第49話
上空の朝の空気は冷たい。コルヴォはもう少し厚着をしてくれば良かったと後悔しながら、深い森の中に十年前と変わらぬ小さな家を見つけて下降した。
「じーさん、生きてる?」
玄関の扉を叩いてみるが家の中からは物音や気配がない。周囲を歩いてみたが窓にはカーテンがぴたりと閉じられており室内は伺えなかった。家の裏にある井戸のつるべと桶は完全に乾いている。水を汲んだ形跡のないことに嫌な予感を覚えた。
「またふらふらと旅でもしているのか?」
失望感と喪失感で無意識に黒髪を掻きむしる。大きく息を吐いて空を仰いだ。
ふとある場所を思い出す。
森を抜けたその場所に彼はいた。しかしいつも隣にいる人の姿はない。
それは彼女が亡くなったことを物語っていた。
コルヴォは大きく羽ばたきをさせ、独り静かに座っている男の背後に足を着いた。
聞こえているはずの音にも彼は振り向かない。
こういう時はどう声をかければ良いのかわからない。重苦しい空気が苦手なコルヴォは思案して俯いた。
「今日はやけに大人しいな」
十年前と変わらぬ口調にほっとする。
「たまにはそういう時もあるさ」
「そうか」
ようやく振り返った端整な顔も十年間と変わらない。けれどそこには立派な角も黒い翼もない。そして金色の瞳も輝きを失っていた。
「爺さん。角と翼はどこかに落としてきたのかい?」
コルヴォの精一杯の軽口にガナフは少し頬を緩めた。
「古代種は魔力が弱まれば角と翼は消える。魔力は魔族の力の源だから、いわゆる老化だな」
コルヴォは、ある気になっていたことを聞いた。
「もし老化以外の外的要因で魔力が弱められたなら、古代種なのに角や翼が出てこない場合もある?」
「ある」
古代種は頷いた。
「その場合は魔力が戻れば元の姿に戻るがな」
やっぱりあいつ呪いでそうなっているのか。
コルヴォは自分の予想がおおよそ当たっていたことを知った。
遮るもののない丘の上を冷たい風が通り抜ける。寒さに身体を縮め、コルヴォはガナフの隣に腰を降ろすと静かに口を開いた。
「ユエさんは、いつ?」
「昨日の朝だ」
ガナフは手に持つ傍えの腕輪を愛しそうに見つめた。それはユエの腕にいつも嵌められていたものであり、同じものがガナフの腕にはまだあった。
この腕輪で魔族と伴侶の契約を交わした者は、命が尽きると亡骸は消滅する。己の定められた寿命を魔族の魔力で引き延ばした代償だと謂われている。
「そっか――もう少し早く来れば良かったな」
あの包み込むような優しい笑顔を思い出し本心が口から零れ出たコルヴォをガナフは顔を顰めて睨んだ。
色気を纏う端整な顔が子供のように口を曲げた。
「あいつの瞳にお前を映したくない」
昔、一度だけ彼女を口説いたことを会うたびに言ってくる。その表情の落差と嫉妬心にいつも苦笑してしまう。
コルヴォは懐かしさを噛みしめ、すぐに表情を戻した。
「そんな時に悪いんだけど――」
頭を掻いて口籠もるコルヴォにガナフは表情を緩めた。
「聞きたいことがあれば聞いてくれ。きっとお前に話せるのもこれが最後だろう」
最後という響きにコルヴォは身体がこわばるのを感じたが、努めて自然に振る舞った。
「鎮めの巫女について何だけど」
「この前教えただろう?」
「この前って、十年も前だけど」
「十年などついこの前だろう」
ガナフの表情は至って真面目だ。記憶力の良さに舌を巻いたが同時に魔族の時間感覚にも驚かされる。
「実は資料が駄目になっちゃって」
肩を竦めるコルヴォにガナフは苦笑した。
「男でも乗り込まれて嫌がらせされたか?」
「何でわかるのさ?」
目を丸くしたコルヴォにガナフは「誰でもわかる」と呆れ顔で答えたが、すぐに表情を戻して真面目な口調で話し始めた。
「『鎮めの巫女』は『破魔』の魔力を持つ人間のことで、女性しかいないこととその魔力から『破魔の巫女』とも呼ばれていた」
「そうだ――破魔だ」
忘れていた記憶が蘇る。
「古代種の暴走――発作とも呼ぶが、あれはいわば『種の呪い』だ。古代種は血が濃くなればなるほど魔力が強くなる傾向があるが、同時におかしくなる者が増えたからな」
「おかしくなるって、力に飲み込まれるってこと?」
顔を顰めたコルヴォにガナフは視線を少し落とした。
「正確には、強すぎる魔力が別人格を作り出す」
口調も態度も豹変したレクスをコルヴォは思い出した。
「別人格は本来の自分じゃ抑えられず『暴走』とか『発作』という形で発露する。けれど破魔の魔力は別人格を打ち消すことが出来る」
「でも巫女がいても暴走した奴もいるって言っていたよね?」
「破魔の力が呪いよりも強くなくてはいけない。巫女によって破魔の魔力に差がある。だから破魔の力が弱く呪いを打ち消せなければ、当然巫女がいても暴走する」
ガナフは言葉を続ける。
「魔族の血が濃くなればなるほど魔力も強くなり、種の呪いも強くなる。けれど反対に破魔の力を持つ巫女は少なくなり、ようやく現れたとしても強くなる呪いを打ち消すほどの力を持たない者ばかりだった」
「何故?」
「詳しくはわからない」
賢者のような古代種は弱々しく頭を振った。
「破魔は人間にとっては弊害であり不都合でしかない。魔術が一切効かない上に呪いを引き寄せる。昔は薬学や医学も今ほど発達していなかったせいもあって、巫女は不幸な怪我で命を落としやすかった。本人や周りからしてみれば災いでしかない」
「怪我は治癒術で治せないのか。それじゃ大変だな」
「破魔の力と同等の魔力を持つ者なら治せるらしいが、そんな同等の力を持つのは、つがいぐらいだろう」
聞いたことのある聞き慣れぬ単語にコルヴォは反応した。
「なぁ、つがいって何だ? 伴侶とは違うのか?」
身を乗り出したコルヴォにガナフは苦笑した。
「今はほとんど使われない。つがいの存在を感じ取れるのは古代種だけだから」
「と言うことは、今の魔族や魔人はつがいに会ってもわからない?」
「古来の魔族の血が成せる技といったところか。まぁ知らない方が幸せなのかもしれないが」
ガナフは寂しそうな笑みを浮かべた。
「魔族にはつがいと呼ばれる運命の相手がいる。けれどこの広い世界でたった一人の相手に出会うのはいくら長寿とはいえ難しい。つがいに会わないまま別の人を愛し伴侶になる者がほとんどだ」
コルヴォの視線に気付き「ユエは俺のつがいだからな」と笑った。
「けれどつがいに出会った瞬間から魔族はつがいのためだけに生きる。まるでつがいと生きるためだけに生きる、といっても過言じゃない」
それが情の深さなのか独占欲なのか、有翼族のキメラであるコルヴォにはわからない。けれどユエの傍にいつもいたガナフと、いつも楽しそうな笑顔で見上げるユエの姿を思い出すと、二人が幸せだったことはわかる。
「そしてつがいを失うと数日後に息絶える」
伴侶が死ぬと魔族はまるで後を追うように命が尽きる。
噂話はあながち嘘ではなかった。そしてその通り、目の前の古代種は愛するつがいを失い、命が尽きようとしていた。
「中にはつがいの死に己を失い、それこそ暴走する奴もいたけどな」
『つがいが死ねばこいつも壊れる』
あの時の、レクスの言葉の意味がようやく理解できた。
「じゃあ何であいつは封印されたんだ?」
コルヴォの独り言をガナフが拾う。
「巫女のいない暴走した魔族は殺されることが多かったが、力が強くて殺せない奴は仕方なく封印したらしい。それに巫女と契約しなければ破魔の力は発揮できず暴走は抑えられない。そばにいるだけでは駄目だ」
「彼女は古代種のつがいだけど巫女じゃないのか」
思考がうまくまとまらず零れた呟きにガナフが言葉を足した。
「種の呪いを持つ古代種のつがいは必ず巫女だ」
「決まっているの?」
「つがいは運命の相手だ。種の呪いは生まれ持った魔力で引き起こされる。対する巫女の破魔も生まれ持った魔力だからな」
その瞬間、冷えた空気が全身を駆け巡る。頭の中がすっきりとし冴え渡る。
今までバラバラになっていた断片が一つにまとまった瞬間だった。
コルヴォが口を開いたと同時に「そう言えば」とガナフが思い出したように言葉を続けた。
「暴走した最後の王に見合う巫女がいなかったので仕方なく封印したらしいとは聞いたが」
「王?」
「王と言っても統治していたわけでなく、力が強かったからそう呼ばれていた一族だ。つがいに名前をつけて貰う一族の習わしがあって、それまでは皆『
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