第109話・約束×お願いごと

 いよいよこの地で行う桜花おうか高校総合演劇科の舞台も、17時からの公演を残すのみとなっていた。

 会場の外へ出てみると、未だ太陽が明るく輝きながらその下にあるものを容赦無く照りつけ、アスファルトの道路からは陽炎かげろうが立ち上り、その上にある空間をゆらゆらと歪めている。

 周りからはせみの鳴く声が幾重にも重なって聞こえ、会場の冷房で冷えた身体が太陽に熱せられた空気によってあっと言う間に温まっていく。

 そんな中、両手をグッと空へと伸ばしながら身体を少し後ろへとのけ反らせると、身体の関節部分からはパキパキと小さな音が鳴り、左右に振った首からはゴキッと鈍い音が出る。これって良い事ではないけど、結構気持ちいい。

 そうやって軽く屈伸などをしながら身体を動かしていると、小学生の時に毎日行っていたラジオ体操を思い出す。あの時は毎朝早起きするのがかったるくて仕方なかったけど、こうして高校生になってからその時の事を思い出すと、それすら良い思い出に感じるから不思議だ。

 まあ、あの時は毎日ハンコを押してもらった後に貰えるお菓子目当てではあったけど。お小遣いの少ない小学生にとって、お菓子をタダで貰えるというのは見逃せない。

 だけどその為だけに苦手な早起きさえ出来るんだから、人間てのはどこまでも欲望に対して素直なものだと思えてしまう。

 それにしても、公演の最後を観客席でゆっくりと観覧できる事になったのはラッキーだった。何でも演出家の先生が、急に公演の最後を一番最初のエンディングパターンに戻すと言い出したんだそうだ。

 素人の俺からすれば、そんな事をして大丈夫なのだろうかと思ってしまうけど、舞台ではこういった事は珍しくはないらしい。

 それに元からエンディングは二パターン用意されていたらしく、その練習もしていたらしいから、まったくもって問題は無いとの事だ。

 ちなみにエンディングパターンだが、一回目と二回目の公演では憂さんが演じる女性役が主人公と結ばれるパターンで、次のラスト公演は、雪村さんのやる女性役が主人公と結ばれるパターンらしい。憂さんには悪いが、雪村さんの役がハッピーエンドを迎える舞台をじっくりと見れるのは正直嬉しかった――。




 時も過ぎ去り16時半。

 一度スタッフルームへと戻った俺は、舞台前に仕事の有無を確認しに行ったのだけど、結果としては何も手伝う仕事はなかった。まあ、準備が万全ならそれに越した事はない。


「あっ、龍之介くん。ここに居たんだね」


 仕事の有無を確認してからスタッフルームを出た時、ちょうど雪村さんと遭遇した。


「どうかしたの?」

「うん。龍之介くんが最後の公演を観客席から見れる事になったって、さっき憂先輩に聞いたから。ちゃんと見ててねって言いに来たの」


 ――息を弾ませながら『ちゃんと見ててね』とか、可愛過ぎだろっ!


「OK! 任せておいてよ! 瞬きもせずにじっと見てるからさ!」

「ええっ!? それはちょっと恥ずかしいよ」

「あははっ、でも、雪村さんの事はちゃんと見てるからさ。だから楽しく演じてきてよ」

「うん。ありがとね、龍之介くん」


 そう言ってにこやかな笑顔を見せる。その笑顔は普段見せる笑顔とはまったく違い、自分の目指すものを、自分のやりたい事を全力で楽しんでいる人の笑顔に見えた。

 もちろん楽しい事ばかりではないだろうし、辛い事も沢山あると思う。でもこの笑顔ができるのも、本人がそれだけの努力を積み重ねてきたからだと思える。


「あっ、そろそろ本番の準備をしなきゃ」

「うん。憂さんにも頑張って下さいって伝えておいてね」

「……先輩と随分仲良しになったんだね」


 先程とは違い、何だかご機嫌が悪そうな表情をしている雪村さん。

 仲良くなったのは間違い無いだろうけど、どちらかと言うと、いつの間にか仲良くなっていたと言うのが正しい。


「まあ、憂さんてアグレッシブにコミュニケーションをしてくる人だし、自然にそうなってるって感じなのかな」

「先輩の事は自然に名前で呼んでるもんね……」

「えっ?」

「あっ、ううん。何でもない……それじゃあ、また後でね」


 雪村さんはそう言って劇場の方へと去って行った。

 そう言えば出会ってから一年ちょっとが経つけど、雪村さんを名前で呼んだのって、あの仮想デートの時くらいだったか。

 考えてみると、憂さんと雪村さんが俺と一緒に居た場合、周りに居る第三者から見れば、名前で呼んでいる憂さんの方が付き合いが長いとか、親密度が高いと思われるんだろう。そう考えると、何だか複雑な気分がするから不思議だ。


「そろそろ開場時間か」


 施設内に鳴り響いた開場を告げるアナウンス。

 それを聞いた俺は、とりあえず劇場の出入口へと向かって歩き始めた。劇場の出入口では既に沢山の人が入場を始めていて、俺もその列の最後尾に並んでから劇場へと入る。

 中は開場間もなくだというのに、既に劇場内の前方にある席はほぼ埋まりつつあった。そんな状況の中、俺はどこに座ろうかと辺りを見回す。

 すると前方の左側にある席、そのやや中央寄りの場所にぽつんと一つだけ席が空いているのが見え、俺はそこに向かって歩き始めた。


「あら? あなたはさっきの」


 空いていた席に座ると、左隣に居る人物が声をかけてきた。

 誰だろうと思ってその人物を見ると、例の娘さんを見に来ているという女性だった。


「あっ、どうも」

「舞台のお仕事はいいんですか?」

「はい。ラストの公演は仕事が無いんですよ。だからこうしてお客として舞台を見に来たんです」


 正確に言うと、演出が変わった事で仕事からあぶれただけなんだけど、そんな事を言うとネタバレになるから言えるはずもない。


「そうだったんですね」


 女性はそう言うと、にこっと笑顔を向けた後に持っていたパンフレットへと視線を落とした。

 思わずそのパンフレットへ視線を向けると、キャストのある人物の名前が一つだけ赤ペンで囲まれているのが見えた。


 ――あれって……。


 俺の抱いていた疑問が晴れそうな時、劇場の明かりが消えて暗くなった。それと同時に劇場内に諸注意を告げるアナウンスが再び流れ始める。

 アナウンスが繰り返しで諸注意を告げ終わると、しばらくしてから開幕を告げるブザーが鳴り響き、重たい緞帳どんちょうがゆっくりと上がって行く。

 それを見た俺はとりあえず考えていた事を止め、舞台の方を注視する。

 こうやって観客席から舞台を見るのはやはりおもむきが違い、俺は舞台の開始間もなくからその世界観に惹き込まれ始めていた。

 舞台上で繰り広げられる世界はどこまでも広く感じ、役者の熱演に目を奪われる――。




 楽しい時間があっと言う間に過ぎ去るように、熱中している時間もあっと言う間に過ぎ去ってしまう。

 そして二時間に及ぶ舞台は、いよいよラストシーンへ突入していた。このラストシーンは俺もまだ見た事がないので、どんな風になるのかドキドキものだ。

 そんな舞台上では今まさに、雪村さん演じる役が主人公へと告白をしている。


 ――俺もいつかこんな風に告白されてみたいもんだ……。


 それが淡く儚い夢だとしても、そんな事を夢見るのが人間てものだろう。

 そんな事を思っている内に舞台上では告白シーンが進み、俺はそのシーン注視する。

 舞台上では雪村さんの演じる役の告白が受け入れられ、主人公とのハッピーエンドを迎える。リアルに物事を考えるなら、この後に親友で恋のライバルである相手との問題もあるんだろうけど、そこまでを考えるのは野暮ってものだろう。

 それから間も無くして舞台は終わり、今日最後のカーテンコールを迎えた。俺は舞台で熱演した役者や、それを支えたスタッフに向けて大きな拍手を送る。

 そしてカーテンコールも終了すると、劇場に居た観客が次々に席を立って劇場を出て行く。

 俺の隣に居た女性はまだ余韻に浸っているのか、席に座ったままで緞帳が下りた舞台を見つめていた。


「どうでしたか?」

「……とても良かったです。こうして見に来て良かったです」

「そうですか。それなら良かったです」


 そう言うと女性はスッと席から立ち上がり、ペコリと頭を下げてから劇場の出入口へと向かい始めた。


「娘さんにも、いつか今言った事を伝えてあげて下さい」

「……はい」


 女性は振り返って一言返事をすると、ペコリとお辞儀をしてから会場の外へと向かって行く。

 俺はそんな女性を見送ってからスタッフと合流し、会場に持ち込んだ機材と道具の片付けを始めた。

 来た時に詰め込んでいたダンボール箱に機材や道具を丁寧に入れて封をしていき、それをワゴン車へと詰め込んでいく。

 撤収作業が終わった時にはもう21時を過ぎていて、宿泊所へと戻った俺達は急いで晩御飯を食べてから温泉に入って就寝する事になった。


「――ああ、明日の昼過ぎには帰るから。おう、それじゃあな」


 俺は持っていた携帯の通話を切ってからロビーのソファーへと腰掛ける。杏子への報告も済ませたし、ここでやる俺の仕事はこれで終わりだ。

 やるべき事を終えた俺は、右手に持つ缶コーヒーを飲みながら安堵の溜息を出す。


「龍之介くん、お疲れ様」

「あっ、雪村さんもお疲れ様。寝なくて大丈夫なの? 明日は朝早いんでしょ?」

「そうだけど、どうしてもお礼を言っておきたくて。三日間、本当にありがとう。龍之介くん」


 そう言って丁寧に頭を下げる雪村さん。本当に律儀で礼儀正しい人だ。


「ううん。俺も貴重な体験ができたし、こちらこそありがとう」

「龍之介くんはやっぱり優しいね」


 そう言って微笑みかけてくる雪村さん。そんな彼女を見ていると、何だか妙に照れくさくなってしまう。


「それじゃあ、また明日ね。龍之介くん」

「うん。お休みなさい」


 雪村さんが部屋へ帰るのを見送った後、俺も部屋へと戻って疲れた身体を休めた。


× × × ×


 翌朝の7時頃、俺はみんなが別の公演先へと向かうのを見送っていた。

 みんなの荷物を運搬用のワゴンに詰め込む作業も終わったし、俺のやる事はこれで本当に終了だ。後は帰って杏子にお土産を渡してからのんびりするとしよう。


「次の公演先でも頑張ってね、雪村さん」

「ありがとう。それじゃあ、私は行くね」

「あっ! 雪村さん、ちょっといいかな?」

「何? どうしたの?」


 俺はワゴン車に向かって歩き始めた雪村さんを呼び止めた。肝心な事を一つ忘れていたからだ。


「昨日の約束、覚えてるかな?」

「うん。覚えてるよ」

「あの……こんな時に何だけどさ、早速お願いを聞いてもらってもいいかな?」

「う、うん。いいよ……」

「あ、あのさ、その……雪村さんの名前なんだけど、陽子さんって呼んでもいいかな?」

「えっ……」


 緊張で爆発しそうな心臓の鼓動に耐えながらそう言った。すると雪村さんは、今まで見た事が無い様な唖然とした顔をしていた。


 ――やっぱり変なお願いだったか? もしかして引いてしまったんだろうか……。


「あ、あの、嫌なら別に今までどおりでいいんだけど……」


 雪村さんの表情を見て急に不安になった俺は、その表情と沈黙に耐えられなくなってそう言った。


「あっ、う、ううん! そんな事は無いよ!」

「それじゃあ、大丈夫……なのかな?」

「もちろん!」


 そう言った雪村さんの表情はとても晴れやかで明るかった。引かれてた訳じゃなくて良かったと、ほっと胸をなで下ろす。


「あれー? 何か良い事でもあったのかな? 顔がにやけてるよ、陽子」

「ゆ、憂先輩!?」


 俺の背後からやって来た憂さんが、ニヤニヤしながら陽子さんへ近付いて行く。


「な、何もありませんよ!?」

「本当かなあ~?」


 そう言って俺と陽子さんの顔を交互に覗き込む憂さん。本当にこの人の行動にはブレが無い。


「ほ、本当ですっ! ほら、早く車に乗って下さい!」

「まあ、そういう事にしておきましょう。龍之介くん、またどこかで会おうね!」

「はい。憂さんも残りの公演、頑張って下さい」

「うん、お姉さん頑張るよ! じゃあまたね!」


 憂さんはそう言うと、陽子さんの肩をポンと軽く叩いてからワゴン車へと乗り込んだ。


「もう、先輩ったら……それじゃあ私も行くね」

「うん。またね、よ、陽子さん」

「うん……またね、龍之介くん」


 陽子さんは少し顔を紅く染めると、そのまま走ってワゴン車へと乗り込んだ。

 そして発進する車の窓を開け、こちらに向かって大きく手を振ってくる。俺はその姿が見えなくなるまでその場で手を振り続けた。


「さて……帰るか」


 手を振るその姿が見えなくなった後、俺は自分の手荷物を抱えて駅へと向かう準備をする。

 こうして俺の夏休み最初の三日間は、ドキドキと高鳴った心臓の鼓動と、陽子さん達との思い出と共に過ぎ去った。

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