葛貫となぷきん

 ねえねえ、くずちゃんって瀬良くんのこと好きなの?


 なんて聞かれ始めたのはいつからだっただろう。はじまりは小学生のいつかからだったような。正確には分からない。ただ、そう聞かれてどきり、とした胸の痛みは今でも確かに蘇らせることが出来る。女の子たちは無邪気に、という体でいつも仲良しグループ数人で私を囲んでそう聞くのだった。聞いてくる子は日によって、場所によって変わったけれど、その表情はみんな似たような感じで。無邪気の下にある嘲りを、あえて隠していないような。そんなカオ。


 私はなんでそんなことを聞かれるのか、意味が分からなかった。周りが男の子に興味を持って行く中で、見事に取り残されていたのだ。あの時、たくさんの疑問があった。好きって何なんだろう?少女漫画で見るようなあれがそうなのか。しかし男の子たちにも私にも漫画みたいに目に星は入っていないので、なんだかあれが自分の身に起こるとは想像しにくい。そもそも、どうして男の子と一緒に遊ぶことが好きってことになるのだろう?女の子だとなにも言わないのに。男の子と女の子。なにがどうちがうの?一緒にいるのは、ああやって言われるほど不自然なものなのかな?


 明日の体育は男女別で行います。


 明日の予定を黒板に書き込んでいた先生がそう言った。時間割りをノートに書き込みながらおしゃべりしていた同級生たちはそう聞いた瞬間、異様な緊張感に包まれた。静まり返る教室。けれど、声は出していないのに、ざわざわとみんなの心が熱を帯びていくのが雰囲気で伝わってくる。その温度を静かに感じ、私は冷や汗をかいた。何でかすこし吐き気がした。


「”なぷきん”貰えるらしいよ」


 仲良しだった日高ちゃんは隣の席でそう言った。”なぷきん”。自分でも口にして反芻するけど、私はそれがなんのことなのか全く分かっていなかった。


「クズ、わかってないでしょ」


 案の定そう突っ込まれて、私はへへへっと笑った。すると日高ちゃんは真っ赤なランドセルからかわいいポーチを取り出して、こっそり中身を見せてくれる。小さく開けられたファスナーから、日にかざせば向こうが透けて見えそうなほど薄い紙に包まれた何かが見えた。何かはわからない。けれどそれを覗いた時、とてもドキドキしたのを覚えている。


「はい、おわり。どうせ明日また先生見してくれるだろうしね。クズはその時に知ればいいよ」


 日高ちゃんは大人みたいな顔をしてそう言った。うん、って私はまたへへへって笑った。


 日高ちゃんは私の憧れだった。クラスで男の子を含めても一番高い身長。すらっと手足が長くて、チョークの線も黒板の一番上まで消せてしまう。おまけに読書家で、私の知らないことをたくさん知っていた。同級生だけど、お姉ちゃんみたいな。そんな存在。その時も単純な私は、やっぱり日高ちゃんはすごいな、なんてぼんやり考えて笑っていたのだ。”なぷきん”がどんな意味を持つのかも知らずに、笑っていたのだ。


 その夜、私はなかなか眠れなかった。日高ちゃんに見してもらった”なぷきん”。大事に大事にかわいいポーチに包まれた、特別なもの。あれが頭から離れず、目を閉じても目を閉じても浮かんでくる。あれはいったいなんなんだろう。帰り道、ヨシくんに聞いても知らないって言ってた。お母さんに聞いたら女の子なら大事なものなのよって笑ってた。


 明日になったら知れる、女の子の私にも、大事なもの。


 早く明日になればいいと思った。寝ればすぐに明日がやってくるのに、寝よう寝ようと思うほどに目が冴えていく。そうしているうちに尿意を催して、私はしぶしぶ布団からでてトイレに向かった。私の部屋は2階にあるけれど、トイレは1階にしかない。きっと両親はもう寝ているはずだ。私は誰も起こさないように足音を忍ばせて階段を降り、真っ暗な中を目を凝らして進んだ。すると、リビングに繋がるドアから薄く光が漏れていた。なんだ、まだお母さんもお父さんも起きていたのか。そう思った私は音がしないようにドアを細く開け、そっと覗いてみた。中の様子を伺ってから急に飛び出して、驚かせようと思ったのだ。


 確かに、両親はそこにいた。


 けれど、いつもと様子が違う。2人はソファの上に裸で重なっていた。聞いたことの無い声を、声とも言えないうめき声のようなものを出し、身体を揺らし合っていた。見たことのない顔をしていた。笑っているような、泣きそうであるような、歪な顔をしていた。


 両親はセックスをしていたのだ。


 ぞわりとした。


 動物だ。その様子を見てそう思った。自分の親なのに、そう思った。その行為をまだ何かもわかっていなかったはずだったのに、たしかに感じた嫌悪感。よりもひどい、もっと嫌な、ねとねとして全身に鳥肌が立つような、そんなものに全身を支配されて。あの時の感じに似ていた。先生が明日の体育が男女別だと言った時に感じた、異様なクラスの雰囲気、それを感じて冷や汗をかいたあの時。訳も分からない嘔吐感。


 はっとした私は急いで、それでもできるだけ物音を立てずにトイレに逃げ込んで、用を足した。自分から出る尿が暖かいと感じる。いつもの感覚。夢じゃないんだ。知った私はひとり泣いた。しくしく泣きながら、ふと頭を過ぎったのは私を囲んだ女の子たちの顔だった。それみたことか、と言っている気がした。わたしは嘲られてしかるべき無知だったのだ。恥ずかしくて、恥ずかしくて、私はまたしくしくと泣いた。




 体育の授業では本当にナプキンがもらえた。周りの同級生はまたあの無邪気を装って、かしましく今日の授業内容を反芻している。膣、精子、ペニス、卵子、月経、受精、セックス。言葉だけ覚えたってどうしようもないのに。彼女たちは知らない。セックスは人間を動物にするんだ。


 ここにいる大抵の人が無知のまま体だけ女になっていく。それに潜む危うさと恐怖を知らないまま。


「ね、クズ。ナプキン貰えたでしょ」


 日高ちゃんは少し得意げに口角を上げた。彼女は既に、知らないうちに女になっているのだ。


 なにも知らずに子どもが産める体になるなんて。ぞっとした。腹が立った。大事なことは何も知らない日高ちゃん。私は憧れていた彼女に教えてもらった”なぷきん”をその日の内に捨てた。




「ねぇ、今日の体育、女子だけでなにやってたの?」


 帰り道、ヨシくんは無邪気だった。その質問には何の裏もなく、今日の晩御飯なに?とか、いつもの他愛のないそれと変わらなかった。とても安心した。ヨシくんだけが、変わらない。安心したら目の前が霞んだ。目を擦ると指が濡れた。涙だ、と認識した瞬間、うあーんと声が漏れた。私はそうやって声をあげて泣いた。


「え、ええ、なんで泣くんだよ……」


 ヨシくんは私が泣くとオロオロした。私が泣き止むまでずっとずっとオロオロしていた。それでもどこにも行かなかった。


 やっと落ち着いたのは家が近くに見え始めた頃だった。


「ヨシくん」

「……なに」


 急に名前を呼ばれたヨシくんは驚いたように体を強張らせて、固い表情で私を見た。


「ずっとヨシくんでいてね」


 私がそう言うと、ヨシくんは固い顔を緩めて笑った。


「意味わかんないよ、僕はずっと一緒の僕だよ」


 うん、そうだね。ヨシくんの笑顔を見ていたらまた目の前が霞んできたから、私はそう言って慌てて目を擦った。ヨシくんは、大丈夫。このまま、動物になんてならない。人間のままでいるのだ私と一緒に。


 なんて、それは2人のランドセルの色の違いも気付けなかった頃の話。


 中学に入ると交友関係が変わった。ヨシくんはどんどん、大きくなって、声も低くなって、知らない人に見える時があった。知らない、男の人になってしまっていた。女の人の裸が載っている雑誌も、普通に読んでいた。


 けれど、私の体は女になることを拒絶したままだ。


 トイレに行って、汚物入れを見るたびにぞっとする。わたしは今日も怯えている、股から血が流れる瞬間。いつかそれがやってきて、わたしも動物になるのだろうか。誰かとセックスをするのだろうか。


 あの、ずっと一緒だと笑っていたヨシくんがどこかに行ってしまったみたいに。


 全部忘れて、セックスをする。


 ああ、いや、いやだ。


 この嫌悪感、恐怖。きっと、忘れられない。忘れてはいけない。


 私はきっとこの先もそれらを背負って言い続けるのだ。


 セックスは、したくない。

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