第43話

 セシオラは心臓が飛び出るかと思った。


 目の前に立つ七星は超重要人物。

【アイギス】を立て直すきっかけを作った凄腕の設計士。

『可能な限り生け捕りで』と指定されている者。

 地球側がその頭脳と技術を喉から手が出るほど欲しているのだ。


 そんなことが脳内を駆け巡ったせいで謝罪が遅れた。

 慌てて口を開こうとしたが、七星が先に声を発することになった。

「辛いことがあったら、ココアを飲むと良い」

 そう言って自身の持っているカップを差し出してくる。

 セシオラは一瞬、何を言われたのか分からなかった。

 でも少しして、ああそうか、と分かった。この人はわたしを気遣ってくれているのか。

 どうやら七星の人物情報を脳内検索していて謝罪が遅れたことを『辛くて謝罪の言葉すら言えない状態の女の子』と勘違いしたらしい。

 この優しさは利用させてもらうことに決める。まさか『あなたが生け捕り対象になっていることを思い出していました』なんて言えないし。それに、実際辛いし……

 おずおずと手を出してカップを受け取った。

 まだかすかに湯気がたっており、温かさが見た目から伝わってくる。

 よく七星のことを見てみると、何だかカッコいいと感じた。

 黒髪の短めでボサボサ頭、太い眉で彫りの深い顔。

 見る人が見ればカッコいい、なのかもしれないが。

 ココアを貰った分の補正が大きいのだろう。


 二人でベンチに行き、腰かける。

 セシオラはココアの水面を見つめ、どうしていいか分からなくて何も言えなかった。とりあえずお礼くらいは言った方が良いかな……

 しかし、またしても七星に先を越されてしまう。

「とりあえず、顔は拭いた方が良い」

 今度はハンカチを差し出してくる。色々出てくる人だ。

 顔を拭く……はて、顔に何かついているのだろうか?

 セシオラは片手でぺたぺた顔を触ってみるが、特に何も無さそうだ。

 七星が手振りで目尻を示している。

 そこでやっと分かった。

 涙が多少、放出されてしまっていたらしい。

 手で触っても分からなかったのは、涙が体温と同じくらいだからか、などと思ってしまう。

 急いでハンカチで顔を拭いた。

 何だか急激に恥ずかしくなった。

 涙を見られたのと、ハンカチでごしごし顔を拭いた姿を見られたこと。どうしようもない子供だと思われたかもしれない。

 七星は特段気遣う風でもなく、喋り始めた。

「俺はな、釣りをしたことがあるんだが……まあ、地球にいた頃だな。十歳とかその辺りだ。【アイギス】にのぼる前は地球にいたんだよ。爺さんの家に正月行ったんだが」

 祖父に釣りに連れて行ってもらった七星は最初に注意を受けた。

『ワシより早く釣ったらタダじゃ済まさん』

 最悪だった。

 孫を相手に本気の精神攻撃を仕掛けてくる祖父とはいったい何なのか。

 しかし当時の七星にしてみれば相手は圧倒的な存在であり、逆らえるわけもなく。

 家から歩いて三十分の池で恐怖の中、釣りが始まった。

 釣れるなよ、釣れるなよ……七星は念仏のように唱えた。

 だがそんな時に限って竿に大きな手応えが来てしまう。

 七星は今日が初めての釣りだ、それなのに何でこんなに簡単に釣れてしまうのか。

 祖父の片眉がぴくりと上がる。

 そしてゆっくりと顔の向きを変えて睨み付けてきた。

 必死に七星はこの場を切り抜ける術を考えた。

 釣れていない、と言い張るか。

 ゴミが引っ掛かったと言い張るか。

 一番無難なのはしばらく釣ろうと試みて魚にうまく逃げられてしまうパターン。

 手応えはあるがまだ魚は水面下にいる、このパターンでいこう。

 七星は右へ左へと竿を振って魚を振り落とそうとする。

 しかしなかなかルアーが外れてくれない。

 おいこれだけチャンスをやってるんだから早く逃げろよ、魚!

 運動だけではない汗が額に浮き出てくる。

 次第に、手応えが明らかに軽くなった。

『…………おい、もう上げられるぞ』

 祖父が地響きのような声を出す。

 七星は仕方なく竿を上げた。

 魚はもう諦めたように、スッと水面から顔を出した。

 釣り上げた魚は子供の手より明らかに大きい。

 しかし喜びよりも不安の方が大きかった。

 タダじゃ済まさんと言われているのだ。

 恐る恐る祖父の顔を見ると、祖父は額に血管を浮かび上がらせ鬼の形相をしていた。

『貴様、何故竿を左右に振って魚を弱らせるような芸当を知っている……!』

 本気で悔しそうに歯ぎしりをし、ぷるぷると拳を震わせる祖父。

 祖父は一度血圧が上がり過ぎて救急搬送されたこともある、何とか納めなければ。

 ごくりと唾を飲み下し、釈明を考える七星。

 祖父の手が伸びてくる。

 七星は目を瞑ったが、祖父が掴んだのは魚だった。

 そして祖父は魚からルアーを外す。

 祖父はかがんで水面に近付き、手を伸ばしてそっと魚を逃がした。

『魚に怪我をさせないルアーを使っておる、体力が戻ればまた元のように泳ぐだろうよ』

 七星はとりあえず矛先がこちらへ向かなかったことに安堵していた。

 祖父が言っていることはよく分からないが、とにかく助かった。

 その後は七星が釣り上げては魚を逃がし、釣り上げては逃がし、という一日だった。

 夕方になって帰る時、祖父は自身が使っていた竿の先を見せた。

 そこにはルアーがついていなかった。

『あの池のほとりで水面を眺めていると、嫌なことが忘れられるのだ』

 そんな祖父の一面を見たのは初めてだった。


 七星は頭を掻きながら話を結ぶ。

「いや、まあ、それだけの話なんだがな。まあ、なんだ……嫌なことがあったらボーッとこういうところで周囲を眺めて過ごすのも、良いぞ」

 そんなとりとめのない話にセシオラはいつの間にか聞き入っていた。

 その何でもなさが良いと思った。大きなお題目は要らない、ありがたいお話も要らない。ただ単に、何でもない話が嬉しい。

 ココアの水面を眺めてみる。

 それから一口、すすってみる。

 そうしたらココアが口の奥へ行き、喉からお腹の方へ移動していくのが鮮明に感じられた。

 ココアの通り道がぽかぽかしてきて、優しく癒されていく。

 七星は自身の話しぶりに納得がいかなかったのか、うまいこと言えないもんだな、とぼやいた。

 セシオラはそんなことない、という意思表示として首を振った。

 それからもう一回、ココアを口に含む。

 癒しが体の中に入っていく。

 ほぅと一息つき、ようやく言葉を発した。

「ありがとうございます」

 癒しが入っていったところから、自然に、するっと出てきた言葉だった。

 七星はボサボサ頭を掻いているポーズで硬直し、セシオラの表情をうかがい、頬を緩めた。

「少し落ち着いたようだな?」

 セシオラは小さく頷いて、はにかんだ。この人は不器用なのかもしれない。不器用なのに励ましてくれようとして、なんだかぐだぐだになって。良い人だ。この人もネルハと同じ宇宙人か。宇宙人、か……

 セシオラは『宇宙人』という言葉に侮蔑的な意味合いを持たせていないが、単純に『地球の外で長く暮らしている人』という区別として使っている。

 逆に『【アイギス】生まれ』『地球生まれ』という言い方はしない。

 七星のように地球で生まれてから【アイギス】へ行った者もいるからだ。

 その分ではセシオラ達の方が言い回しとしては正確性が高いと言えるだろう。


 セシオラはぼうっとベンチから見える風景を眺めた。

 壁に海の映像が流れている。

 臨場感たっぷりで、地球のあそこだ、と見当もつく。

 控えめに音声も入っていて、波の音も聴こえてきた。

 目を瞑れば潮の香も思い出される。

 砂浜に立つ感触も、体全体で感じる海風も。

 何だろう、ぼうっと眺め始めたら五感が戻ってきたかのように感じてしまう。

 それまでは何の情報も感じられなかった、五感が塞がっていたのではないだろうか。

 いや、鈍らせていたのか。

 辛かったから。


 休憩所には二人以外誰もいなく、ゆっくりとした時間が流れているようだった。

 時間の流れさえ、こうしてみて初めて感じられるのかもしれない。

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