外周
鋼太郎は碁盤の目を歩いているような感覚に囚われていた。
規則的に店舗と通路が交互に混じり合い、自分は一体どこを歩いているのかどこへ向かっているのか、曖昧になるほどに同じような景色が延々と続いているからだった。
通路は縦も横も大した差はなく、均一な大きさのタイルが敷き詰められ、靴底を擦りつけたような無数の傷やこびりついたガムの楕円が所々に見ることができた。
時々小さなスチール缶や煙草のフィルターや小指の爪ほどの大きさの灰が落ちていた。
いま歩いている所に並ぶ店舗のいくつかはシャッターを下ろしているか、外側から板が打ち付けられていたり、覆いが掛けられており、入店することはおろか、店内の様子を見ることさえできなかった。
シャッター・店舗・十字路が一定のテンポで現れては消え、機能しているかどうか定かではない煙感知器や熱感知器は次々に後方へと流れ過ぎ去っていく。
道すがら武器商人・桜子は積極的に鋼太郎へ売り込みをかけ、鉄兵はそれを否定しつつ迷宮において何が有効かを語った。
延々続くかと思われた店舗群はついに終わりを迎え、灰色のコンクリートが壁が現れた。
膝丈ぐらいの高さあたりには、いくつもの黒ずんだ跡がいくつも見られた。
それは靴底が壁をこすった跡だ。
待ち合わせに知り合いが来なかったのか、それとも単なる気まぐれか、そこで誰かが背をもたれ片足を直角に曲げて足裏を壁につけた際に出来上がったものであろう。
人の存在を感じさせるものであるが、不思議とこの地下飲食店街か百貨店のさびれたレストラン街という風情のこの場所では、人とすれ違うことが稀であった。
わずかに遅れて立ち止まった三人娘は、足を止めた瞬間は口を閉じたものの、再度楽しそうな声が響き渡るのに大した時間を必要としなかった。
桜子の案内にならって一行は左折し、これまで同じようにゆったりと壁にそって歩いた。
視界に入る景色に大した変化はなく、右半分は壁一色、左半分は交互に重なる店舗と通路が続いた。
桜子の売り込みも続いていた。
百戦錬磨のセールストークというよりも迷宮におけるセオリーを無視した桜子の暴論ともいえる台詞に打たれ、鋼太郎は呆けたような顔をしていた。
「それで、どう思う?」
「なんかこう、痺れました……ですからプロである桜子さんに全部お任せします」
「ほらみたことか! 若い子はそうでなくっちゃ! アンタも素直な心を持ちなさい」
「素直な心が必要なのはひん曲がった性格の姐さんの方だろうが。真に受けると馬鹿を見るぞ」
鉄兵の挑発を無視する桜子は、鋼太郎の首に腕を回し耳元で囁いた
「気に入ったわ。オネエサンのとっておきの銃を用意してあげる。期待していいわよ」
耳朶をくすぐる桜子の吐息、同年代とは全く異なる艶のある声音、一語一語に感じるあの桃色の舌の湿り気。
左肩に感じる重量感、学生服越しに伝わる温もり、ブラジャーのワイヤーの硬さ。
前をはだけた桜子の白いシャツから覗く、温もりを帯びた肌色とレース地の黒。
それら白・黒・肌色の隙間から匂いたつ香りはボディソープなのか、香水なのか、それとも桜子自身のものなのかは不明であったが、確かにそれらは鋼太郎を包み込み弄んだ。
初めて経験する年上の女の匂いと温もりに意識が蕩ける中、鋼太郎はツンと鼻を刺す臭いで我に返ったもののそれが何であるのは結局分からなかった。
「ああ羨ましい。若さってやつが、ラッキースケベが羨ましい。俺の歳だと犯罪者扱いだから羨ましさもひとしおだ」
「ははははは、ばーか。ラッキースケベはないかもしれないけど本格的スケベはできるじゃない。私がこの子に手を出したら淫行条例で逮捕だ。『ここ』では勝手が違うけどね」
鋼太郎を開放した桜子は妖しい表情を浮かべ、意味ありげにウインクをした。
「あそこの階段を昇ったら店までもう少しよ」
桜子が指し示した場所には灰色がかったクリーム色をした金属製の防火戸があった。
そこは地下飲食店街の風情があるこのフロアーの角地であり、非常時以外は壁側に埋め込まれているはずの防火戸が上下階に通じる階段の踊り場を塞いでいた。
鉄兵が防火戸を調べると、据え付けられているくぐり戸に施錠はされておらず、人の出入りを妨げるようなことはなかった。
「これ持ってて。それじゃあ各自武器のチェックしてちょうだい」
桜子はL85や拳銃が数丁入ったトートバッグを鋼太郎に持たせると、腰に手を回してUSPコンパクトを手に取った。
銃のスライドを引き薬室に弾薬が装填されているのを確認すると、鉄兵に頷いた。
「いやいや、意味わかんねえし」
「あの話聞いてないの? 何日か前にこの階段で私が追い剥ぎに遭ったって話」
「初耳だな。それでどうなったんだ?」
「傷んだものでも食べたんじゃないかしら? すぐにお腹を抱えてどこかへ消えたわ」
「追い剥ぎに同情するよ。タマを撃たれてないだけマシか。また待ち伏せがあるとでも?」
「用心するに限るわ。あの汚い面はゼッタイに復讐しにくるわ。鉄兵も早く武装しなさい」
桜子は不機嫌そうに鉄兵を見つめていた。
「武装にはちょいと時間がかかるんだが。それまで待てる?」
「無理。L85使っていいわよ」
鉄兵は鋼太郎からL85を受け取ると、各部をチェックし、空の弾倉を桜子に向けた。
「弾は?」
「ないわ。近接格闘モードで使ってちょうだい、壊しても構わないわ」
冗談だろ、そう呟いた鉄兵はL85のグリップではなく、逆さにして銃身を握ると、バットでも振るようにして素振りを始めた。
「あのう、僕はどうすれば……」
丸腰の鋼太郎は不安そうに尋ねたが、内心トートバッグの中の銃を手にすることが出来るのではと心躍らせた。
「俺の後ろに隠れてればいい。待ち伏せがあっても先頭の姐さんがなんとかしてくれるだろ。後ろの二人は千登勢ちゃんを中心にしてついてきてくれ。リンコは殿、挟み撃ちを警戒」
雪緒と凛は話をしながらも各々の装備品のチェックを始めた。
ほのかな期待は一瞬にして消え去った。
よくよく考えてみれば、素人――しかも初対面の人間に銃を渡すはずはないなと鋼太郎は自分の浅はかさを嘲笑った。
「どうした、ニヤけた顔して。姐さんのブラが透けて見えたか?」
「違いますよ。本当に『棍棒』として使うのかと思うとつい……」
「L85は鈍器として有名だからな。銃剣があればこんな無茶な使い方はしないんだが」
鉄兵は片眉を上げ笑ってみせた。
うまく誤魔化せたことに鋼太郎は胸をなでおろした。
「弾がないんだ、しょうがない。近くにいればこれでぶっ叩くし、遠くにいればこいつを投げつけるだけさ。モノは使いよう、『状況に合わせる』ってだけだよ」
鉄兵がニカッと笑ったのにあわせ、鋼太郎も顔を綻ばせた。
「男同士見つめ合ってないで行くわよ。鉄兵は先行して。鋼太郎くんは私の側に」
「俺の指示と逆じゃねえか」
桜子は黙ったまま空いている手ひらひらと振り、鉄兵に早く行くよう促した。
「まったく、なんで俺が使いっぱしりに……」
鉄兵はぶつぶつと文句を言いいながら防火戸に向かっていった。
しかしくぐり戸の把手に手をかけるやその顔つきは緊張によって引き締まり、おどけた仕草などの一切が消え去った。
そして戸に顔を近づけて向こう側の様子を探った。
鉄兵は振り返って桜子に頷くとくぐり戸をゆっくりと開き、人ひとりがやっと通れるほどの隙間に音もなくスルリと入り、防火戸の向こう側へと消えた。
桜子は鉄兵の姿が見えなくなると、鋼太郎が肩にかけているトートバッグから拳銃を取り出し、スライドを引き弾倉を抜き出すと手早く弾薬を詰め、それを手渡した。
「バッグは私が持つわ。握り方は分かる? 鉄兵の尻穴を増やすのは構わないけど、自分の脚を撃たないように気をつけて」
桜子はやさしく包むようにして鋼太郎の手をとり銃の扱い方を教えた。
「Kahr・K9――ちっちゃい子だけどとっても優秀なのよ」
見た目の割に重みがあるものの1kgの半分もないかもしれない小さな剣珠は、体重を吸い取るかのようにして両手の中でその重みを増して鋼太郎の上体をグラつかせた。
くぐり戸から太い腕が生え、問題なしの合図を送るのを見た桜子は、そんな鋼太郎に気にもとめず、ひとりさっさと歩き出した。
緊張した表情の鋼太郎は肩をガチガチに固まらせてその後を追うと、桜子は顔を寄せて小声で語りかけた。
「撃とうとは思わないで。まずは銃を持つことの恐怖を知りなさい。私の魅力的なヒップでも眺めて緊張をほぐすのが効果的ね。いくわよ」
スムーズに後ろの者が続くためには、扉が閉まらないよう重い鉄扉を誰かが支えていなければならなかった。
防火戸に設置された背の低いくぐり戸の鉄扉を鋼太郎は銃を持っていない左手で押し、ゆっくりと防火戸の向こう側へ身体を滑り込ませた。
桜子が背中で戸を押さえている間に鋼太郎を始めとして、次々と扉をくぐり抜けていった。
殿の凛を確認した桜子は音を立てないようにゆっくりとくぐり戸を閉めた。
くぐり戸を抜けると、そこはひんやりと冷たい空気が流れる暗い階段の踊り場であった。
それまでとはうって変わり貧弱な明かりで薄暗く、防火戸の上部にある非常灯の緑が踊り場を煌々と照らす唯一の灯りだった。
下り階段を覗くと電灯が切れているためか真っ暗であったが、稲光のような光が時折瞬いた。
非常灯を見ると緑色の棒人間が戸の先へと走っていく姿は記憶にあるものと変わりはなかったが、『非常口』・『EXIT』と本来は白抜きされている部分には奇妙な文字が並んでいた。
何を思いついたのか凛は目を輝かせ、
「見てて!」
と言うやいなや大きく口を開けて息を吐き出した。
立ち昇るそれを誰もが自然と目で追った。
灰色のコンクリートに冷やされて煙のような白の、渦を巻いて昇る凛の息は非常灯の光を受けて緑を帯びるのも束の間、すぐに周囲の暗がりに溶けて消えた。
凛にならって千登勢が試みようとするも、雪緒が口をふさいで止めさせた。
三人娘を眺める桜子がじつに柔和な表情を見せるのを、鋼太郎は横目で盗み見ていた。
「行くぞ」 低い声が響いた。
鋼太郎が振り返ると、鞘を腰にあて下り階段を警戒する雪緒の姿がちらりと視界をかすめ、声のした上方では踊り場で片膝をついて見下ろす鉄兵の姿があった。
Kahr・K9を食い入るように見つめていることに、鋼太郎は気付いた。
視線に気付いた桜子がこくりと頷くと、鉄兵は深いため息をつき、向きを変えて中腰の姿勢で上り階段を慎重に覗いた。
招き寄せる鉄兵の仕草をみた桜子は目で合図をすると、鋼太郎は生唾をゴクリと飲みこみ、手汗でじっとりと濡れたグリップを何度も握り直した。
指示されたとおりに斜め後方に位置し、しなやかな桜子の動きをしっかりと目に焼き付け、それを真似したみた。
どんなに工夫をこらしてみても、靴の踵が床を叩く音が周囲に響き渡ってしまう。
それが気になって仕方がない鋼太郎は、つま先から踵からと足を下ろす方法を変えてみた。
少し移動しては立ち止まって音を聞きまた移動するを繰り返して周囲の音を探る鋼太郎のモゾモゾという無様で忙しない動きに、雪緒と千登勢は苦笑いを漏らしたが、凛は舌打ちして苛立ちを見せた。
衣擦れ、床を滑る靴底の悲鳴、ジリジリと鳴く弱々しい光の電灯、息を吸い吐く音、バックパックの中から聞こえる金属同士のにぎやかな声、誰かが注意を促す舌の粘り。
完全なる無音は絶対に不可能と悟った鋼太郎であったものの、どう工夫を凝らしてみても一番大きな音を出すのが自分であることにどうしても納得がいかなかった。
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