第九十九話:音楽祭・その五

『……ふふ、音楽祭にはちゃんと間に合ったみたいね?』


 遡ること、前日の夜遅く。あるいは、文化祭初日の日の出前頃。

 じきに朝ぼらけを拝もうとする高級ホテルのその一室で、弁えないお喋りの声があった。


 クスクスと鈴を転がすような楽しそうな声音で、その声は言った。


『まるで女の子みたいに可愛くて綺麗だったよ、相川くん。化粧、上手だね』

「……簡単な女装は、ちょっと前にやったからな」


 拓二は、その女の声と比べて素っ気なく冷めた口調で返す。彼は自前の化粧をすっかり落としきった顔を、腰を下ろしているドレッサーの鏡に映した。

 ブラックライトの光にほんのりと照らされたその肌は、より透明感が増してきめ細やかになっただろうか。一方、薄い隈で落ち窪んだ目は、鋭く青白い眼光を灯しているように見える。


 そんな彼は、健やかな寝息で揺れるベッドの方を鏡越しに見やってから、


「あとは……メリーのおかげだ。あいつ、化粧に凝ってるらしいからな。アイグロスのやり方も知らない俺に、色々教えてくれたよ」

『ああ、メリーちゃんね……可愛い妹に比べて自分は、って引け目があるのね、きっと。少しでも見目が良くなれば、姉妹並んでも不細工な姉と謗られずに済むもの。自分のため、それと妹さんのためにね』


 健気ないい子じゃない、と言い置いてから、『彼女』はその口角に浮かぶ笑みを手で潜めるようにして、拓二を見た。


『まあ、今は別の理由もあるのかな? ねえ色男くん?』

「…………」


 拓二はやや目を細め、じろりと瞳で射抜く。

 対する『彼女』は、この三白眼で睨まれても堪えた様子はなくけろりと素知らぬ顔だ。


 しばらくの沈黙を挟んで、やがて辛抱たまらなくなったとばかりに深々と息を吐き、拓二は声を発した。


「なあ。?」

『…………』

「ずっと……俺に付きまとって。ついには俺に話し掛けてくる始末だ。本当は、お前は『あの日』死にぞこなって今もどこかで生きているのか? それともこれも、ムゲンループの現象しわざって言うのかよ」


『彼女』は、何を考えているか分からない笑みを見せたまま表情を変えない。


『そんなの、分かってるくせに。。住人である君の手によって。私の存在がムゲンループに全く関係しないとは言わないけど、ムゲンループでももう私は蘇らない』


 その身を形の無い幻覚にやつしても、自信みなぎる朗々とした語り口は健在か。

 そんな内心の自嘲気味な皮肉を見抜いてか、幻覚は一つ頷いてから話し続ける。


『今いる私は、言うなら君の持つ夢よりも曖昧な記憶と、無意識が融合して一時的に独立したもの。君の心の中に今も息づいてる、私との過去の延長。一種のドッペルゲンガーを見てるようなもので……具体的には自己像幻視オートスコピーって言うんだけど、まあそんな知っても薬にもならないことはどうでもいいとして……でもね、ここで一番面白いのは、。もし「千夜川桜季」ならああ言うだろう、こうするだろうっていう、一種の脳内会議おままごとをしてるって言えばいいかな?』


 拓二は、それを聞いて思う。


 ────ああ、確かに、こいつはこんな風だった。

 ────あまりに可笑しな話だが、遂に狂ったような話だが。

 ────そう、死ぬ前のこいつも、こんな風に全てを見透かしたようにして誰も彼もを宥めすかし、見定めながら活き活きと説き諭すのだ。



『そして、そうなった理由は────相川くん自身が心のどこかで「千夜川桜季」という存在に囚われてるからよ』



「…………」

『だからこそ今回だって、私になろうなんて考えついた……そうでしょう?』


 そう最後に言い回し、『千夜川桜季』の具現は拓二の答えを聞くまでじっと凝視を浴びせた。


「……ファンタジーここに極まれり、だな」


 いつの間にやら目を閉じ、眉間にしわを寄せてしばらく聞いていた拓二は、途方もないような声を漏らした。


「当てつけみたいに、ここ最近俺の周りじゃ妙なことばかり起こり出す。お前の事や俺の身体そのものの変化もそう、それに結局はあのガキの言葉通り、予報じゃ明日からしばらくは雨続きだって言うじゃないか」

『…………』


 ニコニコと、『彼女』は薄く微笑んだまま何も言わなかった。

 その独り言を聞き遂げてから、しかし何も聞かなかったかのようにかぶりを振って、話を変えた。


『でもまさか私も、所詮相川くんの寂しい寂しいオナニーの中とはいえ、こうして「生きて」られるとは思わなかったな』

「……お前、そんなキャラだったか?」

『あら、せっかく幽霊もどきの身になったんだし、もっと下品な隠語かましてもいいけど』

「……誰が得するんだ、それ」


 そう言うと、何かツボだったらしく、初めは歯間の擦れる押し殺した音だったのが、徐々に口を開き、肩を揺らし腹を抱えて、上擦った笑い声を狂ったように吐き出し始めた。


 その笑い声は、拓二の耳朶にのみ響く。

 死んだはず人間のその声が脳裏に届く狂気……気違え……そう、キチガイのキの字を、彼の頭は呑み込みつつある。


 気が済んだようで、間も無くその大笑いは消え入った。


『……明日の音楽祭、頑張ってね。楽しみにしてるよ』


 そして何事もなかったかのように、『彼女』は拓二を見据え、憐れむような微笑を浮かばせた。


『怖がらなくても大丈夫、幻覚である私は君に何もしないし出来ないよ。君の脳髄から私が消えるまで、たまに君とお喋りをするだけ。君を見てるだけ』

「…………」

『ね?』


 何か言い返そうと口を開いた拓二であったが、その時。


『ふわ……あ〜あ……ンン、タクジィ……?』


 後方から、布擦れの音とともに、そんな呂律の回っていない声で呼ばれた。

 拓二は驚くこともなく、部屋唯一のダブルベッドに潜り込んでいる少女に向けて話しかけた。


『ああメリー、起こしたか?』

『ん〜……アンタ、うるさいんだもの……誰と話してんの?』


 紛れもなく起きたばかりのようで、非難の声にいつもの張りがなく、動作の一つ一つに色濃い眠気がはっきり残っていた。

 拓二をじとりと睨むために起こしたその豊かな半裸は、被っている布団からほとんどはだけてしまっているのだが、羞恥を覚える程に意識がハッキリしてはいないらしかった。


『……いや、何でもない。独り言だ』

『なぁによ、気味悪いわね』

『いいから寝てろ……明日がしんどくなるぞ』

『はぁい……ププ。アンタ、お父さんみたい』

『とっとと寝ろ』


 ワアこわーい、と起き抜けのフワフワした声音で言うと、眠気のままに布団の中へばたりと倒れ伏してしまった。


 拓二は、辺りを見渡す。

 視界のどこにも、ドレッサーの鏡の中にも、先程まで対話していたはずのその姿はない。拓二をあざ笑うように忽然といなくなってしまった。


 いや、『見えなくなってしまった』、と言うべきか。


「……怖くなんざ無いさ」


 誰も聞いてはいないと知った上で、拓二は自分に言い聞かせるように静かにこう答えるのだった。


「────誰も、俺のことを止められやしない」



◆◆◆



 拓二の登場に、場が激しく静かに当惑する中。

 柳月祈は、今更になって全ての真意に気付く自分の頭の呑気さ、愚鈍さに眩暈さえしそうになっていた。


 楽観をしていたわけではない。何があろうとも、全てを受け入れる心構えはあった。


 しかし────いや、だからこそ祈は気付くべきだった。彼女だけは、もっと早く気付いて然るべきだった。

 この体育館にひしめく群衆の中────

 


 中等部の後輩や同級生、クラスメイト、高等部の先輩、担任の教師……校長に至るまで。

 偶然にしてはあまりに多過ぎる。こんなどこにでもあるような学校の催しに、別の学校関係者がこれだけの数で訪れるなど。


 ────


 そして、彼女の目は次にある姿を捉える。

 因縁、もしくは運命に導かれたように、この瞬間を見に来た『彼ら』を。


「そんな……」

 

 祈は、かつて生前の『彼女』との親交から、その顔を見知っていた。

 ────千夜川桜季の、実の父母。その存在を、一度見たものを忘れないその目は認めた。


 そして、本当に遅ればせながら悟る。

 拓二の狙い、そして練り込まれたその手段とは────



◆◆◆



 いのりは、もう全て気付いた頃だろうか。

 夕平や暁は、俺の姿を見ているだろうか。


 どうだ、驚いただろう。ここからでは、その顔が見られないのが残念だ。


 今の俺は、『千夜川桜季』そのものだ。

 この音楽祭までの時間、何も女と油を売っていたわけでもない。

 やっていることは何の変哲のない、文化祭らしい男の女装であるが、それは物真似などというチャチで不謹慎なものではない、完璧な『千夜川桜季』を作り上げるためのもの。

『千夜川桜季』の幻影が目の前に迫るなら、逆に『千夜川桜季』になればいい。


 心のどこかで『千夜川桜季』に囚われているというのなら、むしろそれは、『千夜川桜季』になれる素養があると言うのと同義。


 ────ならば俺は、全ての過去因縁との訣別のために、敢えて『千夜川桜季』になる。

『千夜川桜季』のことなど気にしてないと、それもただの手段の一つに過ぎないと証明するために。


 これで後は、夕平と暁に勝負で勝てば、今度こそ残り火のような執着を所詮は色褪せた雑多の記憶の一つと切り捨て、忘れ……そうしてようやく俺は、前へと進める。


 この時のための準備に、様々時間を費やしていたのだ。


「────僕には、今でも忘れられない人がいます」


 俺の言葉を、今ここを訪れ、聞いているであろう連中に投げかける。特に今日ここにいる清上の生徒、父兄及び教師達に向けて。


 彼らがここにいるのはもちろん偶然ではない。

 PTA


 清上学園の関係者で、桜季を知らない者はいない。

 それにしても、集まったその人数は俺の思っていた以上だったが……千夜川桜季の人望は今なお健在────いや謎のまま行方を途絶えさせた桜季は、今この場においてもはや、俺の一助も含めて一種の神格化を遂げているのかもしれない。


 皮肉な話だ。だが、もはやそんなことはどうでもいい。それが俺に好都合であるならなおのこと。


「この場に立つと決めたのも、個人的な理由で恐縮ですが────……」


 タネを明かせば、こうも単純明快。しかし、タネはそれだけではない。


 彼らは間違いなく、俺に票を入れる。

 何故なら彼らは────


 ────数年前に開催された、全日本学生音楽コンクール、高校生の部の声楽部門。

 大学生の部本選の歴々にも劣らない、一人の少女の歌唱が、聴く者全てを凌駕しその第一位を攫った。


 彼女は、それまで声楽分野において一切の経歴や訓練を有していないだけでなく、今回の参加理由も、『いい声だと友達に言われたから』だと、権威ある賞状を片手に訳なくそう話し、記者評論家共々を閉口させた。

 傲岸不遜とも思える彼女の話し振りであったが、しかし事実、その実力はそれに足る、何の文句も無い確かなものであった。


 ────


「思い出深く、語るには言葉が尽くせない彼女へ、この歌を送ります」


 そう、俺がやるのは、その時のコピーだ。選曲も、その時の桜季の姿も、全て瓜二つに似せた、完璧な偽物になる。


 俺は、勝つためならどんな下衆にでもなれる。残された者の心を手練手管で操るし、桜季だろうと利用してやる。


「────どうぞ、聞いてください。『いとしい絆よ』」


 勝つことが、俺の『すべて』だ。



◆◆◆



『いとしい絆よ』

作曲:フランチェスコ=ガスパリーニ



 ────Caro laccio,dolce nodo,

(いとしい絆よ、甘美な結び目よ)



 ────che legasti il mio pensier,

(私の想いを縛り付けている)



 ────so ch’io peno e pur ne godo;

(私は知っている、自分が苦しんでいることと、そのために楽しんでいること、)



 ────son contento e prigionier.

(満ち足りた気分でありながら、捕らわれの身であることを)



◆◆◆



 ────この音楽祭にも、さまざまなドラマがある。


 例えば、それぞれの部活動を背負って今日を迎えた者も、例えば高校生活の思い出として出場した者も、その動機は程度も種類も一人一人異なるだろう。

 それが敬虔な感情から、もしくは勝手な理屈から来るものだろうと、ぶつかり合う剥き身の感情は胸を打ち、心を揺さぶる。楽器を使おうが歌を歌おうが、そこに違いはない。


 そういった彼らの想いを汲み取ることを、人は一言に感動と呼び、心の共鳴だとか反応作用であるとか解析するのだ。


 また、それは観る者からしても同じことが言える。


 彼らの演技・演奏を目で見て感じて頭で思ったその体感は、想像よりも受けた刺激で鮮やかに心に投影される。

 そして自分がこうも感情的であることに意外を覚え、この時間だけは、しばらくしてからこの時のことを冷静に振り返るであろう野暮な自分が、口惜しいと思うのだ。


 そうした束の間のセンチな相互の感情の行き来によって、この音楽祭は成り立つ。


 そして、そういった意味で相川拓二の演目は────『完成』されていた。

 深く濃く、情感的に自らを披露する彼には、模倣パフォーマンスの技巧もさながら、それ以上に鬼気迫るような『凄み』があった。


 思い入れ、好奇、耽美、情熱、魅惑、執着、畏怖……。

 たった数分の歌唱を遂げた拓二に、皆は何を思ったことだろう。何を感じ取ったことだろう。

 どちらにせよそれは、観る者それぞれの胸に、記憶に衝撃として焼き付いた。

 口をあんぐりさせ、腕を忘れてだらりとぶら下げ、瞳をしかと括目させ、唾を飲み、呼吸すら捨て置き、今ある圧倒的光景に脳を痺れさせていた。


 行方不明である少女を模倣し、まるで死者のためのように血の繋がりさえも無い赤の他人が歌を贈るなど、何たる不遜。もしくは残された者に対して不謹慎とも、彼女への冒涜ともとれる内容だろう。

 あるいは『完成』されてなければ、批難轟々も当然の流れであったかもしれない。


 しかし────そういう言葉が出せる余裕は、この内容を聴くまでであった。


 何故か?


 

 彼らが知る『千夜川桜季』が、そこに再現されていたからだ。

 そのビブラートを震わせる歌声から仕草まで、まるで降霊でも施したかのように何一つとして完璧だったからだ。

 彼らが千夜川桜季に対して感じていた雰囲気や感情を、今この時だけ、彼女を模倣する相川拓二に対しても感じられたからだ。



 ────そう、彼ら自身が心からそう認めてしまったからだ。



 言えずに胸に秘めた言葉の数々で。流れる涙で。

 あの千夜川桜季の模倣に足ると、許してしまったからだ。


 まさに奇跡とも呼ぶべき所業によって、拓二は、彼らの持ち得た意見を真っ向から叩き潰してみせのだ。

 つまりは、そうした圧巻を以てして、拓二の存在はこうも大々的に迎え入れられた。


『────ありがとうございました。次で、最後です』


 場内全体が、その言葉にハッと意識を取り戻した風に引き締まった。『千夜川桜季』のその声で『最後』と言うと、言葉通りこれが最後になってしまうように感じられたので。

 そんな心情を知ってか知らずか、舞台の上のあの姿は、静かに居住まいを正してドレススカートの裾を両手で広げ、恭しく頭を垂れた。


『「私」が最後にあのコンクールで歌った曲は、オペラ「アリアンナ」の独唱曲アリア、「マリアンナの嘆き」────』


 ────結果を前述させてもらうならば、この演目に、一度として拍手は起こらなかった。

 劇や部活風景の実演、落語、バンド演奏などそれぞれの想いで工夫をこしらえた様々な発表が今までにあったが、こんなことは初めてだった。


 その幕が下りた後も、皆一様に名残を噛みしめるかのように、音楽祭最後のトリを務める吹奏楽部・音楽部の出番が来てもそのざわつき声を伏していた。

 たった数分の出来事に場を掌握された後に始まった、その合同演奏の様子がどんなものだったかなど、もはや語るまでもない。


『────課題曲名は、「私を死なせて」』


『千夜川桜季』の歌声が、最後に響いた。



◆◆◆



『私を死なせて』

作曲:クラウディオ・モンテヴェルディ



 ────Lasciatemi morire!

(私を死なせて。)



 ────E che volete

(これほど過酷な運命の中に在り)



 ────che mi conforte

(これほど大きな苦しみの中にいる私が)



 ────in così dura sorte,

(何によって)



 ────in così gran martire?

(慰められるのでしょうか。)






 ────Lasciatemi morire!

(私を死なせて。 )


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