第40話・存在×温もり
世の中には幸せと不幸せがある。
いつ幸せが訪れるのか、いつ不幸せが訪れるのか、それは誰にも分からない。
そして幸せな時間は基本的に短く、今こうしている次の瞬間にも不幸せが来るかもしれない。私はそれが凄く恐い。だから私は、目の前にある幸せを一生懸命に繋ぎ止めようとする。
「杏子よー、夕飯にしようぜー」
「はーい」
先日、お兄ちゃんが無事に志望高校である
なにせお兄ちゃんの成績は決して良い方ではなかったし、志望校の花嵐恋学園はそれなりに偏差値も高かったから。だからお兄ちゃんが無事に合格できたのは、茜さんやまひろさんが一生懸命にお兄ちゃんの勉強を見てくれたおかげなんだと思っている。
「くあーっ! 受験から解放された後の飯はマジで美味いな!」
すっきりとした清々しさを感じる表情を浮かべながら、お兄ちゃんは美味しそうにご飯を食べている。
本当にお兄ちゃんは表情豊かで面白い。そんなお兄ちゃんと一緒に居る事が、私にとってはこの上ない幸せだ。
「お兄ちゃん、今日はデザート無いの?」
「今日もデザートが欲しいのか? 確かアイスクリームがあったと思うけど、それでいいか?」
「うん!」
やれやれと言った感じの表情を浮かべ、アイスクリームを取りに行くお兄ちゃん。
何だかんだで、お兄ちゃんは私に甘い。それが分かっているからこそ、私はもっとお兄ちゃんに甘えたくなる。
「ほら、持って来たぞ」
「あーん」
私はお兄ちゃんが差し出してきたアイスクリームを受け取らず、お兄ちゃんに向かってパッと口を開ける。
「お前なあ、小さな子供じゃないんだから自分で食べろよ」
「いいじゃない。私はお兄ちゃんの妹なんだから」
「あのなあ、妹であるというのは、何でもしてもらえるって事ではないんだぞ?」
「私はいいの。だから早く、あーん」
「まったく、しょうがねえなあ」
お兄ちゃんは渋々と言った表情を浮かべながらも、アイスをスプーンですくって私に差し出してくれた。
「うん、美味しい! ほらお兄ちゃん、次をお願い。あーん」
「やれやれ」
結局お兄ちゃんは、アイスがなくなるまできっちりと私に食べさせてくれた。
「それじゃあ、俺は後片付けをして来るから」
「あっ、私も手伝うよ?」
「いいよいいよ。受験の時期は代わりにやってくれてたしな」
お兄ちゃんはそう言うと、お皿を重ねてから台所へと運んで行く。
普段はがさつで無神経なところもあるけど、やっぱりお兄ちゃんは優しい。
「ふあ~。少し眠くなっちゃった……」
欠伸をしながらソファーに寝そべると、すぐに大きな眠りの波が押し寄せて来た。隣の台所からは、お兄ちゃんが洗い物をしている音が聞こえてくる。
今はお兄ちゃんが近くに居ると感じている時だけは、パジャマに着替えなくても眠れる様になった。だけど昔はそうもいかなかったから、お兄ちゃんにはずいぶんと迷惑をかけたと思う。
私はお兄ちゃんと兄妹になってからしばらく経った頃の事を思い出しながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
× × × ×
私が小学校六年生になったばかりのある夜。私はまたお兄ちゃんの部屋を訪れた。
「お兄ちゃん」
「ん……どうした杏子? また眠れないのか?」
「うん……。一緒に寝ていい?」
「ああ、いいよ。おいで」
お兄ちゃんは眠そうにしながらも、優しい表情でそう言ってベッドの半分を空けてくれた。
「寒くないか?」
「うん。大丈夫」
季節は春になったばかりだけど、まだ夜は肌寒い。
お兄ちゃんは私が風邪をひかないようにと、しっかり毛布をかけてくれた。
「おやすみ、杏子」
「おやすみなさい。お兄ちゃん」
静かに瞳を閉じてしばらくすると、お兄ちゃんの小さな寝息が聞こえ始めた。
私は隣に居るお兄ちゃんの方を向き、瞳を開けてその寝顔をじっと見る。いつも私を優しく見守ってくれるお兄ちゃん。そんなお兄ちゃんの匂いと存在を感じている時だけは、心の底から安心できる。
お兄ちゃんと兄妹になってからしばらく経つまでは、私は不幸しか感じる事ができなかった。なぜなら大好きだったお母さんが交通事故で亡くなり、私の心にぽっかりと穴が空いていたから。
人の死。それも身近な母親の死を受け入れるというのは、当時まだ小学校一年生になったばかりの私には難しかった。
そんな私が小学校二年生の時にお兄ちゃんと兄妹になってから約四年が経つけど、三ヶ月くらい前から段々と夜眠れなくなっていた。
だけどその原因は、この時の私にはよく分からなかった。ただ、夜眠る時になると、漠然とした寂しさに襲われていた事だけは覚えている。
「――お兄ちゃん……」
「んん……杏子か。今日も眠れないのか?」
翌日も私は一人では寝付けず、お兄ちゃんの部屋を訪れた。
眠そうに目を擦りながらそう聞いてくるお兄ちゃんに向かい、私はコクンと頷く。
「やれやれ、しょうがないな」
お兄ちゃんは苦笑を浮かべながらも、私をベッドに入れてくれる。
ベッドに入るとそこにはいつものお兄ちゃんの温もりがあり、私はそれを感じるとほっとした。
「杏子も来年は中学生だから、一人で眠れるようにならないとな」
「うん」
優しい口調でそう言いながら、お兄ちゃんは頭を撫でてくれる。
私があまり眠れない事を知ってから、お兄ちゃんは私が眠れるようにと色々な事を試してくれていた。枕を変えてみてくれたり、アロマを試してくれたりと、本当に色々な事をしてくれた。最高に優しい私のお兄ちゃん。この世界に居るどんな妹よりも、私は幸せな妹だと思う。
そして毎日の様に眠れない日が続いたある夜。私はまたお兄ちゃんの部屋で一緒に寝ようと部屋を訪れたんだけど、この日はいつもと違い、お兄ちゃんは私を連れてそのままリビングへと下りた。
そんなお兄ちゃんはリビングのソファーに私を座らせると、台所へ行ってからゴゾゴソと何かをやり始めた。
「お待たせ~」
「これなーに?」
「今日さ、家庭科の先生に聞いたんだよ。寝る前にホットミルクを飲むと、眠りやすくなるらしいんだ。まあ、とりあえず飲んでみろよ」
お兄ちゃんはいつもこうやって私の為に世話を焼いてくれる。それが本当に嬉しい。
「うん。ありがとう、お兄ちゃん」
私はテーブルに置かれたマグカップを手に取り、ゆっくりと飲もうとした。
「あつっ!」
口にしたミルクの熱さに思わずマグカップから手を離してしまい、カップがテーブルへと落ちてしまう。
「きゃあ!」
そして落ちたカップの飲み口が私の方に向かって倒れたせいで、ミルクが私のパジャマに少しだけかかってしまった。
「大丈夫か!?」
「う、うん。大丈夫、ちょっと熱かったけど」
「ちょっと待ってろ」
お兄ちゃんは慌てて台所へ向かい、
「火傷はしてないか?」
「うん。大丈夫だと思う」
「良かった……とりあえず痛い部分があればそれで冷やしとくんだぞ? あと、身体の濡れた部分はタオルで拭いておくんだ」
そう言うとお兄ちゃんは再び部屋を飛び出して行く。
私はミルクで濡れたパジャマを脱ぎ、濡れた部分を渡されたタオルで拭きながらお兄ちゃんが戻って来るのを待った。
「待たせたな! って、おっと!? わ、わりい。とりあえずこれを着てくれ」
そう言ってお兄ちゃんは私に背を向け、まるでリレーのバトンでも渡すかの様にして、持っていた自分の制服のカッターシャツとジャージのズボンを渡そうとした。
そんなお兄ちゃんを見た私は、どうして私の部屋から服を持って来なかったんだろうと思った。
「ありがとう、お兄ちゃん」
私はお兄ちゃんからカッターシャツとジャージを受け取り、そそくさと着替えを始めた。
そしてお兄ちゃんは私が脱いだパジャマを持つと、素早く洗面所の方へと向かって行った。
「やっぱり大きいなあ」
お兄ちゃんが持って来てくれたカッターシャツとジャージは、どちらもサイズが大き過ぎてダボダボ。しかもカッターシャツの袖なんて長過ぎるから、まるで昔の日本画の掛け軸から出て来た幽霊の手みたいに先が折れ曲がってしまう。
「あれ? ボタンがかけ辛い……」
手元をよく見ると、カッターシャツのボタンが右側に付いていた。
当時の私はこの手のシャツが男性用、女性用でボタンの位置が左右逆だという事を知らなかったから、全部のボタンをかけるのに結構時間がかかってしまった。
「着替え終わったか?」
ようやく私がシャツのボタンをかけ終わると、お兄ちゃんのそんな問い掛けがリビングの外の廊下から聞こえてきた。
「うん、終わったよ。ありがとう、お兄ちゃん」
「そっか。とりあえず俺の毛布を持って来たから、これで身体を包んどけ。俺はちょっとパジャマを手揉み洗いしてから洗濯機にかけて来るからさ」
お兄ちゃんはそう言うと、再び洗面所の方へと向かって行った。
――はあっ……またお兄ちゃんに迷惑をかけちゃった。このままじゃ私、お兄ちゃんに嫌われちゃうかも……。
最近は眠れない事がほぼ毎日で迷惑をかけてるから、それを思うと嫌われるんじゃないかととても怖くなる。私はその怖さからか、自然と涙が出てきていた。
「杏子~、あれくらいなら染みにはならないと思うぜ。良かったな――って、どうした!? どこか痛いのか!?」
「お兄ちゃん……ごめんね、迷惑かけて……」
「どうしたんだよ、急に」
「こんなに迷惑をかける妹は嫌だよね?」
そう言っている間も、涙がポロポロと溢れてくる。
お兄ちゃんはそんな私の横に座り、黙っていつもの様に優しく頭を撫でてくれた。
「……杏子。お前が何で泣いてるのか、何を不安がってるのかは俺にはよく分からないけど、お前は俺の妹だ。だから杏子を嫌ったりなんてしない。俺は何があっても、ずっと杏子のお兄ちゃんだ」
「ホントに?」
「お兄ちゃんが嘘ついた事あるか?」
「あるよ」
私は少しだけ微笑んでからお兄ちゃんにそう言った。
「うっ……まあ、確かにそうだけどさ。これについては嘘じゃねえよ。だから信じろ」
「うん。分かった」
「よしよし」
「えへへっ」
そう返事をすると、お兄ちゃんはまた優しく頭を撫でてくれた。
「そうだ。もう一度牛乳を温めるか。さっきは多分、電子レンジで温めたからいけなかったんだな。今度は鍋でゆっくりと温めよう。杏子はそこに居ていいからな」
「うん」
お兄ちゃんはそう言うと、再び台所へ向かって行った。
私はお兄ちゃんの持って来てくれた毛布に身を包み、ゆっくりとソファーに寝そべる。
「お兄ちゃんの匂いがする……」
その時、私は思い出した。幼い頃、お母さんと一緒に寝ていた時にこうやってお母さんの匂いを感じながら寝ていた事を。
私はそんな大好きなお母さんを失い、いつまた大切な人を失うかもしれないと怯えていた。だから私は、大切な人をつくらないようにしていた。
でも、大切な人ができた。鳴沢龍之介という私のお兄ちゃんだ。
――そっか……私はお兄ちゃんを失うのが怖かったんだ。その怖さと不安があったから、きっと眠れなくなってたんだね……。
「お兄ちゃんの匂い、安心する……」
お兄ちゃんの匂いを感じながら瞳を閉じると、私の意識は徐々にまどろみ、心地良い眠りの波が私を包み込み始めた。
――お兄ちゃんはずっと、私のお兄ちゃんでいてくれる。だからもう、何も怖くない……。
「――んん……」
次に目が覚めると、そこは私のベッドの上だった。とてもぐっすり眠ったからか、身体がとても軽い。
視線の先に見える空色をしたカーテンのちょっとした隙間からは、明るい光が射し込んでいた。
「うん。もう大丈夫」
私は清々しい気分でそう呟く。
そしてその日を境に、私は夜眠れなくなる事がなくなった。
でもそれは、お兄ちゃんのカッターシャツをこっそり貰ってパジャマにしているから。お兄ちゃんにはもちろん、その事は言っていない。恥ずかしいから。
× × × ×
「杏子、杏子」
「ん……」
まどろみから目を開けると、その先にはお兄ちゃんの顔が見えた。
「こんな所で寝てると風邪ひくぞ。寝るなら自分の部屋に戻って寝ろ」
「ん~、お兄ちゃ~ん、私の部屋のベッドまで運んで~。もちろん、お姫様抱っこで」
「何をアホな事を言ってるんだお前は」
「お兄ちゃんが運んでくれなきゃ、私はここで寝ちゃうも~ん」
お兄ちゃんは私に甘い。だから私は、今日もこうやってお兄ちゃんに甘える。
「まったくもう、お前って奴は」
お兄ちゃんは苦笑いを浮かべながら、私をお姫様抱っこで抱え上げてくれた。
「杏子よう、いい加減その甘えん坊をなおさないと恥ずかしいぞ?」
「そうかな?」
「そりゃあそうだろ。今度はお前が高校受験をするんだぜ? そんな奴が兄貴にお姫様抱っこでベッドまで運んでもらうとか、普通にありえんだろう?」
「いいの。私はお兄ちゃんの妹だから」
「やれやれ……。あっ、そういえば杏子、俺の中学時代のカッターシャツ知らないか? 捨てようと思って出してたんだけど」
「ああ、それなら私が代わりに捨てておいたから安心して」
「そうだったんか。ありがとな」
「うん。ふふっ」
もちろん、代わりに捨てたなんて話は嘘。お兄ちゃんのシャツは全部、私が貰っている。
「どうした? 何か面白い事でもあったんか?」
「ううん、何でもないよ。お兄ちゃ~ん」
私はそう言ってお兄ちゃんにガバッと抱き付く。
「おい!? 歩き辛いだろうが!」
「いいの。私はお兄ちゃんの妹だから」
幸せな時間、それはいつか終わってしまうものかもしれない。
でも今は、目の前にある幸せを大切にしよう。この幸せがいつか終わってしまうのなら、終わってしまうその時まで。お兄ちゃんと一緒に。
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