11 澄子が見た夢

 夏休みに入って四日目の昼、五○六号室に澄子が来た。

 夏休みの宿題を終わらせるために連日机に向かっていた夏帆の部屋のドアが激しくノックされた。

「どうしたの」とノックの音と同じくらい大きな声で夏帆が返事をすると奈緒美はドアを開けた。

「澄子ちゃんが来た」

 そう言った奈緒美の横には確かに澄子が立っていた。澄子は五○四号室に泊まる時に持っていくリュックサックを背負っていた。

「どうしたの」

 今度は驚いた声で澄子に聞いた。

「大樹がいないからこっち来た」と澄子は言った。

「いなかったって、どっか行ってるの?」

 買い物だろうかと夏帆は思って言った。澄子は、絵本を見にいった、と答えた。

「は?」

「どっかの美術館で、絵本の展覧会をやってるの。それで朝早くに電車に乗って行っちゃった。私誘われてたんだけど断っちゃったから今日大樹と会えない」

 澄子の喋り方には落ち着きがなくて、何かがあったのだということは明らかだった。

「澄子、どうしたの。何があったの」

「母さんが妊娠した」

「え?」

 驚きのあまり何も言えないのか、澄子が詳しく話すのを待っているのか、わからないまま夏帆は黙ってしまった。

「ちょ、ちょっと待って」と奈緒美が言った。「嘘、妊娠? 洋子ちゃんが? え、誰? 誰の子なの?」

 奈緒美は混乱したまま澄子の答えを待たずにあれこれと聞く。澄子は、本当です、父の子です、と答えた。答えるなり澄子は泣き出してしまった。

「え、ちょっと、澄子ちゃん?」

 奈緒美は助けを求めるように夏帆を見た。

 澄子を落ち着かせなくてはいけないし、自分が落ち着かなくてはいけないし、それと母を冷静にさせなければならない、と夏帆は思った。思うだけで、どれもできず、奈緒美と澄子を交互に見ていた。

「私もう嫌だ」と澄子は泣きながら言った。

 澄子はいつまでも立ったまま泣いていそうだった。立ったまま泣くのは辛いだろう、と思うと夏帆は立ち上がることができた。

 澄子の傍に歩いていって肩に触れ、しゃがませた。それからリュックも下ろさせる。やがて澄子は床に尻を付いて、そのまま夏帆が退屈に思うほど長い間泣いた。

 澄子の泣く声が収まってきたところで、夏帆は自分の部屋の中に澄子を入れた。

「好きな所にいていいよ」と夏帆は言った。

 澄子はベッドに横たわった。澄子は窓の方を向いて、夏帆に背中を向け、すすり泣いていた。そして泣き止むと澄子は眠ってしまった。

 洋子の妊娠がこのように澄子の心を激しく乱したことが意外で、どれだけ洋子のことを憎んでいるのだろうか、と夏帆は疑問に思った。嬉しくはない、ということはわかるのだが、どのような気持ちで泣いていたのか夏帆には想像できなかった。


 一時間眠って澄子は目を覚ました。寝返りを打つように夏帆の方を向いた。夏帆は夏休みの宿題として出された薄い冊子の問題集を解いていて、澄子が起きたことに気付いていなかった。

 見つめていたら気付くだろうかと思って澄子は夏帆を見ていたが、一分ほど経っても気が付いてくれなかったので、

「おはよう」と澄子は横になったまま言った。

「うん、おはよう」

 夏帆は顔だけ澄子の方に向けて言った。

「なんか涼しい」

 寝起きでも涼しさがわかってしまうくらい、部屋は冷えていた。夏帆は持っていたシャープペンで窓用のクーラーを指して、冷房つけた、と言った。

「ありがとう」と澄子は言った。

「今日は暑いからね」

「考えたんだけど、新しく子供が産まれることは私にとって嬉しいことだと思う」

 澄子がそう言うと、夏帆は呆れたように笑う。

「考えたって、寝てたでしょ。さっきまで」

「夢の中で考えたの」

 澄子は先ほど見た夢のことをまだはっきり思い出すことができた。

 夢の中で澄子は三歳児とダイニングにいた。三歳児は以前見たアルバムに収められていた写真の、三歳児だった時の自分によく似ていた。しかし澄子にはそれが自分ではなく、自分の妹であることがわかっていた。

 澄子と三歳児はダイニングの椅子に向かい合って座っていた。三歳児は無表情に澄子をじっと見ていた。

 泣きたいなら泣け、と澄子は言ってしまいたかった。

 どういうわけがあるのかはわからなかったが、三歳児は澄子のことを怖がっていると澄子は思っていた。

 しかし三歳児は全く表情を変えない。澄子の方が三歳児のことを不気味に思って、目を逸らした。

 すると母と父が腰を抱き合ってキスしながらキッチンから登場した。母は僅かに飛んでいて、父に上を向かせて唇を吸っていた。そして母の右手は父の股間をズボン越しにさすり始める。

「何してんの」と澄子は冷たい声を意識し、両親に向けて言った。

「見ればわかるでしょう?」

 母は唇を離すと、馬鹿にするように笑ってそう言った。父の股間をさする手が大袈裟に上下する。

「ふざけないでよ」

 澄子は自分でも気が付かないうちに立ち上がっていた。そして母の顔を殴った。

 不意に殴られて飛ぶことを意識できなかったのだろう。飛んでいられなかった母は足を挫いて尻餅をついた。痛い、と母は叫ぶ。

 澄子は三歳児の方を見る。三歳児は驚いて目を大きく開いている。

「泣けよ」と澄子は言った。三歳児は目を大きく開いたまま表情を変えずに澄子をじっと見ていた。

 泣け、と澄子は叫び三歳児の座っている椅子を思い切り蹴った。椅子ごと三歳児は倒れた。倒れる瞬間も三歳児は目を大きく開いたままだった。三歳児は泣かなかった。

 残るは父だ。母や三歳児と比べれば、父に対する怒りは薄い。しかし父だけ何もせずに済ませてやろうという気にはなれなかった。

 やめてくれ、と父は言った。嫌だ、と澄子は答えた。

 父の悲鳴が聞こえなくなるまで澄子は父を殴ろうとした。なぜかそうすれば平等の扱いになると思った。

 殴っている最中に体が上手く動かせなくなり、そして夢から覚める直前に結論が出た。もしくは夢から覚めた直後だったかもしれない。澄子にはその判別が付かなかった。とにかくその時澄子は、母の妊娠は喜ぶべきことだと思ったのだった。

「妹がいなかったら、私一人っ子だから、どんなに遠く離れても家族になっちゃうでしょ。だけど父と母と子供が一緒に暮らしてたらそれが家族で、離れて暮らしている私は家族ではなくなると思ったの」と澄子は説明した。三人に暴力を振るったことで四人家族が三人と一人に分離したように感じられて、そのようなことを思い付いたのだった。

 夏帆は少しの間悲しそうな顔をして澄子を見ていた。どういう言葉をかけようか考えているようだった。

 夏帆は一度目を瞑り俯いた。そして目を開いて顔を上げると、

「確かにそういうふうになったら楽だよね」と言った。中身のない相槌のようだった。「ところでさ、もう性別ってわかってるの? 今何ヶ月なの?」

 澄子は、知らない、と答えた。

「でも、妹って言ってたじゃん」

「夢の中では妹だったの」

「じゃあ、本当に妹かもね。お腹の中の子供が夢に出てきたとかよく聞く話だし」

 夏帆がそう言うと、澄子は顔をしかめた。

「本当に妹だったら名前は澄子にするべきだね」と澄子は言った。

「やめなよ、そんなこと言うの」

 夏帆は冗談だとは思わなかったらしかった。少し怒った声だった。

「ごめん。ただの冗談。夢に出てきた妹が、あまりにも私に似てたから、つい」と澄子は俯いて言った。

「そうなの?」

「うん。三歳の時の私にそっくりだった。でも三歳の時の私の方が可愛かった」

 無表情な顔をしていた夢の中の妹を思い出しながらそう言うと、そっか、と夏帆は笑った。

「ねえ、今日泊めてくれない?」と澄子は言った。

「うん。いいよ。それじゃあ私、お母さんに澄子が泊まること言ってくる。きっとおいしいご飯作ってくれるよ」

「ありがとう。ちょっとしたら顔出すから」

「わかった」

 夏帆は部屋から出て、リビングに向かう。

 今両親と顔を合わせることは澄子にとって苦痛に違いないから、お願いされなくても夏帆は澄子を泊めるつもりでいた。それに夏帆は、もう一つ別の理由があって、澄子が泊まることを望んでいた。

 澄子が寝ていた時に考えていたことを夏帆は再び考え出す。それは、今日澄子に飛べるようになったことを披露してしまおうか、ということだった。

 できれば大樹にも同時に見せたいのだが、澄子だけに見せることにはそれとは全く異なる魅力がある。

 澄子は特別だ。夜空を見ているとどこかの誰かの心の声を聞くことができて、それを趣味にしていて、まるでその趣味と大樹との恋愛のためだけに生きているようだ。

 そんな澄子は自分に持っていないものを持っているような気がしていた。たとえば自分は小学五年生の時に失ってしまった飛ぶ力だ。

 しかし母の妊娠を知って苦しんでいる澄子の姿を見たら、飛ぶ力なんてもう持っていないのではないかと感じた。それでも夏帆はまた飛べるようになったことを教えるつもりでいた。そして澄子が飛べなくなったことを知る覚悟をした。

 奈緒美はリビングで椅子に座り、俯いてテーブルに指で何かを書いていた。

「あ、もう大丈夫なの?」と夏帆に気が付いた奈緒美は言った。うん、と夏帆は頷く。

「何してたの」

 夏帆は先ほどの奈緒美の真似をして、テーブルの上に渦巻きを描くように人差し指を滑らせて聞いた。

「考え事。洋子ちゃんのこと。だって今になって妊娠するなんて思ってなかったんだもの。あれこれ考えちゃうでしょ」

 そう言って笑みを浮かべた奈緒美の顔のしわを見て、洋子がこの母くらいの年齢であることを夏帆は思い出した。自分の母よりいくつか歳は下だったことは知っているが、何歳だったろうかと思って、

「洋子さんっていくつなんだっけ」と夏帆は聞いた。

「四十よ。丁度四十歳」

 奈緒美が答えた。もう三十代ではないことに夏帆は少し驚いた。

「大丈夫かしらねえ」と奈緒美は言った。四十歳になった体で十数年ぶりに子供を産むということがどれだけ大変なことだろうかと想像しているのだろう。

「まあ、めでたいことだよね。澄子は辛いだろうけど」と夏帆は言った。

「そうね。めでたいものよね。ちょっと驚き過ぎちゃった。だって澄子ちゃんだけでなく、大樹君も夏帆もお兄ちゃんお姉ちゃんになっちゃうようなもんじゃない」

「そこまでのことではないでしょ」と夏帆は笑った。

「そんなことないって。だって赤ちゃん産まれたら、洋子ちゃんだけじゃなくてみんなでお世話して甘やかすに決まっているから。あなたたちだって、母親三人父親三人に育てられてきたようなものでしょ。私たちにとっては、子供が増えたようなものだったけど。それと同じように新しく産まれてくる子もみんなで育てていくんだよ、きっと」

 奈緒美は元気を取り戻したようだった。

「あなたたちを育てるの、凄く楽しかった。きっと夫婦二人だけだったらもっと辛いことたくさんあったでしょうにね」

「だろうね。私も楽しかったよ。と言うか、今も」

 そして夏帆は、澄子を今日泊めようと思っていることを奈緒美に伝えた。

「もう元気になってきてはいるみたいだから、おいしいご飯たくさん食べさせてあげてよ」

「任せておいて」と奈緒美は言った。


 夏帆は一人っ子であったため食事の時にはいつもリビングに用意されている四脚のうち、ベランダ側にある一脚がいつも使われていなかった。

 その使われてこなかった椅子に今日は澄子が座っている。

「まるで娘が増えたみたいだな」と食べている最中に夏帆の父の達幸は言った。達幸は豚カツには手を付けず、それ以外のものから食べている。夏帆も好きな食べ物を最後にまとめて食べるのが好きで、達幸と同じ食べ方をしていた。

「似た話、お母さんがさっきしてたよ」

 夏帆がそう言うと、そうだっけ、と奈緒美は首を傾げた。

「ほら、みんなで育ててきたから子供が増えたようなものだったって話してたでしょ。それと被ってる」と夏帆は奈緒美の皿を見ながら言った。

 奈緒美の皿には豚カツがもう二切れしか残っていなかった。好きな物を真っ先に全部食べてしまう母の癖が出てきていて夏帆は呆れた。

「そういえばそうだったね」と奈緒美は言って、また豚カツを一切れ食べた。

「ねえ夏帆、やっぱり夏帆と私だと、私の方がお姉さんってことなのかな。誕生日で考えるとそうなるよね。それともイメージとしては私が妹なのかな。それとも、双子?」

 澄子が割り込んで言ってきた。もう普段の調子に戻ったかのようだった。

「澄子が姉っていうのは、なんか嫌だな」と夏帆は言った。

「やっぱ双子かな。双子でも性格が全然違うってことはあるんでしょう?」

 奈緒美がそう言うと、そうだな、と達幸が頷いた。

「双子と言ってもそれぞれ別の人間だからね。当然性格が違うことはある。実際小学校の同級生に双子がいてさ、片方とは仲良くできたんだけど、もう片方とは気が合わなかったよ。いつも一言多くてさ。それで俺は間違えたら嫌だったから二人をよく観察して特徴覚えたよ。一度覚えちゃえば顔見るだけですぐにどっちがどっちなのか見分けられるようになったな」

「なんか嫌なきっかけだね、それ」と夏帆は言った。

「そうだな。でもどっちもいいやつだったら、たぶん見分けられるようになろうだなんて思わなかっただろうな。二人ワンセットで、区別つかないまま仲良くしてたと思う」

「へえ」と夏帆は言い、俯いて味噌汁の具の大根を箸でつまんだ。

 親が善人らしいことだけして生きてきたわけではない、ということを夏帆は上手く受け止められなくて箸を動かすしかなくなる。

 夏帆にとって二人はとても優しい両親だった。双子でもそれぞれ別の人間であるという言葉は好きだが、双子の嫌いな方を避けるために顔の特徴を覚えたという話は優しい父らしからぬ話だと感じる。

「二人は双子でも見分けつきそうだけどな」

 達幸は楽しそうにそう言った。奈緒美も、どんなに似てても夜になれば間違いなくわかるからね、と言って笑う。

「そうだ、今日は一緒に屋上行こうよ」

 そう言って澄子は夏帆を誘う。

「うん、いいよ」

 夏帆はすぐにそう答えた。大樹がいないので、自分が邪魔者になる心配をしなくてもよかった。

「ところで双子って、服とかで見分けがつくようにすることもある気がするんですけど、その二人はそういうことしてなかったんですか?」と澄子は達幸に聞いた。

「それがさ」と言って達幸は言葉を選ぶため少し考えた。「そいつら、二人で同じ服を着てたんだよ」

「ペアルックみたいに?」と澄子は言った。達幸は首を横に振って、そうじゃなくてさ、と言う。

「その日着ている服は別なんだけど、そう、同じ服を着回してたんだよ。たとえば片方が赤いTシャツを着ているとする。何日かするともう片方のやつがその赤いTシャツを着ていたりするんだ。だから服装で見分けることは無理だったんだ」

 ややこしいだろ、と達幸は苦笑いして言った。

「でも便利そうですね。もう一人の方の服を着れるのって」と澄子は言った。澄子はそういうの好きだろうな、と夏帆は思った。

「もし澄子に双子の妹とか姉がいたら、澄子はその子の着た服そのまま真似するよね」

 そう夏帆が言うと澄子は、よくわかってるじゃん、と言う代わりにいい笑顔で頷いた。

「だってそうしたら楽だもん」

「もしかしたらお父さんの同級生の双子も似たこと考えてたのかもね」と夏帆は言った。

「はあ、なるほどな。てっきりわかりにくくする悪戯だと思ってたんだが、そういう理由もあり得るのか」

「片方にファッションセンスあったら、もう片方は楽ちんだね」

 まるで夏帆にファッションの勉強をしろと言っているように聞こえた。

「澄子は服の組み合わせ方さえ間違えなければ何でも似合うんじゃないの」と夏帆は勉強を面倒くさがるように言った。

 澄子の外見の良さは洋子の血のおかげだろう。ファッションの勉強をするべきなのは澄子の方だ。そう夏帆は思った。

「どうせ昼間は星の声聞けないんだから、外に出て服でも見なよ」と夏帆は言った。

「うん、そうだね」

 澄子は意欲を感じない声で返事をした。

「一緒に買いに行ったらどうだ?」と達幸が言った。余計なことを言ったな、と夏帆は思った。案の定澄子は、

「私もそれがいいと思う」と言って、夏帆に全てを任せようとしてきた。

「嫌だよ。澄子の服選ぶなんて。大樹と行けば?」

 夏帆がそう言うと澄子は少し困ったような笑みを浮かべた。

「大樹の好きな服って、結構露出度高いんだよね。肌見えるの好きで」と言った。達幸と奈緒美は大笑いした。

「マジで?」と夏帆が聞いた。

「口では言わないけど。肩出るやつとか、水着とか下着とか、そういうのばっかり見てるよ」

 達幸と奈緒美はげらげらと笑い始めた。結構スケベなんだよね、と澄子は言った。澄子はあっさりとした喋り方をして、まるで笑わせようとして言っているわけではないような振りをしていたが、表情で笑わせようとしていることも楽しんでいることもわかった。

「で、澄子はそういうの着るの?」

 大樹の好みを澄子が暴露したことに驚きながら、夏帆は聞いた。

「私に似合うのかなあって思うから、あまり買わない」

 絶対似合うだろうと夏帆は思った。そういう服を着たことがないから不安に感じるだけだろう。着てみればいいじゃん、と言ってみたくなるのだが大樹と同じようにスケベという扱いをされたくはなかった。

「着てあげれば喜ぶんじゃない?」と奈緒美が笑いながら言った。「あまり買わないってことは、ちょっとは買ってるんでしょう?」

「はい。着ると喜びます」と言って澄子は頷いた。

 奈緒美は、あはははと声を上げて笑った後で、青春だねえ、と言った。笑いながらも、羨ましいと思っているような言い方だった。

 いやらしい話なのに青春って言っていいのか、と夏帆は反発したくなったのだが、上手く言葉にならなかった。食事中に親といる時に、いやらしい、などと言いたくなかったせいだ。


 風呂から上がった澄子はノースリーブのシャツを着ていた。机に向かっていた夏帆は澄子を見ると、

「それ、さっき言ってたやつだよね」と言った。

「そうだよ」

 やはり様になっているのだが、大樹のいやらしさまでその格好に表れているようで、澄子の体が官能的なものに見えた。露出した肩とシャツのボタンたちが大樹の指を誘っているようだった。

「今日ここで寝ていい?」

 床を指して澄子は言った。

「この部屋で? いいけど、布団持ってこなくちゃね」

「うん。夏帆がお風呂入ってる間にやっとくよ」

「わかった。お母さんに言えば出してくれると思うから。私もお風呂入ってくる」

 夏帆はクローゼットの中にある収納ケースから服を出す。この後屋上に出ることを考えてパジャマではなく水色のTシャツとベージュのカーゴパンツを取り出した。水色のTシャツにはハワイの景色らしき、ヤシの木と海の絵がプリントされている。

 服を持って洗面所に入る。バスタオルを入れてある籠から自分のタオルを取って、代わりに持ってきた服を入れる。脱いだ服は畳み、Tシャツを一番上にして洗濯機の前に置く。

 浴室に入ると夏帆はまずシャワーで全身を濡らした。手でこすって洗うように脇の下や股の間まで濡らしていく。

 一通り濡らしたところでシャワーを止める。風呂場では、全身が湯で濡れていないと落ち着かない。髪の毛の先から水が流れ落ちていく。その流れが止まるのを待ち、またシャワーで頭を濡らして、髪の毛を洗い始める。

 澄子と屋上に行った時、大樹は本を読むことがあるらしいから、英単語を覚えるくらいの勉強ならできるだろうか、と夏帆は髪の毛を洗いながら考えた。

 大樹と澄子が話した屋上での二人の過ごし方をよく思い出しながら、屋上にいる自分と澄子の姿を想像する。木のベンチに寝そべって空を見ている澄子と、俯いて英単語を書いた小さい短冊の束に視線を落としている自分。

 それは夏帆にとって、あまり好きな光景ではなかった。たとえば自分もベンチに横になって星空を見ている方が好きだ。

 しかしきっと星の声を聞くことはできないだろう。星座もほとんどわからない。星空ばかり見ている澄子もそこに関心はないから星について教えてもらうこともできない。空を見たところで楽しいことなんてないのだが、綺麗な星空が心を純粋にさせてくれるような温かな感動で包んでくれるかもしれない。

 夏帆の想像している星空は、澄子のいつも見ている夜空よりずっと綺麗なものだった。

 夏帆はここからでは満天の星空など見られはしないと理解している一方で、小学生の時に授業で作った星座早見盤の通りに星を見ることができるような気がしていた。

 もし澄子も飛べるのなら一緒に飛びたいと夏帆は思ったが、それはもう空想に近かった。もう澄子が飛べるとは少しも思っていなかった。

 ベンチから見上げる視点で飛んでいる自分たちと背景の夜空を想像しながら湯船に浸かり、湯の熱さが鬱陶しくなるまで、楽しそうに飛ぶ自分と澄子を眺めた。

 人生の中で最も素敵な出来事が起こるのは高校生の時期に違いない、と夏帆は思っていた。その素敵な出来事が何を指すのかわからないので、今は澄子と飛ぶことを想像するしかなかった。

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