3-12:暴走(前)
アリサと再会したのち、希愛は毎日のようにアリサと会っては遊んでいた。
アリサは希愛よりも年齢が二つ下で、まるで妹のように希愛の後ろをちょこちょことついて回っている。
希愛の方も、再び会えた親友と遊ぶのが何よりも楽しいと言った様子だ。
石橋やその周囲の大人たちにも怯える事無く、自然に振舞えるようになったとはいえ、アリサは幼いころから一緒に暮らしてきた唯一の相手だ。心を許せる間柄の、同年代の子が居ると言うのはやはり日々の生活を送る潤い、心の支えになるんだろう。
石橋は二人が公園でバスケットボールで遊んでいるのをベンチで眺めながら、そんなことを思っていた。
ふと、石橋の頭に一つの考えがよぎる。
いつまで自分はやくざのままでいるつもりなのだろうか。
危険を冒してようやく若頭にまで成り上がった。だが、それ以上を目指すにしてもまだまだ時間が掛かるだろう。組長になれる見込みがあるなら良いが、なれる見込みはない。
二代目組長の虎嶋が明らかに敵意を抱いている。彼が引退しない限りは永遠に自分は若頭のままだろう。
だからと言って、虎嶋を殺してまで組長になろうとは考えてはいない。
虎嶋を殺す事自体がそもそも難しい。頭は悪いが、彼は闘争にかけては右に出る者がいないと言われるほど強い。個人で銃を持った軍勢と戦えるとまで言わしめるのは彼くらいだろう。実際、訓練されていないそこらのやくざ程度が徒党を組んで向かって行ったところで、虎嶋の超人的な速度と反応によってなぶり殺しにされるのがオチだ。
本当に殺るとするなら、もっと状況を限定しなければ勝ち目はない。
暗殺が手っ取り早いと思うかもしれないが、ネコ科の獣人ゆえか虎嶋は異常な程に気配察知に優れている。半端な暗殺者では返り討ちにされるだろう。
ならば狙撃はどうかと言うと、実は何度となく狙撃を回避しているのだ。彼曰く、殺気を向けられると体中の毛が逆立ってわかるらしい。これもまた並みのスナイパーでは上手くいかないだろう。
殺気をも抑えつけ、気配無く対象に近づき、一撃で殺す。そんな芸当ができそうな人は荒事を生業として今まで生きて来た中でも一人しか知らない。
故に組長を殺してのし上がるという選択肢は、石橋の中には無かった。
第一、そこまで強烈に成り上がりたいと言う欲が若い頃と比べて薄れて来たし、やくざと言う生き様に魅力を感じなくなっている。元より生きる為の手段としてやくざになったが、それでもやくざとしての矜持を持って生きて来た筈なのに。
潮時かもしれない。薄々とした予感が背後に迫っているような気がする。
「いかんな。弱気の虫が起きようとしている」
ベンチに預けていた背中を伸ばし、石橋は立ち上がった。
今はまだ若頭としてやるべき事が山ほど詰みあがっている。虫は一度踏み潰しておかねばならない。
「おーい、そろそろ帰るぞ」
石橋は背もたれにかけていたジャケットを羽織り、希愛とアリサに声をかけた。
「ええ? まだ遊びたいんだけどぉ」
「夕飯の準備しないとだろ」
「むぅ」
公園の入り口から砂利を踏む音を立てながら人が入ってくる。
もう見慣れた隣人の顔だ。
「アリサ。迎えに来たわよ」
「おばちゃん! じゃあ私帰るね」
アリサは弁当屋のおばちゃんと手をつないで、一緒に帰っていった。
「ほら、俺たちも行くぞ」
「しょうがないかー」
諦めて両手を頭の後ろに組みながら空を仰ぐ希愛。
今日も本当に良い天気だった。
温かく、外で遊びたくなるような陽気に雲一つない晴天。思わずベランダで太陽光を浴びながら背伸びでもしたくなるようなそんな昼下がりだった。
外から家に帰るのが少しばかり惜しい気持ち。だがもう太陽は傾き始めている。帰らなければならない。
ジャケットを羽織った石橋を見て、希愛がちょっとした違和に気づく。
「あれ? 今日は懐膨らんでないね?」
「ああ。今日は持ってきてないんだ。というか最近この辺り歩くくらいなら要らねえと思うしな」
何より、物騒な代物は閑静な住宅街にはふさわしくないと思う。仕事柄使うとはいえ四六時中持っていたい物ではない。
「あー。喉乾いたな。自販機無いかな」
「あそこの曲がり角にあったよ」
「お、そうか」
「私メロンソーダが良い! 飲みたい!」
「希愛それで自販機の位置覚えてたのか」
思わず苦笑する。
二人で自販機の所まで歩く。自販機は少しマイナーなメーカーだった。
石橋はそのメーカーのコーヒーが好きでよく飲んでいる。
懐から電子マネー端末を取りだして冷たいコーヒーを買い、続いてメロンソーダのボタンも押す。軽快な電子音が鳴り響くとともに、メロンソーダの缶が滑り落ちて来た。
メロンソーダを希愛に手渡す石橋。
「所望の品だ」
「うー、うーん」
もらったメロンソーダのプルタブを上手く開けられない希愛。まだ力が弱いのか。
「力無いなあお前」
「しょうがないじゃん。女の子だもん」
「ちょっと貸しな」
石橋がメロンソーダのプルタブを軽々と開ける。ぱきゅ、という小気味良い音を立ててジュース缶の口が開いた。しゅわしゅわという炭酸の音が聞こえる。
「ほれ」
「えへへ」
嬉しそうにメロンソーダの缶に口をつける希愛。
石橋の家に来てから、甘い物に特に目が無い希愛は炭酸飲料であるにもかかわらず、あっという間にメロンソーダを飲み干した。子どもは甘いものが好きだが、彼女はことさら甘いものに執着する。
子どもはなぜ甘いものを欲しがるのかという疑問を持っていたが、一説によると脳の成長の為に糖分が欠かせないのだという。希愛は長い放浪生活もあり、これまで甘い物をほとんど摂取できていなかったのだろう。だからこそ今その分を取り戻そうとしているのかもしれない。
「もう一本ジュース飲みたい」
「ダメ」
「けち」
「うちにアイス一杯あるからそれ食べな」
「アイスはアイス。今日はジュースの気分なの」
頬を膨らませる希愛。年相応の子どもらしいほほえましい表情だ。
石橋は喉が渇いたと言いつつもコーヒーの缶を開けず、ジャケットのポケットにしまい込んだ。彼は家に帰ってからあえて缶コーヒーを飲むのが好きだった。
もちろん、専用の機械でコーヒー豆を挽いて飲むのも好きだが、これはこれで味わいがあるのだ。
喧騒とは無縁の静かな住宅街。マンションが立ち並ぶ区画の道はそれほど広くない。
家に帰るまでの間、ゆっくりゆったりと、二人でたわいない事を言いながら歩くこの時間は何物にも代えがたい。
二人ともそう感じていた。少なくとも次の角を曲がるまでは。
「……?」
角を曲がった先に、人が立っていた。
その人物は石橋よりも頭二つ分くらいは大きい。石橋も自分は屈強であると自負していたが、その男と比べると筋肉の分厚さが全く異なる。
例えるなら、ドーピングを行ったプロレスラーのような、岩のように盛り上がった筋肉。
もしかしたらそれ以上かもしれない。だが、そのような肉体であるにも関わらず不健康さは全く感じられない。
男は坊主頭で黒いTシャツとジーンズにスニーカーという、という極めてラフな格好。ちょっとその辺をぶらぶらと、と言った格好だ。懐に隠せる場所もなく、手にも何も持っていない。だがその視線は、明らかに二人を、特に石橋を睨んでいるように見えた。
男のまとう雰囲気に何か不穏なものを感じた二人は、変な絡まれ方を避けようと来た道を引き返そうとした。
だが、男は二人の前に先回りして立ちはだかる。
「なああんた、一体何の用だ?」
男は答えようとしない。
「俺たちの何が気に食わないのかわからんが、ここを通して……?」
ここで石橋はあることに気づく。
さっきから自分に対して敵意を抱いているのかと思っていたが、どうやら違う。
視線の先にあるものは、希愛だ。
奴は希愛をじっと見つめている。その視線は獲物を狙い定めている蛇のような執着を感じさせる。
「てめえっ」
一歩、男がにじり寄った。
巨体から生じる、有無を言わせぬ圧力に下がる二人。
今日ほど銃を持ってこなかった事を悔やまずにはいられない。
いや、果たして拳銃くらいでこの男を止める事ができるだろうか?
素手でも戦うか? 一人ならそう考えたかもしれない。修羅場を潜り抜けて来た自分ならやれるかもしれない。
だが今は守るべき存在が居る。彼女を守りながら戦うのは無理だ。
石橋の決断は速かった。
「逃げるぞ!」
「う、うん」
手を握り、石橋と希愛は駆け出した。
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