第四十九話:風邪

「……うぅ~む、くそっ……」


 季節は七月に入り、残春の候、軽暑の候、青葉若葉のみぎりなどなど呼ばれる今日この頃。いかがお過ごしのことでしょうか。


 ある朝、目が覚めると俺は――――どうやら風邪を引いてしまったようです。


「ぐ、うぅ……ごほっ」


 いや、予想外だ。

 身体は熱っぽく、頭は重い。その上だるい。

 関節はあちこち痛むし――――それ以上に、イギリスで怪我した部位が泣きなくなる程辛い。


 完全に風邪だ。病院に行かなくても熱を測らなくても分かる。

 ムゲンループの住人でも、所詮は人間。風邪くらい引くものだ。

 が、本当に予想外だ。ここしばらくは引いてなかったから、考えてもなかった。


 しかし、それにしたって辛い。これほどの風邪を引いたのは何時ぶりだろうか。

 誰もいない家の中に一人、寝込んでいると色々が億劫で仕方ない。


 おそらくは、被弾した銃創から入り込んだ風邪だろう。

 そこだけが燃えるように熱く、身体の芯は真冬の寒空に放り出されたように底冷えしていた。


「ふう、はあっ……水……」


 喉がカラカラだ。

 そばに転がっているペットボトルの水をあおり、泥のように突っ伏す。

 今頃、一時間目の授業が始まっている頃か。


 ……精々頑張ってくれ。特に夕平。


「てか俺……休んでばっか、だなあ……」


 まあ今更、出席日数なんて気にしてさえいないが……。


「はあ、しんど……げほっげほっ」


 身体を動かそうと考えるだけで気持ち悪い。

 それでもなんとかスマホを手に取り(新しく買った新品)、少し操作する。

 へるぷみー、と。自分のライフを生け贄に、看病人を特殊召還。アドバンスではない、生け贄召還世代だ。


「後は……頼ん、ます……がくっ」


 それも間もなく、力尽きたように、朦朧とした意識が音もなく閉じた。



◆◆◆



「やっぱ相川って今日休みか……」

「うん、そうみたい」 


 昼休みになって、夕平と暁がいつものように席を並べて弁当を広げていた。

 話題に上がるのは、今日風邪で休みになっている


「朝電話してみたら、通話中だったんだけど……それっきり繋がらなくなるし。寝てるのかな? いのりちゃんも知らないって言ってたし……」

「な、ずる休みか本当か、どっちだと思う?」

「いやいや、アンタじゃないんだから。相川くんが仮病なんてそんな――――」

「ホントか? 身体鍛えるために休んだり、いきなり一週間外国行ったりする奴だぞ?」

「う、ううーん……」


 つまんだウィンナーを口に運び、行儀悪く箸を指で弄りながら、夕平が話を続ける。


「見に行っても家にいないことはしょっちゅうだからなー、またいつもと同じ感じじゃね?」

「でももし本当に熱とかだったら……」


 ピタッと二人の食指が止まり、揃って腕組みして彼らは悩み始めた。


「「うう~ん……」」


 鏡写しのように、ほぼ同時にそのような動作をしたことにも二人は気付くことなく、暁はこう話した。


「千夜川先輩に相談してみよっか?」

「え……何で?」

「ほら、あの人何でも知ってる感じするから……」

 

 出会って一ヶ月程だが、既に二人にも、普段からのやりとりで桜季から常人離れした雰囲気は感じ取れていた。


 例えば、ある日、彼女と一緒に歩道を歩いていた夕平が、ふと呟いた。

 それは子供のような不意に生まれた疑問で、ポツリと『車って、何で左通行なんだろうな』と口に出していた。


 桜季は、当然のように『一説には、中性時代のお侍さんが、お互いの鞘と鞘がぶつかって諍いが起こらないように、刀を左側に差していたことが起こりらしいよ。一般交通の左側通行が公式になったのは、一八七八年に同じく左側通行を取り入れていたイギリスから鉄道システムを導入した時で、法律になったのは――――』と、非常に丁寧にその蘊蓄を語ってみせた。

 その時は、夕平が感動して『解説のお姉さんだ!!』とはしゃいでいたが。


 またある日、放課後にサッカーの人手が足りないと、夕平が女子三人組を呼んで男友達と混じって遊ぶことになった。

 運動が苦手な暁はボールを蹴る度にいちいち転び、いのりはと言えば、ボールに両足で乗ってバランスを取る遊びに夢中で、とても使えたものじゃなかった。


 そこまではいい。

 が、問題は桜季の方で、そこにたまたまいたサッカー部の推薦入学した男友達の一人を、プロ顔負けの腕前で何度も抜き去り、手玉にとっていたのだ。


 鋭いトラップでその彼を翻弄する度に、他の面子が感嘆の声をあげ、桜季と一緒になったチームはその日負けなしだった。そのサッカー部期待のエースは、三日間寝込んだという。


 何かを尋ねたら答えられないということはなく。

 何かをやらせたら全て優秀。


 彼女が導いたその答えは常に正しく。

 有する知識はまるで底なしで、たぐいまれなる洞察力で何もかも見透かされた。


 何気ない会話の節々で、ひけらかすようなことをせずとも滲み出る佇まいから、何時しか二人の中で彼女は『何でも出来る超凄いお姉さん』か『21世紀から来た某猫型ロボットチヨえもん』という認識で通っていたのだった。


「なあるほど、先輩なら何か分かるかもな」


 他の学校の生徒のことなど普通、知るよしもないことのはずなのだが……夕平は納得したように相槌を打ち、ケータイから電話を掛けた。


「え、今から? 時間大丈夫?」

「だいじょぶだいじょぶ、前にあっちから電話掛けてきたから」

「そうなの? 何の話?」

「別に、特に何でもない世間話。あの人とはよく話し込んだりすること多くてさー」

「ふぅーん……」


 三度のコール音の後、桜季の声が通話口から聞こえてきた。


「……あ、もしもし? 先輩、今大丈夫っすか?」

『もしもし? どうしたの夕平くん、大丈夫だけど……』


 夕平は拓二が学校を休んだこと、たまにずる休みすることもあるため看病するべきかどうかを桜季に話した。

 桜季には唐突なことだった上、言わば知ったこっちゃないのだが、彼女は割りと大真面目に考え込んでいる様子だった。

 

『ふぅーむ……無断欠席かあ……』


 少しだけ時間をとった後、向こうの声が尋ねかける。


『今まで休んだ時って、君達二人に一言も言わずに休んでた?』

「へ?」


 どういう意味の質問か図り切れず、夕平が間抜けな声をあげると、電話越しから小さく吹き出したような笑い声が聞こえた。


『いや、ごめんごめん……えっとね、これまで彼が休んでいた時って、君達にはちゃんと事情を伝えてたんじゃないかって。それが嘘であれ本当であれ。ほら、こないだ一週間近くいなかった時だって……』

「ああ……そう言えば」


 一週間の欠席――――拓二が外国の親戚の見舞いに行ったという期間。

 それを知ったのは、担任からの連絡事項からではなく、祈からの言伝てというものからだった。……もっとも、その話も祈が考慮した都合のいい誤魔化しなのだが。

 夕平も暁も、それで拓二がしばらくいないことを知ったのだ。


 また、いつの日か拓二がカポエィラの訓練中サボっていた時も、学校に風邪で休むことを伝えていたらしい。


 そう思うと、拓二は休む時は休むと誰かしらに伝えていたのだ。

 しかし、今回は――――今回『だけ』は無断欠席。


「じゃあ……本当に?」

『何か事情があって、誰かに伝えるほどの余裕がないのかもしれないよ。……相川くんは夕平くんと立花ちゃんをいつも気にかけてるからね。二人には何かしら伝えるんじゃないかな』


 桜季が言うことは、百パーセントその通り。

 その拓二はただいま絶賛ぶっ倒れ中である。


『うーん、そうだね……夕平くん、相川くんの家って分かる?』

「え? あー、そう言えば……あ、でもいのりちゃんは知ってるんじゃね?」

『そっか、オッケー』


 そして、桜季はこう続けた。


『それじゃ放課後に、どこか集まろっか』

「へ?」


 夕平はきょとんとした。


「え、何で?」

『何でってそりゃ、みんなでお見舞いに行くからに決まってるじゃない。……行かないの?』

「あ、あーそっか。おう、そうだよな」

『ふふっ、変な夕平くん』 


 夕平が当惑げに頭を掻き、くすくすという笑い声が電話口から漏れた。


『それに……ちょっと相川くんには個人的にお話があるし、ね』


 そう言って、桜季はまた小さく息を吐くようにして笑った。



◆◆◆



「拓二くん、卵がゆよ。お加減の方はどう?」

「はぁ、どうも……ごほっ」


 午後一時前、俺が呼んだ助っ人――――大宮さんに、家まで来てもらっていた。

 彼女は俺の様子を見た途端、血相を変えて色々俺のために動いてくれた。俺の着替えと掛け布団の取り替え、風邪薬や熱冷まシートを買いに行ってくれたりと、手際のいい慣れた看病のおかげで、大分楽になった。


「あらあら、無理はダメよ! ほら、寝てて寝てて」 

「す、すんませ――――げほっごほっ」


 しかしマシになったとはいえ、咳が止まらない。


「私がちゃんと食べさせてあげるから、じっとしてなさい。ね?」

「はい……」

「ちゃんと温く作ってあるから……はい、あーん」


 スプーンで掬われたおかゆを口に運ばれる。どことなく、食べさせようとしている大宮さんは嬉しそうだ。

 俺はそれを噛み潰すことなく、胃に流し込んだ。薄味だが、これなら食べられる。


「はい、いいこいいこ……ふふっ、ごめんなさいね、拓二くんならもっと若い女の子の方が嬉しいわよね」

「いやあ、そんなことは……」

「お友逹は今はお勉強中かしらね。休むって伝えてる?」

「あー、そういや……」


 そんな余裕無かった。いつもは、あの二人にだけは何かしら伝えるのに。

 駄目だ、頭が回ってない。あいつらから離れないとか言ってるそばからこれじゃ、話にならない。もっとしっかりしないと……。


「風邪っていうのはね、身体を休めるサインなの」


 すると、大宮さんがまるで俺の心のうちを読んだかのように喋り掛けた。


「拓二くんはよく一人で頑張りすぎちゃうから、もしかしたら、身体があなたに休みなさーいって、言ってくれてるのかもしれないわね。はい、あーん」

「そうなのかな……あーん」


 またおかゆを口に含んで、咀嚼する。

 美味い。食欲が無い今でも食べられるくらいに、温かくて胃に優しかった。


「お友だちは? 誰か来てくれたりする?」

「んー……呼べば来そうな奴らが何人か。呼ばなくても来そうな奴も……まあ、いのりは今はどうだか分かんないけど」

「そう……ねえ、拓二くん」


 俺が重い頭であいつらの顔を思い浮かべていると、大宮さんはそれはそれは嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。


「うん?」

「その子たちを大事になさいね。とってもとっても……」

「……うん」


 お碗によせられたおかゆを、ゆっくり時間をかけてたいらげた。


 それを満足げに見た大宮さんは、俺に薬を飲ませ、枕元に新しい飲み水を置いて、何かあったら遠慮なく呼ぶようにと言って帰っていった。何でも、明日にはお偉いさんとの大切な会合があるらしい。

 暇だったからもう少し話し相手になってもらいたかったくらいだったが、彼女には笑って『病人はおとなしくしてなさい』とたしなめられてしまった。


 それから、しばらくは退屈だった。

 寝すぎて全然眠くないのに、横にならないといけないジレンマ。いっそ外に出た方が気分も良くなるんじゃないかと思うくらい、閉じたこの部屋には病人特有の空気が滞っていた。

 閉じきったカーテンは、外の日光に明るく透けていた。


 静かだった。

 家の中にも、外にも誰もいない。たまに車の通りすぎる音が聞こえるくらいで、俺に故意的に存在を示すものは、部屋の置き時計の音くらいだった。


 ずっと、寝返り以外に何をするでもなく、横になっていた。


 その長い時間、ずっと考えていた。

 これまでのこと、これからのこと。

 桜季のこと、夕平や暁、そしていのりのこと。その整理を。


 いのりは、今俺に疑心を寄せている。俺の目的(さきのさつがい)を果たせば、その疑惑は確かなものとなるだろう。

 まったく、毎度毎度、俺の思うところと反する奴だ。


 が、それだけだ。それ以外に彼女に出来ることはなくなる。

 いのりは知らない、『俺が桜季を殺せば、もう二度と生き返らない』ということを。

 ムゲンループでの生と死は、繰り返されるもの。 その常識を覆す、新たなルール。


 死んだ人間が生き返ることこそが、そもそも異常だというのに。皮肉なもんだ。

 ムゲンループの住人だからこそ、そんな簡単な感覚が麻痺してしまっている


 いくらあいつに小賢しい知恵はあろうが、俺を止めるだけの力なんてものはない。ムゲンループの住人としての年季の差が、俺達の差だ。やはりいのりはまだどうにでもなる。

 

 やはり当該の障害は、桜季のことだ。

 あいつさえ殺せば、そして次の『四月一日』になりさえすれば全て片が付く。


 細波が作った資料によれば、ここ最近、桜季は夕平と暁、そしていのりとつるんでいることが多い。

俺がいなかった一週間の放課後などは、もっぱら四人で過ごしていたようだ。


 ……いつかの、俺達のように。ただ今回は、俺のポジションにいのりがすげかわっているが。

 今俺がやることは『その時』までに準備をしておくことだ。


 桜季は……恐らく、俺に十分警戒していることだろう。いのりの存在で撹乱出来ているはず……という、あまり甘い希望的観測は持たない。

 

 ――――やはり、そろそろ『あれ』を始めていくべきだな。


 目を閉じても開けても暗い部屋の中。

 寝汗と籠った空気で居心地が悪さを感じながら、しばらく時間が流れた。



◆◆◆



「うっ……ぐっ……うう……っ、くそお」


 泣いていた。


 その少年――――拓二は、嗚咽を漏らし鼻を垂れ、涙を流して突っ伏していた。

 顔をぐしょぐしょにして、呻いていた。


 蹴られ殴られして腫れた顔。

 ほとんどパンツだけの服装にされて、腹にはマジックでありとあらゆる掠れて読めない罵詈雑言で汚され、便所の水でびしょ濡れにされている。


 心が完全に折れていた。

 なんのために生きているのか分からなくなった。

 もう生きていたくなくなった。

 存在意義の何もかもを見失った。いや、そんなもの最初から無かったのかもしれない。


 自信はバラバラに砕け、視界はぐにゃぐにゃに歪んでいた。

 吐き気は止まらず、地面に手を付いて項垂れ動けない。


「……相川くん」


 そばにいる少女が、どうしたらいいのか手に余ると言わんばかりに佇む。


「相川くん……君は悪くないよ。君は……」

「うるさいっ、うるさいうるさいうるさい!!」


 慰めにもならない慰めを掛けられても、彼はむべなく撥ね付ける。


「アンタは良いよな!? 僕が無いもの全部持っててさあ! 無様だろ、笑えよ!! 自分より出来ない奴が失敗するの見て満足したかよお!?」

「…………」

 

 今の彼には、何も届かない。

 八つ当たりも甚だしい悪態を吐き、少年はまた咽び泣いた。


「うっ、ぐすっ、くそう……くそぅ……僕は……何で、僕が、こんな目に……」


 ――――もう嫌だ。もう嫌だもう嫌だもう嫌だもう嫌だもう嫌だ。


 ――――また、駄目だった。

 ――――やっぱり、変われなかった。何をやっても、誰かの力を借りても。『僕』は変わることを、許されなかった。 

 ――――僕を見るこの世の全ての視線が――――それこそ、そばで見ている桜季の目さえも――――僕を馬鹿にするように突き刺さしていると本気で思った。


 ――――もう死ねばいいのに。こんなみっともない僕なんて。



「あ……」



 突如として、彼の背中に雨粒がポツリと当たった。

 一粒、また一粒と。その量は徐々に増えていく。

 そして、とうとう激しい音を伴う本降りになってきた。

 傘も差さず、雨ざらしになっている僕の身体は、すぐにずぶ濡れになった。


「相川くん……ほら、雨が……」


 その優しい声音が、心の底から心配してくれているものだとは分かる。

 このまま雨に打たれ続けても何もならないことも分かる。


 こんな惨めな自分を、どこか遠くで冷静に見下ろしている彼自身がいた。


 が、もう駄目だ。学校には行けない。いやもはや、どこにも行けない。


 もうなにも信じられない。

 頑張ったのに、好かれようと努力したのに、こんなに苦しい目に遭うのだから。

 結局辱めを受けて、辛くなるのが分かっているのに、努力する気力はもうなかった。


「……どうして、僕はこんななんだよ……どうして……僕は『僕』なんだよ……」

「…………」


 雨の音に紛れたその声に、少女は、何も言わない。

 何も、言えなかったのかもしれない。何をやっても完璧な彼女が――――いや、だからこそなのか――――この時だけは、何も出来なかった。


 雨は、無常にも降り続けていた。

 一瞬の容赦もなく、降り続けていた。 

 いつまでもいつまでも、少年を苛み痛め付ける礫(つぶて)のように。


 しかし、



「……お前、どうしたんだ?」



 雨が、止んだ。


 いや、止んではいない。音は、いっそう激しくなっているくらいだ。

 まだ降り続けているが、突然雨粒が当たらなくなった。


 顔を持ち上げる。

 目の前に、人影があった。少年を、見下ろしている。

 薄暗くて見えないが、どうやら同い年くらいの男子生徒――――それも、拓二と同じ高校の制服を着ている高校生が立っていた。


 そして、その人影から――――拓二を庇うように、傘が差し出されていた。


「……落ち込んでる時に、落ち込むようなことしてちゃ駄目だぜ?」

「っ……あっ……」


 拓二は見る。その男子生徒が、自分に傘を差しているせいで、思い切り雨に晒されているのを。

 何か言おうとして、喉が震えて声が出ない。


「え、あっ、おま……」

「それじゃ寒いだろ。ほら、手ぇ貸すから……」


 答えるより先に、拓二の腕をひっつかんで痛いほど力強く立たせた。

 そして、怪我人を背負うように、その男子生徒は拓二に肩を貸してやる。


「ほら、お前んちどこだよ? 送ってやるから」

「な、なん……なんで……」

「ってか、すまんけどちょっと雨宿りにお邪魔して構わんかね? ちょっとさむく――――へぶしっ」


 盛大なくしゃみをかましながらも、その傘は拓二を濡らすまいと差し出されたままで。


「な、なんで……?」

「お前さ、名前なんだっけ?」

「えっ……へっ?」


 その少年は、拓二に向けて柔らかくはにかむ。


「俺のこと知ってっか? 一応クラスメイトなんだけど」

「あ、う……」


 戸惑って何も言えずにおろおろしていると、その男子生徒は、何も言わずにニッと笑った。

 そして、くしゃくしゃと拓二の髪をかき回す。


「……なあ、そこのおねーさんはどうすんのさ!?」

「うん?」


 それから、彼は、その二人を見ていた少女――――桜季に尋ねる。


「こいつの知り合いなんだろ? 家の場所知ってんのか?」

「ううん、それは……」

「じゃあ今から、こいつん家に遊びに行こうぜ。……な、いいか?」

「な、なんで、ぼっ、僕の家なんて……」

「俺がそうしたいからだよ」


 その明るい声が、雨降る夕暮れに響き渡る。

 未だに困惑している拓二に、彼は言う。



「――――俺の名前は桧作夕平。ほら、さっさと行こうぜ? な、クラスメイト」



 その時、その底抜けの笑顔に、拓二は先程までの鬱々たる気分も忘れ、ただただ何も言えずに呆気に取られていた。



◆◆◆



「…………」


 俺が目を覚ましたのは、遠くで家の呼び鈴が聞こえてきたからだった。


 薄暗い部屋で、あまり気分のいい目覚めとは言えない起床。いつの間に寝ていたのだろうか、寝汗がかなり気持ち悪い。

 時刻は……もう六時前だ。


「……変な夢見た」


 額の熱冷まシートを剥がして、起き上がる。

 少し、体調はマシになったかもしれない。頭だけが重いくらいだが、寝起きの低血圧だろう。


 それより、夢の内容だ。

 ずいぶん昔の夢だった。俺自身忘れかけていたあの時の記憶が、あんな鮮明に。

 明晰夢というやつだろうか。まるで現実を見てるかのようだったが。


 と、少しぼんやりしていたその時、またチャイムが聞こえてきた。

 急かすように、繰り返し鳴り響く。


「……母さんか?」


 あの人はたまに、職場に鍵を忘れて帰ってくることがある。今日もそれかもしれない。

 息子が家で病に臥せっているというのに。

 まあ別に、いつものことか。


「はいはい、ただいま出ますよっと……」


 身体を持ち上げ、外へと向かう。 

 日は落ち、電気を点けてなかった家の中はかなり暗かった。

 小さく溢れてしまう咳がよく響く。この家は本当に、いつも静かだと我ながら思う。

 ご近所に優しいお家を自負しております。


「えーと、どちらさんで……」


 絶え間なく押し続けられる呼び鈴を耳障りに思いながら、玄関の外へ出た。

 そこにいたのは――――。


「あ……」

「……お前」

 

 少しだけ面食らった。

 つい数日前に、若干のわだかまりを残したままだったいのりが、家の門の前に立っていたからだ。


 予想外といえば予想外だった。こんなに早く訪れてくるとは。

 俺の方から改めて、フォローでも行くつもりだったのだが。もちろん、言い負かされないように風邪で鈍る頭をしっかり治してきてから。


「こんばんは……拓二さん」

「……どうして、ここに――――」


 だがまあ、これはこれでいい機会かもしれない。

 早いとこ、桜季のことに集中するためにいのりには必要以上の干渉の制限を念押す必要があった。ここで話を付けておいて、少しでも余裕を作るべきだ。


 そんなことを考えていた時、俺ははっと我に返った。

 

 いのりのそばに、もう一人。

 


「――――なんかね、この子が家の前で長いこともじもじしてたから、僕が後押ししてあげたんだよ」


 その男は、オシャレに前髪を掻き上げたヘアスタイルの金髪をしていた。

 その男は、世のヨーロッパ系男性の容貌を平均化したような、それでいて目鼻立ちの筋通った顔立ちをしていた。

 そして、その男は――――


「hi,タクジ。――――久しぶり、元気にしてた?」


 久しぶりという言葉が、嫌味か皮肉の一種のように聞こえる。

 つい数週間前のことが、遠い昔のようだと暗喩しているようで。

 

 この男のことを、俺は良く知っている。

 ある者はイギリス最大資本家トップファイブの一人、ある者はネブリナ家の若頭そうかつしゃと彼を呼ぶ。

 いくつもの偽名と顔を持ち、それらが『A common man(当然の男)』だと評された才能を持つ男。


「……何で、アンタがここにいる?」


住人どうるい


「野暮用があってね、近くまで立ち寄ったから来ちゃった」


 馴れ馴れしくいのりの肩を抱き寄せ、この男――――マクシミリアンは当たり前のようにニコニコと笑っていた。


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