すりかえる 五

 

 その後かなり激しいやり取りを経て、無理やり彼を温泉に引っ張っていって、そこでもまた言い合ってから、私の入浴を手伝わせて、温泉の熱で真っ赤っかになった彼に服を着せてもらい、私たちはあの階段へと向かった。

 どうしてももう一度あの神社へと……みんなの人形たちのもとへと行く必要を感じていた。

 おばあさんの家から、直接神社への階段に行く道はない。だけど、一度あの丘の上から村を眺めたときに方向はしっかり覚えていたため、迷うことなく低木の隙間を抜けて、石階段の途中の地点へと出ることができた。もちろんおばあさんには、神社に行くことは伝えていない。

 どこからか聴こえてきた獣の鳴き声が、風を揺らす。

 この村に子どもがいない……そのことに気がついた時点で、私はもう、村の人を信じることができなくなっていた。何も知らない、コハクマルとクニミツさんだけが、私が頼れる、同じ立場の流浪者だった。

 でもやっぱり、子ども二人でこの階段は無謀だったかもしれない。上へ行きたい気持ちははやるばかりであったが、ちょっとでも雑に足を運ぶと、グワーンと右足が押しつぶされるように痛むのだ。階段も、昨日の雨で黒く濡れていたせいで、少し滑りやすくなっていた。もし転んでしまったら、また足の状態が悪化してしまうかもしれない。

 ……だけど、今私は、あの人形を見る必要がある。

 歩きながら私は、あの人形についてずっと考えを巡らせていた。

 私が初めてあれに触れたとき、頭が痺れてそのまま倒れてしまったことを思い出す。そのせいで実は、神社の中にいたときの記憶って少し曖昧あいまいなのだ。つまり、人形のはっきりとした形を、微妙に思い出せないということである。人形から連想された彼らの顔は、毎日顔を合わせているかのごとくに思い出せるのに、変な話だ。

 私が最後に人形を見たのは、倒れる前のこと。その後シズさんとの話の流れから、私はあれらが実際に神社の中にあるという風に考えていた。

 でもそれって不思議すぎるではないか。

 あの夢の正体に関して一番もっともらしいものは、あれは私の記憶であるという考え方だ。その場合、夢の中の私の不在は確かに気になるが……でも、他の全ての可能性よりも現実度はマシである。

 だけど、あれが私の記憶なのだとすれば、彼らの人形がこの村にあるということはかなり深刻な意味になる。

 だから……今、私が一番期待していることは、あの人形自体の記憶がどこか間違えている、という可能性である。つまり、あの神社には確かに何体かの人形はあるが、それが彼らに似ているのは記憶違いであってほしいのだ。私はあの神社に入ったとき、実は白昼に夢を見ていために、人形の形を記憶に対応させて幻のように歪めて捉えていたのだと……。もしそうであれば、私は何も心配する事などない。この村でゆっくりとおばあさんやマキさんの優しさに触れながら、記憶の復活を待てばいい。子どもが村にいないのは気になるけれど……ちゃんと聞けば、納得できる理由が返ってくるかもしれないじゃないか。

 あの人形さえなければ、私はそれを信じられる。

 だけどもし、あの人形がそのまま現実だとしたら……しかも、コハクマルが触れて私と同じ事が起きれば……あの人形は確実に尋常の品ではないことになるし、この村のことも疑ってかからなければならない。

 おばあさんも、マキさんも……。

 不安から逃げるように、一心に階段を上る。膝の裏がビーンと痛くなる。無事な方の足ばかり使うものだから、今度はそっちが痛くなる。

 あぁ、疲れるなぁ。汗が、まぶたを伝って流れ落ちる。

 コハクマルがいなければ、私はこの階段を上るのは無理だっただろう。きっとヘトヘトになって、途中で倒れてしまっていたに違いない。うーん、私、もしかして彼に頼りすぎだろうか。コハクマルだって、故郷を捨ててここに流れ着いてから、まだ一日しかたってないのに。

 ゲココココと、カエルがそこかしこで鳴いている。この神社の周りはいつもそうだと、マキさんが言っていたことを思い出す。それもあるから私は神社には行きたくなかったのだが。

「……長い階段だのう」コハクマルもやや疲れが見え始めたか、ふうっとため息をついて、愚痴をこぼす。「いったいこの先に何があるというのだ」

 温泉の後で、彼がまともに話したのは初めてだ。せいぜいさっきまでは、「大丈夫か?」とか、そういう短い言葉しか吐いてこなかったのだ。彼にとって、温泉に入るのは階段以上に熱くてキツいものらしい。私が無理やり抱きついて、おもしになってお湯に引っ張らなければ、彼は湯に浸かる気さえなかったのだから。

「……この上の神社にはね、人形があるの」息を整え、そう答える。

「人形? それは……あの、なんという名前だったか……」

 ドキっとする。「え、名前?」

「あの、人形作りの名家という老爺ろうやだ」

「……クダンさん?」

「そうだ、クダン殿だ。あの方の作ったものということか」

 なんだ、そっちのことか。てっきりゲンとかヨシとかと言い出すんじゃないかと思った。「そうそう。それ」

「なぜ、今人形を?」

 それを説明するのは、ちょっと今はできないなと思った。

「……いいから、お願い」

「まあ、ここまで来てしまったからには構わんが」と、まだ火照ったままの顔を笑わせて、コハクマルは私の腕を引っ張り続ける。「ほら、鳥居が見えてきたぞ」

 見上げると、確かに石造りの「円」の字が、思ったよりも近くに見えていた。あぁ、やっと頂上か。疲れたなぁ……。

 その後、私たちは無言で階段を上り詰め、やっとこさ山頂に建つ荘厳そうげんな神社の前にたどり着いた。

 久し振りに見ると、やはりこの神社が放つ威圧感は凄まじい。積年の汚れで朽ちかけた黒い屋根、背の高い木々が落とす深い影、濡れているように重みを発する木の質感に、守り神のようにたたずむ大きな二体の石のカエル。

 一体は大口を開けて天を睨み、もう一体は口を閉じたまま、丸い目を来訪者へと向けている。

 黒と、灰色と、深い緑だけしかない、神聖な空間。

 ついに私たちはここまでたどり着いたわけだ。

 その達成感を祝おうと隣のコハクマルを見てみると、彼はカエルの置物のごとく口をあんぐりと開けて、石畳いしだたみの先にある大きな神社に見入っていた。

「……大きいしょ?」

「いやはや……これは度肝を抜かれたわい」と、コハクマルは額をぬぐう。「村のどの家よりも大きいではないか……拙者が住んでいた屋敷の母屋くらいあるのではないか」

「え、コハクマル、そんなおっきいところに住んでたの?」

「そこそこの身分であったと言っておろう」

 ゲココココと、一際近くで響いたカエルの声に、思わずコハクマルに飛びついた。「もう……ここカエル多いんだよね……」

 近くにカエルがいるという恐怖を、彼の温度で必死に薄める。

「ぬう」と、流石に疲れた様子で、コハクマルは息を鼻からンフーっと吐いた。

 そのまま二人でまっすぐに神社へと向かったが、中に入るための階段に足をかける直前で、その前にやらなければいけない儀式があったことを思い出して、慌ててコハクマルの手を引っ張った。

「おわっとっと」と、腕を引かれることにもいい加減慣れたらしい彼は、やれやれとばかりに私を見た。「やい、今度はなんだ?」

「えっとねえ、ここって、入る前にやらなくちゃいけないことがあるの。まずはねぇ……」

 初めてここに来た日、シズさんから聞いたことを思い出す。

「まずはね、正座するの。座って」

 と言いながら、足が痛まないように、恐る恐るに膝を折る。正座は痛いから嫌いなのだが、この神社の中に並ぶ不気味な人形のことを思い出すとそんなことも言っていられない。

 あいたたたた……。

 二人並んで、小さく並ぶ。

「ここから先は、私の真似をして」

「うむ、承知した」

 まず、一度簡単に頭を下げて、次に大きく深く、頭を下げる。

 コハクマルも私にならったことを確認してから、両手のひらを合わせて、パン、パン、と二度、手を叩く。

 コハクマルも、パン、パン。

 ……これでいいんだっけ?

 ともかく最後にもう一度大きく頭を下げてから、私は深呼吸をした。「これで終わり」

「ふむ。そうか、二礼二拍一礼というわけか」と、よくわからないことをコハクマルはつぶやきながら、私の腕を取って、また並んで立たせてくれる。「で、これ、どうやって入るのだ?」

「横から入れるの。行こ」

 カエルの唄がやかましいほどに響く中、三段だけの階段を上り、道なりに折れた先にあるすだれを抜けて、拝殿の中へと入っていく。

 相変わらず、神社の中は恐ろしく暗く、灰色の光が小さな天窓からかすかに差すばかりである。札の貼られた不気味な人形たちも、時が止まったように凝然と、私たちを睨むように、棚にぎしりと並んでいる。

「うっ……」珍しくコハクマルから、足を止めた。「な……なんだこれは……」

 確かにここの異常な雰囲気は、初見ではかなりおぞましく感じるだろう。私も二度目とは言え、進んで前には歩き出したくなかった。

「これが、この村の人形だよ」誰に見られてるわけでもないのに、声をひそめて説明をする。「ここは……呪われてて、燃やせない人形が置いてあるところなの。だから、あの御札おふだが貼られた人形には、絶対に触っちゃだめだよ」

「だ、誰がさわるものか……さわりませぬとも……」と、コハクマルも意味なく丁寧な口調になりながら、私を恨んでいるかのように睨みつけた。なんでこんなところに連れてきたんだ! とでも言いたいのだろう。

 飽きることもなく、カエルはいつまでも鳴き続ける。

「怖い?」私は聞いた。

「こ、怖いのではない!」と、彼は意地を張る。「だが……ここは、その、不可侵の場ではないのか? 入ってはいけないのでは?」

「大丈夫よ……ちゃんと温泉にも入ったし、さほうも間違えてないし……私が見たいのは、この先よ……」

 二人ゆっくりと、ためらいがちに奥へ奥へと歩いていく。私はもちろん、途中からコハクマルも、お互いに体をすり合わせて、抱き合うようにして進んでいた。ほんと、一人じゃないってだけでも相当にありがたい気分だった。

 ほのかな甘い匂いが鼻の中をくすぐって、くしゃみが出そうになる。

 よく見れば、並べられているどの人形も子どもであることに気がついて、ゾクゾク背筋が痛み出した。ケガをした私の足がもどかしい。何かが起きたときに走って逃げられないって、そう考えると、不安でどうにもこうにも居たたまれない気分になるのだ。いったい何が起きうるというのか、自分でもバカバカしく感じたけれど、でも、ここはそれくらいに寒気のする場所だ。

 クビソギか……。

 暗闇に、タツミさんの息遣いを思い出す。あの人、今、どうしているのだろうか。あの日以来、私はタツミさんを見てはいない。どこかに閉じ込められているのかしら。

 苦しかったあの暗黒の記憶とともに、昨日見た夢にいた、あの蛙女をも思い出す。向かう先の祭壇の裏から、今にもあの怪物が顔を出しそうな気がして、歩く速度はどんどん遅くなっていく。

 だから、目指していた人形が祭壇の両側に見えたとき、私はほんの少しでも落ち着いてしまったのを覚えている。平時であれば、あれらだって十分不気味に感じてもおかしくないのだが、この神社の中においてはあの人形たちが最も暖かく、健康的なものに思えるのだ。

 だけど……その人形の姿は、私の揺蕩たゆたっていた記憶の通りに、そこにあった。形も数も、まるであの子たちと同じであった。

 ……やっぱり。

「ほら、あれよ」こそこそ、私は耳打ちする。

「うむ、あれか」コハクマルも、頷く。

 やがて私たちは祭壇の前にたどりつく。動物の角と、丁寧にぐるぐる模様が彫られた木の器が飾られた二つの祭壇の間の、白い幕で覆われた先を、私はまだ知らない。

「ここが本殿か」コハクマルが、いくらか落ち着いた声で呟いた。

 その声に勇気づけられるように、私は左右の人形たちへ目を向ける。

 ……なんだか、不思議な気分だった。

 どの人形も、見れば見るほど、あの子たちだった。

 たたずむそれらはリンだったし、ゼンタだったし、ジロウだったし、アマコだったし、カイリだったし、イチロウだったし、イナミだったし、ソウヘイだったし、ヤキチだったし、ヨシだったし、ゲンだったし、カヤだったし、タケマルだった。

 この場所に、みんなの人形がある。

 その異様さに、私は今更になってやっと気がついたのだった。

 初めてこの人形に触れたときは、私は何もかもがわからなかった。自分のこと、まわりのこと、この村のこと……見るもの全てが新しく未知であった中で、この人形から感じた衝撃は、いくつもの「わからない」のうちの一つでしかなかった。たくさんの不思議の中の、あくまでも一部だった。当然何かおかしいぞとは思って色々と考えてはみたけれど、あの時はそれよりも夢の続きが気になってしまい、夢の存在自体を疑問に思うこともやめてしまっていたのだった。あの日の夜は、確かタツミさんに襲いかかられた夜だったから、その印象に全てが塗りつぶされてしまっていたのかもしれない。そのせいで、私は幼い子どものように、不思議な夢の全てを理由も考えずに受け入れて、展開される物語に夢中になっていた。

 あれから幾日かが過ぎて、コハクマルとも出会い、この村の外というものに思いを馳せたりするうちに、初めは名前しか存在しなかった私の中にはいつしか、淡い「常識」のようなものが芽生え始めていた。それは新しく生まれたものなのか、それとも元から私の中に眠っていたものなのかはわからないが、とにかく、普通と異常をつたないなりに見分けられるくらいには、私は成長していた。

 そして今、あらためてこの人形たちとそれにまつわる夢のことを思ったとき、私はその不気味さに身震いしたのだ。

 触れただけで人の顔が頭に浮かぶという現象は、妖怪の出現と何ら変わらないくらいに異常なことじゃないか。

 カエルが鳴く。

 ……これらは、なんなんだ?

 冷静に考えてみればみるほど、説明はつかない。思わず体験を疑いたくなるくらいに普通じゃない。だから、コハクマルと一緒にここまで来た。おばあさんにもマキさんにも、シズさんにも確認を取らずに……。

 彼も、私と同じ体験をするか否か。

 ……それは、こうも言い換えられる。

 この人形は、私と関係があるのかどうか。

 コハクマルに何も起きないのならば、この人形は私にだけなんらかの働きかけをしたということになる……。

 それは、私の失われた記憶と何か関係があるのだろうか。

 あったとしたら……。

 それらの疑問に、私はぶつかるべき時が来たのかもしれない。いつまでも、何も思い出せないようではいられない。

 私が何者か、その手がかりさえ、ここにあるかもしれないから。

 ……おそれるな。

 だって、知りたいだろう? それなら、やるべきことは一つだ。

 その決意が胸の内に生まれた時、久しぶりに私の中に、私らしい勇気が戻ってきていた。ひとりで湖の上の斜面を下った時のような、高い崖へと足をかけた時のような、無謀とも言える冒険心。

 あの日、タツミさんに吸い込まれてしまったままだった、強いスミレ。

 ……そんな、破れかぶれとも取れる気概が必要なほど、今私が抱く問いは深刻なものだった。

 子どもがいない村に、子どもの人形。

 そして、記憶のない私。

 事態は複雑だった。

 もし……もしこの人形に触れることで、コハクマルが何かを感じ取ってくれたのなら、誰かの名前を見つけてくれたなら、実は私は少しだけ救われるのだ。ホントなら……私だって、おばあさんやマキさんを疑いたくはない。だけどもはや、この村が何か怪しいことは明白である。

 あぁ、そう考えると、胸が張り裂けそうだ。

 私は、この村に流れ着いていた少女だという。誰も名前さえ知らなかった、異邦の子だという。それはとても心細いことだ。

 だけど、だけど……それだけのことならば、まだ平和な話なのだ。

 最悪なのは……。

 あぁ、考えたくない。

 ……タツミさんの言葉が、記憶の中から耳に突き刺さる。

 今になって思い出してみれば、あの人は……まるで、私を知っているような口ぶりであったのではないか。

 それって……。

 正直、今私の頭の中に巡っている想像は、全く非現実的な、怪談のようにバカバカしいものばかりだった。そんなもの全部をクビソギのように笑い飛ばせればよいのだけれど、現に、私が体験していることの非現実性を考えると、流石に子どもの戯言たわごとと切り捨てるわけにもいかない。

 だから今、私には勇気が必要だ。

 どんなことも、受け入れて進める強さが。

 ……と、一人で気持ちが盛り上がってきたのはいいのだが、ではまずは何をすれば良いのかと考えたときに、ふと私をいぶかしげに見つめているコハクマルの視線に気がついた。

「で、おぬし、ここに何をしに来たのだ?」彼は、聞く。

 ……まずは、コハクマルに人形を触ってもらう必要がある。こういうのは、怖くなる前にさっさとやってもらったほうがいい。

「コハクマル、この人形、どう思う?」と、できるだけ何気なく、切り出す。

「ん? それはこの……こいつらのことか?」

「うん、そう。こっちのは、札付きと比べれば怖くないしょ?」

「まあ、そうだな」

「ちょっと、持ち上げてごらん?」

「……大丈夫なのか?」

「いいからいいから、私も触ったもの」

 元気を取り戻した私を見てコハクマルも勇気が湧いてきたのか、軽く肩をすくませてから、私から手を離してリンの人形へと向かっていく。

 私は一人杖で体を支えながら、少しだけ緊張した。

 コハクマルも、私と同じように何かを感じ取ってくれるだろうか?

 感じ取ってくれなかったら、それは……。

 その先を考える勇気は、今はまだなかった。

 コハクマルが手を伸ばす寸前、一瞬の間に、頭の中にたくさんの言葉が渦巻いた。

 もし、何も感じてくれなかったら……いや、感じ取ってしまった場合でも……。

 ともかく、彼の手はリンの人形に届いた。

 汗が一筋、脇を流れる。

 そして、コハクマルは……。

 あっさりとそれを手に取って、クルクルと角度を変えて見分けんぶんしているのだった。

 フーっと、息を吐く。

「ふーむ、上品な人形だのう」コハクマルは普通に感心している。「派手ではないが、顔の造りが素晴らしく細かいのだな。いやはや、恐れ入る。拙者、この手の工芸はとんとダメでなぁ……しょも苦手であったし」

 と、そのままヒョイっと、アマコの人形も持ち上げて、リンを置いて、一つ飛ばしてイナミの人形を傾けたりしていた。

 …………。

「……それだけ?」恐る恐る、聞いてみる。

「ん? それだけ、とは?」

「なんかこう……その人形、触って変な感じ、しなかった?」

「変な感じ? なんだそれは」ハハッと、態度に余裕が出てきたコハクマルは、口元を斜めにしてにやりと笑う。「トゲでもついておるのか?」

 私もなんだか恥ずかしいことをごまかしているみたいに笑い返しながら、杖をついて、男の子の人形の方へと進んでいく。

 適当な笑顔とは裏腹に、私の鼓動はすでに痛いくらいだった。

 ……コハクマルには、何も起こらなかった。

 言い換えれば、あれは私だけに起こったことということだ。

 ……おかしい。

 絶対に、おかしい。

 目の前にあるのは……相変わらずの首の細い、顔だけ精巧な白い人形である。髪の毛の素材は、恐らく本物の髪の毛だろう。

 誰の毛だろうか……。

 勇気を持って、倒れることさえ覚悟しながら、試しにジロウの人形を手に取ってみる。

 一瞬、目眩めまいを覚えた。

 その刹那に、私はまたも、ジロウの丸く太った顔を頭に描いていた。否……焼き付けられていた。でも、前ほど強烈な印象はない。ただ、彼の顔を確認し直したって程度のことだ。

 ……いろんな気持ちを交錯させながら、一歩進んで、ゲンの人形に手を乗せる。

 浮かび上がるのは、あのキツネのような白い顔。美しく、艶っぽく、そして鋭く、感情のない人形のように光る、幻想的なかお

 ……やっぱり私には、この人形は何かを訴える。

 様々な想像が、頭を巡った。

 まず第一に浮かんだのは、現状をなんとか「大したことじゃない」と言い訳するような、そんな理屈だった。私にだけはあの子たちの幻影が感じられて、コハクマルには何もない。それはつまり、あのみんなの姿というのは、ただの私の妄想みたいなものだってことなのではないか。なんといっても私は記憶喪失……それゆえに、私の精神はまだまだ不安定であるとも言える。だから、出来できのいいこの人形に触れたことで私の記憶と印象がごちゃまぜになって、ありもしない幻影を生んだのだと、そうに違いないと。

 あるいは……この人形にはやっぱりちょっとした妖力みたいなものが宿っていて、それが私の眠ったままの記憶やら何やらと複雑に混じり、結果あの景色が生まれたのかも……って、確かこの説は、初めて夢を見たあとにも考えたことだったな。だって、これが一番現実的……というよりも、平和的じゃないか。

 ……だけど。

 たった今自分でなぞったその言葉、流石にまっすぐは受け入れられなかった。

 あれだけの密度で再生された景色が、クビソギの夜を巡り交錯した意志たちが、全部幻であるなんて信じられない。あれは実際にどこかであったことなのだと、私の中の何かが叫んでいる。だからこそ、私はコハクマルに、あの人形から何かを感じ取って欲しかったのだ。彼にも何かが見えたのなら、あれはやはり幻なんかではないという意味になるから。

 ゲンが、カヤが、ヨシやアマコが、どこかにきっといたのだという意味で……。

 ……そして……。

 その人形が、ここにある?

 じわっと背筋が凍り、反対に顔がぶわっと暑くなって、汗がにじんだ。

 ここにある人形は……どれも、とても素晴らしい出来だ。まるで彼らが本当にそこにいるかのように……。

 ゲコッ、ゲコッ、ゲコココココ……。

 馬鹿な。

 そんな馬鹿なこと、あるわけがない。

 そんなこと……考えたくない。

 ……と、せっかく私の中で燃え上がっていたはずの勇気があっという間にカエルの声に飲み込まれて、私はふらっと倒れたくなった。

「……で、これだけか?」コハクマルの、のんきな声。

 ハッと思い、踏みこらえる。

 振り返ると、彼はいつの間にか近くまで来ていて、私に肩を貸してくれた。

 触れ合う肌はぬくもりに満ちている。

 途方もない私の想像と違い、コハクマルは、確かにそこにいる。

 ……それだけでも、私はかなり落ち着くことができた。彼は、何も知らない、完全な部外者だ。それだけに、今私が置かれているこの複雑な状況への理解もないけれど、同時に悪意もありえない。

 あぁ、なんかそう考えると、彼の笑顔がとっても素敵に思えてきた。なんでだか、ゼンタを思い出す。

 ほんと、信じられないくらいに心強いや。

 なんていい時に現れてくれたのだろう。

 と、少しずつ平静さを取り戻していった私は、ちょっとひと呼吸つきながら、ぐるりと周囲に目を配った。その時私の意識に留まったもの、それは、人形たちと二つの祭壇に挟まれて、わずかに橙の明かりをにじませている、あの白い布の幕であった。

 より正確に言うのなら、その裏に隠された、この神社のであった。

 タタリ神……。

 ここに、神さまがまつられている。この村の、おっかなくもありがたい神さまが。

 そのことに気がついた途端、またも懲りない好奇心が、ひと月前、初めてここを訪れた時の続きが始まったかのようにムクリと顔を出したのだった。一体どんなものがそこに置いてあるのか、気になって気になって仕方がなくなってしまった。怖いもの見たさという意味では、イナミがクビソギを見に行こうとしたときのあれと同じようなものかもしれない。この勇気が、ろくな結果につながったことはないのだけど……。

 すっかり慣れた、コハクマルを引っ張るような歩き方で、そちらへ数歩前進する。

「……おい、この裏こそ、入っては行けない場所なのではないのか?」耳元で、心配そうなコハクマル。

「平気よ……ちょっとなら」と私は答えて、杖を脇で支えながら、白い幕へと腕を伸ばし、そーっと盗み見るように中を覗いた。

 ゆらりとかすかな風に揺すられて、小さな灯りが揺蕩たゆたった。

 白幕の裏は、窓のない、小さな部屋になっていた。大きさは、大人が二人と子ども一人が入ったら動けないくらい。その中でまず目に付いたのは、黒い木で骨組まれた土台の上、低い天井から垂れ下がる赤い飾り紐の下に座っている、変な形をした黒っぽい石であった。高さ的には、私の胸よりもやや上のあたり。

 私の横から幕をさらにかき分けて、コハクマルも中を伺う。「……蛙石かわずいしであるな」

「なにそれ?」

「まあ、何というわけではないが……つまりは、蛙に似た石だな」

 あぁ、そうか、それだ。

 この石、カエルに似ているんだ。

 そこに飾られていたのは、見た目はただの大きな石であった。前方の微妙なくぼみは足のようであり、流線的な丸みが後ろに向かうにつれて徐々に低くなっているなど、どこともなく、見ていると誰でもカエルを連想するような形をしている、そんな石。中途半端なゴツゴツも、無駄に気持ち悪くそれらしさを際立てていた。もちろん、この神社の前や村にあったような石像ほどに、まんまカエルというわけではない。あくまでも、自然にできたものの範疇はんちゅうにおいて似ているという程度である。実際川原かわらにでも落ちていれば、ほかの石に紛れてわからなくなってしまうのではないかしらと思えた。

 だけど、この石がちょっと特別なくらいカエルらしいのは、左右が対象に近いこともあるが、それ以上に、微かに黒光りしている質感が、まるで濡れているかのようにジットリと感じられるからだった。その点に関しては、私が今まで見てきたどの石像よりもカエルらしいと言える。それに思い至ったとたん、ムカッと気持ちの悪いものが胸に上がってきた気がして、私は思わず目をそらした。

 ……でも、ほんの少しだけ拍子ひょうし抜けした。だって、村の人はおっかないタタリ神さまって言ってたものだから、もっとこう、見ただけでも肝を冷やすような、恐怖の化身のような形をしているのではないかなと思って身構えていたのだ。タタリ神様がこんなのでは、今は頭のすみにどけられている人形問題までもが大したことじゃないのではと思えてしまう。どうも私の中では、私の記憶喪失と、村の子どもの不在、そして人形が、この村のタタリ神という一つの要素で繋ぎあわされていたらしい。理由は多分、あの夢だ。あの不気味な蛙女が放った、タタリという言葉のせいだろう。

 それと、他にもあの夢で怖い言葉を聞いたような気が……なんだったっけな。あのあとすぐ、ヤキチがヨシの秘密を喋ったせいで、色々とあの夢の印象は上塗りされてしまった気がする。

 ともかく、蛙石はちょっと見た感じが気持ち悪いだけだったので、そのまま幕に首を突っ込んで、ぐるっと中を見渡した。

 外からでも微かに感じられた明かりは、蛙石の両脇のやや低いところの台座に置かれた石の容器の中にあった。中には水が満たされており、その真ん中で、か細いロウソクがふんわり燃えている。この二つのロウソクが神社の中の灯りの全てと言っていいだろう。こんな、全然人の来なさそうな場所なのに、今もしっかりと火が点いているということは、それだけ毎日欠かさずこの場所は手入れされているということだ。やっぱり村の人にとってここは神聖な場所なんだろう。

 蛙石の祭壇の下、二つのロウソクの間には、何も置かれていない台がこちらに向かってせり出している。その更に下、せり出しを屋根にしている部分は、また更に紺色の幕で覆われていて、枯れた植物がその手前に、奇妙な丸い模様が描かれたはちの中に植えられていた。

 …………。

 さすがに、そこまで覗くのはまずいかな。いくらなんでも、こう二重に隠されてしまっていては、どうしても躊躇ちゅうちょを感じてしまう。

「この石……ヒビが入っとるな」

 ふと、コハクマルがそんな言葉を口にした。

「……え?」

「ほら、足のところ、縦に割れているであろう?」

 そう言われて、私は初めてしっかりと蛙石を見た。謎の光沢をまとった、あの嫌なカエルを思わせる、苔の生えた石を見た。コハクマルが指さしたところを、注視した。

「ん、どこ?」

「ほら、そこだ。まあ、確かに苔に隠されていて見えにくいが……」

 しばらく探すが、一向に見当たらない。

「え、全然わかんない」

「ぬー……いや、しかし……あ、ほら、やっぱりだ」と、コハクマルは右手を伸ばして、カエルで言うところの左の前脚の先を撫でるように指し示した。

 ……あ。

 そこには確かに一寸ほど、かすかではあるが、小さくはない亀裂が入っているのがわかった。この暗い中、ちょうど苔の境目に紛れて、だけど間違いなく、一つのヒビが入っていた。きっとコハクマルは、よほどこの蛙石を観察していたのだろう。こんなもの、私はおろか、村の人でさえ発見しているとは思えないなってくらいに小さな小さな一筋であった。

 だけど……。

 ギンジさん曰く、この村の神さまは四百年に渡ってまつられていたという……その初めからこの蛙石があったどうかはわからないが、あったのだとすれば、この石の表面の陶器のような綺麗さはもはや不自然なほどだということに、私は気がついた。

 その中にあって、この傷は、完璧を汚すタッタ一つだけの確かな傷だった。

 ズシンと、強烈な頭痛が私を襲った。

 喉から漏れ出しかけた悲鳴が、不思議な圧力に潰される。

 思わず右の手で幕を掴んだが、力が入らず取りこぼす。

 ばきっと、嫌な音がした。

 雷鳴の幻聴が一瞬だけ頭の中に響きわたり、稲光いなびかりに照らされるように、あの蛙女が、私に向かって真っ黒なガマ口を私に開いた。

 ゲコ、ゲコッ、ケコココココ……。

「……ぉい……おい、どうした!? しっかりせい!?」

 パチっと、目が開く。

 ゴーゴーと爆音が渦を巻いたかと思えば、また蛙の鳴き声が、この場の静寂をむしろ際立たせるかのように空気に溶け込む。

 目の前には、コハクマル。暗くて顔はよく見えないけれど、多分、私を心配しているのだろう……膝で私の背中を支えながら、しっかりと私を支えて、肩を揺すぶっている。

 あぁ……。

 私、また倒れたのか。

 この感じ、久しぶりだった。目が覚めてすぐの頃は、こんな感じで何度も倒れていたような気がするけど。

 コハクマルは、おそらく倒れる私をなんとか抱えてくれたのだろう。まっすぐ倒れていたら、だって、足が危なかったかもしれないし。

「……ありがとう」

「ん、な、なんだ? 大丈夫なのか?」ひどく取り乱した声色で、コハクマルは私を見つめる。「せ、拙者、介抱のすべはしらんぞ……心配さすでない……」

「……ごめんね、うん……ごめん……」と、不明瞭な言葉を吐きながら、頭を軽く抑えつつ、左手で杖を探した。二、三回ほど空回からまわった後、床に転がっていたそれを掴んで、コハクマルに助けられるままになんとか体を引っ張り起こす。

 神社の中の風景は、何も変わらない。コハクマルが白幕の上の方を気にしているが、きっと私が引っ張ったせいで、どこか外れかけていないかを心配しているのだろう。

 一息ついたら、めまいがした。「あぁ……頭痛い……」

「……も、戻ろうか?」

「うん……そうだね……」と、名残なごり惜しさを感じながらも、諦めたような心境で、近くに並んでいる人形たちを振り返る。

(たすけて……)

 目が冴える。

 凝然と、人形を睨む。

 え、誰?

(たすけてぇ……)

 …………。

 イナミ?

 いや、カイリ? カイリなの?

 その声は、確かに私の頭の中から響いていて、だけど……。

 コトっと、小さな音。

 ふと、暗かった神社にわずかに差していた光が、何かにさえぎられる。

 入口を、振り返った。

 影が、そこにあった。

 息を呑む。

 私とコハクマル、それに数え切れない人形たちが息づくこの空間に、二つの入口から横様よこざまに入ってくる光を逆光にして、それは現れた。

 時間が一瞬停止して、蛙の声さえ、闇に飲まれる。

 しばらくそのまま、私たちと影は向かい合っていた。

 その間、ひと呼吸さえつくことができず、汗と鳥肌だけがじんわりと肌を伝った。

 女の人だった。

 顔は、見えない。

 瞬間、私の目にはあの蛙女の姿が重なって、思わず逃げるようにコハクマルの背にしがみついてしまった。だけど、その背後に回り込もうと、体があまりに慌てすぎたために、右足に無理がかかってギュッと痛んで、引つるようにもだえてしまった。

 やがて、音もなくその影は、脅かすような遅さで近づいてくる。

「あ、シズどの……」と、コハクマルが気まずそうに声を上げた。

 それと同時に私も彼女の顔を……枯葉のように生気の抜けた、蒼白にシワが刻まれたシズさんの相貌そうぼう着古きふるした白く裾の長い着物を、暗闇の中にはっきりと認めた。

 その、普段からは考えられないくらいに大きく見開かれた瞳に、赤い光がかすかに揺れた。

 シズさんは、何も言わない。

 蛙が、鳴く。

「あ、えっと……あの!」と、私が、カラカラの声で叫んだ。すぐに、ノドが苦しくなって、むせ返る。

 シズさんの足が、止まった。

 咳を抑え、なんとか言葉をつむぎ出す。「人形……あの、も、もう一度だけ、人形が見たくなりまして……その、だから、ハクユでミソギもして……ちゃんと入る前の作法もしましたし……えっと……」

 シズさんは、まだ黙っている。逆光で表情が認められないまま、じっとそこに立っている。まるで、ここに納められた札付きの人形たちの一体であるかのように、私たちを見つめている。

 いつもより、その体が何倍にも大きく見えた。

「あ……そ、その、すいませんでした……勝手に、こんなところまで……コハクマルは、私が無理やり階段を手伝わせただけで……だから、はい、つまり……」

「……ミソギと作法が済んでいるのならば、この神社に入ることは禁じられてはおりません」

 シズさんの細い声が、平坦に聞こえてくる。口の動きが見えないものだから、まるで頭の中に直接語りかけられているようだった。

「村のものも、願いがあるときは祭壇まで足を運び、祈りを捧げることもございます」

 怒られないことがわかって、私はホッとした。「そ、そうなんですか……」

「……その足で、こちらまでいらっしゃるのには、さぞや苦労をされたことと思います」シズさんは、語る。「折角ですから、何か、祈っていかれますか?」

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