9-6


 ◆


 午前の診察も終わり、マリア・ロングコーストは診療所の自身の椅子の上で一つ伸びをした。そして、机の一番下の引き出しを開けて、中から何冊かの手記を取り出し、机の上に放り投げた。これらは昨晩、地下の実験室から引きあげてきたもので、既にめぼしいものは壊すなり燃やすなりしておいた――あと、残っているのはこの手記くらいのもである。

 マリアは手記の一つを取り、パラパラとめくりだす。そこに書かれている一つの言葉に目がとまった。


 アレは、偶然の産物だった。五年前、一人の死に体を自身の能力で修復し、そして輝石の力で蘇った、魔物の一種。しかし――。


 ふと、何か音がして、マリアはそちらへ視線を移した。西部には珍しい六月の雨が、開けたままの窓を叩いているようだった。マリアは窓を閉めようと、椅子から立ち上がった。しかし、その行動を遮る声が、また別の方から聞こえてきた。


「……ママ?」


 診察室の出入り口に、ベル・ロングコーストが立っていた。髪が少々濡れているようで、床に水滴が落ちている。


「あら、どうしたのベル?」

「雨がふってきちゃったから……みんな、おうちに帰ったの」

「そう……とにかく、ちゃんと拭かないとね。ちょっと待ってて……」


 マリアは机上にある、昨日洗ったばかりの清潔な布を持って、我が子の傍へと歩み寄った。そして腰をかがめて、綺麗な髪を繊維の裏から優しく撫でた。


「ママ……くすぐったいよ」


 はにかむような、我が子の笑顔が愛おしい。だが少しして、ベルの表情が少し曇った。


「……ねぇ、ママ。もう、夜に一人でどこかに行かないで?」


 そう言われて、マリアは心を射抜かれた様な気持になった。それはそうだ、数日間居た二人にでさえばれたのだ。それに子供というのは、意外と大人を、特に親のことはよく見ているものだ。きっと、この子も心配をしていたのだろう。


「えぇ、大丈夫よ。もう……」

「そう……お前のママは、もうどこへも行かなくなるよ」


 窓の外から声が聞こえたと思うと、次の瞬間、診察所の壁に亀裂が入ったかと思うと、すぐさま激しい音を立てて崩壊しだした。


「……だって、ここで壊れてしまうのだから」


 崩落した壁の向こうに、一人の少女が立っている。美しい目鼻立ちが狂気の笑みで染まっている、美しいブロンドの乙女――純白の衣装を身に纏った少女には、おかしな点が一つあった。長袖から、両の拳が素肌で露出しているのだが、右手は普通に綺麗な白なものの――左の手には赤い文様が血のように浮き出ている。


「御機嫌よう、マリア・ロングコースト。久しぶりね……五年ぶりかしら?」

「リサ……!」


 そして一歩、リサと呼ばれた少女が、一転不機嫌そうな顔をしながら、中へと踏み込んできた。


「……私は、貴女をマリア・ロングコーストと呼んだ。それなら、相応の返事の仕方があるのではなくって?」

「リサ……リサ・K・ヘブンズステア……」


 その名に満足したように、リサは笑みを浮かべ――だが、それは決して優しいものではない、攻撃的な笑みだった。


「そう、そう……私は、貴女達のような出来そこないとは違う……スプリングフィールド修道院、百の実験体の中から唯一成功した……お父様から、ただ一人家名を分け与えられた、特別な存在のなのだから」


 そしてまた一歩、リサが近づいてくる。ゆっくりと、ゆっくりと――。


「……ベル、玄関からお外に行きなさい」

「え、でも……」

「いいから! 早くいきなさいッ!」


 母の怒号に、娘は身を揺らして――だが、幼いながらに緊急事態と察したのだろう、外へ向かって駆けだした。


「あらあら、麗しの親子愛……そうね、私も分かるわ。だって、私はお父様を愛しているから」


 そう言われて一瞬、マリアは悪態をつきそうになってしまった。お前は、愛されてなどいない――だが、自分はここで、家族と暖かな生活を送りたい、それだけなのだ。下手に刺激するのもマズイので、ただ、口をつぐんだ。


「……なんとか言ったらどうなの、マリア」

「私は、もう貴方達とは関係ないわ。秘密も、決して漏らさない。だから……」


 ネイたちに話すと約束してしまったが、この壁を見てもらえば納得してもらえるかも――いや、そんなのはきっと甘い考えだ。こちらのことなどお構いなしに、リサはまた一歩、近づいてくる。


「……お願い、リサ、見逃し……」

「うふふ、マぁリぃアぁ……貴女は一つ、勘違いをしているわ? はとっくに、貴女の捜索なぞ打ち切っていたの。だって別に、貴女が仮に秘密を口外した所で、にはそれをもみ消す力があるし……何より、もはや貴女の知識なんて前時代のポンコツよ。ゴミをいちいち気にかけている程、私たちは暇じゃないの」


 そしてまた一歩、リサが近づいてくる。顔には、狂気が浮かんでいる。


「……貴女に許されざる者【アンフォーギブン】は作れないわ。我々の力を持ってしても、もう一度作れるかどうか……涙ぐましく自衛のために、あれこれ実験していたようだけど、そんなものはハナっから無駄だったのよ」

「そ、それなら、どうして……?」


 また一歩――距離は、あと二歩といったところ。だが、逃げても無駄だ。リサは襟から機械仕掛けのついたペンダント、つまりエーテルシリンダーを取り出した。この子は自身を唯一の成功作と謳うだけはあり――その力は、大陸中を探したって太刀打ちできる者がいるかどうか、それほどの術者なのだ。


 そして、変わらぬ狂気を浮かべた翠の瞳で、かつての妹分がこちらを覗きこんできた。


「理由なんか、とっても単純。お姉さまに、苦しんで欲しい。それだけよ」


 そんな風に言われて、マリアはもはや諦めの境地を通り越して、なんだか笑ってしまった。面白かった訳ではない。やはり、自分は碌な死に方をしないという確信が具現化したからであり――そして、これから周りを苦しめてしまう愚かな自分を、もはや笑うしか無かったのだ。


「あー? やめてよ、マリア。もっと怖がってくれないと、面白くないわ」


 そうか、成程、こうなったら一矢報いてやりたい。マリアは胸の十字架を握って、精一杯の強がりを見せた。


「……そんなだから、貴女は誰からも愛されないのよ、リサ。貴女は他人に、思い通りに動いて欲しいだけ。自分が相手に愛をそそぐならば、相手も必ず返してくれると、そんな押しつけをしている……貴女は絶対に、ネイに敵うことはない」

「……なんですって?」


 リサの顔が、急に冷たいものになった。


「ネイは、あの子は……凄く臆病な子よ。好きになるのも、好かれるのも、いちいち怯えて……でも、それだけあの子は人に対して誠実なの。好きになっていいのか、好かれていいのか、何時だって真剣に悩んでいる……―だからこそ、あの子は、きっといつか自分の本質に辿り着く」

「……アイツの本質は、私と同じでおぞましいものよ」

「いいえ、私はそうは思わない。ネイは、優しい子だもの。もし、自分のことを認められたら、きっと貴女だって超えてみせるわ」


 マリアがそこまで言いきると、リサは俯きながら、肩を振るわせ始め――。


「ネイ、ネイ、ネイ、ネイ……お前も、あの男も、お父様も……皆……!」


 そこで髪を振りあげ、顔いっぱいに怒りと絶望を顕にしながら、リサは大声で叫び出した。


「どうして!? どうして皆アイツばっかり見ているの!? どうして私のことを見てくれないの!? 私は、完璧なのに! アイツは、不完全なのに! どうして!? どうしてのなのよ!?」


 そこまで言って、再び俯き――叫んで冷静になったのか、もはや一片の慈悲も無い瞳で、リサはマリアを射抜いた。


「もう、いい……お前と話していると、気分が悪くなる……」


 右手の手袋にシリンダーを嵌めて、蒸気が噴出するとともに、リサの伸ばした左腕が、露わになった。つまり、左の袖が一気に塵と化して――白い腕の上には、禍々しい文様が鮮血のように走っていた。


「――破壊の左腕【ワールドデストロイヤー】」


 リサの左腕が空を薙ぎ――マリアの視界が真っ赤に染まった。恐らく、脳が遮断しているのだろう、痛みは感じない――だが、一想いにやってはくれなかったようだ。わき腹が抉られただけで、まだ死ぬことは許されないようだった。


「ふふ、うふふふふふ。せめて、苦しみもがいてもらわなきゃ、私の気分が晴れないわ」


 自らの体が倒れるのと同時に、足音が聞こえて――。


「……マリア?」


 この十日間聞いていた、もう一人の妹分の声が聞こえた。


 ◆


 青年の前に立つ少女が、マリア・ロングコーストの名を叫んだ。だが、もはや致命傷だろう――ああなっては、返事も出来まい。


「は、ははは! 来てくれたのね、お姉さま」


 狂気の笑みを浮かべて、グレース・オークレイ――いや、リサがこちらに振り向いた。


「改めまして、リサ・K・ヘブンズステアでございます。お久しぶりですお姉さま」


 返り血で染まった真っ赤な衣装の裾を掴んで、リサは上品に挨拶をしてきた。


「り、リサ……? どうして、どうして……?」

「どうして? それは、お姉さまが悪いんですよ?」


 リサは、凄く楽しそうだった。それこそ、活き活きとしていて――その瞬間に、青年がずっと抱いていた疑問が氷解した。リサはずっと、グレース・オークレイという人物を演じていたのだ。だから、どこか人形のようで、どこか生気が無くて――どこか、不気味だったのだ。それに対し、今はむき出しの感情を放つ人間がいる。これが本当の彼女の姿。


 しかし、少女の方は、ただ妹の狂態に呆気に取られていた。


「そ、それって、どういう……?」

「分からないの? やはり貴女は愚鈍だわ、お姉さま。私の心中が分からないだなんて……でも、仕方ありません。お馬鹿なお姉さまのために、説明してさしあげます。私、貴女のことが、憎いんです。とぉっても憎いんですもの……出来そこないのくせに、不幸面して、周りの気を引く、貴女がね……」

「あ、あぁ……」


 ネイが、震えている。どれほどリサの言葉を聞いていたかは分からないが、恐らく――また、自分のせいで、そんな風に思っているに違いない。


「そう、貴女は出来そこない。施設から抜け出して、未だに己の能力に振り回されて……それに対して、ほら、見てください? 私は完全にものにしたんですよ?」


 リサが得意げに左腕を突き出すと、今まで真っ赤に浮かび上がっていた文様が跡形も無く消滅した。


「貴女が南部の虫けらと逃げ回っている間に、私、頑張ったんですよ? 凄く凄く頑張ったんです……それなのに、誰も私の頑張りを認めてくれない……!」


 語気に怒りが籠り、だがまたすぐに冷静さを取り戻して、虚ろな目でネイを見つめ、リサは静かに口を開いた。


「だから、貴女の幸福が許せない。私の方が頑張ったのに、私より幸せになるなんて……許せないじゃないですか?」

「……そんなのは、酷い言いがかりだ! ネイだって、辛い想いを……!」


 考えるより先に、青年の口は動いていた。その反論に、リサは再び怒気を現し、今度は青年の方へと矛先を向け始めた。


「……お前も、気に入らないわ。凄く凄く気に入らない……そうよ、お前がこんな半人前になびきさえしなければ、私も気分を害することも無く……マリアだって、無駄死にしないですんだんだわ」


 狂気の乙女はそう言いながら、床で赤い海で倒れるマリアを小さく蹴った。


「……やめろリサ。それ以上、酷いことをするなら、たたじゃおかない……!」


 その光景に我を取り戻したのか、少女も怒りを顕にした。しかしその理由が分からないのか、リサは驚いたように首をかしげている。


「……どうして? どうして怒っているのお姉さま。怒りたいのはこっちよ……だって、私は悪くないのに。悪いのは、私以外の人たちなのに……」


 ぶつぶつと、ブロンドの乙女は不気味に一人言を続けている。


「そうだ、全部全部、お前たちが悪いんだ……私は、悪くない。いつだって世界は、私の敵なんだ……こんな世界なんて、壊れちゃえばいいのにッ!!」


 金髪を振りみだしながら、リサは左の腕を大きく薙いだ。まるで、その腕で、本当に世界を壊そうとしているかのようだった。


 そして、今度は一転して――完全に、情緒が不安定なのだろう、純粋無垢な笑顔を浮かべた。


「そうだわ、良いこと思い着いちゃった。お姉さま、私ね、貴女を殺しちゃ駄目って言われてるの……でも、ちょっとくらい壊しても……問題ないわよね?」

「り、リサ……?」


 ネイが、一歩後ずさった。少女が、恐怖している――今までも、何かを恐れている少女は散々見てきた。だが、こと戦闘において、相手の気迫に負けることは、今まで一度も無かったはずだ。


「末端とかなら、多分大丈夫……止血は、マリアにしてもらえばいいよね? あぁ、マリアをすぐ殺さなくって良かったぁ」


 そんな、死に体のマリアに何かできるものか――しかし笑顔で一歩、リサがこちらへ歩み寄ってくる。それに耐えきれなかったのか、ネイが悲痛な声で叫んだ。


「く、来るな!」

「……酷いわ、お姉さま。他の人たちには、寄ってきて欲しいくせに……私だけは、除者にするのね? やっぱり、賤しい、浅はかな女ね……これは、お仕置きが必要だわ。ねぇ、そうでしょう?」


 そして、また一歩――ネイの左手から蒸気が上がり、直後に銃身をリサに向けた。


「やめて……それ以上、来るなら……!」

「まぁ、妹に銃口を向けるのねお姉さま! でも、いいわ……私が、全てにおいて貴女を凌駕していると、その身に分からせてあげます。さぁ……」


 リサは腰から拳銃と銃のシリンダーを取り出し――左の指先で、六発の弾丸の先をなぞった。弾丸に赤い文様が浮かび上がり、そして銃倉をとりつけ銃を左手に持ち――まるで劇の時の焼き回しかのように、リサが両の腕を広げ、そして、もう一歩、近づいてくる。


「う、うわぁああああああ!」


 自らの身を護るために、少女は引き金を引いた。しかし、銃声が鳴り響いたその瞬間、空中に火花が三つ散って終わった。上がっている硝煙は二つ、ネイの腕の先からと、そして、リサの真っ赤に染まった左腕の先から――なんとリサは後だしで、ネイの銃弾を三発相殺したのだ。


 しかし、空中でぶつかり合ったはずの弾丸は、何時まで経っても銃弾は落ちてこない。代わりに、砂のようなものが三か所に落ちただけだった。つまり、アレがリサ・K・ヘブンズステアの能力――物体を破壊する能力。


「う、嘘……」

「嘘ではありません。貴女が南部式銃型演武とかいうくだらない小手先技に感けている間に、私はただひたすらに、能力の制御と、銃の腕とを磨きました。そのおかげで、ほら、私、左手で物が持てるんですよ? 壊す物、壊さない物をきちんと選別できるんです……凄いでしょう? ねぇ、凄いですよね?」


 驚く少女に対して、リサは早口にまくしたてる。


「それに対して貴女は、右腕の力、制御出来てないですよね? 能力の扱いも駄目、銃の腕も駄目、その癖変な技に頼って、結局私を越えられていない。まったく、不完全なお姉さま」

「う、うぅ……」


 ネイは力なく腕を下ろしてしまった。それは、リサのそしりが耐えられなかったせいであろうか、はたまた元妹分に、殺意を向けてしまったせいであろうか――きっと、その両方だろう。


 だが、このまま手をこまねいて奴の進撃を待つわけにもいかない。青年にも恐怖はあったが、それよりも怒りが勝っている。少女の何もかもを踏みにじろうとしている目の前の女は、間違いなく青年の敵だった。


「……ネイ! しっかりしろ!」


 そう言いながら、青年は踵を擦り上げ、少女の前に出ると同時に、敵に目掛けて繊維を振りかざした。しかし、銃弾を見てから三発対応するリサに対しては、欠伸が出る程遅い速度に違いない。うざったげに乙女の左腕が払われると、青年の武器は一瞬で消滅してしまった。


「くっ……! とにかく今は、呆けてる場合じゃない! アイツを、どうにかしないと……!」


 どんなに怒りを顕わにしても、どれだけ自分が足掻こうとも、目の前の敵をどうこうできる力は無い――だけど、二人で協力すれば、まだどうにかできるかもしれない。


 しかし、少女が我を取り戻すのよりも先に、リサ・K・ヘブンズステアが青年に反応してきた。


「……お前、そう、お前ね。ネッド・アークライト……お前を壊したら、お姉さま……どれ程絶望してくれるかしら?」


 乙女の殺意が己に向いた瞬間、青年は一気に竦み上がってしまった。これ程の殺気、感じたことが無い。暴走体と化してしまったジーン・マクダウェルを遥かに凌ぐ絶望感、それが青年の目の前にあった。


「ふふふ、そうだ、決めたわ! 最初は横取りして、お姉さまを悔しがらせてあげようと思っていたのだけれど、気が変ったわ! だって貴方を殺すなとは言われてないしぃ……そうしたら、お姉さま、きっと泣いて喚いてくれるわ!」

「や、やめろリサ!」


 背後からバチン、と音がして――少女が戒めを解いたのだろう、青年の横に、巨大な刃が現れる。


「お、お願いだから……やめて……!」

「ふぅ、お姉さま? それが人にやめてという態度ですか? 武器を向けながら懇願するなんて、それが無ければ相手に言う事を聞かせられないという、弱者のすることですよ? あぁ……そうか、そうだったわ、お姉さま、よわっちいですものね。ごめんなさいお姉さま、私の思慮が欠けておりましたわ」


 一歩、リサが近づいてくる。


「や、やらせるか!」


 なんでもいい、とにかく少しでも時間を稼ぐ為、青年はボビンを引き抜き、周りの家具を使って、クモの巣の様な壁を作りだした。


「……うざったい。何しても無駄なのに……」


 リサは、文字通りクモの巣を払うように、鋼並の硬度を持つ繊維を切り裂いてこちらへ向かって来ている。


「……ネイ、ここは退こう」

「で、でも、ま、マリア……」


 少女が、震えている。自分でも何を言うべきで、どうすればいいのかも分かっていないようだった。


「悪いけど、あれじゃもう助からない。だから……」

「……意外と冷静ね、貴方。一人じゃなよなよしててよわっちい癖に、お姉さまの前では良い所見せたいのかしら?」


 その声と同時に、青年の結界が破られ、リサが一歩、また近づいてきた。


「……あぁ、この子の前では、格好つけたいんだよ、俺はな」


 眼前に、死が迫っている――青年は、そう思った。だが、同じ死ぬなら前のめり。コイツを女とは思わない。敵だ。倒すべき敵。少女を傷つける、自分の敵だ――それならば、戦える。


「ふぅ……愚かな男ね、ネッド・アークライト。いえ、可哀そうと言うべきかしら? お姉さまと出会っていなかったら、こんなところで死なずに済んだのにね……」


 背後で、息を飲むのが聞こえた。そして、刃を構えて――ネイが、駆けだした。


「……うわぁあああああッ!!」

「ね、ネイ!?」

「死ねッ!! リサァアアアッ!!」


 それは、死と隣り合わせにある少女が、決して口に出さなかった言葉。


 ネイが銃剣を突き出し突撃する。それを、金髪の乙女は狂気の笑顔で迎えた。

 リサは切っ先を、禍々しい赤い文様の走る左の掌で受けた。金属が割れる音が鳴り響き、銃剣の刃は砂のように脆く崩れていった。


「あは、あはははははは! これが奥の手ですかお姉さま!? こんな、こんな無意味なすてっぱちの突撃が、最後の悪あがきですか!?」


 腹を抱えて笑うリサの横で、ネイが力なく膝を付いた。変形が解け、銃口が半分以上無くなったライフルが、木の床の上に落ちた。


「それに、とうとう本性を表しましたね!? かまととぶって、虫も殺したくない様な顔をしてるくせに! 妹に対して、死ねだなんて! なんて酷い女なんでしょう!」


 座ったままのネイは、リサに対して何も言い返さない――言い返せないのだろう、酷い言い草ではあるが、リサの言う事が真実であるから。


「ふふ、お姉さまぁ……賤しい賤しいお姉さま。弱くて何もできないお姉さま……そこで、膝をついたまま見ていればいいわ……」


 そして、リサが青年の方へと向き直る。虚ろな瞳につり上がった口、今まで見た中で、もっともおぞましい笑顔。


 一歩。


(――どうする!? 反撃するか!?)


 だが、あの左腕に何もかも壊されて終わりだ。


 二歩。


(――逃げるか!? だが……!)


 だが、そんなことは出来ない。少女を置いて逃げることは、青年にはどうしても出来なかった。


 三歩――。


(くっ……!?)


 青年は、死を覚悟した――だが、その瞬間、外から轟音が聞こえ、破壊された壁の向こうの空に、黒い鳥が飛んでいき、壁の外に二人の人間が着地した。


「……リサ様。おやめ下さい」


 一人は、昨日の東洋人、名前はクーと言ったか。壁の向こうで雨に打たれながら、静かに言った。


「……邪魔をするな。今、良い所なの……それを……」

「いや、そこまでだ。早く帰還しろ、蒼の祈士きし


 もう一人は男、マクシミリアン・グラントだった。


「末席風情が……お情けで黙示録の四祈士【フォープリーチャーズ】に加えられている貴様なぞが、この私に命令を……!」

「私の命令ではない。の命令だ」


 リサが男の方を向く。その横顔は、一気に明るい笑顔――年相応の、少女が見せる、普通の笑顔になった。その急激すぎる変容が、青年には返って不気味に感じられた。


「お父様の! お父様の命令ね! 分かったわ……でも、これだけ終わらせて……」

「駄目だ」


 右腕の機械細工が煙を吹きあげながら変形し、巨大な弩となった。それをリサに向けながら、マクシミリアンは冷たい――いや、間違いなく瞳の奥に熱い物がある――青年はやはり、そこに旧友の面影を感じた。


「そいつらは、まだ使い道があるとのことだ……従わぬなら、こちらは二人がかり。如何に序列一位と言えども、貴様の肉くらいは削ってみせるぞ」


 リサとマクシミリアンの間に、凄まじい緊張が走り――だが、リサが折れたらしい、大きくため息をついた。


「はぁ……分かりました。お父様の命令ですものね。それならば、従いますわ」


 リサは自らが開けたのであろう、後ろの勝手口へと歩いて行った。


「でも……勘違いしないことね。お前と東洋人風情が力を合わせた所で、私の肉の一遍も削れはしないわ。自惚れも甚だしいんじゃない? 七光の坊や」


 そう言い残して、リサが跳躍した。どこまで跳んだのだろうか、その後姿は見えなくなった。

 そして、クーもその後を追い――しかし、マクシミリアンだけまだ残っていた。


「……なぁ、やっぱりお前、ヴァンなんだろ?」


 ヴァンは、盾を使った術師だった。それでも、得物が変わっていても、やはりどうしても、青年には彼が旧友であるとしか思えなかった。

 マクシミリアンは青年の質問に答えること無く背を向けた。


「……もし、まだ貴様らに立ちあがる意思があるならば、グラスランズを目指すがいい。そこに、活路があるはずだ」

「な、何を言って……?」

「その子を想うならば、私の言う通りにしろ……ネッド・アークライト」


 そこまで言ってマクシミリアンも壁の外を駆けていき、そして一気に跳躍した。黒い鳥からたらされていたロープか何かを掴み、そして曇天の向こうへと消えて行った。


 青年は少しの間、茫然と空を眺めていた。だが、むせかえる様な血の匂いに我を取り戻し、マリアの方へと走り、そして横に片膝をついた。


「マリアさん……」


 何と言えばいいのか、遅れてしまってごめんなさいか、見捨てようとしたことを謝るべきか、とにかく、何も出来なかった――まだ、ギリギリで息がある、自らの傷口を手で覆って、少しは治癒したおかげだろう、しかし、出血が多すぎる――しかしマリアは、小さくかぶりを振った。何か言おうとしているようだが、もはや声も出ないようだった。


「ま、マリア……?」


 青年の横に、ネイが並んだ。もはや、色々あり過ぎたのだろう、処理が追い付いていないようで、焦点の合わない様な瞳で、血の海に浮かぶマリアを見つめている。


 マリアは、最後の力を振り絞って、首の十字架を外し、震える腕でそれを少女に差し出した。少女がそれを受け取ろうと左手を出すと、マリアは再び小さく首を横に振った。


「あ……あぁ……!」


 少女がゆっくりと、文様の刻まれた右腕を差し出すと、マリアは力無く、だが優しく微笑んだ。


 少女の手が、マリアの手に握る。


 マリアの口が動く――声は無い。だが唇の動きで、何と言いたかったのかは分かった。


 そして少女が十字架を受け取るのと同時に、マリアは永久にその瞼を開けることは無くなった。


「ま、まり……マリア……マリアぁ……!」


 少女が血だまりの海で、かつての姉の体を抱きしめた。

 泣いている少女を、青年はどうすることも出来ずに――ただ、見守ることしか出来なかった。


 だがその時、背後から何物かが駆けてくる音が聞こえた。


「……マリアッ!?」


 青年が振り向くと、そこにはルイスとベルが立っていた。ベルは顔を蒼白にして、中の惨状を見つめて――そして、その場に倒れてしまった。


「べ、ベル!? 大丈夫か!?」


 気絶したベルを、ルイスが抱きかかえて、そしてこちらへ視線を向けてきた。


「あ、アンタ達……これは、一体……!?」


 そして、ネイが振り返る――姉の血で、真っ赤に汚れたまま、虚ろな瞳のまま――。


「……アンタが、やったのか?」


 ルイスの声が震えている。


「ち、違うんだルイス。これには訳が……」

「ウルサイッ! それじゃ、なんだあの血は!?」


 ルイスがネイの衣服にべっとりとついてしまった赤を指さしながら叫んだ。


「イイ人だと思って泊めてやってたのに、なんだこの仕打ちは!? そうか、アンタ達だったんだな!? マリアさんを追ってたっていう、変な奴らは!?」

「お、落ち着いて! それなら、どうして今までやってなかったんだよ!?」

「黙れ! この人殺しッ!」


 少女が、その言葉に反応した。悲しみに染まっていた瞳に、更に深い闇が加わり――耐えきれなくなったのだろう、マクシミリアン達が出ていった穴から、少女も同じく駆けだして行ってしまう。


「ネイ!? ……くっ!!」


 ベルが起きれば、きっとルイスに事情を説明してくれる――勿論、彼が勘違いしてしまうのも分かる。青年だって逆の立場だったら、同じように激昂したかもしれない。それでも――もう、彼のことを許せそうになかった。少女が落としたままの包帯とライフルの柄を拾い上げて、すぐさま少女を追いかけはじめた。


「人殺しめッ!! 人殺しめぇええええ!」


 きっと、少女は今まで、こんな目に会ってきたのだ――呪われた右腕が、彼女を決して幸福にさせてくれない。この世界は彼女にとって、まさしく地獄の様な地獄だった。


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