第22話 姫子アフター 2

 次の日になっても姫子の気分が晴れることはなかった。


「どうすればいいんだろう」


 学校の休み時間。姫子は教室の自分の席に座ってため息をついていた。その時、


「ひーめーちゃん!」

「うわあ!」


 背後からいきなり首筋に抱き着かれて姫子は驚いた。振り向くとすぐ傍に見知ったクラスメイトの顔があった。


「い、苺ちゃん?」

「そう、苺ちゃんよ」


 はきはきとした元気の良い彼女は姫子の首筋に回していた手をほどくと、動物のような素早さで姫子の机の前に回り込んだ。

 彼女の名前は上村苺(うえむら いちご)。姫子が親や周囲に勧められるままにこの学校に進学し右も左も分からずにまだ馴染めずにいた頃に真っ先に話しかけてきてくれた仲の良いクラスメイトだ。

 彼女は小柄だが一年生にして陸上部の期待のエースと目されている非常に運動の出来る優秀な生徒だ。姫子も出来るなら彼女のようになりたいと思っていた。

 その苺が話しかけてくる。


「何か悩んでるの? 最近元気ないね」

「え? そう……かな。そんなことないと思うんけど」


 姫子は学校ではなるべく自分の悩みを出さないように気を付けていたつもりだった。でも、今日は少し気を抜いていたかもしれない。

 苺はさらに話しかけてくる。


「あたしも前に悩んでいることがあったんだ。でも、部活の先輩に紹介されて叶恵(かなえ)さんに相談したら上手くいったの。姫ちゃんも叶恵さんに相談するといいよ」

「でも、わたしは」


 一人で解決するつもりだった。自分と悠真の間でだけの問題に他人を関わらせるつもりはなかった。でも、苺はそんな姫子を離してはくれなかった。


「早く行く行く。叶恵さんの教室は2―C組よ。はいはい」

「ちょっと、苺ちゃん」


 姫子は腕を引っ張られて立ち上がらされ、背中を押されて教室を押し出されてしまった。


「早く行って。休み時間終わっちゃうよ。行ってくるまでここは通さないから」


 苺は本気のようだった。彼女にディフェンスされては姫子には打つ手がない。まさか友達を殴ってどかせるわけにもいかない。気が乗らなくても行くしかなかった。

 歩きなれた廊下を歩き、未知の世界に続く階段を見上げる。姫子は上級生の階になんて行ったことはなかった。そこはさながら未知の魔界だ。

 教室の方を振り返ると苺がまだ見送って視線で行けと言っていた。とりあえず叶恵という人に会うだけ会えば彼女は満足してくれるだろう。

 姫子は意を決して上級生の階に続く階段に足を掛けた。



 そこはやはり別世界のようだった。たった一年違うだけでこうも変わるものなのだろうか。周りは大人びた人ばかりで姫子は自分の小ささを感じずにはいられなかった。

 何とか目立たないように気配を殺し、足音も殺して廊下の隅を歩いていく。幸いにも話しかけてくる人はいなかった。

 何とか目的地の教室の前までたどりついた。でも、そこで困ってしまった。

 誰が叶恵さんなのか分からないのだ。苺からは名前を聞いただけで特徴すら聞いていなかった。せめて名字だけでも聞いておけばアイウエオの席順で推察することも出来ただろうに。

 周りは知らない人ばかり。しかも上級生でどう声をかけていいか分からない。

 姫子が戸惑いながら教室の入り口から中の様子を伺っていると不意に背後から声を掛けられた。


「何かうちのクラスに御用ですか?」

「!!」


 姫子は驚いて顔を振り向かせる。

 そこに立っていたのは綺麗な長い黒髪と優しい物腰が印象的ないかにも大和撫子といった感じの少女だった。彼女の態度は柔らかで友好的な物だったが、驚いた姫子は逃げたくなった。

 でも、せっかく上級生に声をかけてもらったのに驚いて逃げ出すなんて失礼なことが出来るわけがない。自分は不審者ではなくこの学校の生徒なのだから。姫子は何とか用件を絞り出す。


「あの……わたし、叶恵さんに用があって……」


 その消え入りそうな呟きを聞いた少女は少し驚いた様子だったが、すぐににこやかな笑顔になって返事をしてきた。


「はじめまして。黒田叶恵です」

「か……叶恵さん!?」


 どうやら本人だったようだ。そう言われてみればどこか他の人とは違うお嬢様の気品やオーラを感じる気がする。

 思わず拝みたくなるが、相手が本人なら早速話を切り出さなければならない。でも、どう言えばいいのだろう。

 姫子が言葉を探していると相手が先に動いてきた。


「立ち話もなんですし、中へどうぞ。入り口に立っていると他の皆の迷惑にもなりますし」

「ああ、ごめんなさい!」


 姫子は慌ててあやまるが、叶恵は怒ることもなく逆に姫子の態度を面白く思っているようだった。おかしそうに笑っている。何ていうか年上なのに可愛い人だった。苺が尊敬するのも分かる気がした。

 姫子は叶恵に案内されるままに教室の席の一つに座った。そこで我に返って戸惑った。


「あ、あの……」


 話を聞いてもらうだけのはずだったのに何かとんでもないところに来てしまった気がする。自分は上級生の教室で椅子に座って何をやっているのだろう。

 叶恵は姫子の戸惑いを気にしていないようだった。


「わたしの席ですからお気になさらずに」

「はい……」


 そうは言われても気になってそわそわしてしまう。


「椅子、お借りしますね」


 叶恵はわざわざ近くの生徒に断って椅子を借りて姫子と向かい合って座った。


「では、話をお聞きしましょうか」

「あ……いや……その……」

「緊張しなくてもいいんですよ。生徒の悩みを聞くことはわたし達生徒会の役目でもあり、生徒のみんなが笑顔になれることがこの学校のためにもなるのですから」

「叶恵さんは生徒会の?」

「副会長をやっています」

「ふ……副会長……」


 全く知らなかった。叶恵は「会長に比べるとわたしって地味ですからね」と笑っていたがそんなことはなかった。ただ姫子が興味を持って人を見ていなかっただけだった。

 この状況でどうして人に相談など出来るだろう。 

 姫子は悩み、立ち上がった。叶恵は驚いたように見上げた。


「姫子さん?」

「あの、わたし次の授業が始まるので。失礼します」

「そうですね。また時間のある時に話をしましょう」


 叶恵はそう言ってくれたが、姫子はもう彼女に会うことはないだろうと思っていた。



 思っていたのに。


「伊藤さん、呼んでるよ」


 放課後にクラスメイトに呼ばれて見てみると、教室の入り口に叶恵が立っていた。前に会ったのと同じ笑顔で目が合うと軽く手を振ってきた。


「うわっ、すっごい可愛い人」

「副会長の叶恵様よ!」

「叶恵様だわ!」


 教室が少し騒ぎになった。どうやら彼女はこの学校では有名人らしい。苺が名前しか紹介しなかったのも納得だった。


「ほら、姫ちゃん。行って」


 姫子は苺に押される形で教室を追い出されてしまった。


「少し伊藤さんをお借りしますね」

「はい! いくらでも持っていってください!」


 騒ぐクラスメイトの白状な声を聞いて、姫子は先に歩き出した叶恵の後をついていった。

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