第百十八話:目覚め

 そこは、今や誰にも使われていない廃倉庫であった。

 物は無く、がらんどうである。

 街より海が近いが、潮の跳ねる音などは一切届かず、世俗と切り離された静謐な様相を呈していた。つまり当然、人気もない。


 出入り口は一つ、幾つか点在する小窓も既に固く閉ざされているのだが、暗いだけの空間というわけでもない。

 老朽化からか屋根板が剥がれており、舞い降りる大きな光の筋が唯一の電灯であった。埃の舞う空気が、射し込む光を吸って漂っている。


『vater……』


 ベローナが、傍にいるグーバを呼んだ。

 困惑と動揺の色濃い目が、銃を構えたまま正面に対峙する拓二を捉え、この危機に対しどうするのかと言葉少なに訴えている。


 しかしグーバは、この膨れ上がる殺気を前に沈着に黙し、やがて静かに口を開いた。


『……この日この時まで、ずっと……私への牙をこうも巧みに隠してきたというわけ、か』

『まさか、怒ってたりでもするのか? 自分の思い通りにならなくて』

『いや……その逆だ。小癪になったではないか、アイカワ・タクジ。喜べ、私が誰かを褒めるなど滅多にないことだぞ。だからこそ残念だがね、クク……』


 拓二の挑発めいた軽口にも、グーバは余裕を崩さない。それどころかむしろ、グーバの方こそ拓二を嘲るようでもあった。


『このままでは、私は殺されてしまうな? だが貴様と同様、私にも私の目的がある。それを見ずして死ぬわけにはいかない』


 想定外の拓二の存在。初めこそ驚いた素振りを見せてはいたが、それっきりだ。


『さて、ではもし貴様が私の立場なら、どうしたらいいと思うかね? このまま貴様に殺されないようにするためには?』

『何の話を……』

『────リュウゲツ・イノリ』


 向けられていた銃口が、ピクリと揺れた。

 それを見たグーバは口元を引き攣らせた冷笑を浮かべ、重ねてこう言った。


。そして、定期的に私からの連絡が無ければ即刻始末するよう指示してあるのだ』


 追い打ちと言わんばかりのその内容に、堪らず拓二が口を開く。


『そんなハッタリ……』

『ハッタリだと思うならそれでもよい、その引き金に指を掛けたまえ』


 ベローナが、ビックリしたように目を瞠りグーバを見た。

 グーバはやはり、皮肉とも何ともつかない笑みを浮かべるのみだ。


「…………」

『だが…………貴様なら分かるだろう?』


 その意味は、拓二には痛いほど理解出来た。

 ムゲンループの住人が────いや、この世界において『真に人を殺す』ためには、ルールが必要であることを。


『私を殺せば、貴様は今日この日、リュウゲツ・イノリを殺せなくなる。次のループに持ち越しだ……悲願の成就とはならんな』


 ────ムゲンループの住人が、時間凍結を厭うムゲンループにとって必要な人材であることは前述した。

 しかしそのことが、祈を守るルールになるというわけではない。

 何故なら、この世界で本当に人を殺せるのはムゲンループの住人のみ。グーバの言葉通りであれば、祈が例え、ムゲンループの住人以外の人間に殺されようとも、ムゲンループにとって損害にはならない。祈は次のループで生き返ることが確定してしまうからだ。

 よって、ムゲンループの住人はムゲンループの住人でしか殺せないとは限らない。彼らはただ、因果に働きかけることが出来るだけだ。


 そう……因果に働きかけることが出来るのは、グーバもまた同じこと。


『だがここで私を見逃せば、リュウゲツ・イノリはまだ死なない。貴様の腕なら彼女をその手で殺し、そして私を亡き者にするチャンスなど、いずれ訪れよう』

「…………」

『選べ。私か、リュウゲツ・イノリか』


 グーバの用意は、拓二の行動をも上回って周到だったようだ。

 彼もまた、ムゲンループを深く理解し、その身を置く者の一人。拓二や祈、マクシミリアン達の思考に届く知恵を有していた。


『……そうやって、アンタは人を操り弄ぶんだな……あの時と同じように』

『……フム?』

『俺には、アンタを殺すだけの理由もちゃんとあるってことさ』


 拓二がそう吐き捨てる。

 同時に深々と溢した一呼吸は、高鳴る鼓動を動かす血潮と込み上げてくる激情がせめぎ合うどろりと熱い吐息だった。

 次に紡ぐ言葉を躊躇っているようとも、理性の上に無遠慮に吹き出しそうな言霊を押さえつけているようとも言えた。


 そして、彼は告げる。

 その次なる言葉を、真実を。冷ややかに、極めて淡々と。



『琴羽を唆して、暁を殺させたのは────本当はアンタなんだろ、グーバ』



 痛いくらいの静寂が、辺りの空気と共に纏わりついた。


『アンタは、こうなるよう仕向けてたんだ。俺のネブリナ……マクシミリアンに対する不信を焚きつけて、自分の手駒にしようと考えた』

『…………』

『……思えばお前は初めて会った時、琴羽を連れて俺の病室に入ってきたんだったな。それだけなら、まだ疑う材料も無かった。……が。その数日前の「あの日」にもお前は居合わせていたと聞いた。まるで、何かを待ち構えているかのように』


 数ヶ月前、祈は言った。『桜季の代わりに琴羽が暁を殺すなんてことはおかしい』と。

 琴羽はムゲンループの住人ではない。つまり、『桜季の代わりに暁を殺す』という因果を成し得ない。


 そう────


『……貴様らの関係性は、チヨカワ・サキの一件から調べさせていた。我が生涯を賭した悲願のため、どんな些事だろうと精緻に、綿密にな』


 グーバは暗に拓二の言葉を認め、澄ましてこう続けた。


『本来の私の専門は精神科学だ。オザキ・コトハの抱く鬱屈は、まさに私の本分であった。言葉は通じずとも、付け入る隙は幾らでもあったよ』


 布石は、既に打たれていたのだ。

 この三月三十一日を為した発端、それは突発的なものではない。不特定多数との浅からぬ因縁、より根深い宿業が横たわっており、その上に三月三十一日という現状は成り立っている。


 イギリス大恐慌……フリーク……グレイシー=オルコット……マクシミリアン……千夜川桜季……暁の死……そして、『D・22』。

 バラバラに起こったはずの出来事が、法則性も無く点在する人物の存在が、今、ここに集結している。

 全ての宿縁が、あらゆる人間の運命が交差して収束して、今日という日の為にある。


 そして寄せ集められたその因果の糸は今、グーバという、たった一人の手の中にある。

 ネブリナという組織から、拓二という個人までの筋書きを掌握していたその常軌を逸した人心手管は、まさに『元凶』である。


『……俺は、自分のことを善人とは思ってない。思ってはいないが……この数ヶ月、ネブリナファミリーの追跡網から俺を逃してくれた恩を忘れる程、落ちぶれてもいない。今日まで俺が五体満足で生きてられたのは、間違いなくお前のおかげだ……例え俺を利用するためだろうと、それは事実だ』


 そしてこのグーバの恐ろしくも残忍な策謀、一切合切を裏で支配するこの魔力の源には、一つの前提が在る。

 それは────


『だがな────お前みたいに人を単なる材料としか思わない奴は、ある意味俺が最も毛嫌いする人種だ……!!』


 そこで遂に堪えられなくなったのか、拓二は荒々しい感情のままに吼えたてた。

 息を弾ませ、全身をわななかせている。口を衝いて迸る思いの丈を迸らせていた。


『テメエは知らねえだろ!! 暁のことを……残された奴が、どう苦しむかを!! そんな奴が暁を殺したなんざ、道理もへったくれもねえ!!』


 拓二が拓二たらしめていた執念は、この目の前の男によってへし曲げられていたのだ。

 桧作夕平と立花暁、彼らに対して感じていた恩は拓二にとっての心の拠り所となり、呪いとなり、彼にとっての『道』となった。


『ジタバタもがく俺の無様は可笑しかったか!? 嗤えたか!? ────俺はちっとも笑えなかったがなァ!!』


 琴羽も、暁も、そして拓二も。

 全て、結局はグーバの掌で弄ばれていたに過ぎなかった。

 暁の親族が多数沈痛に暮れたのも、琴羽が狂的な妄執に囚われてしまったのも、拓二が暁の死に絶望したことも、全て────


『……祈がどうした。今俺の目の前には、お前らしかいない』


 ギラつく眼光を灯し、拓二がトリガーに指を掛けた。ベローナはグーバの白衣に寄り添い服を掴んだ。


 拓二は歯を大きく剥き、敵意を隠そうともしない表情を向けて、


『だから、お前達から先に死ね。グーバ、ベローナ』


 指に力が籠り、引き金が引かれようとした────その時。



 



「────ぁ、っ」


 拓二の肩口から、血飛沫が宙を走った。

 銃ももちろん、拓二の手を離れた。それはそうだろう、銃を握るための手が、腕が……もう、無いのだから。

 拓二の身体は、衝撃のまま、後ろに吹き飛び転がった。簡易的にニーナの髪で作ったウィッグも外れ、拓二の頭髪が露わになった。


 突然の攻撃であった。

 しかしそれは、グーバのものでも、ましてやベローナのものでもなかった。彼らはそれまで、身動きもしていなかった。


『……どうやら、間に合ったようだな』


 グーバは、そんな拓二の様子を見て静かにそう呟くと、嘆息し、上を見上げた。

 吹き曝しと化した、屋根板の破損。


 この廃倉庫に差し込まれていた外の光に、人影が映っている。

 釣られるようにして、地べたに伏した拓二は懸命に『それ』を見上げ、認めた。


 それは異様な、赤黒い影だった。

 滴る赤。風呂上がりのように濡れそぼった全身。


 散弾銃の長い銃身が、その顔を覗かせている。

 そしてもっとも異様であることには、まるでブレスレットでも嵌めるように、両手首にそれぞれ一つずつ通している男二人の頭蓋。


 今しがた拓二の腕をもいだ、その正体がそこに佇んでいる。

 拓二は知っている────『彼女』を。


 グーバはアレを、ビリーと呼ぶ。

 詰まる所────造られた怪物だ。


「……ば……かな……早すぎ、ぁ……っ、だろう?」


 ────突然だが、カーナビの地図には目的地に対する走行距離だけでなく、直線距離というものが表示される。

 この直線距離は当然、公道に沿って移動した際のものではなく、建物や障害物の高低を無視した場合のものである。


 拓二は、計算違いをしていた。

 マクシミリアンの逃げ込んだビルの駐車場は、ここから車でも二十分弱は掛かる計算であった。これはカーナビの走行距離から弾き出された、『正しい』ルートによるものだ。

 しかし往々にして、目的地達するために走行距離では相当な時間が掛かっても、直線距離に換算すると意外と数分と掛からないことがある。


 そう、拓二は計算違いをしていた。

 ここから地下駐車場までは、直線距離にして三キロ程でしかないことを。


 


『……貴様は自分が、本気で世界の中心に立っていると思っていたかね? ならば教えてやる。そんなものは全くの勘違いで、浅はかな了見なのだとな』


 ビリーが、何の苦も無く屋根から降り立った。そして命令待ちとばかりに、グーバの傍に控える。


 拓二は片腕を失いながらも何とか膝を立て、起き上がった。顎を持ち上げて、目の前の相手を睨む。

 流れる血に、力が奪われていく。頭痛とめまいが止まらない。骨まで外気に晒されたのように酷い寒気がする。

 不思議と、痛み自体はそう無かった。あまりに突然のことで身体が追いついていないのだろう。

 呻き声を上げて、ふらつきながら立ち上がる拓二。


 そんな中、拓二の思考だけは嫌にクリアだった。

 分かっている。この場の形勢は逆転した。見え見えのグーバの時間稼ぎに、まんまと乗せられた。


 殺される。このままでは────


『いいぞ。始末しろビリー』

「……俺、は……俺は……クソ」


 ────嗚呼、ヤバイ。遠い。ビリーが、あいつらがどんどん遠巻いていく。

 ────カポエィラ、システマ……二十一フィートまで距離を……駄目だ、もう、間に合う距離じゃない。

 ────他に方法は、靴投げ、いや利き腕が無いのにどうやって。そんな、嘘だ、まさか。

 ────まさか、俺は、死ぬのか? こんなところで?


 銃口が、拓二に向けられた。しっかりとその射線は拓二を捉えた。


 ────こんな、簡単に。俺は……いやだ。待て、待ってくれ。

 ────俺は、まだ、死────


 拓二の中に死がよぎった。

 その視界が、暗転した。



◆◆◆



 ────まったく、世話が焼けるなあキミは。


 声が、掛けられた。


 ────『絶対にお前のようにはならない』でしょ? 私を殺しておいてそんなザマじゃあ、暁ちゃんも浮かばれないよ?


 響く声音は、どこまでも澄んでいて。


 何者だと思った。

 何故なのかと思った。


 しかしそれ以上に……綺麗だ、と思った。


 ────……ま、いいや。このままじゃ私もつまらないし。出来る限り、『お膳立て』はしてあげたから。


 この声を、俺は知っている。

 しかし……やはり、これは幻聴か?

 それもこんな時に、またこんな声が聞こえるなんて……やはり俺は、とうとう死んだのか?



 ────だから、せいぜい頑張ってね。



 俺、は────



◆◆◆



 

 それが、拓二の率直な感じ方だった。


 しかし、それがおかしい感覚であることを、拓二は理解出来ていた。

 初速にして400m/s程とされる弾丸は、音よりも速いはずであり、音が聞こえたということは、既に撃たれたということになるはずだ。


 いや、これは違うのか。

 ────目の前の光景こそが、置き去りにされているのか。


 拓二の視界は弛み、歪んだ。しかし血の流し過ぎというわけでは無かった。

 身体の気だるさが、体重ごと消えたようだった。違和感が、遅れてやってくる。


 しかし、頭が、身体が、本能が全てを理解する。

 。いや違う、止まっているのだろうか。

 例えるのならそれは、まるで目に映るもの全ての時間が、音もなく静止しているかのようだ。


 すっと、足が動いた。動けた。

 向かってくるであろう弾丸を避けるために。当然すべきことを、ほとんど無意識的に。


 元の速さを取り戻した散弾は、拓二の横を通り抜け、そして。

 放たれた凶弾の矛先が拓二から外れたちょうどその時、時間が元の速度を取り戻した。


「…………」

『……まさか。あり得ない、


 グーバの表情が、ここにきて初めて驚愕に歪んでいた。


 それはまるで、喧嘩の拳骨でも躱す時のように。

 それはまるで、視界外から横切る自転車を後ろに避ける時のように。


「……そうだ……俺、は────」


 ごく当たり前のことのように一拍子先の時間を読んだかのような、かの動き。



 



「────『私』は……まだ負けるわけにはいかない……!!」


 篝火のように宿った眼光が、薄闇の中で爛々と瞬いた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る