エミルの夢2

                 * * *



 夢の中で、エミルは学校の制服に身を包んでいた。

 ついさっきまで、白銀の鎧をまとっていたのだ――この格好から見ても、ここが夢の世界であることは疑う余地もない。


 セーラー服姿のエミルは、ただただ防波堤から沈んでいく夕日を見つめていた。だが、彼女がこの景色を見るのは初めてではなかった。


 そう。それは忘れもしない――。


 今から数ヶ月前。岬が死んですぐの頃だ――あの時のエミルは、何もかもがバカらしくなっていた。大事な人を失った喪失感というものか……。


 この頃はもう。学校に行くのも、人と話すのも、生きることさえも無意味に感じていた。


 それもそのはずだ。学校帰りに毎日のように通っていた最愛の妹はもうこの世にいない。その声も……体温も……笑顔も……何一つ。今の自分には感じられない。人が死ぬということは、本当にただただ【無】なのだ――。


 記憶を思い返せば、後悔の念が頭の中を渦巻く。

 あの時、もっとこうしていれば……そんなどうしようもない感情が頭の中を駆け巡り、自分の胸を強く締め付ける。

 

 この時のエミルもまた、その後悔というどうしようもない感情に苛まれていた。

 夕日を受けて宝石の様に煌めく水面を見つめていると、波の中にこのまま身を投げようか……そんな考えが頭を過る。


 風とともに防波堤に打ち寄せる波を見ていると、まだ『他のどこかで岬が生きているのではないか?』なんていう思いが、押し寄せる波のように自分の空虚な心を容赦なく抉る。


「……岬」


 エミルは小さく呟く。

 泣きたくても、もう数日間も泣き尽くし、涙も枯れてしまい泣くことさえできない。そんな、自分が惨めて仕方ない……。

 

 残されるということがこれほど辛く苦しいことだとは、予想もしていなかった。


 なんとも言えない喪失感と、どこにもぶつけることのできない虚しさ。そしてなんと言っても、無力で非力な自分に対しての怒り。もう二度と会うことができないという事実。


 そんな当たり前のことが頭の中を駆け巡り『ここで死ねば、向こうの世界で……』なんて、ありえるわけのない想像すら浮かび、自分を【死】へと掻き立てる。 


『あの子は本当に満足して逝ったのだろうか……』


 岬が最後に書き記した手紙を手に、何度も自分の中にいる最愛の妹に問い掛けた。だが、記憶に成り果てた彼女は微笑みながら「お姉様」と呼ぶことしかしてくれない。


 エミルは持っていた手紙を制服のポケットにしまい、自分の両手を見つめる。夢でもいいから――もう一度……もう一度だけ、この手であの子を抱き締めたい。その時、突如として不思議なことが起こった。


 何の前触れもなくエミルの死んだはずの最愛の妹が、唐突に隣に現れたのである。それを見たエミルは驚きのあまりに言葉を失う……。


 それもそうだろう。本来の記憶なら、この後自転車に乗って家路に着くはずなのだ。しかし、目の前には死んだはずの妹が、しっかりとエリエの方を向いて微笑んでいた。

 横に立っている藍色の長い髪に透き通った黄色い瞳の少女が立っていて、エミルの顔を見つめにっこりと微笑んでいる。間違いない。そこにいたのは死んだはずの妹だ――。


「――姉様。心の中で何度も呼ばれたので来ちゃいました」


 岬がそう言った直後、枯れ果てたと思っていたはずの涙が止めどなく溢れ出す。


「――みさきぃぃぃッ!!」


 感情を抑えきれずに思わず、最愛の妹に抱きつくエミル。


 一瞬通り抜けるのではないかなどという考えが沸き起こったが、そんなこともなくエミルの腕には懐かしい妹の体の温もりがしっかりと伝わってくる。


 まるで子供のように泣きじゃくる姉の頭を、岬は優しく微笑んで撫でていた。

 海に沈みそうな夕日が防波堤の波打ち際に座る2人を照らし、後ろのコンクリートの地面に長い影を作っている。


 自分の胸の中で泣いている姉に岬が優しく語り掛ける。


「ゲームの中ですけど……姉様とまたこうして会えて、あたし嬉しいです」

「……私もよ。ずっと会いたかったわ……」


 涙で濡れる姉の顔をハンカチで拭うと岬がくすっと笑う。


 エミルは不思議そうに首を傾げ「どうしたの?」と尋ねた。

 岬が微笑みながら、きょとんとした表情でいる姉の顔をまじまじと見つめ。


「いえ、姉様のそんな姿。始めて見ましたので、つい」

「――えっ? あっ、ご、ごめんなさい。こんなお姉ちゃんなんて、岬も嫌よね……」


 エミルはその岬の言葉で我に返り、慌てて服の袖で顔を擦った。

 慌てふためく姉の姿を微笑みながら岬が見つめる。その後、2人は夕日で真っ赤に染まる海を静かに眺めていた。


 今、目の前で起きているのが夢だとは知りながらも、エミルは嬉しさのあまり、再び涙が頬を伝う。


 それを見た岬はポケットから取り出したハンカチでその涙を拭うと、にっこりと微笑み掛けた。溢れそうになる涙を上を向いて耐えると、エミルも妹に優しい微笑みを浮かべる。


 今のこの出来事――それはエミルが夢にまで見たことだったからだ。

 小学生の頃からずっと病院に入院していた岬とは、一緒に出掛けるなんてことは絶対に考えられなかった。


 普通の姉妹ならできるようなことが、岬とは一切できなかったのだ。


 姉として妹にしてやりたいこと、教えたいことがたくさんあったのだが、その全ては病弱だからというだけで否定され続けてきた。しかし、今はこうして2人で夕日を見ている。それが本当に夢のようだ――いや、紛れもなくこれは夢なのだが……。


「……まさか、岬とこんな夕日を海で見れる日が来るなんて……」 


 つい本音がエミルの口から溢れる。


 その言葉を聞いた岬の表情があからさまに曇った。


「……ごめんなさい。私が入院していたばっかりに、姉様には寂しい思いを――」


 エミルはそんな妹の体を抱き締めると、耳元でささやくように言った。


「――なに言ってるの? 寂しい思いをしてたのはあなたの方でしょ?」

「あたしは慣れてます……」


 そう返した岬に「そういうのは慣れるものじゃないのよ?」と言って、エミルは彼女の紺色の髪を優しく撫でる。


 岬は微かに頬を赤らめると、嬉しそうに俯いた。

 その彼女の表情を見て、エミルの頭の隅にあった『もしかしたら偽物かもしれない』という疑惑は完全に吹き飛んだ。


 2人は沈みかけの夕日を見つめ、その光を受けて輝く水面と同じく滲んだ涙で目を輝かせている。

 その静かで落ち着いた時間を、いつまでも過ごしたい……そう思っていたエミルだが、心の中で何かがざわめくのを感じた。


 それは、最後に岬が紙とペンで必死に書き記した『ありがとう』という言葉……その言葉をエミル自身。彼女に伝えられていたのかどうかが不安で仕方なかった――。


(あの時の言葉……今なら、この子に伝えられる。私のありのままの気持ちを……)


 岬の横顔を見つめながら、躊躇っていたエミルだったが、意を決して叫ぶ。


「岬!」

「……んっ? なに? 姉様」

「あの、そのね。あの……」


 純真無垢なその顔に、思わずエミルも言葉を詰まらせたじろいでしまう。


 俯き加減に口籠る姉に、妹は無言のまま笑顔で応えた。その岬の表情を見つめていて吹っ切れたように、再び意を決してエミルが口を開く。


「岬! 手を繋ぎましょうか……」

(……って、ちがーう!!)


 思いとは裏腹に出てきた言葉に、エミルは心の中で叫ぶ。


 自分の不甲斐なさに自己嫌悪に陥りながらも、それは決して表情には出さない。それに対して岬は、一瞬驚いた顔をしたが「うん!」と嬉しそうにエミルの手を取った。


「姉様の手。凄く温かい」

「そ、そう?」


 姉の手を握って満面の笑みで微笑む妹――その最愛の妹に思いを伝えられない姉。


 これはこれで問題がある。家族なのだから別に恥ずかしがることもないはず。普段なら他愛もない言葉なはずだが、それが伝えられない。


 いや、もし本当に伝えてしまったらこの時間も、彼女自身も消えてしまう。そんな気がしたからここ一番の場所で踏ん切りがつかなかったのだ。    

 だが、このまま彼女に何も言えないままいても、恐らく今後いつまでも後悔する。そう、たとえ夢であったとしても、その時間もいずれ終わりは来る……。 


 エミルは三度目の正直とばかりに意を決して告げた。


「……岬。あなたは幸せだった?」

「えっ? どうしたの? 突然……」


 姉の予想外の一言に、岬は思わず苦笑いを浮かべ聞き返した。


 当然だ――突然『幸せだったか?』なんて聞かれても、答えられるものではない。だが、その真剣な眼差しにしばらく考える素振りを見せ。


「うん! 幸せでした。友達は居なかったけど、毎日姉様がお見舞いに来てくれて、毎日が楽しかった」


 岬はそう呟くと、姉の顔をまじまじと見つめた。


 その透き通った黄色い瞳は、夕日を受け一層美しく輝く。


「あたしは姉様の妹で幸せでした!」


 そう言ってにっこりと微笑む妹の顔が、最後の病室での一時を思い出させる。


 エミルは瞳から大粒の涙を流しながら岬の体を抱き寄せる。


「ごめんなさい。ごめんなさいね……私の方が、お姉さんなのに、泣いてばかりで……」

「いえ。泣きたい時は泣けばいいんです。そう教えてくれたのは姉様ですよ?」

「ええ、そうね……」


 エミルは涙を袖で拭うと、また噴き出しそうになる涙を堪え、岬の顔を見て微笑みを浮かべる。


「私も……私も岬が妹で幸せだった。短い間だったけど、あなたとの時間は一生物よ。だってあなたは、私にとってのたったひとりの妹ですもの」

「……姉様」


 それを聞いて、岬の瞳からも一筋の涙が流れた。


 だが、最後の時は余りにも突然で、非常に短い時間しかなく多くを語れなかった。岬がエミルの言葉に感極まるのも無理はないだろう。


 しばらく、お互いの顔を見合っていると、岬が徐ろにエミルの肩を掴んだ。


「姉様? あの星っていう子の事なのですが……」

「……えっ? あっ、ええ。あの子がどうかしたの?」


 エミルは突然の言葉に驚き動揺する。

 それもそのはずだろう。死んだはずの妹からすれば、見知らぬ子に姉を取られたと感じていてもおかしくはない。


 もしかすると『あの子を見捨てろと言われるのではないか……』そんな思いがふと頭を過る。その直後、真剣な面持ちの岬が徐ろに口を開く。

  

「あの子は姉様が思っているような子ではありませんよ?」

「……そ、それはどういうこと?」


 岬の言葉の意味が理解できずにエミルが聞き返す。


 すると、岬は深刻そうな顔をして。


「あの子は姉様が思っているよりもっと弱い。いえ、自らを空気だとしか思っていません」

「……空気?」

「はい。あの子が自分から打ち解けることは、おそらく難しい……」


 岬の話す言葉がどこか遠いもののように感じてしまう。今まで星と過ごしてきて、星が笑う姿を何度も見た。だが、今目の前の最愛の妹は『あの子が自分から打ち解けることは難しい』と言っている。


 っと言うことは、今までの彼女は打ち解けていたふりをしていたということになるのかもしれない。


 ならば、星は今まで一度たりとも、本気で笑っていたことがなかったと言うのか?っと、唖然とした様子で岬の顔を見つめるエミル。


 そんなエミルに向かって岬が言葉を続けた。


「あの子は打ち解けたいと思ってます。でも、打ち解けてはいけないとも思ってます。あの子にとって人とは、自分と違う未知の生き物なのです……」


 岬は少し表情を曇らせると、胸の前で手を重ねた。


 その表情はどこか悲しそうに見えて、エミルも胸を締め付けられる。


「そう。あの子は、自分以外が見えない……いいえ、見方が分からないんです。だから、姉様」


 その手をエミルの頬に当て、ささやくように告げる。


「姉様の愛で、あの子の心の氷を溶かしてあげて下さい」

「でも……岬。あなたは嫌じゃないの? 知らない子にそんな……」


 ついエミルの口から本音が漏れてしまう。


 それもそのはずだろう。本来なら赤の他人の星と、実の姉が姉妹の様にしているのを見ていて、気持ちのいいわけがない。


 複雑そうな顔で岬が、エミルの疑問に答えた。


「そうですね。もちろん嫌です。姉様はあたしだけの姉様ですから、でも……」


 岬は一度、口をつぐむと、エミルの顔を見つめ、にっこりと笑みを浮かべ告げた。


「あたしは、姉様には幸せになってもらいたいから」

「……岬」


 そう言った直後、岬の体が徐々に薄くなっていく。


 岬はぎこちなく微笑むと、再び口を開いた。


「もうそろそろ時間みたいです。姉様」

「岬!? まだ嫌よ! もっと話したい事がたくさん……」


 エミルは薄れゆく最愛の妹の体を抱き締めると、涙で掠れた声で言った。


 岬は微笑みながらエミルの頭を優しく撫でる。


「姉様。お体に気を付けて、あまり頑張り過ぎないように。ですよ!」

「ええ、分かったわ……。あなたも……あなたもいつでも帰ってきなさい……。いつでもお姉ちゃんが待ってるから……」


 2人はお互いの顔を見合わせながら、ぎこちなくだが、微笑み掛ける。


「――ええ、姉様。愛してます」

「――私もよ。愛してるわ……岬」

 

 その言葉を残し、岬は消えた。


 エミルは妹の余韻を味わうように、自分の手を眺めると、茜色の空を見上げ呟く。


「……最後まであなたは、人の事を思っているのね。岬」


 しばらくの間。エミルは空を仰ぎ、瞼を閉じて瞳から零れ落ちた涙が頬を伝いながら海から流れる風を感じていた。



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