レコード - The Five Black Keys 4
二三六九年十二月某日
これは何だ、とシスルは問うた。
レコードだ、と俺は答えた。
「レコード? あれだよな、二十世紀辺りに存在した、音声再生媒体」
「そう。物理的に磨耗していくのが、耳に聞こえるだけでなく、目にも見えるのがいいんだとさ」
「……金持ちの感覚は、よくわからんな」
「お前も似たようなもんじゃねえか。基本的に紙じゃないと本読まねえだろ」
「最近は携帯端末でも読むぞ。紙の本は、持ち運びには不便だしな」
だが、「最近は」とわざわざ言っているのだから、紙の方が好きなのは間違いないだろう。俺はそもそも本というか文字の書かれたもの全般が好きじゃないから、このハゲの嗜好はさっぱりわからん。
いつも通り助手席に収まった『何でも屋』シスルは、ミラーシェード越しに、透明な袋に入ったレコードをためつすがめつしていた。ただの黒い板切れに、そんなに興味を惹かれるもんなのだろうか。理解の範疇外にある野郎のつるりとした頭を横目に眺めつつ、念のため釘を刺す。
「壊すなよ」
「善処する」
「不安になる言い方すんな」
こいつが絶妙に不器用なのはわかってんだ。慌てて片手でレコードを奪い取る。荷物を壊された日には、信用問題、つまりは俺の飯の種に関わるのだ。シスルは軽く唇を尖らせたが、すぐに気を取り直して質問を投げかけてくる。
「で、何の曲が入ってるんだ? 旧時代の音源か?」
「つい最近録音されたもんだが、曲自体は旧時代のもんだな。モーリス・ラヴェル『水の戯れ』、だとさ」
「演奏は?」
「カノン・レオーニ」
「いいね。彼の演奏は好きだよ。天才と称されるだけはあるよな」
カノン・レオーニ。
それは、
そもそも、ピアニストという職業自体、塔の上でしか成立しない。確かに町の酒場や劇場にはピアノを弾くことを生業とする奴もいるが、演奏技術や音楽の知識、歴史を正式に学び、ピアニストと名乗って許されるのは塔のピアノ弾きだけと言っていい。
そのような、塔の上のピアニストの役割は、ただ、ピアノを弾くことだけだ。塔の上層に住まう貴族どもの娯楽として、ステージに立つことが仕事。その点では、酒場や劇場のピアノ弾きと何ら変わりはない。ただ、塔にピアニストと認められた時点で生涯の生活が保証され、本当に「ピアノを弾くこと」以外の何も考えずとも生活が成り立つという一点で、単なるピアノ弾きとは根本的に異なる次元の存在だ。
そんな、ピアノを弾くためだけに存在する連中の中でも、一人だけ突出した腕と表現力を持つのが、カノン・レオーニという野郎だ。
シスルは、「いいなあ、どんな演奏なのかな」としきりに俺が脇に避けたレコードを覗き込んでいたが、不意に、顔を上げて言った。
「ただ、私は、昔の方が好きかな」
「……昔?」
思わず問い返してしまった。すると、シスルは不思議そうな顔をして、こちらを見た。当然、分厚いミラーシェードの下の目が、どんな表情をしているのかなんて俺にはわからん。わからないが、声を聞くだけでも「不思議がっている」のを察することは、できる。
「知らないのか? アンタは、何となくこの手の話には詳しいと思ってたんだが」
「いや」
そうじゃない、俺は誰よりもそれをよく知っている。
だが、こいつがそこに言及するとは、夢にも思わなかっただけで。
一瞬の動揺を悟られちゃいないかと不安になり、ただ、動揺が悟られたところで大した問題でもないと思いなおして、心からの感想を吐き出す。
「あんな機械みたいな演奏、つまらねえだろ。俺は、今の方が断然いいと思うが」
「もちろん、現在のミスター・レオーニの演奏は、自由で、伸びやかで、情景が鮮やかに目蓋の裏に浮かぶ素晴らしい演奏だと思う。心に響く音色、と言われればその通りだ」
それでも、と。シスルは、視線を灰色の町並みに移して、淡々と言った。
「かつての、張り詰めた、自分で自分を極限まで律した音色。私は、あの氷のような音色を、何よりも好ましく思ったんだ」
「それは」
言いかけて、口を噤む。シスルの訝しげな音色を受け止めながら、小さく息を吐く。
そう、こいつがあの頃の音をどう解釈しようと、俺には関係のない話だ。氷のような。結構じゃないか。透明で、硬くて、尖った音色。今も耳の奥に響き続けるそれを、どのような言葉で形容することも、自由だ。
――けれど。
少しだけ、ほんの少しだけではあるが。かつて捨て去ったはずの熱を帯びた感情と、指先の痛みを思い出して、ハンドルを握る指に力を篭める。
磨き上げられた真っ白なピアノ。白と黒の鍵盤を前に座る一人の男。呼吸。そして。
どうにも、忘れられないもんだ。覚えていたところで、もはや何一つ意味のない記憶だというのに。俺は今も、あの野郎を殺した日を、忘れられずにいる。
忘れないで、と幼馴染のアリシアは、俺の服の裾を握って何度も叫んでいたけれど。言われるまでもない、忘れたくたって、忘れられないんだ。
一度思い出してしまえば、そう簡単に蓋をすることもできない。その、溢れ出てしまったものを少しでも自分の中から追い出すべく、マネキン人形じみた青白い禿頭を横目に、言葉を、吐き出す。
「なあ、シスル」
「何だ」
「塔の上のピアニストについて、ちょっとした怪談でもしてやろうか」
「怪談?」
「そう。本当にあった怖い話ってやつだ」
シスルは、返事をしなかったが、好奇心をくすぐられているのは音でわかる。顔だけ見てると何も感じていないようにも見えるが、実際には大げさなまでの感受性と好奇心でできているこいつだ。怪談、なんて馬鹿馬鹿しいフレーズを聞いて、興味を持たないはずもない。
だから、俺は返事を待たずに、勝手に話を始める。シスルというよりは、自分自身のために。
「塔のピアニストには、二種類の人種がいる。一つは、才能を見出されて《鳥の塔》に招かれて教育を受ける連中。もう一つは、生まれた時からピアニストになるべく、英才教育を受けて育った連中だ。実のところ、ピアニストと呼ばれる大多数は前者なわけだが、お前が好きなカノン・レオーニは後者になる。
十五年ほど前まで、そうやって招かれた連中の教育に当たっていたのは、クリスティアーノ・レオーニ――カノン・レオーニの父親だ。自身も塔生まれ塔育ちの生粋のピアニストで、かつては、人一倍高いプライドを抱え、塔一番のピアニストを目指して日々その腕を磨いていた。だが、そいつは、言っちまえば努力家だが凡才だった。ガキの頃は『神童』なんてもてはやされたもんだが、いつの間にやら、外から招かれた連中に敵わなくなっちまった。それに気づいたクリスティアーノは、すぐに塔専属のピアニストとして活動することを止めて、後進の育成に専念し始めた。
だが、クリスティアーノは、ピアニストの頂点に立つという目標を諦めたわけじゃなかった。凡才であり、決してその場には到達できない自分の代わりに、息子を、その座に押し上げようと考えたわけだ」
「よくある話じゃないか。それのどこが怪談なんだ」
一度、言葉を切った俺に対し、シスルが呆れ半分の声を上げる。俺は神楽のナビゲーションに従って道を右に折れ、辺りの風景を確かめてから続ける。
「まあ、話はここからだ。クリスティアーノは、最低限、生命維持に必要な行動を除き、常にピアノの前にいることをカノンに強いた。そうして育てられたカノンは、まさしく『弾く機械』だった。複雑な楽譜を一目見ただけで理解し、一つのミスもなく弾くことに関して、カノンの右に出る奴はいなかった。
しかも、クリスティアーノの教育の成果か、カノンは日々ピアニストとして成長を続けていた。一日前までは知りもしなかった技術を、翌日には最初から身についていたかのように弾きこなす。楽譜をそのまま音にしていただけだった演奏が、次の瞬間には一つの大きな流れとして耳の奥を震わせる。そんなカノンがピアニストとして名を売るまでに、そう時間はかからなかった。
だが、そこまで優秀なピアニストでありながら、カノンは人前に姿を現さなかった。クリスティアーノが、それを許さなかった。今もそうだな。カノンのものである、という演奏は、ほとんどが録音されたものとしてしか人の耳には届かない。生演奏ですら、姿を隠すものを間に挟んでいるってんだから、徹底してるよな。
何故、カノンは姿を隠しているのか。その謎は、塔の上のピアニストたちの間ですら、解明されてなかった。
そんなある日、一人のピアニストが、カノンの秘密を解き明かすために、夜の練習室に忍び込んだ。忍び込んだ、という噂だけは、ピアニストたちの間に広まった。だが、それきり、そのピアニストは忽然と姿を消しちまったんだ。
それから、何人ものピアニストが消えていった。実のところ、その前からぽつぽつと消える奴はいたんだが、それは塔に連れてこられた連中が、練習の厳しさに耐え切れず逃げ出したもんだとばかり考えられていて、『消えた』とは認識されていなかった。けれど、カノンの正体を探ろうとした奴が消えてから、カノン、もしくはクリスティアーノが何かしてんじゃねえかって噂が広まっていった。
そうしている間にも、一人、また一人とピアニストが消えていく。怖気づいて、カノンの名前を聞くだけでも震え上がるピアニストもいる中で、とある若いピアニストだけは、カノンの正体を追い求め続けた。
そして、ついにある夜、練習室でピアノを弾くカノンの姿を、目撃した。
――ピアノの前に座っていたのは、人ではなかった。
それは、何人もの人間を無理やりにくっつけたような、肉の塊だった。
酷くねじくれた巨体を持つカノンは、数本の腕で一心不乱にピアノを弾いていた。いや、その化け物は、カノン・レオーニという名前で呼ばれてこそいたが、一人の人間ですらなかった。混ざり合って一つの肉の塊になってはいたが、表面に浮かぶ顔は、一つ一つが消えたピアニストたちの顔をしていたんだ。
そして、化け物の指が奏でる音は、今まで消えたピアニストたちの技術を、そっくりそのまま模倣していた。それに気づいたピアニストは、震えが止まらなかったそうだ。ピアニストをその身体に取り入れて、技術を奪う。そうすることで、化け物は日々進化するピアニスト、カノン・レオーニとして君臨していたと、気づいちまったんだからな。
カノンの正体を知ったピアニストは、慌てて逃げ出して、他のピアニストたちに自分が見たものを語った。そして、あの化け物は何なのか、カノン・レオーニとは何者なのかを、自分たちの師であるクリスティアーノに問いただそうとした。
だが、クリスティアーノが、何を考えていたのかは、結局わからずじまいだった。
何故なら、クリスティアーノは、ピアニストに息子の姿を見られた翌日には、首を吊って死んでいたからだ。遺言によると、自分は何も間違ったことなどしていない、ただ、至高のピアニストをこの手でつくり上げたかっただけだ、とか何とか。まあ、遺言の真偽なんざ、俺の知ったこっちゃないが。
それから、異形の化け物がどうなったのか?
きっと、今もまだ、そこにいるんだろう。『天才』カノン・レオーニとして。
そうして、他のピアニストから奪った指先で、至高の音楽を奏で続けてるんだろうよ。そういう化け物として生みだされちまった以上、それしか知らねえわけだし、そうして生きていくしか道はねえんだから」
それで、話は終わりだった。
シスルは、じっと俺の方を見つめたまま、しばし沈黙していたが、やがてぽつりと問うてきた。
「その話は、本当なのか?」
「まさか。塔の音楽家たちの間で、まさしく『怪談』として語られてる法螺話さ。だが、実際にカノンの姿を見た人間は塔の中でもほとんどいないし、カノンの名が表に出るようになってから、カノンと同年代のピアニストの名前が挙がらないのも、事実だが。ま、どこからどこまでが嘘なのかは、俺の知ったことじゃねえってこった」
シスルは、納得できないとばかりに俺をミラーシェードの下から睨んできた。本当に「睨んで」いることを確かめたわけじゃないが、眉のない眉間に寄せられた皺と、少し音量を上げたCの音から察するに、睨まれていることは間違いないだろう。
ただ、作り話に作り話を重ねはしているが、俺は、この怪談を単なる法螺と笑い飛ばすことはできない。カノン・レオーニは確かに、ピアニストとなるべき連中を食いつぶしてきた「化け物」だった。
その事実を、俺は、一生抱えて生きていくんだろう。決して癒えることのない、指の痛みと一緒に。
何となく居心地の悪さを感じて、傍らのレコードに、一瞬だけ視線を落とす。
カノン・レオーニ。
日々進化する至高の機械であることを強いられ、今、役目を立派に果たしている、本物のピアニスト。奴は、何を思ってピアノの前に座っているのだろう。今の奴は、どんなピアノを弾くのだろう。
もし、許されるのならば、このレコードの中身を聞かせて欲しいとすら、思う。本当にその瞬間が来たら、いつものように耳を塞いでしまうかもしれないが。
その時。
「隼」
黙したまま俺を見つめていたシスルが、不意に、今更な質問を投げかけてきた。
「前から塔の事情に詳しいとは思ってたが、もしかして、アンタも、塔の上のピアニストだったことがあるのか?」
その問いに、俺は、用意してあった言葉で、答える。
「さあ、どうだろうな」
シスルは更に眉間の皺を深めるけれど、別に、誤魔化したくてそう言ったわけじゃない。
かつての俺を『ピアニスト』と称するべきかは、今の俺にもわからない。
――ただ、それだけの、話。
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