対だぞっ」
「ああ」
そうして私達ヘンテコ二人とヘンテコ一匹は、小さな山を降り近くのコンビニに向かって歩きだした。
薄暗い住宅街を歩いていると、お腹が空いて早く何かを食べたいという気持ちの現れか、いつのまにか猫さんが先頭をきって歩いている。
「おいレイン。あいつの首の辺り見てみろよ」
リリィが突然小声で話し出す。その言葉に猫さんの首の後ろをよく見ると、ある模様が浮かび上がった。
あんな模様があるなんて気がつかなかった。
私はすぐに上空を指差す。
リリィは瞬時に私の考えを察知し、笑いを堪えて口を抑えた。
「おい猫。アタシ達はお前を何て呼べばいい?」
「呼び名か。どう呼んでもらっても構わない。トマリは私をレルバと呼んでいた」
「少し堅いなその名前。よし。その名前は心の中で大事にしまっておけ。いいか? これからは飼い主が変わるんだから新しい名前が必要だ。今からその名前をアタシとレインで同時に発表してやる」
「大袈裟だな。まあいい。好きにしてくれ」
私とリリィは互いを見つめる。
同時に口元を見ながら、せえのとユニゾンさせた。
「満月」
「満月」
そうしてリリィと私はその場で大笑いした。
リリィは涙を流すほど笑っていた。
私も暫らく笑いの波をコントロールすることが出来ず笑い続けた。
満月の首筋には綺麗な丸い満月のような模様があったのだ。
「何がそんなに可笑しい? 今日が満月だからそんな名前にしたのか?」
満月は自分の首筋を見たことがないらしく、笑い続けるリリィと私を、まるで月からやって来た未知の生命体に出会ってしまったような顔で見つめていた。
私は再び空を支配している満月を見上げた。
得体の知れない大きな存在が
今日は少しだけ
笑っているように見えた。
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