第8話 結菜と新しい自転車 8

 結菜は目標に向かって自転車をこいでいく。

 力強くペダルを回していく。

 遮る物の無い直線の道路。

 敵の背中は見えている。

 黒い自転車の少女までの距離はかなりあったが、相手は特に急いでいる様子はない。

 ダッシュでいけば追いつけるはずだった。

 距離は順調に縮まっていく。

 上手い具合に相手が赤信号で止まってくれた。

 追いつけると判断して結菜は叫んだ。


「待てー! そこの黒い自転車ー!」


 だが、それがよくなかった。

 黒い自転車の少女が驚いたように振り返る。

 眼鏡を掛けているのが結菜から見えたが、まだ距離があってその下の顔はよく分からなかった。

 彼女は交差点を渡るのを止めて、すぐにハンドルを横に切って交差点の角に立つ建物の陰へと姿を消していった。

 周りの他人には聞こえない声で兄が叫ぶ。


「馬鹿! 何で叫ぶんだ。気づかれただろうが!」

「だってー!」


 結菜は慌てて追いかける。

 少女が曲がった交差点を同じ方向へ曲がる。

 一瞬姿が見えたが、道がカーブしていてすぐに見えなくなってしまった。

 出遅れていた葵と姫子が追いついてきた。


「結菜、奴がいたのか!」

「うん! 前を走ってる!」

「よし、わたしが先に行く。お前達は後から来い!」


 葵はスピードを上げていった。


「凄い。あれならもうわたし達は必要ないかもね」


 結菜は気楽な調子で隣に言葉を掛けるが、姫子は真剣に自転車をこいでいて答えなかった。姫子にまで離されそうになって結菜もすぐに足を速めた。

 姫子がすぐそばにいるのに兄も真剣な声を掛けてきた。


「結菜! 左の道に行くぞ! 先回りするんだ!」

「え? でも」

「敵は道を知っている。だからこそルートも読める。いいから俺の言った通りに走れ!」

「うん! 姫子さん、わたし達こっちの道から行くから! そっちの道をお願いね!」


 姫子がうなずくのを見て、結菜は左の道に飛び込んだ。

 兄に指示されるままに狭い路地を駆け抜ける。

 やがて駅前の広い道路の側道に出た。


「あれ? 駅前に戻って来た?」

「そこの階段を降りろ!」


 兄が指示して言ったのは地下の通路に続く下り階段だった。

 結菜はその手前で止まった。


「降りろって言われても」


 歩けば普通に降りれる階段だ。

 だが、自転車で走って降りれそうな物では無い。

 兄は戸惑う結菜を急かせる。


「早く!」

「うん」


 結菜の実力で自転車に乗ったまま颯爽と階段をかっこよくなど降りられるはずもない。

 結菜は自転車から降りて足早に押しながら階段を降りていった。

 下のフロアに辿りつく。

 そこは道路の地下を横断する長い通路になっている。

 地下の商店街からは離れているので人の姿は無かった。

 そこを横切ろうと、結菜が再び自転車に乗ろうとしたところで兄が言った。


「俺の予想ならそろそろ来ると思うんだが」

「来るって何が?」


 そう言った時だった。

 突然何かが向こうの階段を降りてきて、通路を駆けて迫って来た。

 結菜はぶつかりそうになったのを何とか自転車と一緒に壁際に下がって避けた。

 けたたましいブレーキの音がしてすれ違ったばかりの自転車が止まる。

 そして、結菜と悠真はその少女に出会った。

 黒い自転車の少女と。

 知的で冷静な瞳が印象的な眼鏡をかけた結菜と同年代の少女だった。

 走ってきたにも関わらず、彼女は息一つ乱していなかった。

 彼女を見つければ事態は解決すると思っていたのに、結菜は何も喋ることが出来なかった。

 黒い自転車の少女が口を開く。


「あなた何者? 先生の生徒ではないようね」


 静かで落ち着いた声だった。

 壁で何かの音が鳴る。結菜はそれを遠い世界の音のように聞く。

 少女がスイッチを押し、エレベーターが到着した音だと気づいたのは少し後だった。


「誰でもいいわ。わたしを追っても無駄よ。わたしの目的は誰にも邪魔させないから」


 彼女は黒い自転車とともにエレベーターに乗り、上に昇っていった。

 結菜は我に返った。


「って、階段降りなくてもエレベーターがあるんじゃない!」

「何やってるんだ。早く追うんだ!」

「うん!」


 だが、ボタンを押しても昇ったエレベーターはすぐには降りてこない。

 結菜は逸る心を抑えようとした。

 そこに葵が自転車で駆けつけた。


「結菜! 敵は!?」

「上に行っちゃった!」


 葵はエレベーターの表示を見上げ、乗ることを諦めてすぐに階段を昇っていった。

 結菜も後に続く。


「まかれたか」


 階段を昇り切って町を見回すが、敵の姿はもうどこにも無かった。

 それから姫子とも合流して駅前を探したが、もう黒い自転車の少女を見つけることは出来なかった。

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