第282話・考える×切っ掛け

 一時的にとは言え命を落としかけた俺がこうして生きているのは、正に奇跡と言えるのかもしれない。しかしその奇跡も、たゆまぬ努力を続けてきた医療関係者達のおかげで成し得た結果なのは間違い無いだろう。

 こうして命の有るありがたみをひしひしと感じながら退院をした俺は、そこから前と変わらない日常へと戻った。

 俺が退院をしてから五日。

 そこには前と変わらない日常が確かにあった。しかし俺にはその日常がどこか違ったものにも感じていた。


「お兄ちゃん、今日も一緒に学園に行こうよ」

「おう。分かった」


 俺が退院してからというもの、杏子は毎日こうして俺と学園へ行く様になった。別にそれ自体は珍しい事ではない。杏子と一緒に学園へ登校する事は何度もあったから。

 しかし今回の様に毎日毎日一緒に登校する事は今までに一度も無かった。たった五日間の事ではあるけど、俺にはそれがとてつもない違和感だったわけだ。

 おそらく杏子は俺が事故に遭ったから、その事で少し過敏になっているところがあるんだと思う。でもそこは、過去に事故で母親を亡くした杏子からすれば重要なところだろうから、今の様にできるだけ一緒に居ようとする気持ちは分からないでもない。

 しかしそんな杏子の何気ない行動に対して違和感を覚えるのは、きっと退院前に『私の恋人になってなってほしいのっ!!』と言われた影響があるのは間違い無いと思う。


「今日は雨が降らなくて良かったよね」

「そうだな。最近は雨続きで洗濯物がやばかったし、ちょうど良かったな」


 ここ最近は梅雨らしく雨が降り続けていたが、今日は珍しくカラッと空は晴れ上がっていた。溜まっていた洗濯物を干すには絶好の日和だ。

 しかしそんな事よりも気になるのは、あの告白を杏子がして以降、特に杏子からその事に関するアプローチの様なものは無く、前と変わらずに至って普通な事だった。俺としてはその方が平和で良いんだろうけど、真剣に告白をしてきた杏子の事を考えると、今の杏子の様子はどうも腑に落ちない。

 俺からあの時の事について話をするべきなのだろうかと考えてもいたけど、それはやはり躊躇ためらわれた。それをすれば自ら大きな墓穴を掘る事にもなり兼ねなかったからだ。

 しかし、このままあの時の事を有耶無耶にするのは気持ち悪いので、色々とあの時の事について聞いてみたいのも事実だった。そしてそんな二律背反的な事を思っていた俺は、未だにその答えを出せずに悩みまくっていた。


× × × ×


 いつもの様に何事も無く終わったその日の夜。

 美月さん宅で一緒に晩ご飯を作って食べようという事になっていた俺と杏子は、材料を持ち寄ってから美月さんや明日香さんと一緒に料理作りをした。そして四人でテーブルを囲んで楽しく談笑をしながら食事をし、その後で片付けをしてからすぐに自宅へと戻るはずだった。

 だが、美月さんが『久しぶりに杏子ちゃんと一緒にお風呂に入りたいです』と言い出した事でそれも叶わず、俺は残された桐生さんの話し相手になっていた。そしてそんな桐生さんと何気ない話をする中、その質問は唐突に俺へと投げかけられた。


「ねえ、鳴沢君。最近何かあった?」

「えっ? どうして?」

「退院してからちょっと浮かない表情をしている事が多くなったから、ちょっと気になってたんだよね」

「うーん……何も無かったと言えば嘘になるかな」

「もしかしてだけど、それって杏子ちゃんの事に関係してる?」

「えっ!? どうして分かるの!?」

「やっぱりか。確信があったわけじゃないけど、そうなのかなーとは思ったんだ。鳴沢君と杏子ちゃんのお互いを見る目がちょっと違ってたから」


 そんな話を聞いた俺は、明日香さんの観察眼にかなり驚かされた。

 自分ではいつもと変わらない様にしてたつもりだったけど、明日香さんから見れば俺達の様子はどこかおかしく感じたんだろう。

 そしてそんな話を切り出された俺は、明日香さんにその事を話してみようと思った。その理由はいくつかある。

 明日香さんならこの話しをしても誰にも言わないだろうし、時に同年代とは思えない考え方やアドバイスをしてくれる事もある。だから俺は、明日香さんにこの話しをして最良の道筋を見つけ出したかったのかもしれない。

 そんな思いもあり、俺は入院していた時に杏子から告白を受けた事や、俺達がどういう経緯で兄妹になったのかなどの話をした。


「なるほどね。そんな事があったんだ。それは確かに悩むのも分かるよ」

「でしょ? 前からお兄ちゃんの事が好きだとか、お兄ちゃんと結婚するんだとか冗談めかして言ってたけど、今回ばかりは本気で言ってるみたいなんだよね」

「ふむ……。でも、二人は義理の兄妹なんだから、結婚とかについては特に問題は無いよね?」

「問題は無いかもしれないけど、世間の目もあるからね」

「それじゃあ、世間の目が無ければ鳴沢君は杏子ちゃんの想いを受け止めるの?」

「えっ?」

「だって、今の鳴沢君が問題にしてるのは、あくまでも世間体の話しでしょ? だったらそれがなければ、杏子ちゃんの想いを受け止めるのに何の問題も無いって事でしょ?」

「いやまあ、そうかもしれないけど……他にも色々とあるでしょ? いくら義理とは言っても、兄妹で付き合ったりとかおかしいと思うでしょ?」

「そうかなあ? むしろ他人同士だった異性が一緒に住む事で相手の色々な事を知って好意を持つなんて、至って自然な事だと思うけどなあ」

「うっ……」


 明日香さんの言葉にぐうの音も出なくなる。それはつまり、俺が彼女の言葉に論破された事を意味する。


「何だか鳴沢君は、杏子ちゃんの告白を断る切っ掛けや理由を探している感じに見えるけど、杏子ちゃんの事が嫌いなの?」

「いや、それは無いよ。杏子は大事な妹だし、嫌いな事は絶対に無い」

「だったら妹としての杏子ちゃんじゃなくて、一人の女の子としてはどうなの? 鳴沢君は杏子ちゃんと一緒に過ごして来て、一度も杏子ちゃんの事を異性として意識した事は無いの?」

「そ、それは……」

「あっ、ごめんね。こんな事は答えにくいよね。でも、そんな鳴沢君に一つだけ私が昔話をしてあげる」

「昔話?」

「うん。私にお兄ちゃんが居る事は知ってると思うけど、私もね、小さな頃は『お兄ちゃんと結婚するんだー』とか言ってたんだ。しかもかなり本気で。だからお兄ちゃんが幼馴染と結婚する事が決まった時には凄く泣いたんだ。私と結婚するはずだったのに――って」

「ははっ。何だか可愛らしいね」

「でしょ? でもね、私は凄く悲しかったんだ。例えお兄ちゃんが結婚をしなくても、実の兄妹では結婚ができないってその時に知ったから。実を言うとね、今でもお兄ちゃんと結婚できるならしたいんだよ? 私は」

「そうなの?」

「うん。それだけお兄ちゃんが魅力的だって事だよ。でもね、現実はそうもいかない。それは分かってる。だけど鳴沢君と杏子ちゃんは違う。決して実現できない事じゃないんだから。もちろん鳴沢君の言う様に、世間体とか周りの見る目を気にするのは大事だと思う。けど、それを気にし過ぎて大事な人の気持ちから目を逸らすのは酷い事だと思うんだよね」


 明日香さんの言葉は俺の心にとてつもなく突き刺さって来た。まるで俺の臆病な気持ちを見透かされているかの様な言葉を次々と口にしたからだ。


「……確かにそうかもしれないね」

「まあ、私にはこれくらいしか言えないけど、もしも鳴沢君に杏子ちゃんを少しでも異性として意識する気持ちがあるなら、真剣に杏子ちゃんの気持ちに向き合ってあげるべきじゃないかな?」

「そうだね……ありがとう、明日香さん。話してみて良かったよ」

「いえいえ、どういたしまして」


 明日香さんはそのお礼の言葉に対し、まるでお姉さんの様な優しい笑顔を浮かべた。

 そして俺は、この時から本気で杏子の気持ちを考えてその答えを出そうと思い始めた。

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