第27話 Postscript 2
「うん、そう、ありがとう。洋子さん、面倒かけるけど、引き続き頼むね」
京田は終話ボタンを押すと、ワインレッドの携帯をテーブルの上に置いた。それから素肌に薄手のガウンをはおり、寝室を出てキッチンへ向かった。
コーヒーメーカーに豆と水をセットし、スイッチを押した。放っておけば、あとは勝手に豆を挽き、美味しいコーヒーを入れてくれる。
芳しい香りが満ちる中、京田はベランダの窓から眼下に広がる街並を眺めた。空は快晴、雲一つない。
「お天気、良いねえ」
2LDKのマンションは、二人で過ごすのに勝手が良い。十五階の南向きは景色も採光も申し分なく、一時、日常を忘れて寛ぐには良い隠れ家になる。
そんなことをぼんやり思いながら、京田は二杯のカップにコーヒーを淹れた。七分目まで満たした一杯を手に取り、香りと味を楽しむ。そしてもう一杯は手盆で寝室へ向かった。
八畳の寝室はシックな中間色で統一され、アイボリーの遮光カーテンはぴったり閉められている。そっと半分開けると、午後の日差しがベッドでまどろむ背を照らし出した。
「そろそろ起きたら? 慎吾くん。コーヒー淹れたよ」
京田がベッドに腰掛けると、慎吾はゆっくり裸の体を起こした。寝起きのせいか、ぼんやりした顔でカップを受け取った。
「良い匂い……エトランジェの、ハワイコナ?」
「判る? あの店のやつ、好きだろ。焙煎したてだから、きっと美味いよ」
慎吾は軽く頷くと、カップの芳香を楽しんでから、ゆっくり一口飲んだ。
「うま……ところでさっきの……洋子さんから?」
「ああ、マル対についての定時連絡ね」
京田はサイドテーブルの上の煙草へ手を伸ばした。
相手がとんでもないだけに、京田とオヤッサンは相談し、身元を割り出されてしまったタイガを即、地方へ飛ばして護衛をつけた。もちろんこれは内々のことで、公には三ヶ月間の休職扱いになっている。
ちなみに「罰」と本人に伝えたのは、オヤッサンの悪質な冗談だ。オヤッサンは暴れん坊を懲らしめる意図も含めて、タイガへ転勤と伝えたのだった。
「昨日は猫と一緒に、楽しく木登りしてたってさ。あんなグレた感じだけど、結構上手くやってるみたいだよ。洋子さんのお見合い攻撃にも、全然なびかないらしい。一生結婚しないんだって。彼、誰か好きな人でも出来たのかな」
ちらりと目をやると、慎吾がふっと微笑んだように見えた。
「慎吾くん、彼も食ったの?」
「いえ」
「そう。気に入らなかった?」
「別に。なんとなく、かな」
「ふうん……」
ライターがカチリ、と鳴り、すぐに煙草の匂いが広がる。慎吾はもう一口コーヒーを啜り、京田を見やった。
「ところで、ハザードの件はどうですか?」
浅田と吉見が逮捕され、店舗とヤサの大がかりな家宅捜索の後、現在情報解読を行っていると聞いていた。
「うん、相変わらず警視庁とうちの捜一、マル暴で各種作業中。残党狩りは予定通り、二カ月で終わると思う。虎屋くんや君を狙ってきた鉄砲玉は、今のところ三人だな。皆、逮捕したよ」
「そうですか。で、第三国方面は判りました?」
「ああ、やっぱりアソコだったよ。まったく、常識の欠片もない、酷い連中だ」
時々世間をにぎわす独裁国家の名を、京田が憎々しげに告げる。慎吾が予想通りだと頷くと、京田は不快さに声を濁らせた。
「外交問題にも発展しかねないから、なかなか思うように出来なくてねえ。それでも警察庁と主要都市の本部も動いてる。全国規模で、ヤツらのルートは片っ端から潰すよ」
「頼りにしてます。よろしくお願いします、署長」
「二人の時にそれはナシだろ?」
「ああ、そうだな……英彦さん」
「うん」
慎吾に上目遣いで呼ばれ、京田は満足そうに微笑んだ。そしてくわえていた煙草を慎吾へ差し出した。
「吸う?」
応えずに、差し出された指から直接、唇で受け取る。美味そうに吸う慎吾を少し眺めてから、京田は彼に小さな灰皿を手渡した。
「あ、どうも」
「また、傷が増えちゃったね」
「気になります?」
「まあね、榊先輩に怒られるな」
情けないニュアンスが混じったのに、慎吾が笑う。それに微笑み返しながら、京田は慎吾の背を手のひらでなぞった。
「先輩に刑事のイロハを教えてもらったからね。何か恩返ししたいんだけど、僕は君を傷つけるばかりで」
「そんな事ないです。おかげで親父の墓も買えたし、貯金もかなり増えたし、もういつ辞めても良いくらいですよ」
「ええー! ホントに辞めちゃうの? 正義のダークヒーロー、嫌になった?」
「あのスリルは嫌いじゃないけど、カラダがもたないです。でも、英彦さんが本庁行くまでは、傍にいますから」
「信じて良い?」
「多分ね」
駆け引きなのか本心なのか、京田は少し迷いながら頷いた。
いずれにしても、おそらく自分の、署長としての任期はそう長くない。キャリアはいずれ本庁へ呼び戻され、階級の階段を駆け上がるのだ。
「ね、慎吾くん、やっぱり着いておいでよ。一緒に本庁行こう」
「……そうっすね。考えときます」
「期待してるよ」
束の間絡んだブラウンの瞳に、やはり本心は見えない。いつものことだと割り切りながら、京田は慎吾の唇にキスした。
「シャワー、浴びて来る。今夜はちょっと美味い店で、寿司でも食べよう」
「ええ、ちょうど食べたかったんだ、楽しみだな。でも、奥さん良いんですか?」
「うん、大丈夫だよ。相変わらず別居してるけど、別れたいって言わないから」
「署長夫人のステータス?」
「そう。うちの奥さん、そういうの好きなんだ」
寝癖のついた慎吾の髪を軽く撫でてから、京田は寝室を出て行った。それを見送ったあと、慎吾は煙草を消し、灰皿とコーヒーをサイドテーブルへ乗せた。
「ふう……」
やっと回復した体をベッドへ転がし、そっと目を閉じた。瞼の裏にタイガの横顔が浮かんだ。
彼が、自分と京田との関係を知ったらどう思うだろう。
(嫉妬、してくれたら嬉しいんだけど……)
医務室で過ごした夜、疲労がピークの状態で鎮痛剤を投与されたのに加え、タイガと抱き合った安心感に、つい気持ち良く寝落ちてしまった。
浅田に拉致された夜もそうだったが、何故かタイガと一緒にいるととても安らげる。その理由を、朝方目が覚めた後、高いびきで眠りこける本人を眺めながら考えた。そして気づいてしまった。
(俺は、本気でアイツが好きなんだ……)
モグリは危険で、しかも自分はゲイだ。だから出来るだけ恋愛は避けていたし、そんなものがなくても生きられると思っていた。だが、気づいてしまった途端にどうして良いか判らなくなり、朝っぱらに医務室を逃げ出していた。
(何でだろ……あんなにお互い、嫌ってたのに)
きっとタイガは、何も言わず消えた自分に腹を立てているだろう。それにあんな中途半端にして放り出したから、本当に嫌われたかも知れない。そう思うと、尚更顔を出せなかった。
だが、彼が現場復帰できたあかつきには、新しい部屋に忍んでいって、驚かせてやりたい。例えケンカになっても、きっとタイガは許してくれる。彼はそういう、優しい男だ。
「フフフ、どんな顔するだろうな、あのヤンキー」
慎吾はベッドから起き、全裸のまま窓際へ寄った。日差しが温かい。一つ大きな伸びをして、窓から外を眺めた。
太陽は傾き始め、オレンジがかった陽光が、外を眺めるブラウンの瞳を明るく染める。
慎吾とタイガ――この二人が今後どうなるかは、神さますら知らない。
【了】
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