第四章 がまがえる

がまがえる 一

 布団の上で、手鏡に顔を映す。

 右の目が膨らんだまぶたの下で真っ赤に腫れていた。その目の下も細く裂けて黒いかさぶたができており、唇もところどころ切れていて、口を開けるたびに傷口が開くものだから、今朝から何度となく血を流している。他にも全体的に暴力にさらされた顔の右半分が青黒く、あちらこちら変色しているようだ。

 赤い目から、涙が流れる。

 ひどい……。

 口の中は相変わらすヒリヒリするし、右耳はまだ音が遠くて、まるで水が詰まっているみたいに不愉快だ。

 ボコボコの顔が、まるであの気持ちの悪い茶色のカエルのよう……。

 どうして、こんなにひどいことができるんだろう。

「……すまなかったな、スミレや」謝るおばあさんの、しゃがれた声。「ワタシの間違いだった。あやつの考えを見誤っていた。そのせいで辛い思いをさせてしまったね」

「いえ……」首を振りつつ、後から後からあふれ出てくる涙を拭う。「鏡……ありがとうございました」

 そう言って手鏡を、立ち上がったシズさんへ。鏡、おばあさんたちは見ないほうがいいと言っていたけれど、自分の顔が今どうなっているのかは、どうしても知っておきたかった。

 鏡を受け取るシズさんの表情が、いつもよりもずっと険しく見える。それは私の顔を気持ち悪がっているのか、それとも心配してくれているのか。

 昨日はずっと……あの後も大変だった。体中にできていた青あざや擦り傷に薬だなんだと色々を塗られたのが、とてもとても痛かった。傷だらけにも関わらず温泉に突っ込まれた時には、シズさんまで私をいじめる気かと思って、幼い子どものように癇癪かんしゃくを起こして大泣きしてしまった。この湯は怪我に効くものだとかなんとかと言われたって、痛いものは痛い。

 泣きじゃくるまま、何が何やらわからぬうちに背中を按摩あんまされ、右足と右腕、それに腹とさらし布を巻かれてから、やっと布団に落ち着けて寝かせてもらったのだが、痛みのあまりに何度も目を覚ましていたように思う。おかげで夢も見られなかった。

 おばあさんはしばらくは慰めの言葉を思案していたらしいが、結局ため息ひとつついて、シズさんに助けられながら立ち上がった。

「……今しばらくは、眠っているといい」

「はい……ありがとうございます」

 そう答えながらも、私はがっくりとうなだれたまま、ゆっくりと部屋を立ち去っていくおばあさんたちさえ見送る気力もなしに涙を流し続けていた。

 いつもより、自分の体が小さく思えた。

 泣けば泣くほど喉が痛む。

 だけど、どれほど痛くとも、泣きたかった。

 ……悲しいからか?

 当然である。

 ……痛いからか?

 当たり前だ。

 ……怖かったのか?

 怖くないはずがあろうか。

 ……だけど。

 だけどっ!

 血の気が引くほどに握り締めた拳を、振り上げる。

 その腕もまた、ジンジンする。

 ちくしょう……っ。

 腹が立つ。

 なんなんだよ……なんなんだよ、あの人……。

 今や恐怖から開放され、一晩が経ち……まだ歩いてはいけないとは言われたものの……ともかく、胸いっぱいに空気を吸い込めるくらいには体も回復していた私の頭の中に渦巻くのは、あの苦痛をまきにくべた、真っ赤な怒りの炎であった。

 ありえない。

 許せない。

 あの人はなぜ、私に目隠しなどしたか。それはもちろん怖がらせるためだ。なぜ口にくつわなど突っ込んだのか。叫んで助けを呼ばせないためである。腕を縛ったのはなぜか。下手な抵抗をさせないためであろう。

 その意思の卑近さ、小狡こずるさ、浅ましさ……。

 私は、子どもだ。あんなにたくましい大の大人に襲われたとあっては、抗えるはずもない、なされるがままに泣くしかない、少女だ。それをわかっていてなおもビクビクと、周到に私をさらった汚れ切った性根。

 あの人は、周りの人にバレたくなかったのだ。バレてしまったら他の人たちには勝てないからって、コソコソと私だけをさらって……。

 私だけは、弱いからって……。

 私だけなら好きにできるからって……。

 なんて卑怯者。

 そんな自分の弱さが、悔しかった。

 あんなクソみたいな下衆げすに、手も足も出なかった。

 なされるがままに、みっともなく泣いてしまった。

 正しく、あいつの計画した通りに、怯えきってしまった。

 悔しい。

 腹立たしい。

 あの時は、目が見えないことが怖かった。そして今は、手を縛られたことよりも、口を塞がれていたことよりも、目隠しをされていたという事実、すなわち見えなければ怖いだろうという汚い魂胆に腹が煮えくり返っていた。

 私は……私は、スミレだ。そういう名前の、ひとりの人間だ。たとい記憶の無い、出処の知れない漂流者であろうとも、私は私だ。私のためにある、私だ。あの人の欲望に都合よく従うためにある、畜生などでは決してない。

 それなのに……。

 人を殴る、人を縛る、人を脅す、人を殺す……そのどれもが、人をモノ扱いしているという意味で、罪深い。

 あの人は結局、私をいじめたかっただけだったのだ。

 なんて嫌な人。

 そこにどんな理由があったのか、私は知らない。知りたくもない。だが、少なくともそれは理由なのだ。理由ではない。私の中にあんな目に遭う理由など存在していなかった。してたまるか。

 それなのに、勝手に私を使われた。

 暴力と縄で、動けないようにして……。

 私を無視して、私を傷つけた。

 その感覚が、何よりも私のしゃくに障っていた。

 天につき上げた拳は、しかし振り下ろす場もなく、わなわなと膝に落ちる。

 あんな奴のせいで、私の今は、こんなザマである。

 なんのためにこんなに痛い思いをしなければいけないのか。なんのために、私は楽しいことを考えるのをやめて、いちいち気分の悪くなるようなことを何度も思い出さなければいけないのか。

 これほどの苦痛が全て、あの人のにあるのである。

 あまりに、理不尽。

 全身これ、赤熱する怒りであった。

 このまんま泣き寝入りなんて御免だ。

 絶対に、許さない。

 是非とも、あのクソおやじの鼻っつらに一発ぶちかましてやりたい気持ちで胸が一杯だった。その体をふん縛って、蹴りの数発でも食らわせてやりたいところであった。

 そうすれば、私の気持ちもわかるだろうに……わからせてやれるのに……。

 だが……。

 もう一度あの人に会う。

 そう考えると、生々しい恐怖が、体を這いずっていた指先の記憶とともによみがえるのだ。

 生ぬるい息が顔に吹き付けられていた、その気色悪さを思い出す。

 全身に、彼の体温が残っている気がして、吐き気のあまりに身震いする。

 ごまかすように、痛いほどに腕や脇を……太ももを、掻きむしる。

 ……あの時私は、何をされようとしていたのか……。

 おばあさんに聞いても、知らぬほうがいいと言うばかり。

 私自身、なんだか知りたくないような感じがして、それがいっそうに不気味であった。

 それに……。

 あの時彼が叫んでいた奇っ怪な言葉もまた、杭のように頭に刺さっている。

 返せ……。

 そいつは俺の……。

 俺の、なんだ?

 俺の、ものか?

 ギリっと、奥歯を噛み合わせる。

 ふざけるな!

 私は、私のものだ!

 お前の……お前なんかの……。

 あぁもう、本当に最悪だ……。

 死んじゃえよ、あんなやつ……。

 うぅ……。

 ブルブルと体が震える。

 両手のひらに、顔をうずめる。

 怖かった……怖かった。

 本当に、死ぬかと思ったんだ……。

 いじめられた私の体が、可哀想だった。

 腫れた顔が、痛々しかった。

 あぁ、たまらない。

 どうしてこんな気分でいなければいけないのか。

 嫌だった。

 こんなに震える、恐怖におののく、自分が嫌だった。

 なんて弱々しくて、格好悪くて、情けない……怖がりな私。臆病な私。

 ちっぽけな、スミレ。

 私をこんな気持ちに追い込んだあいつはもっと嫌いだ。

 大嫌いだ。

 ……あの人は、今どうしているのだろうか。どこかに見張りをつけて、閉じ込めてくれたらしいけれど、本当に大丈夫なのだろうか。おばあさんやマキさんは心配ないって言ってくれたけれど、でも……。

 村の中で感じた、刺すような視線を思い出す。

 もしかしたら……もしかしたら、タツミさんだけではないのかもしれない。

 布団の下で足を組み替えれば、木を無茶にへし折るみたいな軋み方で、ジーンとすねが痛くなる。歩けないほどではないにしても、できるだけ動かしたくないのは確かなこと。

 この足ではとても逃げられまい。

 はぁっと、ため息。

 固く腫れたまぶたの上を、指で押す。

 憂鬱だ。

 怪我というものは、後から後から憂鬱だ。

 昨日までの、崖だってへっちゃらだった自分の脚と今の落差にはうんざりする。これでは用足しだって、少なくとも厠までは誰かに連れて行ってもらわねばなるまい。耳だって、ずっと音がこもっていているのはジワジワと鬱陶しくなってくるし、だいたいちょっと体を動かすだけでいちいちどこかが痛んで、考え事の邪魔をするのだ。手は後ろに縛られていたおかげか、指はなんともないのが救いである。

 外からは、相変わらずに爽やかな鳥の声。

 もし昨日あんな目にあわなければ……あるいはもっと早く、誰か助けに来てくれていれば……きっと今日も楽な一日だったのだ。あの森の中を駆け回れたのだ。

 私がもっと大人しくできていれば……抵抗しなければ……。

 変な冒険心に、ほだされてさえいなければ……。

 今更な後悔に、思考が食いつぶされる。

 あぁ、めんどうくさい。あぁ、いやだ。

 そろそろと足腰に気を遣いつつ、体を布団の中に潜り込ませる。

 もういいさ、しばらくは夢を見てやるんだ。あんな人のためにうじうじ悩むなんてもったいない。いつか見てろとだけ心に誓って、今は心を回復させよう。

 何か楽しいことが、夢の中にありますように……。

 そう願って、目を閉じた。

 こうして私は、あの怪奇な大事件の夜へと続く夢へと落ちていったのである。

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