4 君があなたであなたが君で
――三十分後。
人気のないファーストフードの店先でコーヒーカップを置いた恭平は、しばかれた鼻をさすりながら。
「……初めてのビンタは血の味がする、と」
「ふん。歯が当たっちゃったんだな、きっと」
などと、正面でこちらを睨め上げてくるクラスメイトに頷いて。
「ええと……で、かんざしさん」
瞬間、びくりと肩を震わせたクロカミボブモドキは、ささっと周囲に暗殺者の視線を走らせると。
「ばっ、ばか! だからラジオネームで人を呼ぶなとっ」
「あ、うん。ええっと……」
言われて恭平は再び思い出の中を探し歩く。記憶に映る御園さんの唇の動きと、そこから紡がれた彼女の名前を……。
ええと、そうだ、確か。
「……じゃ、五十嵐さん」
「尾張だ。一年三組出席番号九番でお馴染みの尾張友里香ちゃんだ」
オワリユリカ、言われて見れば聞き覚えのある名前だった。……だが、彼女が《かんざし一筋三十年》さんであることに比べれば、本名なんてああそうなんだと言う程度。
「ええと、俺は――」
「知っている。長江恭平だろう?」
少し驚く。同時に光栄に思う。あのかんざしさんがこんな駄クラスメイトの名前を憶えていてくれたのだ。
瞬きを二つ。
「えっと……」
キラキラした妄想から次第に悲しみが溢れ出す『逆パンドラ』的な長文ネタを得意とする偉大なるハガキ職人と、目の前で『あち……あちっ……』と紅茶のカップを持っては離しを繰り返している地味で暗めでぱっとしない女子高生のイメージが、なかなか重ならない。
見れば見る程、どうしてあの時あの瞬間そのラジオネームが口をついたのか不思議になった。
「よく覚えてますね」
俺の名前なんてと言いかけた恭平の自虐的な気分は、次の言葉に吹き飛ばされた。
「ああ。御園志桜梨と同じ中学だと彼女が言っていた」
「えっ?」
驚く。驚愕で握ったコーヒーカップが潰れる程に。
「御園さんが、俺の事を……友達に紹介していた?」
つまり、それは十中八九俺に対する仄かで淡い恋心――息を飲んだ恭平の顔を、かんざしさんは鼻で笑って。
「そうだ。ほら、四月の自己紹介の時。お前が派手にすべっていただろう? あの時にな」
「……っ」
ぞわっと、心臓に鳥肌が立つ感じ。
「ほら、なんだっけ? ここまでは与えられたカードを選んで生きてきました、ここからは――」
「……やめろ」
「ぷふ、やっすい漫画の様な臭さだな。にひ。それにほら、お前毎朝わざわざ御園志桜梨の机の脇を通るだろう? あの子の『お早う』を頂戴したいがあまりになははっ」
「やめろ、ラジオネーム《かんざし一筋三十年――」
「うぉーーーい馬鹿っ! 人が聞いてたらどうするつもりだっ!」
恭平が口にした名を慌てて掻き消そうとした彼女だが、むしろその大声が道行く人の視線まで集めているのはどうなのだろう。
「いいかっ! 金輪際私をその名で呼ぶな! あくまであれはその昔軽い気持ちで適当に考えた投稿用のラジオネームであって、この私は単なる純情可憐な尾張ユリカだ。もしも学校で呼んだら……どうなるかわかっているんだろうな」
付着した紅茶の粒ごとシュビッと突きつけられたマドラーの先端を見つめながら、恭平はゆっくりと腕組みをして。
「いや、でも俺にとって君は、あの《かんざしさん》なわけで」
「……御園志桜梨」
「……ん?」
ぼそりと低く聞こえた素敵なお名前に、恭平は聞き間違えかなと瞬きをした。
が。
「くくく。やはりか」
「な、なにがだ?」
ひび割れの様な笑みを口元に浮かべた彼女は、そっと華奢な上体をテーブルに被せる様にして囁いた。
「良い女だな、あの子は。心優しく、清楚で、お上品な――」
「な、何が言いたい?」
ごくりと唾を呑み込んだ恭平の前、ただでさえ細めな目を一層鋭くした女子高生は。
「別に。ただ、どう思うだろうな、と思ってな。挨拶代りにアナルだのポコチンだのが炸裂する様な深夜ラジオを好む下品な男を、お上品で汚れしらずな私の友達 『御園さん』は」
「べ、別に俺は――」
というか、単語。女子高生用語辞典には載っていない単語だろ。
「ああ、いいんだ。長江君がお下劣だと言う事くらい顔を見れば分かるからな。ただ、まあ、女子のスマホを覗き見する様な奴ってのは、なあ?」
「ぐ」
ぐうの音も出ないとは、正にこの事。
「ち、ちがっ、違うんだ。あれは、ただ、誰の忘れ物かなって……」
「御園志桜梨の机にあったのに、か? ブリーフを履け――じゃなかった。嘘をつけ、変態」
「あ、いや。だからそうじゃなくて……」
いや、その通りなんだけど。というか、なんで君がそのお上品な御園さんと仲良いんだ? 割と下品なネタも送るくせに――いや、そうじゃなく。ブリーフじゃねえし。
ここを認めたら、絶対に駄目だ。御園さんのスマホに何かをしようとしていただなんて、本人に知られたら一巻の終わり。女子と言う女子に軽蔑の視線を送られ、そしてすぐにそいつ達に嫌われたくない男子にも避けられる日々が始まるのだ。そんな辛い日々の中、唯一御園さんだけが普通に接してくれて――救いを求める様にやがて深まる恋心。そして、ある日自分は聞いてしまう。廊下の向こうでお友達とおしゃべりしている御園さんの一言を――
『え? 長江君? 違う違う、全然そんなことないよぉ。だってほら、長江君て――』
――どっち? どっちなんだ、御園さん? 君の目に映る長江君は《良い人》なの? 《気持悪い》の? どっちの長江君が好きなんだい?
思春期男子の期待に応えるかのように、御園さんの艶唇が、ゆっくりと動き出す。
『長江君て、割と――』
「おい、変態。おい」
「御園さんはそんな事言わないっ!」
現実と妄想の間からガバッと起き上がった男子に、ユリカは一瞬びくりとして。
「な、なんだ!? 急に」
「あ、いや。その。何て言うか、ほら、御園さんが俺に変態の烙印を押す様な人なら、きっとかんざしさんだって御薗さんにそう言われてるはずだと思って」
「なっ! だ、だからやめろ! 私は『かんざしなんちゃら』じゃあ断じて無い――いや、そうなんだけど、そうじゃあないっ! あの下品なネタはあくまでラジオ上の人格でっ! 普段の私は真面目で大人しい清楚な天使なのっ! そうだろっ!? おいっ!」
噛みついて来そうな彼女の言葉に、えっと、と恭平は視線を外す。
「ええと……まあ、大人しいって言うか……地味って言うか……」
存在感が無い、というか。
「うるさいうるさい! そうなんだ! お前が勝手に私のメールを見なければ誰にもばれなかったの! なのにっ! 何でお前がッ!」
吠えるだけに飽き足らずぐわしとテーブルの両端を掴んで投げ捨てようとする小型娘に驚き、慌ててテーブルを上から押さえこんだ恭平は。
「ちょ、ちょっと待って、それなんだけど。誤解なんだ。俺は本当にステッカーしか見てなくて、メールを見たわけじゃないんだって」
「……はぁ?」
その瞬間尾張ユリカが見せた『はぁ?』は、長江恭平がそれまでの人生で経験したどの『はぁ?』よりも『はぁ?』だった。かつて見知らぬ国へと旅立った船乗りたちはまずその国の言語における疑問形を知るために、このアジア女子の顔に吹き出しを付けた写真を見せたのですと言われても信じられる位に。
「妄言を垂れ流すな。ステッカーを見ただけでラジオネームが分かるかボケぇ」
大分膨らんでいた鼻と目を通常サイズに戻しつつ吐き捨てる様に言った自称清楚な天使女子高生に、恭平は小さく首を振って。
「それは……そうなんだけど」
「だけどじゃなくて、そうなの。なのにお前はさっき私をラジオネームで呼んで来ただろうが」
そうなのだ。確かに自分は、そう呼んだ。いつものかんざし節が書かれたメールを見たわけじゃないのに。
答えを探して目の前を見ても、そこにいるのは確かに頭は下ネタ身体は貧相な女子高生。入学以来一月以上を過ごした教室でも、ほとんど目に入らなかった小柄な女子。
「ええと、それは、ほら、ステッカーいっぱい持ってたし……」
「貼っているのは五枚だけだ。これ位持ってる奴は割といるだろ?」
少し驚く。有名職人である彼女の感覚ではそうなのかもしれないけれど、一度も読まれた事が無い無名の投稿者の方がずっとずっと数は多いわけで。
「いや、でも、ほら、女子高生で……ってなると……」
「はぁ?」
口にしても、確信が持てない。ラジオで読まれる短いネタだけじゃ、書いた人の性別やら年齢は分からないはずなのだ。だからかんざしさんの名を口にしたのは、恭平自身偶然としか言いようのない確率なわけで。
よって、彼女からの疑いの視線は深まるばかりだ。
「あ、ほら、ツイッター、かんざしさんツイッターやってるし。俺、フォローしてるから」
「なっ!」
フォロワーであると告白した瞬間、がびっと油絵みたいな顔になる女の子。チャンスだ。このまま丸め込んでしまえ。
「そこから溢れる女子高生の香りって言うのかな? なんていうか、それで……」
俯きがちに嘘を口にした恭平の正面で、どかりと鈍い音。驚き見れば、両手でおかっぱ頭を抱えた尾張ユリカがテーブルに激しく突っ伏しているところだった。
「……う、うわあああああ……最悪だ」
口からエクトプラズム、脳天から煙。色々と終了した気配の彼女に、恭平は慌てて。
「あ、いや、でも、えっと……まぁ、大丈夫、だぜ?」
爽やかに親指を突き立てて見ると、彼女はぐわっと跳ねあがり。
「当たり前だっ! 鍵アカでも無いのにこの私が色々書いたりするわけがないっ! わ、悪口なんて書いてないっ――よなっ!?」
慌ててスマホを取り出し確認なり削除なりをしようとした女子高生に、恭平はピンときた。
「待って!」
「なっ! なんだ!?」
「それ、ロックとかしてないか!?」
瞬間、スマホに目を落としたユリカは恭平の言わんとする事を理解して。
「……してある……な」
「言っておくけど、さすがにパスワードとか知らないから」
「……」
己の潔白を証明した容疑者の前で、女子高生探偵は押し黙った。
そんな彼女を眺めつつ、恭平はふうっと一息、珈琲の苦みと香りに酔いしれて。
「……謝罪する?」
「う、うるさい。私は謝らないぞ! そんな事言ったって、お前が勝手にケースを開けてステッカーを見た事実は変わらないんだからな!」
焦る名探偵に、犯人は余裕の溜息で。
「それは、本当にたまたま鞄が当たっちゃっただけなんだって」
「う、嘘吐け。絶対にお前は御園志桜梨のスマホを見たいと思って――」
「いいよ。疑う気持ちは分かるからさ。でもさ、一回『なんちゃって』だけ言ってもらえる?」
「ぁん?」
「言葉ってさ、大事じゃん? 形式的にでもいいからさ、『なんちゃって』だけもらえませんかね?」
瞼を持ち上げた恭平の前、軽く咳ばらいをした尾張ユリカは居住まいを正して。
「……なんちゃって」
「よし。でね、尾張さん――」
「いいの? なんちゃってでいいのか?」
素っ頓狂な声を出す彼女を無視する様に、恭平は深く頷いた。
「あのね、尾張さん。おれは例え教室に落ちていた女子のスマホを覗きたいと思っても、そんなことはしない。男として――いや、一人の人間として、絶対に。」
恭平が作った真剣な眼差しに、ユリカは『ほ~う』と声を伸ばして。
「……まあ、そうだよな。そんなことするのは、本物の屑だ」
「その通り」
「……もしもそんなクラスメイトがいたら最悪だよね~と、明日しーちゃんと話して見よう」
ちょっと高い声を作ったユリカに、恭平は大いに頷いて。
「それには是非俺も混ぜてくれ。きっとしーちゃんも賛同してくれると思うな」
「調子に乗るな。気持ちが悪い」
「失礼。その御園さんとのお喋りには是非このわたくしめも――」
「顔面が、だ。気持ち悪い」
静かに傷つく。
「具体的に言うと、鼻から唇にかけての感じが気持ち悪い。あー成程お前、ちょっと人より鼻の下が長いんじゃないか? あと笑う時に口角がまったく上がっていないな。よって『長江恭平』は『気落ち悪い』と合同である。はい、しょーめーかんりょー」
冷めたコーヒーと鼻をすする。なんだろう。胸が痛いや。お前だって全然可愛くないしと口の中でぼそぼそ呟く。
直後。
「あ、スマホのカメラに犯行の一部始終がうつっていたぞ!」
「馬鹿なっ!」
コント口調の誘いに一乗っかりした恭平の顔を見て、ユリカはふふんっと鼻を鳴らすと。
「まぁいい。ちょっと面白かったから許す」
と言って鞄を持って立ち上がり、恭平をじろりと振り向くと。
「……学校では絶対話しかけるなよ」
呪いの和人形が発したどすの利いた声にたじろぐ男を残して数歩歩き、また振り返り。
「……振りじゃないからな。ホントに、絶対、話しかけるなよ」
それだけ言って、すたすたと店を出て行ってしまった。
自分のゴミもテーブルの上に残したままで。
「……えっと」
暫く呆気にとられたままガラスの向こうで坂を下って行くクラスメイトの横顔を見送った後、ぽりぽりと頭を掻いて俯けば、テーブルの上でストローの袋がふにゃふにゃと踊っていた。
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