3-5:雫と希愛

 一週間後。

 しばらくの間、新宿区三番街の飲み屋街は何事もなく穏やかに過ぎていた。

 メノウの雫のママは石橋との話し合いとの後、何かの騒ぎがあるだろうと警戒をしていたが特に何も起こらなかった。ヤクザともめ事を起こせば必ず報復があるだろうと思っていただけに、拍子抜けだったがそれなら何も気にする事は無い。

 ママは日々の商売に精を出していた。


 更に一週間後。

 いつものようにメノウの雫の営業が開始される。

 だが、営業時間を数時間過ぎてから何かがおかしい事に従業員たちは気づく。

 客の入りがいつもより少ない。

 今日は週末の金曜日。いつもなら開始時間すぐに満席になるというのに現状、客はまばらにしか席に座っていない。ホステスも従業員も暇を持て余している。それに、いつも来る常連客の顔が見えない。週末ともなれば職場の仲間や取引相手を引き連れて盛大に接待の場所として使ってくれると言うのに。

 不審に思ったママは馴染みの顧客に電話を掛けてみる事にした。


「もしもし、区長さんかしら? 最近いらっしゃってないようですがどうしました?」


「あぁママさんかい。最近は特別会計予算もあんまり自由に使えなくなってきてしまってね。何より議会が無駄遣いに厳しいんだ。だから君の所みたいな高級店にはおいそれといけなくなってしまってね。済まないね」


「そうなんですか」


「悪いね、また今度行くから」


 電話は切られる。次の宛先に掛ける。


「社長さん、今夜はウチで飲みませんか?」


「悪いねえ、先約があるんだよ。申し訳ないがまた次回よろしく頼むよ」


「あら、それは残念」


 また電話は切られる。くじけずに次。


「もしもし? 先生最近ご無沙汰ですが今日ウチに来て頂けませんか?」


「……メノウの雫のママさんか。悪いが今後、私の所には連絡をしないでくれ」


「えっ、それはなぜ……」


 先生と呼ばれた相手がひとつ、深い呼吸をしたのちにうんざりしたような声色で話す。


「君の胸に聞いてみればわかるだろう。では失礼する」


 その後ぶつりと電話は途切れる。もう一度掛け直してみるもつながらない。あまりの対応に、流石のママもショックを受けた。一番の上客だっただけに失ったのは大きい。

 

「……まだまだこれからよ」


 口の中で呟き、ママはすぐに思考を切り替える。失った物を悔いても仕方ない。次で取り返せばいいだけだ。

 その後ママは営業を続けたが、どれもこれも結果は同じだった。

 

 その日の午前五時、メノウの雫の終了時間になる。

 結局客はまばらなままで終わり、ホステスと従業員ともに戸惑いを隠せないが、それ以上にママは焦りを感じている。


(このままじゃ不味いわ)


 焦りといら立ちだけが募り、客足は更に鈍っていく。

 月曜日には、ついに客足が完全に途絶えてしまった。

 開店休業状態の店内で、流石に従業員たちも異変に戸惑いママを問い詰める。


「全然客来ないんだけど、何があったの?」


「最近ママ怪しげな宗教に入ったって聞いたけど原因それじゃないの?」


 口々に言われるも、ママは強引にそれらを遮る。


「たまたま来ない日もあるでしょ! 文句があるなら店を出て行きなさいよ!」


 ママはスタッフに言い放ち、自らの居室に籠った。

 とはいえ、このままでは店が潰れてしまう。

 どうすべきか妙案が思いつかないまま日々は無常に過ぎていく。



 三日後。

 別件で新宿区三番街区役所周辺を移動中の時、ママは一つの光景を見る。


「あれ?」


 区役所近くにある会員制のBarから出てくる二つの人影には見覚えがあった。

 一人は先日に手酷い断られ方をした、とある政党の重鎮の議員。

 そしてもう一人は、あの尾熊組の石橋。二人とも肩を叩きあいながら笑っている。

 雰囲気からしてかなり親しいのは間違いない。


「こ、この……!」


 ママはすぐさま車から降りて、二人の元へ近づいていく。

 

「おや、メノウの雫のママさんじゃないですか。どうしたんですか?」


 石橋が言うと、ママは感情のままに吠える。


「しらばっくれないでよ。アンタが色々と手を回してるんじゃないの?」


「何のことでしょう」


「とぼけるな! 今あなたの隣にいる重山議員にも何か言ったでしょ! おかげでウチの店は閑古鳥が鳴いてるのよ」


 石橋と重山議員はお互いに顔を見合わせると、二人ともきょとんとした表情をした後に鼻で笑った。


「確か重山議員は貴方のお店の常連でしたね。でも言っておきますが、私は何もしていませんよ」


「信じられると思っているの?」


「いくら疑われた所で、私は本当に何もしていませんからね。では失礼します」


「あっ、ちょっと待ちなさい!」


 ママが石橋に詰め寄ろうとすると、重山議員についているボディガードが二人間に入られて遮られる。


「ちょっ、何よ邪魔しないでよ。重山議員、貴方ヤクザと話してるなんてどうかしてるんじゃあないの?」


「ではこちらからも言わせてもらうが、先日までママもそのヤクザの後ろ盾のおかげで今まで店をやってこれたんじゃないのかね? ママにどうこう言われる覚えはないぞ。警察を呼ばれたくなかったら引き下がるんだな」


「ぐっ」


 痛い所を突かれたママは、そのまま立ち尽くしてしまう。

 そして二人は笑いあいながらどこかへと消えていった。

 

 そのまま翌日。

 開店準備のために店に赴いたママの眼前にはとんでもない光景が広がっていた。

 

「な、なによこれ!」


 店のドアにはママや店を誹謗中傷、罵倒する内容の張り紙が埋め尽くさんばかりに張り付けられていたのだ。

 慌てて全ての紙を剥がしても、ドアにはテープの痕がくっきりと残ってしまっている。この様では営業開始などできる筈もない。

 更に、ドアの隙間から液体が漏れて床を濡らしている事に気づく。

 泡を食ってバッグから鍵を取り出し、ドアを開くと目の前に広がっていたのは悲惨な光景だった。壁や天井、床が全て水浸し。装飾品や壁に掛けている絵画、客たちが座るソファなども勿論台無し。汚物まみれの下水でないのが救いだが、何から何まで取り換えなければ営業は不可能だった。


「ふざけた嫌がらせを!」


 それでもママはまだ挫けない。

 即座に業者を呼び、部屋の調度品など全ての注文を迅速に行うママ。

 一週間ほどで営業は再開できそうだという目途が立ち、従業員たちは他の店のヘルプに回した。これでひとまずは何とかなるだろう。


「あぁ、しんどかった……」


 流石にここ最近色々あり過ぎたために疲れを隠せず、ママは車の座席を最大限に傾けて少し横になっていた。

 

「ちょっとリフレッシュしないと持たないわね……。一日だけしっかり休みましょ」


 彼女は座席を戻して車のキーを回し、エンジンを掛けて発進した。

 向かう先は自宅。新宿区四番街の閑静な住宅マンション街にある。

 彼女は四番街のとあるマンションの駐車場に車を止め、降りる。

 玄関入口のオートロックを解除して警備員が詰めているエントランスを抜け、エレベータに乗った。最上階のボタンを押すとエレベータは音もなく上がっていく。

 上がっている間、目を瞑っているとここ最近の忙しい日々の事が思い出される。

 家にほとんど帰っていない。ペットの犬も寂しがっているに違いない。

 世話自体は家事を任せているメイドがやっているから問題ないだろうが、やはり主人が何日も帰ってこないのは犬にとって辛いだろう。自分の心の中にも隙間風が吹いているような気がする。早くあの間抜けな顔を見て安心したいものだ。


 エレベータが最上階に着き、扉が開く。

 自然にママは歩を速め、自室の扉の前に立った。いそいそとカードキーをバッグから取りだそうとすると、鍵の施錠を示すランプが緑色に点灯している事に気づいた。


「……」


 自分以外に鍵を持っている人はこのマンションの管理人以外には誰も居ない。

 不気味にも程がある。

 数十秒ほど立ち尽くしていたが、ママは意を決してドアの開くボタンを押す。ドアは横にスライドして開いた。

 慎重にママは中を歩いて電気を点ける。

 特に部屋が荒らされた様子は無かった。居間は特に変化なし。

 風呂、洗面所、キッチンも特に何もなかった。それにしても静かだ。まるで誰も居ないかの様に。そこでママはハッと思い至った。


「パピィちゃん!? パピィちゃんどこに居るの!?」


 いつもなら入口のドアを開けたらペットのトイプードルが迎え入れてくれるのに、何があったのだろう。

 まだ調べて居ない寝室を確かめればわかるのだろうか。

 ママは恐る恐る寝室に足を踏み入れ、電灯のスイッチを入れる。


「……!」


 その光景を目にしたママは、膝から崩れ落ちて床に倒れ伏す。

 広々としたベッドの上には犬の首が置かれていた。

 トイプードルの首、血にまみれたベッド。


「おおおおおおおお……」


 ママが泣き喚くと、ベッドの下からワンという鳴き声が聞こえた。

 

「パピィちゃん!?」


 チャカチャカとフローリングを歩くパピィはママの顔に近づいて、ペロリと舐める。本物のパピィが生きていたことに安堵するママ。


「じゃあ、この首は一体?」


 おそるおそるそれに近づいてみると、血の匂いが全くしない事に気づいた。

 血に見えた液体もただ絵の具を溶かした水で、犬の生首も精巧に作られた偽物だ。

 ホッと一息つくも、犬の生首の横に手紙が添えてあった。


 [次は本物だ]


 読んだママの血の気がゾッと引き、心の何かが折れる音がした。

 

 

 


* * * * *




 ある日の尾熊組事務所内。

 いつものように石橋は自分の部屋のデスクに座ってくつろいでいると、由人が入ってきた。

 

「おはようございます」


「おうおはよう」


「ところで聞きました? メノウの雫のママ、店を引き払って熱海で暮らすみたいですよ」


「らしいな」


「らしいなって……。兄貴、何か背後で手を回したんじゃないんですか?」


 由人が言うと、石橋は磨いていた爪に息をフッと吹きかけて爪切りを机にしまい込んだ。


「俺はただ単に様々な人達と仕事の話をしていただけだ。まあ、仕事の話だけじゃつまらんから世間話もするけどな」


「世間話、ですか」


「そう。。最近は何処の誰がナニをしているかとか、近頃はカルト宗教が蔓延ってていけませんね、とかそんな無難な話だ」


 含み笑いをして石橋は椅子から立ち上がった。

 

「どこかに行くんですか?」


「俺の知り合いが新しい店を出した。祝いに行こうと思ってな」


 そして二人は車に乗り、新しい店に向かった。


「ってここ、メノウの雫じゃあないですか」


「今はもう違うさ」


 車を止めて二人が降りると、店の前には荷物の積み下ろしで引っ越し業者のトラックがごった返していた。かなりの大荷物を店の前と中に何度も積み下ろしている。

 その中に業者ではない、上下ジャージ姿の初老の男性の姿があった。彼はああでもないこうでもないと忙しく指示を出している。

 やがて石橋たちの存在に気づくと笑顔で駆け寄り、ぺこりと頭を下げた。


「石橋さんじゃないですか! 連絡をいただければお迎えに行きましたのに」


「いや、ただ様子を見に来ただけだからな。にしても気合い入ってるね」


「そりゃあもう! ここに出店できればな、っていつも思ってましたからね」


 初老の彼は満面の笑みを浮かべた。額に汗の玉が浮かび、とても充実している様子が伺える。石橋はちらりと店の前に置かれている看板の名前を見る。


「店の名前、ベルフェゴールって言うのか」


「ええ、この街にふさわしい名前でしょう」


「全くだな」


「そういえば前のオーナー、なんでここいきなり引き払ったんでしょうね。物件引き渡しの時に一度だけ会う機会があったんですが、憔悴しきった顔をしてましたね」


「都会の喧騒に疲れたんだろ。今頃は熱海の温泉でゆっくり癒されてるはずだ」


 石橋の答えに対し、新オーナーはちらりと石橋の顔を見つめて口の端に笑いを浮かべた。


「ははぁ、なるほど?」


「どうだい。店の準備が終わったら飲みにでもいかねえか?」


「いいですね。終わり次第こちらから連絡を入れますよ。まだまだ時間かかりそうなんで」


 新オーナーは作業に戻りますと頭を下げて、店の中へと小走りで戻っていった。


「いい店になりそうだな」


「そうですね」


「他の店にも顔を出していこう、行くぞ」


 石橋は満足気な表情で呟き、由人もそれに頷いた。





* * * * *





 数日後。

 メノウの雫改め、高級クラブベルフェゴールはつつがなくオープン当日を迎える。

 従業員やホステス達もある程度は前の人員を引き継ぎつつ、大部分は新たなスタッフによる体制を整え、店は前よりも更に賑わいも見せている。

 楽し気な歓談がそこかしこから上がる店内。高い酒を仲間と楽しむ人々、ホステスとの格式の高い落ち着いた会話を楽しむ人々、そしてVIPルームで秘密の会談を取り交わす人々。彼らは思い思いにベルフェゴールという店を利用していた。

 営業はいつまでも続くにように思えた。だが夢の時間はあっという間に過ぎていくものだ。

 空が白み始めると店の喧騒は嘘のように消え失せて静かになっていく。

 閉店時間が訪れた。

 スタッフ達は後片付けに追われ、ホステス達は帰り支度を始める。


「お疲れ様でしたぁ~~~~~」


 一人のホステスが酔っ払い、千鳥足でふらつきながら店を出ようとしていた。


「おいおいヒトミちゃん大丈夫か? かなりアルコール入ってるじゃない」


「大丈夫れすよぉ、私とアルコールはお友達ぃ~~~」


「本当に大丈夫なのかなぁ、ハハハ」


 ヒトミと呼ばれた女性は片手にブランド物のバッグを提げ、足取り軽くタクシーに乗り込んで自宅の住所を告げてマンションに帰る。

 彼女の自宅は新宿区三番街の中では割と静かな所にあり、ここからタクシーで十五分程度の距離にある。


「お客さん、着きましたよ」


 タクシーを降りた彼女の目の前には十階のマンション。

 ハイヒールの甲高い音を鳴らしながら彼女は八階の自分の部屋まで戻る。

 カードキー型の鍵を認証機に当てると、ドアの施錠ライトの色が赤から緑に変わる。

 直ぐにドアが右にスライドした。


「たっだいま~~~~~~♪」


 開かれた彼女の部屋は惨状の極みにあった。

 うず高く積み上げられたゴミの山。脱ぎ散らかされた服、バッグなどの装飾品の数々。食べ残しの残骸や読みかけの雑誌などで埋め尽くされている。玄関ですらこの有様だ。

 ヒトミの声が聞こえたのか、部屋の奥から一匹のトラ猫が姿を現した。


「にゃーん」


「よしよし、帰ってきましたよぉ」


 そしてもう一つ、彼女の前に現れた一つの影。


「おかえりなさい、お姉ちゃん」


「あら、まだ起きてたの希愛。子供はまだ寝てる時間でしょ、ダメよ」


 ヒトミは希愛と呼んだ少女の額に口づけをし、ゴミだらけの居間に入って提げていたバッグからお弁当の包みを取り出した。


「お店からもらってきたけど、私は要らないから希愛食べていいよ」


「わぁ、ありがとう!!」


 希愛は包み紙を破り捨てて弁当を貪り始めた。

 ヒトミはその様子を微笑みを浮かべながら暫く眺めた後、化粧台の引き出しを開けてアンプルを取り出した。中には青い透明な液体が詰められている。

 アンプルをヒトミは腕に押し付け、側面についているボタンを押すと無痛針が飛び出して液体が注入される。


「……あぁあああああ」


 恍惚に浸った声を上げたヒトミ。

 こうなると少なくとも数時間は現実世界には帰ってこない。

 弁当を食べ終えてゴミを片付けようとしていた希愛は横目で見て、ため息を吐いた。


「もうやめるって散々言ってたのに」


 言った所でトリップした彼女には何も聞こえない。

 希愛はこの間に少しでも部屋を片付けるべくゴミをまとめていた。

 これも徒労である。

 片づけるスピードよりもヒトミが散らかすスピードの方が速い。

 それでもやらないよりはマシだ。


 「……どうしてこんなことになっちゃったんだろう」


 幾度となく、希愛が繰り返した言葉。


 

 研究所から抜け出した希愛は、その後行く当てもなく彷徨っていた。

 新宿に辿り着いたがアリサといつの間にかはぐれ、その後は三番街ゼロ番地に迷い込んでしまった。

 乞食やゴミ漁りをして生き延びていたが、ある時売人との取引を終えたヒトミがぼろぼろの希愛を見て、無理やり家まで連れ込んできたのだ。

 ヒトミは薬物中毒者であったが、それでも今まで出会った人々の中ではかなりマシだった。欲しいものがあれば買ってくれる。機嫌が良ければ外にも連れて行って遊んでくれた。

 ただ、それは人としての扱い方ではない。

 一緒に住むトラ猫とのジロと同じで、ペットとしての存在価値しかなかった。

 今は可愛いからまだ飼われていられるが、成長したら捨てられるか売られるかもわからない。それでも今は庇護してくれている。

 

 いつか、機会を見てアリサを探さなければ。


 希愛はまだ洗濯されていない衣類の山を洗濯機の中に目いっぱい詰め込んで、スイッチを入れた。あとは洗濯機が自動で全てやってくれる。

 洗濯機が回転する音を聞きながら、希愛は3DTVの電源を入れた。

 早朝だから番組は風景が延々流れているものか、ニュースくらいだ。

 希愛はぼんやりとニュース番組を眺めていた。


「いつまでここで暮らすんだろう……」


 希愛はジロを抱えて頭を撫でながらつぶやいた。


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3-5:雫と希愛 END


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