第7話

 加速度的に稽古は難しくなっていった。

 要求されるレベルが日々上がっていくのが分かるほどだ。尤も私一人が四苦八苦しているわけではなく、素人一年生全員が同じような状況であった。

 新人公演という明確な目標を提示されて稽古に追われていると余計なことなど考えられなくなる。これこそがブッチョの目論見なのであろう。だれ一人として落伍する者はいなかった。

 動きや表情を付ける立ち稽古も当初は惨憺たるものだった。

 セリフは覚えているが、あくまでセリフとして頭に入っているだけだからうまく動けない。視線がキョロキョロとふらつく。表情は意思に反して強張る。

 こんな状態で本番に間に合うのだろうかと当事者ながら私は不安になったのだが、ブッチョはどこ吹く風。一年生たちの奮闘と困惑を愉快げに見物している始末である。さすがはアルティメトロ受賞者、腹の肉は伊達ではない。

 立ち位置や出ハケを幾度となく確認し、立ち稽古はいつの間にやら通し稽古へと進んでいた。

 暗転が想像以上に恐いものだと知ったのもこの頃である。蛍光テープを床に貼って目印にするのだが、キャスト同士ぶつかりそうになったり、舞台の小道具などに衝突しそうになったりと実に危険なのだ。

 また稽古と並行して本番で着る衣装の制作、それにタタキと呼ばれる大道具や舞台美術の制作も進められた。

 私は大道具も兼務しているのでこちらの作業にも時間を割くことになった。

 単管パイプとクランプを組み合わせ、住宅建築の現場によくある足場のような舞台装置を作ってゆく。これがかなりの重労働で、大道具は体力が要求されるのだと思い知らされたりもした。

 ボードの持ち方や運び方、電源の延長ケーブルを8の字に巻くことなどを学んだのもこの頃であった。

 そしてこの舞台の八人目の出演者とも言うべき、オロチの制作にも取り掛かった。

 ブッチョからの指示は、「官能的で、かつスパイシー」であった。

 大道具と舞台美術を統轄する先輩は慣れているらしく、旅客機の胴体着陸並みの難度であるブッチョの指示を「残忍な面構えで」と解釈してみせた。

 この寝ているの起きているのか分からない目をした一浪二留の三年生エキ先輩は、就活なんぞ知らぬ存ぜぬ罷りならぬとばかりにサークル活動に打ち込んでおり、私が代わりに彼の将来と進路を心配するほどの熱の入れようだった。

 おかげで、本来なら関わらなくてよい舞台美術の領域まで私は手伝うハメになっていた。そうと気づいたのは相当経ってからではあるが。そうでなくとも人手が足りず、いつしか各員が己の領分を超えて手伝い合うようになっていた。

 いみじくもブッチョが言っていた連携と連帯。それを私は身を持って経験できた。いや、今も経験中なのではあるが。

 細く薄く裂いた竹の骨格に和紙を貼り付け、青緑で着色したオロチが完成したとき、エキ先輩が奇声を発した。興奮のあまり漏れた奇声であるらしかった。上から漏れて、下からはなにも漏れなかっただけマシであると私は思うことにした。

「見ろ! ジマー!」

「見てます」

「なぜ素面でいられる!?」

「なぜ合戦前の兵士みたいな気勢を上げてるんですか」

 無論、奇声を上げていると掛けている。

「つまらん男だ、貴様は」

 悪い人ではないのだが、どうにも口は悪い。

 完成したハリボテの頭部と向き合う。

 私はなぜか三日間だけ演じた愛称募集中のブサイク虎を思い出した。そういえば、あいつの名前は決まったのだろうか。

 しかし、残忍な面構えというより、残「念」な面構えである。

 なにより小さい。これではオロチというより、小ロチである。もっと言えば獅子舞モドキである。刀の一本もあれば退治できそうだ。だが、そこはオロチ。なにがしかの神通力を備えているという設定で誤魔化すことができよう。

「これで重要なヤツは一通り作ったってことですかね」

「そうだな、あとは入口に設置する看板だけだな。新人公演は身内しか呼ばないから告知看板やら案内看板やらは作らなくていい。楽ちゃあ楽だ」

「そうですか、じゃあ、看板作ったら大道具の仕事は当分お休みってことですかね」

「いや、樋だ」

「樋?」

「そう」

 よく分からなかった。



   ↓



 屋根から雨だれが滴る。それが玉砂利に吸い込まれる音が耳に心地良い。

 一雨ごとに黄緑色の葉が増え、雨がやむごとに世界が新しくなっていくような季節だ。

 そんな中、私とエキ先輩、あと手が足りないからと借り出されたアキ先輩とハル先輩は雨合羽を着て、樋の設置作業をしていた。

 公演するホールとも舞台とも無関係な、構内にある和館コミュニティプラザの庭で我々は太い竹を二つに割って作った三メートル弱の樋を、これまた竹で作った支柱に固定し、六本の樋をSの字状に繋げてゆく。

「私たちなんて登山だったもんね」

「ね~」

 アキ先輩とハル先輩が手を休めずに互いに頷きあう。

「ハイキングってことですか?」

「じゃなくて登山」

「登山? 壮行会ですよね?」

「うん、壮行会だよ。それも結構、本格的な」

「…………………………」

「ワンゲルからいろいろ借りて重かった重かった」

「それで千五百メートルとか登るんだもん、なんのサークルだっけって途中、本気で疑問に思った」

「そうそう」

 なんぞと先輩方は去年の苦労をにこやかに語らっていらっしゃる。

「あのー」

「?」

「どうして登山だったんですかね?」

「ブッチョが山に登りたかったからじゃない?」

 身も蓋もない返事だった。

「だから、今年はすごくマシってことよ、ジマー。流しそうめん壮行会なんて気が抜けそうだけどさ」

 先輩は笑いをこらえてそんなことを言った。

 新人公演の十日前に一年生たちを勇気づける目的で開かれる壮行会。

 我々はその壮行会の準備をしているのだった。

 今年は「流しそうめん壮行会」であるという。

 もちろんブッチョの発案である。

 そうめんと壮行の関係が私には今ひとつ把握できなかった。いや、把握したいのかと問われれば、したくないと答えるのだが。

 一通り繋ぎ終わり、エキ先輩が実際にホースで水を流して、漏れたり溢れたりしないか確かめる。

「うん、どうやらバンジーする麺は出なさそうだな」

「バンバンジーって料理なかったっけ?」

「あー、なんか聞いたことある」

 暢気な会話である。

 私は雨空を見上げた。

「明日も雨みたいですけど、雨天決行ですか?」

「あした晴れるって。ブッチョが言ってた」

 天衣無縫という言葉が思い浮かぶほど、あっけらかんと答えてくれた。

「天気予報では降水確率六十パーセントでしたよ」

「ブッチョが言ってんだから、たぶん晴れるよ」

「…………………………」

 なんというか、私はブッチョの凄さを垣間見たような気がした。







 本当に晴れた。

 天気予報が外れるたびに気象庁の長官が責任を取って辞任したらどうなるのだろう、と私は有意義な思考実験を試みた。退職金の天文学的増加により国立天文台が破産するだけであるという実験結果を得た。

 しかしブッチョの神通力には恐れ入る。オロチを凌ぐのではないだろうか。

 ともあれ壮行会である。

 それも、流しそうめん壮行会である。

 茹でたそうめんを冷やし、一口分を一定間隔で樋に流水とともに流すアレである。記憶違いでなければ、夏にするものであったろう。

 私は昨日の樋設置の功績が認められ、本日はとくに仕事らしい仕事を割り振られることもなく、和館の縁台に腰掛けて皆の働きぶりを督戦していた。

 雨上がりの爽やかな空気と適度に強めな紫外線が、肌を困った感じに刺激する。

 一口とはこれくらいだ、いやそれは二口分だ、などと実にどうでもいいことで女性陣は楽しげに準備を進めていた。

 その中には自然な笑顔をふりまく三雲女史もいた。

 この二ヶ月近い期間を主役と準主役、ヒロインとその相手役という間柄で過ごしたシャルローズと私の関係がどうなったかと、人は気を揉んでいることであろう。

 対立する二人。反発しつつも、衝突するごとに惹かれあい、いつしか近づく距離……。

 HAHAHAHAHAHAHA!

 それはどこのホラー映画かな。

 ホラー映画なぞ、所詮映画。たかだか二時間程度で終わる恐怖ではないか。

 現実は二時間では終わらない。

 何が言いたいかと言うと、つまり、シャルローズの報復は今も続いているのである。

 ネチネチと。

 私がド素人で歯向かえないのをいいことにやりたい放題である。

 その一つ一つをここに開陳するべきなのだが、思い出すだけで私の魂が傷つくので省略させてもらう。

 しかし私は今日、一つの希望を持ってこの場に臨んでいた。

 ハトマメがその情報を齎してくれた。

 すなわち「手うち」である。

 私の心労を見て取った一年生有志篤志が、私とシャルローズの和解を演出しようと申し出てくれたのだ。私はその提案に飛びついた。

 有志篤志の提示した和解勧告案は次のとおりである。

 何一つ悪くない私が謝罪し、三雲女史から寛恕を得る。

 見事な計画である。

 潔いもここに極まれり、と快哉を叫びたくなったほどである。

 だがこれで三雲女史のネチネチ攻撃から脱せるのであれば、私は韓信の故事に倣いマタでもモモヒキでも潜ってみせる。

 そう、たとえ私に一切の非がなかろうとも!

「……はぁ」

 ため息が出た。

「なんだ、ため息なんぞつきおって」

 ブッチョが腹の肉を揺すりながら私の隣に腰を下ろした。

「いえ、そうめんはどうして白いのだろうと考えていると、世の無常が身に沁みまして」

「わかるぞ、その気持ち」

 なぜ分かる? 私は驚愕した。

「悩めるときに悩めるだけ悩むことだ。然らば道は拓かれるかもしれん」

「かもしれん、とはまた曖昧な」

「大概は拓かれないのだからな。濁しておくに限る」

 私はブッチョを少し見直した。

「拓かれないとして、どこを往けばよいのでしょうね」

「簡単なことだ。行きたい方へ行けばいい」

「…………………………」

「道以外を歩いてはいけないという法も摂理も存在しない。そうだろう?」

 尤もだった。

 なにより、それを実践している人だから言葉の重みが違う。

 ブッチョは縁台で胡坐をかき、膝に肘をついて庭を眺める。

「ところで、シャルローズとはどうだ?」

「?」

 ブッチョらしからぬ、やけに大雑把な聞き方だった。

「ジマーから見て、シャルローズはどういう役者に見える」

 質問ではないように思えた。

「素人の意見になりますが」

「それを聞いているんだ」

「上手いです。あと内面的なものを発露して外に出せるというか、変な言い方になりますが」

「内面的なものを発露か……」

 ブッチョは同級生と戯れている三雲女史を目で追った。

「感情的になるのと、感情的な演技をするのは違う。見ている人の感情を揺さぶる演技もまた違う」

「そう、ですね……?」

「シャルローズの評価を人から聞いたことはあるか?」

「ブッチョが自分で言いましたよ。華があって理解が早くて安定している」

「そう、安定しすぎているんだ」

「……?」

「彼女は資質に恵まれている。だが、それが彼女を縛っている。資質の使い方が、な。資質に引っ張られていると言ってもいい。彼女はもっと高いところへ、もっと遠いところへ行けるのに、それを知らずにいる」

 ブッチョの話し相手は私ではないような気がした。私以外の誰かに向かって言っているようだった。

「安定なんぞせんでもいいのだ。もっともっと壊滅的になれれば彼女はさらに輝く」

「本人に直接言えばシャルローズも喜ぶのでは」

「喜ばんよ」

「…………………………」

「それに言ってどうなるものでもない、こればかりはな。だから――」

 ブッチョは口をつぐみ、私をギロリと睨んだ。

 精悍な表情の十亀さんを見るのは初めてだった。出来る男だけが放てるオーラのようなものさえ感じた。私が息苦しさを覚えるほどだった。

 らしくないことに気づいたのだろう。ブッチョは突然、お得意のHAHAHAHAHAHAHAHA! を炸裂させ、私の肩をバシバシバシバシと叩くと、よっこらせと立ち上がって皆のほうへと行ってしまった。

 あの、命の遣り取りをする剣士のような表情はなんだったのだろうと私はしばらく考えた。



   ↓



 流しそうめん壮行会だけあって色々な意味で緩かった。

 挨拶らしい挨拶も、激励らしい激励もなく始まってしまった。

 ブッチョがそうめんを勝手にどんどん流し始めるのだからたまらない。

 みんな慌てて樋に添って並び、流れてくるそうめんを奪い合った。

 こんな大掛かりな流しそうめんは初体験だった。それは私ばかりでなく、ほとんど全員が初体験であった。そのせいだろう、かなり騒がしくなった。言い換えれば、楽しいアトラクションであった。

 用意された麺ツユも、焼肉のたれやらケチャップソースやらコーヒーやら強壮剤入りの栄養ドリンクやらの変則ダネならぬ変則ツユであり、どれが一番マズイかといった食べ比べなどもした。

 しかし所詮そうめんである。

 味はツユに左右され、飽きるのは早かった。

 誰が何の目的でこんなものを十キログラムも茹でたのか。

 もしや残ったら私とハトマメとメッシーで強制処理させられるのではと、内心怯えだした頃だった。

 えっ、という女子の先輩の声がした。

 声の方を見ると囁き交わす女性陣と、その向こうから手を上げて歩み寄ってくる男が目に入った。

「うそ、佐々倉さん?」

「ササクラって、あの佐々倉淳之介?」

「絶対そうだって、佐々倉淳之介だよ」

 私は一目見て、その男が敵であると認識した。

 背が高く、目鼻立ちのはっきりくっきりしたハンサムで、さらには気障ったらしい笑みを口元に貼り付け、白い歯を見せ付けていた。間違いなく一般的日本人男性の敵である。しかし女性陣はこの敵性体の名前を知ってるようだが何故だろう?

 くだんの佐々倉氏は上げていた手を振った。

「よーう! 十亀!」

「来たか! 佐々倉!」

 ブッチョは腕組みしたままで応じた。

 囁きが熱を帯びていく。「ねえねえ、あれって『東京三番地』の佐々倉淳之介だよね?」「本物? 本物なの?」「え? ブッチョと知り合いっぽいよ?」「どういうことどういうこと?」などと女性陣は大興奮である。

 はて? 東京三番地? どこかで聞いたような気がする。

 近くにいたアキ先輩をつかまえた。

「誰なんですか? あのひと。OB?」

「あーん、ジマー! 佐々倉淳之介も知らないの?」

 知らないから聞いているのである。

「佐々倉淳之介って言えば舞台俳優として有名だよ!」

「ほぅ」

「テレビにこそ出ないけど、映画にも主演してるし、舞台はチケット取るの苦労するくらいの人気俳優じゃん!」

 じゃん! と言われても二ヶ月前まで演劇に無関心だった私がそんなことを知っているわけがないではないか。

「東京三番地というのは?」

「う~ん、一言で言うと、すごく有名な演劇チーム」

「ははぁ」

「分かってないでしょ?」

 アキ先輩が苦笑した。

「佐々倉淳之介は有名芸能人で、東京三番地は有名芸能人が所属する劇団で、わたしたちみたいなアマチュアが憧れる存在で、ミーハーなら騒いじゃうレベルってことよ」

「よく分かりました」

「それはよかった」

「でも、ブッチョって東京三番地の関係者なんですよね?」

「え?」

「あれ?」

「それホント? ていうか、なんでジマーがそんなこと知ってんの?」

「いえ、あの……」

 周知の事実かと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。

 最近知ったことだが多くの場合、俳優は舞台の告知やチラシに顔と名前を載せる。客を呼ぶのは主演の仕事だからだ。一方、脚本家や舞台監督は名前だけで済ませる。そのせいで案外、裏方は認知されないものらしい。ブッチョの経歴がサークル内で流布していないのもその辺と関係があるのかもしれない。

 となると、ニックネーム制もブッチョが名前や経歴を隠すために導入したのではないか、と思い至った。う~ん、掴めない人である。

「ねぇ!」

 アキ先輩が痺れを切らして私に回答を促した。私はブッチョと佐々倉氏を指差した。

「あ! 二人して妙なこと始めましたよ!」

「ん?」

 アキ先輩が振り向いたのをいいことに、私は素早く移動した。あとは知らぬ存ぜぬ罷りならぬで切り抜けるのみである。

「おいおいおい!」

「HAHAHAHAHAHA!」

 未開の地に住む原住民が狩りで大物を仕留めたときの喜びを表す舞のような奇天烈な動きで、二人の男は距離を取ったまま緊張感を高めてゆく。

 一方はハグを狙い、一方は握手で済ませようとしているようにも見えた。

「十亀! なぜおまえは俺を拒む!」

「その顔が気に入らないからだ!」

 直球ど真ん中だった。

 が、佐々倉氏は気を悪くするでもなく大袈裟に肩を竦めて、ブッチョの差し出していた手を強く握り、激しく上下させた。その勢いでハグを試みる。

 ブッチョはこれを読んでいた。左フックを佐々倉氏の脇腹にお見舞いした。

 佐々倉氏は脇腹を押さえその場に蹲った。まるで演技指導で、「ライフルで撃たれて銃弾が貫通したときの痛がりかた」の悪い見本を実演しているようであった。

 しかしこの男、いちいちオーバーゼスチャーである。微妙にイラついた。

 どれくらい微妙かと言うと……

 例えるならそう、きれいに殻の剥けないゆでたまご。

 例えるならそう、教室の床に落としたシャーペンの芯。

 想像しただけでイラつくことと思う。

「どうした? 切れ痔が再発したか」

「十亀!」

 ハンサムは眉を逆立ててブッチョに詰め寄った。

 知られたくない事実であるらしかった。

「言うな! 事実に反することを言うな! 俺の名声を貶めるような流言飛語は慎め!」

「なんだ治ったのか。治ったら治ったと言え」

「……治った治らないの問題じゃない。とにかく痔の話をするな!」

 声を殺そうとしているが怒りのために失敗し、私にまでちゃんと聞こえた。

 完治は程遠いご様子である。

 なぜか私の溜飲は下がった。

「分かった分かった! お前は人の耳目を集める人気者だ! 昔つきあった女が実はニューハーフだったなんぞと知られた日には一大事だからな!」

 佐々倉氏は空気を握り潰そうとするかのように両手をワナワナさせている。

 ブッチョは慣れたもので、そんな佐々倉氏を放っておいて、部員のほうに向き直った。

「こちらは佐々倉淳之介氏だ! 知っている者もいるかもしれないが、東京三番地で看板のフリをしている大根だ! 略してブリ大根!」

 ひどい言われようであった。しかし先ほどの演技を見る限り、ブッチョの評価は妥当のような気もする。

「今日はわざわざこの壮行会を盛り上げるために足を運んでくれたのだ!」

 おおっ、と部員たちがどよめいた。

 虚言もここまで大っぴらに言い切ってしまうと寧ろ説得力があった。

「あの~、先輩とはどういうご関係なんですか?」

 ハル先輩が遠慮がちに尋ねた。

 我々のどよめきに気分を良くした二枚目俳優は余裕たっぷりに答えた。

「熱く滾る情熱で結ばれた――」

「ただの知り合いだ!」

 佐々倉氏の口は「しんゆう」と動いたようだったが、ブッチョの野太い声がすべてを上書きした。

「そんなことより折角来たんだ、そうめんを食え! そうめんを!」

「…………………………」

 ブッチョは麺ツユと割り箸を佐々倉氏に押し付け、笊を抱えて麺を流すべく上流に陣取る。佐々倉氏は箸を銜えて割ると大袈裟なポーズを取った。つくづく過剰演技の男である。

「来い! 十亀!」

「HAHAHAHAHAHAHA!」

 さながら、一対一の流しそうめん対決であった。

 休憩時間の小学生でもここまで幼稚ではあるまい。

 そもそもこの人たちは何歳なのだろう、と疑問に思った。私はブッチョの年齢を知らなかった。サークル内でも正確に知っている人はいないようで、二十七か二十八くらいじゃない? が大方の予想であった。

 佐々倉氏との関係を見るに、ブッチョのほうが少し上のような気もした。調べれば佐々倉氏の生年月日は分かると思うので、そこから推測できる可能性がある。だが二人揃って三十を遥かに過ぎていたらと想像して私は身震いした。

 世の中には知らないほうが良いことがたくさんある。これもその一つだと私は己に言い聞かせ、ブッチョの年齢を詮索するのはやめにした。

 さて、流しそうめん対決である。

 さながら樋を挟んだ椀子ソバであった。

 熱く滾る真剣勝負であったが、麺の不足という残念な結末を迎えた。

 どちらが勝利したかは知らないが、残った麺を「後でスタッフがおいしく処理」しなくてよくなったことに私は安堵した。

「麺追加!」

 ブッチョの大喝に、麺茹で係であったメッシーとわだこさんが弾かれたように和館の中の給湯室へと走った。

 安堵して損をした。

 新たな麺が茹で上がるまで手持ち無沙汰となった佐々倉氏は麺ツユと割り箸を長テーブルの上に置き、ブッチョと肩を並べる。二人が並んで腕組みをしているのだが、奇妙に座りのいい画ヅラだった。

「そんなことより、なんだ、お披露目したい部員たちがいるんじゃないのか?」

「ほう、そうなのか」

「……変わらんな、おまえは」

 有名芸能人であるらしいこの佐々倉氏、芝居がかった動きをすることを除けば、ちょっと足りない人といった感触である。

 有名人や芸能人とは縁のない私であったが、佐々倉氏のおかげで今後、著名人と対面する機会があっても緊張しなくていいことを学習させてもらった。

「そういうブリ大根も変わらず、大根らしいな」

「ブリでも大根でもない! ところで」

 佐々倉氏はチラリとシャルローズのほうを見た。

「なんだ、美人揃いだな、この劇団は」

 主に三雲女史の見目を褒めたいのだろうが、それだと角が立つと思ったらしい。実に歯の浮くセリフであった。しかし愚かな男である。三雲女史の本質を見抜けないとは。

「ふむ、女のことしか目に入らんところも変わらんな」

「お前は俺のイメージを損壊することが生き甲斐なのか?」

「損壊できるほどの良いイメージなどあるまい!」

「……………………………………」

「まあいい、そんなに自己主張したいならさせてやろう。三年! 二年生も来い! 一年はその次だ」

 ブッチョが二年生と三年生を招き寄せた。我々一年も先輩方の後ろに回り込んだ。

 なぜか佐々倉氏の前に縦一列。

 そして始まる有名舞台俳優との一対一の対面挨拶。

 人が良いのか頭が弱いのか判断に苦しむ。

 一人一分として二十分弱の奇妙なイベントが発生したと思うことにした。

 このイベントが終了したら、おそらく有志篤志が私と三雲女史を会場の端へそっと導き、「手うち」を演出してくれると思われる。なので私はこの二十分を有効活用しなければならない。

 すなわち、昨日から今日までに生み出した八十八パターンの謝罪プランを脳内でシミュレート。もっとも効果的に三雲女史の怒りを鎮め、且つ、気高く崇高なる私の矜持が保たれるギリギリの線を探り当てる。

 成功すれば、それは奇跡にも等しい偉業として未来の私に褒め讃えられるだろう。

 気高く崇高とは誰の評価なのかと疑い問う者には一つの事実を告げるだけで事足りる。

 なんら非がないにも関わらず頭を下げるというのは、それだけで気高く崇高であることの証なのだ!

 しかし、我ながら八十八パターンは作りすぎである。

 せめて三パターンほどに集約するべきであった。

 突然飛来した宇宙人の攻撃に晒される三雲女史を、我が身を盾にして華麗に救い、その際さりげなく過日のあやまちを許してもらう、などというプランは些か詳細に設定しすぎて実用性が低減していると思われる。そもそも我が身を盾などと縁起が悪いにもほどがある。まるで「手うち」の失敗を暗示するようではないか。

 あれやこれやと頭を悩ませているうちに、列はどんどん進んでいた。

 佐々倉氏は目的たるシャルローズを手繰り寄せようと急いだらしい。私の予想を上回る速さで順番が来てしまった。

「今度の新人公演でヒロインの相手役をつとめるジマーだ」

 ブッチョが紹介してくれた。

「どうも、法学部一年の――」

 私の挨拶など聞きもせず私の手を握ってきた。

「そうかそうか、キミが主演かい! 頑張ってくれたまえ!」

 握手した腕を猛烈な勢いで振り、勢いそのまま私は脇へよけられてしまった。ベルトコンベアに乗せられた冷凍マグロも斯くや! というゾンザイな扱いであった。男なんぞに興味も割く時間もないということらしい。

 私はブッチョに肩を竦めてみせた。

 ブッチョは重々しく頷いて同意してくれた。

 私のあとはハトマメ以下一年が続く。

 佐々倉氏が乞いに乞うた三雲女史の番になった。

 早く紹介しろとばかりに佐々倉氏はアイコンタクトでブッチョを急かしている。

 三雲女史は令嬢という言葉が相応しいたたずまいで愚かな役者の前に立つ。

「三雲さんのことは知っているな? 去年の研究大会で『地獄の門』のエリーゼを……」

「おぉっ! あなたがあの!」

 ブッチョに最後まで言わせなかった。

 西海岸在住のアメリカ人でもそこまで大袈裟なゼスチャーはすまい。両手を大きく広げて驚きと喜びを表現する。そしてゆっくりと、しかし情熱的に、握手のため三雲女史が差し出した手を両手で包み込んだ。

 しかと目を見てにこやかに話しかける。

「はじめまして、佐々倉淳之介、三十三歳独身です」

 三十三だったのか……!

 知りたくなかった!

 本当に知りたくなかった!

 演劇に打ち込むとこういう残念な三十代が出来上がってしまうのか、と私は驚いた。ブッチョの実年齢が想定を超えていたのにも驚いた。私はブッチョの横顔を盗み見ないよう自制心を最大限に働かせた。

 ところが三雲女史は驚きもせず、苦笑すらせず、微笑を浮かべたまま応じた。

「三雲夕璃華です。経済学部の一年生です」

「ほう! 経済とな!」

 生まれて初めて「経済」という言葉を知ったような発音であった。

「経済はいい! そう経済は!」

 なんでも褒めればいいというものではないのだが、この足りない御仁は分からないのか、この顔だから許されてきたのか。

 三雲女史も心得たもので、あっさりと受け流す。

「ところで、去年の研究大会、ご覧になっていただけたんですか?」

「もちろん! 若い芽は早めに摘ま……新たに現れるライバルたちをいち早く知ることができるし、なにより刺激になりますからね!」

 感動的な三十三歳である。

 私は涙が出そうになった。

 自分がこんな三十三歳になったら、世を儚んで辞世の句を詠むところである。

 私が隣でそんな思いを抱いているとも知らず、佐々倉氏は目尻を下げながら三雲女史を上から下まで眺めまわしていた。三雲女史も相手にするだけ無駄と悟ったらしい、にこやかにしているだけで余計なことを言わなくなった。佐々倉氏はそんなこと関知するかとばかりに話し続ける。

「そういえばニックネームは決まっていないのかな? まぁ、三雲さんほど華のある女性にぴったりのニックネームなどそうそうありますまい! ニックネームの方が恥ずかしくなって逃げ出してしまう!」

 私は青空に浮きかけた歯をゆっくりと噛んで口内に押しとどめた。

「ニックネームならありますよ。シャルローズです」

「…………シャルローズ?」

 途端に佐々倉氏の語調が衰えた。

「はい」

「シャルローズ…………?」

「はい……?」

「ん? 三雲さんのニックネームがシャルローズなの?」

「そうですけど、なにか問題が?」

「いや……おい、十亀! シャルローズってお前のニックネームじゃなかったっけ?」

 私は思わず息を呑んだ。

 なんということだ。

 なんということだ。

 なんという……

 …………………………なんということだ!

 なぜそんなことを知っている!

 しかもなぜそれをここで言う!

 先輩方は一斉にそっぽを向いていた。

 訳が分からず左右を窺うのは一年生と佐々倉氏のみ。

 私はそっぽを向けず、左右も窺えず、ただ硬直した。

「なぁ……」

 さすがの佐々倉氏も空気の変化を察して、声が小さくなった。

 なによりシャルローズの変化が著しかった。

 初夏のさわやかで透き通った大気の中を、黒っぽいなにかが水に溶かした墨のように広がっていくようだった。

 精神エネルギーは可視化するのだと今ここに証明された。

 三雲女史から漂い出るおどろおどろしい空気が我々に襲い掛かってきた。

 私は肌寒さを感じた。

 事情をまったく知らない一年生たちものっぴきならない雰囲気に縮こまる。

 賢明である。

 嵐は立ち向かうものではなく、やり過ごすものである。

「佐々倉さん、十亀先輩のニックネームがシャルローズだというのは間違いないですか?」

「えーと、二年前の話だからね…………」

「二年前のお話でも構いません。断言できますね?」

「酒の席での話だからね…………」

「酒席でのお話でも構いません。断言できますね?」

「………………………………はい」

 佐々倉氏は母に叱られる子供のような従順さで肯定した。

 もっと抵抗してほしかった……!

「十亀先輩?」

 さすが三雲女史!

 このサークルにおける最高権力者にさえ立ち向かうのか!

「どういうことでしょう? 説明していただけますよね」

「どうやら行き違いがあったようだな!」

 なんという居直り。

 さすが腹の肉。まったく動じなていない。

 ブッチョは腰の後ろに手を回し、ゆっくりと歩き出した。

「シャルローズはサークルを代表する者、看板となる者だけが背負える名なのだ!」

「……それは伝統ですか?」

「襲名制は今年から始まった」

「襲名制?」

「そう。歌舞伎や落語が好例だ」

 なぜかブッチョが傍らに歩み寄ってきた。そしておもむろに私の肩を叩いた。

「何を隠そう、襲名制を提案してくれたのがジマーだ!」

「えっ……?」

 人間、呆気にとられると間抜けな声が出るものらしい。最初、その間抜けな声が自分のものであるとは気づかなかった。

 なにより――

 この西郷どんはなにを言い出したのだろう?

 そしてなぜ、三雲女史は殺意を含んだ目で私を見ているのだろう。

 ワケガワカラナイ。

「三雲さんにその辺りの説明を怠ったのは確かにこちらの不手際だった。申し訳ない」

 ブッチョは潔く頭を下げた。

 三雲女史も目を白黒させる。

 まさかブッチョが頭を下げて謝るとは予想していなかったのだろう。

「せっ、先輩、頭を上げてください。先輩に悪意があったわけじゃないんですから!」

 それは違うぞ三雲女史。悪意はあったのだ……!

「そう言ってもらえると有り難い。ジマーのことも許してやってほしい。彼も悪意があって黙していた訳ではないはずだ!」

「………………………………………………………………」

 ブッチョの発言が理解できなかった。

 現実を理解できなった。

 許してやってほしい?

 私はいつ、罪を犯していたのだろう?

 私が知らないうちに私はそんな大それたことをしたのか?

 いや!

 これは完全なる濡れ衣! ブッチョの陰謀だ!

「ブッチョ! それは……」

 肩にもの凄い圧力を感じた。

 ブッチョが推定握力九十五キログラムを発揮して私の肩を揉んでいるのだった。

 それこそ二十年分の凝りをほぐしてやろうと言わんばかりである。

 そして、あの表情。

 そう、命の遣り取りをする剣士のようなあの表情。

 余計なことを言えば命はないぞと目と握力が語っていた。

 私は完全に言葉を失ってしまった。

 もはや呆然と悄然と立ち尽くすのみ。

 私の時間は止まっている。しかし本来的な意味で、時を堰き止めることなど誰にも出来ない。NGもやり直しもないこの人生という舞台は、無情であり無常でもある。

「――知ってたの?」

 美しい声が私の鼓膜を震わせた。

 私は油の切れたゼンマイ式玩具のような動作で首を動かした。

 三雲女史の顔に笑みが浮かんでいた。

 ただ、その視線は適度に強めな紫外線より五百三十倍は有害であった。

 見据えられただけで私の細胞の遺伝情報が壊れていくのが分かったほどである。

「知ったのね? ジマー?」

 質問ではなく確認であった。

 襲名を提案したのかと聞かれたら、違うと答えられた。

 だが三雲女史が問題にしているのは、「シャルローズ」がブッチョのニックネームであったことを知っていたのか否か、である。

 哀しいかな、A型人間である私に嘘などつけよう筈がない。

 しかし恐怖のあまり、声は出なかった。

「知ってたんだ」

 私の沈黙を三雲女史は肯定と受け取ったようだった。

「………………………………」

 なぜだろう、私一人が悪者になっている。

 今日は「手うち」の日であった。手巻きではなく。

 それなのになぜ……!!

 はたと気づいた。

 ……ああ、なるほど。

 「手うち」は「手うち」でも、アウトロー同士が関係を修復する「手打ち」ではなく、お殿様が激昂して家臣を自ら叩き斬るほうの「手討ち」であったか。

 心地好い季節の心地好い昼下がり、心地好いイベントが心地好く息を引き取っていた。心地好い血の雨が降らなかったのは心地好い気候の恩恵であったろう。

 私は恐怖で足が震えなかった己を誇りに思った。




 さて、事の発端たる佐々倉氏であるが、彼はシャルローズを口説く空気でなくなったため、追加されたそうめんを一人で二キロほどもりもりと貪り食い、薬味のネギは刻まずにそのまま齧り、ツユを飲み干し、満足して帰ってしまった。

 結構なことだ。

 あと、私の洞察力は大したものだということが証明された。

 この男を敵だと一瞬で見抜いていたのだから。

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