2.創世の女神 倉塚 桜

 後から訊いた事だが、彼女、桜は歌手になるのが夢でその養成スクールに通っていた。この学費を稼ぐ為、マスターのところでバイトをしていたことを……

 桜は、いつしか僕があの店でいつもの席に座ると、黙ってブレンドを出すようになった。そして、シナモン入りのミルクティーを持って、僕の迎いの席に座り、僕を眺めるのが日課になっていた。

 その時間は、あの店では僕ら二人の時間となった。

 

 僕はよく桜をバイクのタンデムシートに乗せて海へ連れていった。

 桜は、海を眺めるのが好きだった。そして彼女は、その大海原に向かい歌った。桜が自分で創った歌詞にメロディーを付けて。


   どうして あなたは私の前にいるの

   あなたの存在は 私だけのものであってほしいのに

   でも あなたはまだそれを分かっていない

   何もかも捨てさせて 私はあなたと共にいたい

   それは叶わない想いと解っていても

   

   時のあいだは 私とあなたを引き裂く

   私はあなたの想いをたくさん持って時に呑まれる

   その想いをあなたは その時知るでしょう

   たくさんの私の想いを

   あなたは その想いを 自分の心に突きさす

   

   もう戻る事の出来ない時の流れを

   自らの時を捨てて

   もう一度 私に会いに来る


   そして あなたはいま 私の前にいる 


 桜の声は透き通る様に綺麗で、砂浜に打ち響く波の音が彼女の奏でる歌と重なり合った。

 毎日数式の中で暮らしている僕にとって、桜はオアシスのような存在だった。

 僕は、桜を愛している。桜も僕のことを愛してくれている。

 

 五年前、彼女は高校を卒業した。

 僕と彼女は、その後お互いにその存在を確かめ合うように、肌を触れあわせた。幾度となく。


 明日、僕は桜をあの海岸に連れて行き、プロポーズをする予定だ。


 二年前、彼女はあるプロダクションに所属した。だが、仕事はそんなに彼女の前には現れなかった。今も、桜はマスターの店でバイトを続けている。だが、そんな桜にもチャンスと言うものは訪れてくれた。

 桜が自分で創作したあの歌、あのメロディーが人々の心にとどまるようになったのだ。

 波が浜辺に打ち上げるように桜の歌声は多くの人の心を魅了させた。

その歌声はこの日本のみならず全世界へと広がった。


 僕の端末がインフォメーションを告げる。僕ら研究員はある端末を持たされている。その端末は研究所にあるバイオサーバーと直結されている。その端末の外見は一般にあるスマートフォンと遜色なく見ることが出来る。

 知らない人には、普通のスマホにしか見えない。だがこの端末は、僕の大学にあるコンピューターと同じくらいの処理能力がある。しかもこの端末は、所有者の生体認証がされている。

 他の誰かが使用しても何も反応はしない。

 僕とこの端末の生体パルスの許容範囲は、半径五十メートル。もしその距離を一ミリでも外れれば、研究所のバイオサーバーはアラートを発令し、あの黒ずくめの奴らが僕らを捜索にやってくる。


 状況においては一撃で狙撃される。


 端末は直接脳に話しかける。

 「倉塚桜よりコールが来ています。受けますか?」

 僕は、考えを端末に伝える。声に出す必要はない。

 「ああ」

 「イエッサ、アクセスコンプリート」

 「あ、雫。もう家に着いたの」

 僕は端末を耳に当て会話をする。端末はその状況を把握し、スピーカーから音声を送る。本来このようなことをしなくてもいいのだが、母さんの手前そうしている。

 親父は、「フン」とした表情で目をそらした。

 「ああ、さっきな。今日は確か仕事だったよな」

 「うん、今スタジオに入ったとこ。なんだか急に雫の声聞きたくなっちゃって。ごめんね」

 「別に謝ることじゃないだろ。桜、お前珍しく緊張しているのか」

 「うん、ちょっとね。だって私の作った歌がワールドDM(デジタルミュージック)になるんだよ。なんだか信じられなくて」

 「そうだな、でもお前頑張ったからな。大丈夫だよ桜なら」

 「うん、ありがとう雫。あ、もう行かなきゃ。明日マスターのとこで待ってる」

 「うん、明日昼過ぎにマスターのところで。それじゃ、頑張って」

 「ありがとう。雫」

 回線は切れた。

 母さんは、僕の会話を素知らぬ顔で聞いていた。

 「桜ちゃん?」

 「ああ、そうだよ」

 「ねぇ、その婚約指輪渡す相手って桜ちゃんじゃないの」

 「あ、いや、後でちゃんと報告するよ」

 僕は返事をはぐらかした。正直恥ずかしかったからだ。

 「うんもう、じれったいんだから。桜ちゃんなら私大歓迎よ。本当に桜ちゃんみたいな子が娘だったらって、いつも思っていたんですもの」

 母さんは、ちらっと親父の方を見た。親父は罰が悪そうに、持っていた雑誌で顔を隠した。

 桜は、この家によく来ていた。

 最初の何度かは僕が連れて来ていた。

 初めは緊張していたが、三回目くらいになると、母さんと一緒に料理をするくらい打ち解けていた。

 横で見ている僕が来客で、彼女の方が母さんの実の娘の様だった。

 そのあとも桜は、僕がいなくてもこの家に来るようになった。家で一人切りでいる母さんの話し相手として、彼女の時間が取れるときによく来てくれていた。

 もちろん、僕も彼女の家には、何度かお邪魔したことがある。

 彼女の親はとても朗らかで、快く僕を迎えてくれた。

 だが、彼女の母親は、桜を生むと同時にその命を引き替えた。

 そんな境遇のためかもしれない。母さんを自分の母親の様に慕ってくれている。

 彼女の父親も、桜の意思を共に願い、応援をしてくれていた。

 

 「母さん、夕飯まで、まだ時間ある?」

 「そうねぇ、もう少しかかるかしら」

 通信映像のディスプレイからニュース速報が流れる。

 「厚生庁はこのたび、世界各地で発生が広がりつつある病原「デス・キラー」病について全世界保険機構と対策の協議に入ることとなりました……」

 「デス・キラー」病。およそ十七年前からその病気は世に報告された。その治療方法はまだ開発されていない。現在の病気で亡くなった罹患者は、世界でおよそ一万人。その数は年ごとに増加の一途をたどっている。

 この病気の特徴は、内外の疾患についてはまったくの無関係で、本当に健康な人でもある日突然罹患する。現在の世界で分かっていることは、脳がその存在を認めなくなると言う事だ。

 

 脳がその存在を認めなくなる。

 

 つまり、その人がこの世で生きていることを認めないということだ。

 その症状は、さまざまだった。

 ある日を境に、少しづつ記憶が曖昧になり、アルツハイマー病のような症状を経て死に至るケース。突如に体の一部が機能しなくなり、その後その症状が全身に行き届くのを待つように死を待つタイプ。

 そして一番多い症状が、ある日突然全機能を停止して死に至るケース。このタイプの症状が一番多かった。

 この一番多いケースにはある症状があった。

 死に至るその直前に、数分間意識が戻るという症状だった。その数分間で、この世界から別れを告げられるようにと。

 「デス・キラー」病。この病気は、現在の世界では百パーセント死に至る病気として恐れられている。

 「まったく、変な病気が出てきたものねぇ」

 母さんは、怪訝そうに言った。

 実際、研究所でもその研究をしている部署がある。だが、その研究の経過や進歩などは一切表には出ていない。僕ら研究員にも。

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