10 明日を待とう
月曜 十二時三十七分。
昼休みは、まるで楽園。
いつもの様に早めに学食のパンを食べ終えた長江恭平は、当然の様に机に突っ伏してヘッドフォンを装着した。
だが、待ってほしい。
いくら高音質対応のヘッドフォンを付けているからと言って、音楽好きな訳では決して無い。人並みに好きな曲はあるけれど、好きなバンドとかは無い。大好きなラジオ番組のパーソナリティがやっている全ての番組が大好きなわけじゃないのと一緒の事だ。
そして昼休みに一人寝たふりをしているからといって、友人がいないわけでもない。たまに話しかけてくる奴らはいるし、話しかけられればそれなりの答えを返す程度の事は出来ている。
ただ、この教室には自分から話しかけたいと思える人がいないだけなのだ。まあ強いて言えば、右斜め前方で御友人達ときゃっきゃうふふとお弁当を食べているマイラブリー御園さん位だ。そして、それと同時にそんな『御園さん』を含めたクラスメイト達にとっての『長江恭平』もまた特段話をしてみたいと思える人間ではないという、きっとそれだけの事なのだ。
つまり、昼休みに寝たふりをしてヘッドホン越しにクラスの連中の冴えないトークを盗み聞いては伏せた腕の中で嘲笑っていると言う状態は、恭平からクラスメイト達への一方的な評価であると同時に、この教室における長江恭平と言う存在への評価でもあるのだ。知らぬうちに無言の話し合いを行った挙句の無血閉城もしくは不戦敗なのだ。なのだなのだそうなのだ。
――ああ、空しい。
自分肯定の屁理屈と格好つけの自虐と言う思春期ごっこにも飽きた頃、『彼女』の名前が耳朶に響いた。
『ぁい、続いては、ラジオネーム《かんざし一筋三十年》の《フィクション昔話》!
むか~し昔、あるところに、とっても貧乏な女の子がいたそうな……
ある日彼女がお気に入りのTシャツを着て学校に芝刈りに出かけると、川の向こうからどんぶらこっこどんぶらこっこと、そっくりな柄の雑巾を手にしたクラスの中心的な可愛い女の子が流れてきました――』
やがてかんざし少女が振り絞った『お揃いだね♪』の笑顔に合わせて盛り上がる昔話のBGMに、思わず『ふふっ』と笑ってしまう。
『フィクションですよ!』と叫びながら、パーソナリティも構成作家さんもゲラゲラと笑ってくれている。そしてここから畳みかける職人たちのネタラッシュ。いつでも悪意と毒に満ちた『ネチケット』さんや、時間旅行者疑惑が発生している『のづち』さん。それから『エロ写真家になりたい』さんや『峰打子』さんなどなど。覚えている名前、聞いた事のある名前、新しい名前――知っている人。
ほんの少し顔を浮かせて、教室の中を覗き見る。
不思議だった。
一月ほど同じ教室で過ごして来ても。
多分、きっと、お互いに。
何を話していいのかなんて分からないのに。
誰かと話したい事が溢れそうでも、結局『誰か』は『誰か』でしかなくて。
楽しい事も面白い事も、ずっと一人でニヤつくだけだったのに。
フォローしている投稿職人リストから、『かんざし一筋@Kanzashicity30』さんのアカウントを開く。
現れたのは、透け乳首男子うんぬん以来一週間近く更新されていないタイムライン。
いつもなら、今夜『読まれたー♪』とか言って実況を始めるはずだけど……。
何気ない振りをして顔を上げてみると、窓枠に寄り掛かったクラスメイトの向こう側、風に膨らんだカーテンの隙間から真っ白でドでかい夏雲が見えた。
そのままぼんやりそれを見ていたら、なんだかぐにゃりと遠近感が狂っていくような気がした。
教室と空、空と教室。はぐれた自分とあちこちで輪になるクラスメイト達。一体どっちがどっちの背景なのか。壮大な騙し絵の中にいる気分がしてほくそ笑む。
教室の前方、黒板の上、鼠色をした校内放送のスピーカーは相変わらず四角くて丸かった。
ドキドキしてきた鼓動を隠す様に、恭平は再び自分の腕の中で狸寝入りと洒落込んだ。
早く、明日の放課後になればいいと思った。
明日になれば、打ち合わせ。かんざしさんと、話が出来る。
やるんだ。ラジオを。みんなで。
高揚に胸の血が熱くなり、緊張でアナルが収縮する。
顔を伏せたまま、天板ギリギリの空気を思いっきり吸い込む。嗅ぎなれた机の焦げ臭い匂いすら、今は脳味噌を溶かす麻薬に思えて。
ちらり、と。
御園さんの机の脇にしゃがみ込んで、パンを咥えつつおしゃべりに興じる尾張ユリカの後頭部を盗み見る。
「……ほんとに、やるんだよな」
誰にも聞こえない様に息を吐いた。
瞬間。
目の前の暗闇がピカッと光って我に返った恭平は、とにかく慌てて人気のない階段の踊り場へと逃げ出しながら、画面に表示されていた村田慎之助の名前を指で叩く。
そして、薄暗い階段の影の中でディレクターからの報告を受けた少年は
「……えっ? テストって? え? 明日やるんですか!?」
と見知らぬ学友が振り向く程の素っ頓狂な声を上げた。
その夜。
狭い和室の全開網戸から響く虫の音を浴びた長江恭平は、布団の上に置いたスマホに向かって正座をしていた。当然、頭には今から始まる『馬鹿騒ぎ』を聞くためのヘッドフォン。ラジオ好きたるもの、ラジオの番組で曜日を覚えているモノだ。ちなみに、全裸なのは雑ヶ谷の夜が暑いから。
そうして待つ事一時間程。まるで自分がネタを送ったかの様な気分で胸をドキドキさせながらパーソナリティーのトークを聞いていた少年は、やがて《彼女》が得意とするキラキラした妄想と現実が入り混じった怪文書が読み上げられるや否や、小さくガッツポーズを繰り出して『また遅刻したら困るから』となんとか説得して聞き出した相方のIDを呼び出すと。
長江 読まれましたね、かんざしさん! 駄菓子を買い占めて鬼に復讐するくだり、最高でした!
ユリカ うるさいな。今何時だと思ってるんだ。
ユリカ ? 用はそれだけか?
ユリカ ……おい。
長江 ごめん。ラジオ聞いてた
長江 俺、こういうネタのコーナーやりたい。出来れば珍文とか、長文系のストーリーの奴
ユリカ そうか。頑張れ
長江 書いて
長江 かんざしさん、万遍マンデーにもネタを書いてください
長江 かんざしさはああああん!!
ユリカ テンションがうざい。多分、私はお前が嫌いだ。あと万遍なんとかも
長江 俺は好きです! 実はファンなんです!
ユリカ おやすみ。長江恭平君が二度と目覚めませんように
長江 では、また明日、スタジオでお会いしましょう!
ユリカ 行けたら行く
メッセージを送り終えた恭平は、スマホにバックブリーカーを決める様に仰向けに倒れ、アメリカ漫画のヒーローみたいにヘッドフォンの橋の部分で目を覆い、『はぁーっ』と身体からテンションを吐き出した。
吐き出しても吐き出しても明日が楽しみで眠れなそうで。それがまた妙に楽しかった。
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