第16話 魔王を追って 8
それから間もなくして結菜は最後の黒い棒のあるポイントに辿りついた。ブレーキをかけてその前に止まる。
自転車に乗ったまま棒を目視する。
長くなった気がしたが、終われば短いものだ。
ここまで何の妨害もなかった。自分は妨害を期待したのだろうか。その迷いを振り払う。
自転車のスタンドを立てて止め、両足で地面に立つ。
「わたしが自分の手で終わらせるから……見ててね、お兄ちゃん」
「ああ、俺はここからお前を見てる」
「うん……」
自転車を離れ、結菜は緊張しながらその棒の前に立った。手を伸ばせばもう届く距離だ。
「これを止めればお兄ちゃんに何かが起こるの……?」
「結菜、早く!」
「……ええい!」
結菜は思い切ってその棒を停止させた。迷いなどしている場合ではなかった。
最後の光線が消滅し、空の結界が消滅していく。
結菜がその様子を見上げていると不意に声がした。
「止めたな」
「お兄ちゃん?」
男の声だったことに一瞬そう思いかけるが、全然違う声だったことにすぐに気づく。
いつの間にかすぐ傍に見知らぬ青年が立っていた。
頼りない兄とは全然違う、威厳と力強い風格を感じさせる背の高い青年だった。
結菜は彼を知っている気がしたが、記憶がおぼろげで上手く思い出すことが出来なかった。
彼は子供を安心させるような大人の笑みを浮かべて話しかけてきた。
「わしはこの町の神様だ。お前はわしを知っているだろう。前に会ったことがあるのだから」
「前に会ったことが……」
言われ、結菜は思い出そうとするが、やはりよく思い出せなかった。
いつどこで会ったのだろうか。ずっと遠い日に、こことは違う場所だった気がする。
結菜が黙っていると彼は話を続けてきた。
「思い出せないか? まあ、今よりもずっと幼子だった頃のことだし、人とは過去の些細なことを忘れ、未来に生きていくものだ。問題になるようなことでもない。それより何か願いはあるか? 叶えてやるぞ」
「叶えて……どうして?」
そういえば麻希が言っていたことを思い出す。この町には神様がいて願いを叶えてくれると。
だが、突然現れていきなりそんなことを言われても、ただ結菜はびっくりしてうろたえるだけだった。彼は気にせず優しく微笑みかけたままだった。
「お前はこの町に起ころうとした大きな事件を未然に防いでくれた。それは良いことだ。この町は人の町なのだから、人がどうにかするのが当然だ。だが、これから何か大きな事態が起こるのかとわくわくしていたわしは退屈になってしまった。こう上がってきたテンションと力を持て余してしまったのだよ。そこでお前の願いを叶えてやることにしたのだ。わしは町を救った人間に礼をしてすっきりした気分になれるし、お前にとっても得のある話だろう? どうだ? 願いを言う気になったか?」
「それでわたしの願いを叶えて、神様はこの町をどうするつもりなんですか?」
「どうするもないさ。どうにもしない。神は見守る者だ。お前には前に一つ願いを叶えてやっただろう。願いは三回までと決まっている」
そう言われても遠い過去に会ったような気がする程度だ。その時のことなど結菜はもうほとんど忘れてしまっていた。何を願ったのかもよく覚えていない。
神様はさらに催促してきた。
「どうだ? 何でも気楽に言ってみろ。今なら何でも聞いてやるぞ。なんなら一度、神にでもなってみるか? お試し神様を体験させてやってもよいぞ」
「いえ、わたしは……」
結菜は迷ったが、その口からは自分の正直な気持ちが出ていた。
「今は特に……ありません……」
神様はそれ以上催促してくることは無かった。つまらなそうに鼻を鳴らしただけだった。
「なんだ、つまらんなー。お前には何か叶えたいことがあるのかと思ったのだがな。まあ、良かろう。お前が願いを言うのを後世の楽しみとするのも悪くはない。では、また会おうぞ」
神様は姿を消して去って行った。
時間が動き出す。
その時になって結菜は今まで時間が止まっていたことに気が付いた。
「お兄ちゃん、今の……」
自転車に訊く。自転車は答えた。いつもの兄の声だった。
そのことに結菜は安心を覚えていた。
「ん? 黒い棒を止めたんだろ? 空の結界は消えたけど何も起きないなあ」
「そうだね」
結菜は空を見上げた。
ストリートフリーザーの結界が消え、いつもと同じ日常の空が戻ってきていた。地上もいつもと同じ日常の光景だった。
「いつもと同じ……か」
結菜は呟く。
その時、すぐ近くで自転車が止まる音がした。振り返るとそこに麻希がいた。彼女は自転車を降りて近づいてきた。
「全て止めてしまったようね。わたしのやってきたことを無駄にしたわけだ」
「何しに来たの」
結菜は警戒する。
彼女が黒い棒のところまで歩いたのを見て、結菜は身構えた。
麻希は何もしてこなかった。ただ話しかけてきただけだった。
「あなた達のやることを見届けに来たのよ。それでわたしの計画を止めてあなた達のご立派な目的は果たされたのかしら?」
「そう言えば、お兄ちゃん、何か変わったことはないの?」
「何も変わらないな」
「これが原因じゃなかったの?」
結菜は兄がこうなった原因になったはずの黒い棒を見る。機能を止めた黒い棒はただ静かに風に吹かれて立っている。
もう結界を張る光線も出していないただの棒だ。景色を止めるかのような不思議な存在感ももう無かった。
背後で再び自転車の止まる音がした。
見ると、葵がやって来ていた。
「結菜、ストリートフリーザーを止めたようだな。魔王!」
呼ばれて麻希はため息をついた。
「もうわたしに飛びかかるのは止めてちょうだい。聞きたいことがあるなら聞いてあげるから。それにわたしは魔王じゃなくて麻希よ」
そこに姫子もやってきた。自転車を止めて歩いてくる。
「結菜さん、悠真さんは?」
姫子はまだ足をかばっていたけど、一旦落ち着いて休んだおかげで痛みはだいぶ引いたようだ。その足取りに危うさはなかった。
「ストリートフリーザーは止めたんだけど」
「これが原因じゃなかったのか?」
葵も黒い棒を見た。姫子は麻希に詰め寄った。
「そんな……魔王さん! 悠真さんを返してください! あなたが何かしたんでしょう!」
姫子の剣幕に麻希は少しうろたえた顔を見せたが、すぐに元の落ち着きを意識するよう努めてから言った。
「そうね。結果はどうあれストリートフリーザーが原因の一端になったのは確かだと思う。彼はこの棒に当たってわたしの前で消えたのだから。わたしに時間をくれない? これを持って帰って調べてみるわ」
麻希は黒い棒を引き抜いた。停止した状態なら抜くのは簡単らしかった。姫子は不審そうに見ていたが麻希の邪魔まではしなかった。
「本当に? それで悠真さんが帰ってくるんですか?」
「約束は出来ないわ。わたしにも確かなことは分からないもの。それに……」
麻希はちらりと結菜の自転車を見つめた。結菜はびくりと身を震わせた。姫子がその視線を辿る前に麻希は姫子に向かって言葉を続けた。
「何かあったら連絡して。携帯の番号を交換しましょう」
「はい」
姫子は携帯を取り出し、麻希と番号を交換した。
「それじゃ、行ってくるわ。あなた達に会ったことはなかなか刺激になったわよ」
麻希は黒い棒を回収して走り去っていった。
姫子はその背を見送った。
結菜は麻希の口から兄が自転車になっていることが出なかったことにそっと安堵の息をついていた。
変わらない日が続いた。
ストリートフリーザーが停止しても状況はたいして変わらない。
兄は相変わらず自転車になったままだし、結菜もいつもの日常を送っていた。
変わったことと言えばもう麻希を追いかける必要が無くなったことぐらいだろうか。
麻希が帰ってくれば何か変わるのだろうか。別にそんな日は来なくても構わなかった。
状況が今のままでも結菜にとっては特に困ることはなかった。
それに今の状況にも慣れて来ていた。
数週間が過ぎても兄が連絡一つ寄越さず、電話にも出ないことに親は少し不満そうだったが、それもたいした問題ではなかった。
どうやら大学のサークルの活動で遠くの地域を調べに行っていると思われているらしかった。
結菜の知らない所でそう葵が手を回したのかもしれない。
今の生活にみんなが慣れてきていた。
町の姿は少しづつ変わっていく。
気温が上がり、季節が移り、太陽の日差しが明るくなってきて、緑が濃さを増していく。
結菜は通学の道を自転車をこいで走っていく。
夏が近づいてくる。
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