3-9:不穏な動き
石橋が柄山と会っていた日と同日の夕方。
尾熊組組長室。
その中で一人、椅子に座りキューバ産の葉巻をふかしながら、バーボンを瓶から直接ラッパ飲みする男の姿があった。
男の体格に合わせた特注と思しき、がっしりとした木目の詰まった頑丈な机に足を行儀悪く乗せ、また、幅広の特注サイズの総革張りの椅子も、男のあまりにも大柄すぎる体から預けられた重さを支え切れずに悲鳴を上げている。
男は椅子を翻し、庭園を眺めていた。夕陽に暮れて朱に染まる庭園、それは見事な風景であったが男の心にはその風景の美しさは響かない。彼の頭の中は一つの影が支配していたのだから。
虎嶋英二郎。
広域暴力団、竪菱組直系組織尾熊組の二代目組長である。
彼はキメラ人であった。
それも、より獣の性質が色濃く出ており、もはや獣人と例えた方がより想像しやすいかもしれない。頭はほぼ虎同然の形をしており、体もまた虎の体毛と皮で覆われている。
皮下には荒縄のように盛り上がった筋肉が走っており、手足には刃物同然の鋭い爪が備わっている。口内の犬歯は鋭く伸び、獲物の首筋に噛みつけば間違いなく首の骨まで容易く折ってしまうだろう。
爪や牙がたとえ無くとも、彼の持つ筋肉は獣と同様の膂力を誇り、ただの人間が太刀打ちできるものではない。増してや知能は人間と同じである。ただの人間が彼と相対した時、銃を持っていたとて勝てるかどうかは甚だ怪しい。
彼は物心ついたころには親はおらず、施設で育ったがその見た目の奇異さゆえに周囲の人たちには恐れられ、いじめられた。
教育も必要最低限しか受けられず、中学校に行った辺りで自らの未来を予測し、このままでは何者にもなれないと感じた。のし上がるためにはヤクザになるしかないと決意する。
彼には何もなかった。いや、一つだけ、たった一つだけ残されていた。
それは自らの体である。しかしその一つだけが、最も強力で有用な武器だった。
ヤクザの事務所に出入りするようになり、盃をもらってから頭角を現すまでは実に早かった。抗争時には真っ先に最前線に出向き、獣の力を十二分に発揮して武器を使わず、己の肉体のみで多数に立ち向かう。その働きによって彼は上り詰め、ついには自分を殺そうとした初代組長を逆に力で叩き潰すという荒業をもって、二代目に就任した。
元々尾熊組はヤクザの中でも際立って暴力に強い組織である事は他の組の認識にもあったが、こういう形での組長交代は前代未聞であり、ヤクザ界隈を震撼させた。
しかし彼には暴力の才能はあれど、組をまとめ運営する能力は無かった。
元より頭も良いとは言えず、直情的で気が短く、すぐに暴力をふるう上に手加減もしないものだから本気で彼の事を慕う組員など皆無に近かった。唯一彼にゴマをすっていたヒバラが慕っていたくらいだ。
誰もが組長の逆鱗に触れないように恐れながら日々を過ごしていた。
虎島は今日、ひとつの義理事を終えて部屋にこもっていた。護衛すらも部屋の前から退けて。
「……あのクソったれが」
バーボンをあおり、空になった瓶を床に投げ捨てる。
瓶はペルシャ絨毯の上を無造作に転がり、壁にぶつかってその動きを止めた。
その上には虎嶋がハンティングで仕留めた鹿の頭の剥製が飾られている。
虎嶋の部屋は石橋の部屋とは異なり、極めて豪奢な作りになっていた。
壁には有名な画家の絵画、書家の書が飾られ、また彫刻も多数置かれていた。それだけの芸術を理解する眼も知識もないにも関わらず。
虎嶋は先日呼び出した石橋の事を思い出していた。
呼びつけて来た石橋は自らが仕出かした事を理解し、また虎嶋がどういう行動を取るかを完全に読んだ上でぬけぬけと対案を出してきた。
それがヒバラに管理させていた売春宿の壊滅及び、新宿区三番街の飲み屋街の上納金すべてを組に収める事である。
売春宿とは比べ物にならない利益が組に丸ごと転がり込んでくる以上、組長としては異論は全くない。むしろ歓迎すべきだ。
しかし虎嶋自身の感情としてはどうにもあの男が気に入らない。
暴力を標榜し、それを背景に組織として利潤を徹底的に追及する虎嶋のスタンスと、あくまでも合理的に、かつ目立たぬように、周囲の何処とも衝突を出来る限り避けて最大限の利益を上げつつ、その上でヤクザの矜持を守るべきと考える石橋は、まさに水と油であった。内心石橋も虎嶋の事をどう考えているのか分かったものではない。それでもこの組の稼ぎ頭は石橋に間違いなく、虎嶋もあからさまに邪険に扱う訳にもいかなかった。
とはいえ、気に入らない者はすべて力ずくで排除してきた虎嶋である。
何かと口実を付けて石橋を排除できないか考えてはみたものの、元々巡りの悪い頭だけに策略はからきし思い浮かばない。かといって周囲の者に相談しようにも、この組の大抵の若い衆は石橋に心酔しきっている。自分の所業が原因とはいえ、人望の無さがここで響くのはかなりの痛手だった。
一人で悶々としているうちに時間は無為に過ぎ、気づけば夜になっていた。
虎嶋は次のバーボンを開けようとし、既にすべての瓶が空になっていることに気づいた。
「ありったけの酒を持ってこい言うたのに全然足らんじゃないか」
虎島が備え付けの固定電話の受話器に手を伸ばそうとした時、異質な気配を察知する。体中の毛が逆立ち、耳がピンと張って獲物がどこにいるのかを探り当てようとしている。
「誰じゃ。俺のタマでも取ろうとする命知らずか。もしそうなら勇敢な奴か、あるいはただの愚かモンかの?」
虎嶋は口角を吊り上げ、その牙を露わにする。唾液で濡れた牙は夜の月に照らされ、ぬらりとした輝きを発した。
気配はドアの前に居る。しかし敵対的な意思は感じない。
一体何の真似だ。虎嶋は訝しんだ。
自ら動く理由はない。そのまま待っていれば組員たちも来るはず。
「何分待っても子分は来ませんよ」
気配が発した言葉に、虎嶋は眉間に皺を寄せた。
来ない組員たちに苛立ちを隠せない虎嶋は自然と唸り声を上げていた。それは部屋に低く響き、置かれている壺や絵画を微かに震わせていた。
不意にドアノブが回転する音がし、ゆっくりとドアが開いた。
廊下から差し込む光で見えるその人影は、白いローブに身を包んでいた。
顔はフードによって目深に隠されてよく見えない。口元だけが見える。フードからはみ出る髪の毛は金色をしている。
「俺の部下に何をした」
「彼らには少しだけ眠っていただきました。と言っても、私が通りすがる時に居合わせた人たちだけですがね。日本でも有数のヤクザの組なのに、随分と人員が少ないのには驚きましたが」
「今日は外を見張る奴と中を詰める奴以外は全員帰したんだよ。義理事で疲れただろうからな」
「ほう。随分と腕に自信があるようで」
「俺に護衛なんざ必要ねえからな」
虎島は吐き捨てた。実際彼にとっては護衛の組員など自分が自由に動く為の障害物でしかない。またそれは決して誇張でもなかった。
「お前の仲間は……」
「いません。私一人です」
「俺と知って一人で来るクソ度胸は褒めてやる」
「いえいえ。貴方は敵にはなりえませんからね。これから私のパートナーになっていただくお方です。交渉事に仲間を連れてくるなど無粋でしょう」
意外なことを言われ、にわかに虎嶋の耳が忙しく動く。先ほどまでに吊り上げていた口角を戻し、代わりに鋭く男を睨みつける。
「俺は頭が良くねえから回りくどいのは嫌いなんだ。何が目的だ」
「では率直に言いましょう————」
男の言葉を聞き、虎嶋の瞳は大きく開かれる。
「なるほど。そいつはおもしれえ。だが何よりお前の考えている事が気に入った」
「人は人たるべきなのです。獣と雑じり合った今の人類は、全く正しくない」
「全くだな」
虎島は男が差し出してきた手を握った。しかしその顔は全く笑っていない。
灯りもついていない暗い部屋の中で、虎嶋の鋭い眼だけが輝いていた。
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