シュピーゲル

大槻亮

第1話 案内人

 携帯の振動が木の机を震わせた。

 振動パターンと長さは、電話が掛かってきたことを示す。

 本を閉じて座り直し、震えながら横に動いていく携帯を手に取った。

 ディスプレイには《直江健吾なおえけんご》と表示されていた。

 携帯にかけてくる相手は、実家の両親か健吾しかいない。応答をタップ。

「……はい」

『声、低っ! いつも一瞬、間違い電話かけちゃったかと思って焦るんだからさ、もっとテンション上げて出てよ』

 健吾の声は高い。いつも明るい声で喋る。それが少し羨ましいけれど真似はできそうにないといつも思う。

「無理を言うな」

『なにも大きい声で喋れって言ってるんじゃないんだから、ちょっとくらい努力してみなよ』

 努力は必要だろうとは思うが、いかんせん面倒くさい。健吾相手ならなおさらやる気が起きない。

「俺が生きていることを確認し、説教するために電話したのか?」

『それもあるけど、ちゃんと用事はあるよ』

 生存確認は否定されなかった。

『実は、久しぶりに織部おりべ探偵の知恵を借りたいんだ』

「その呼び方をするということは、何かやったのか?」

 普段は希榛きはると名前で呼んでくる健吾が、織部探偵と呼称するときは、トラブルを抱えているときだ。

『失礼な。僕がトラブルを起こしたことなんかないでしょ。今回は別に、困ったことが起きたわけじゃないんだ。見せたいモノがあるんだってば。ちょっと複雑で、現物を見てもらったほうがいいの。明日、大学に来てよ』

 どちらかというと遊びに誘っているようだ。探偵と呼ぶからには何か謎解きの必要があるのだろうが、憂鬱になるようなものではなさそうに思える。

「誰から持ち込まれたものなんだ?」

『ん? これは僕の持ち込みだよ』

 依頼されたものでないとは珍しい。大学に入ってから探偵部の活動はしていないし、高校卒業時に部を存続する話もしていなかったので、勝手に依頼を取ってくることも考えにくいことではあったが。

『希榛がすぐ電話に出たってことは、今は家にいるんだよね? バイトもしてないし暇でしょ?』

 最近バイトを辞め、希榛は一日中本を読む日々を過ごしていた。

 電子書籍が当たり前になった現代、希榛も読書専門端末を二台持っている。普段は端末で読書しているのだが、近所に新しくできた骨董店で紙の本が売られていたのを見つけ、一気に十冊ほど衝動買いしてしまった。値はそれなりに張ったが、バイト代をほとんど使っていなかったので余裕で買えた。

 小説、歴史書、医学書、数学書、宗教書、百年以上前のマンガなど。ジャンルはバラバラだったが全て読破するつもりで、ずっと読み続けていた。

『希榛のことだから、どうせずーっと本でも読んでたんでしょ』

「ああ。近所に骨董店ができたからな」

 希榛は、亡くなった祖父の遺品として紙の本を三十冊譲り受けており、それを実家から今住んでいるアパートに持ってきてたまに読み返しているのだが、新しい紙の本に出会う機会がほとんどなく、あの店で見つけたときは本当に嬉しかった。

『マジで? 適当に言ったのに当たると思ってなかった……。っていうか今でも紙の本読んでるの?』

 今手に入る紙の本は、電子出版委員会に見落とされた、歴史に埋もれたものだけだ。希榛の持つ学術書の内容は、今では大きく更新されているため、学術的価値のない本ということになる。

 しかし希榛は、そんなものも小説と同じく読み物として楽しんでいた。

『どのくらい読書してるの?』

「四日だ」

『なんだ、まだ日は浅いんだね』

「四日間、ぶっ通しだ」

『ええ!?』

 希榛は、健吾の声にびくりとして携帯を落とした。慌てて拾い上げる。

『希榛?』

「電話を落とした。お前が大きな声を出すからだ」

『ごめん。――ねえ、最近また、少し過敏になってるんじゃない?』

 言われてみれば、そんな気がする。

『静かすぎる場所で過ごしてるからじゃないかな。外に出ないと』

 希榛は一人で家にいるのが好きだ。他人と付き合うのが苦手である。しかしそれでは社会に出られないと健吾に説教され、仕方なくコンビニでバイトすることにした。

 コンビニでは必要最低限のことを言い、必要最低限の動きをしていればいいので、無口で無表情な希榛にもできた。同僚を無言で手伝っても、とくに気にされることもなかった。

 しかしある事件により、同僚と店長を怖がらせてしまったため、自主的に辞めたのだった。そんな希榛は就職活動をどう切り抜ければいいのか悩むところだったが、今はとりあえずそれを忘れて読書に没頭していた。

『本を読んでさらに磨かれた織部探偵の知性を生かすためにも、明日は大学に来るべきだね』

「大学じゃなきゃダメか? 《グース》でいいだろ」

 外に出る必要性というか危機感は希榛にもあったが、とにかく移動するのが面倒だ。

 希榛は自分の家の近くのファミリーレストランを指定した。

 二人は三年生だが単位を取り終わって、大学にはほとんど行っていない。希榛の家から大学までは電車で一時間ほどの距離があるため、男二人の待ち合わせのためにわざわざ行く気にはならない。

『グースじゃダメだよ。人が多いもん。できるだけ人のいないところがいいんだよね。っていうかもう教室押さえちゃったから来てよ』

 空き教室を予約すれば簡単に密室が作れるが、そこまでして見せたい面白いモノとは何だろう。少し興味を惹かれた。

「じゃあ行く。ただし飯はお前の奢りだ」

『もちろん。グースでもセゾンでも、好きなところで奢るよ』

 セゾンは、地元では有名な高級洋食店だ。希榛も行ってみたいと思っていた。そこの名前を出すほど、どうしても来てほしいということらしい。もし予想よりつまらないモノだったら本当にセゾンのビフカツを奢らせることにして、健吾の誘いに乗った。

『じゃあ、ギアだけ持ってきて』

 ギアとは、ネット上の仮想空間やゲームに入り込み、バーチャルリアリティーの世界を体験するための道具だ。パソコンに接続し、頭に被って使用する。2057年現在、ほぼ全ての日本人に普及している。高校では専門の授業があり、そこで適切な使用法や危険を学ぶ。

 新しく配信されたゲームでも見せるつもりだろうか。希榛はあまりゲームには興味がない。以前、健吾の家で半世紀以上前の戦争を題材にしたアクションゲームを協力プレイしたことがあり、そのときは初心者とは思えないと腕前を褒められたが、それでも自分で買ってやってみようとは思わなかった。

 翌日、ほとんど使っていないギアを物入れから引っ張り出し、久しぶりに大学へ向かった。



 平日の午前、中途半端な時間の地下鉄は空いている。

 無人運転の電車の三号車に、乗客は希榛一人だ。窓には、次の駅の名前や運行状況や広告がホログラムで映し出され、流れていく。

 地下鉄はほとんど揺れることなく、静かに運行されていく。女性の合成音声のアナウンスが、誰にも邪魔されずに聞こえてくる。

 途中、高そうなスーツを着た若いビジネスマンらしき男が乗ってきた。

 彼は、フレームのない四角く細いレンズのメガネをかけている。

 それがただのメガネでないことは希榛にも分かる。

 視覚連携型ウェアラブル端末だ。携帯のアプリケーションと連動させることで、風景の上からさまざまな視覚的情報を得ることができる。

 たとえば混雑状況確認アプリなら、電車や店を見るだけで混雑度合がパーセント表示される。今の混雑度合はほぼゼロだろう。

 アプリ次第でいろいろな機能を持つメガネ型端末だが、まだ価格が高く、大学生の希榛には手が届かない。

 希榛は彼を観察するのをやめ、窓のホログラムをぼんやりと眺めた。

 この程度だ。2057年の科学技術は停滞している。

 1980年代の古いSF映画の中の世界のほうが、未来的な感じがするくらいだ。

 いまだ、人間と見間違えるようなヒューマノイドはできていない。今あるのは、二足歩行して喋って表情を変える人形だ。見れば作り物であることがすぐに分かる。

 大昔の人々が、すぐに実現すると憧れ、恐れてきた未来はまだ来ていない。

 希榛は急にそんなことを思い、ため息をついた。



 指定された3号館407教室に入ると、ノートパソコンのセッティングを終えた健吾が待っていた。

 右袖が赤、左袖が青で、白い中心部にはバンドのロゴがプリントされたパーカーにジーンズ、真っ赤なスニーカー。短い茶髪はワックスで整えられ、両耳に一つずつ大きなピアスがある。童顔で小柄な健吾は、服装のせいでいっそう幼く見える。本人も敢えてそうしているのだろう。

「相変わらず派手だな」

「希榛は喪中みたいな恰好だよ。上から下まで真っ黒じゃん。夜、車に轢かれるよ」

 そう言われて初めて気づいた。黒い襟つきシャツに黒いズボン、紐まで真っ黒なスニーカーで来てしまった。しかも黒髪。

「何も考えてなかった」

「背の高い真っ黒な男とか、怖いよ。少しは気をつけなよ」

 希榛はファッションに無頓着で、たいていモノトーンの服を着てしまう。対して、健吾はオシャレ好きで派手な服もよく着ている。二人は趣味も好みも違うが、なぜか一緒にいる。

「無意識に服を着るほどやる気のない希榛でも、これなら興味を持つんじゃないかな」

 健吾は、ノートパソコンのモニターを見せてきた。黒い背景に緑色の線で、幾何学模様がリズムよく広がる中心で、《Spiegel》というタイトルが表示されている。

「シュピーゲル……新しい音ゲーか? バーチャルリアリティー型の」

 音楽に合わせてボタンを押すゲームなら、ゲームセンターで何度かやったことがある。それと似た雰囲気の画面だ。

「これはゲームじゃないんだよ。ネットで噂になってて、結構有名なんだけど知らないかな? まあゲーマーのコミュニティーから広まったものなんだけど、最近はいろんなところで見かけるんだ。『すごい体験ができる』とか『人生観が変わる』とか言われてるんだよね」

 いたずらっぽくニヤニヤしながら健吾は言う。

「ゲームじゃないなら何なんだ。違法なものじゃないだろうな。もったいつけずに教えろ」

「それがさ、どんなものかは全く分からないんだよね。いろんなサイトを見たけど、いまいち全体像が掴めないんだ。これは、バイト先の辞めちゃった先輩にもらったんだけど、『お前もやってみろ、すごくいいから』って言われてさ」

「話だけ聞くと麻薬みたいだな。危なそうだ」

 「すごくいい」など、覚せい剤の誘い文句だ。そんな危険なものを軽々しく友達に勧める男だとは思いたくないが、好奇心の強い健吾なら、確かに惹かれそうな気はする。

「僕だって友達を危険な目には遭わせたくないからさ、二人で協力して安全に全体像を見ようと思って。実はこれ、もう改造してあるんだよね」

 健吾のもう一つの趣味は、プログラミングとハッキングだ。ハッキングでテスト問題を事前に入手したこともある。そのときは希榛も世話になった。

「希榛が中に入って体験する様子を、僕がパソコンでモニタリングして、僕がマイクで喋る声を希榛が聞けるようになってるはずだよ」

「俺を通して外からSpiegel内を見て分析するのか」

「そう。危険だと思ったら強制的にログアウトすることもできる。ね、これなら安全」

 この方法を採るなら二人でないと無理だ。健吾が強引に誘った理由がやっと分かった。

「そこまで言うなら、いいぞ」

「……やけにあっさり乗るね。それでこそ希榛だよ。男らしい」

 希榛も興味が出てきたし、少々の危険には動じない鈍さがあると自覚している。元バイト先のコンビニで強盗が入ったとき、ナイフを持った男に一人で対処した。

カウンター越しにナイフを突きつけて来たその右手を正面から掴んで捻り、ナイフを取り上げた。そしてカウンターを乗り越え、強盗を取り押さえた。そのとき希榛が発した言葉は、「通報してください」だけだった。取り押さえるまでは無言で、しかも無表情だったとその場にいた女子大生の同僚に言われた。

そのことでその同僚に怯えられ、店長にも怖がられてしまい、辞めることになったのだ。

「じゃあさっそく、と言いたいところだけど、準備することがあるんだ」

 モニタリングはハッキングによる不正なものだ。Spiegel側に知られるわけにはいかない。

 希榛には外の健吾の声が聞こえるが、希榛は独り言を頻繁に言うわけにもいかないので、合図を決めておく。健吾の意見が聞きたいときは、首を右に二秒以上傾ける。「こいつの言っていることは本当か?」はこめかみを三回叩くジェスチャー。外から見た実態と内側が矛盾していないかどうかをこれで確かめる。

「よし、これで怖くないね。ギアをはめてみて」



 パソコンに接続済みのギアを頭に被ると、さきほどのタイトル画面がそのまま空間に広がった。バックにはシンセサイザーによるダンスチューンが軽快に流れている。音楽ゲームのようだ。

 最初に、性別と年齢を選択する。読み込みが終わると音楽が止まり、画面が暗転して何も見えなくなった。

 その直後、白い光の球体が希榛の目の前に現れた。

「これから、あなたの案内役を務めさせていただきます。私と一緒に、あなたの世界を作りましょう」

 澄んだ声で光が言った。

「まずはあなたにぴったりの場所へ行きます。そのために、いくつかの質問に答えていただきます。声で回答してください」

 手元の位置に、ホログラムの文字が表示された。

《自然に囲まれた場所と賑やかな都市、どちらが好きですか?》

 希榛は首を右に傾け、健吾の意見を仰ぐ。

『多分、開始地点のシチュエーションを決めたいんだと思うよ。いくつかこういう質問をして、体験者が快適に過ごせるようにしたいんじゃないかな。好きに答えていいよ』

 頭の中に響くように、健吾の声が聞こえた。なかなか心強い。

「じゃあ、都市」

《家は戸建てがいいですか? マンションがいいですか?》

「家まで用意されるのか。……マンションかな」

 他にも、海か山のどちらが好きか、イベントは好きか、どの季節が好きか、果ては犬派か猫派かまで、全部で五十問以上の質問に答えて、やっと次のステージに進んだ。

「疲れた……」

「お疲れさまでした」

 唐突に少女の声がした。目の前に、淡い透けるような薄茶色の髪の、小柄な少女が現れた。その髪には毛先にゆるくウェーブがかかっており、目はオレンジがかった茶色で、肌は真っ白だった。青いリボンが胸元についた水色のノースリーブワンピースを着ている。靴は白いエナメルのパンプスだ。

「私はさきほどの質問の答えから生成された案内人です。これからはこの姿であなたのサポートをさせていただきますね」

『わー、かわいい子だねえ。希榛、こういう子が好みなの?』

 さきほどの、都会か田舎かとか犬派か猫派かなどという質問は心理テストも兼ねていたのだ。質問の答えによって、案内人の傾向が決定されるのだろう。

「まずは、あなたのお名前を教えていただけますか?」

織部希榛おりべきはるだ」

「キハルさま、ですね。それは本名でしょうか?」

「ああ、そうだが」

 そこで案内人の少女は、にっこりと微笑んだ。

「ここは現実とは違う仮想空間です。本名以外の名前でも活動できますよ。キハルさまは、そのお名前で活動されるのですか?」

 ゲームのプレイヤーネームやネットのハンドルネームのようなものを設定することもできるということらしい。だが、気の利いた名前も思いつかないうえに、希榛には何のビジョンもない。

「この名前でいい」

『まあ本名のほうが観察してるほうは混乱しなくて助かるけどね』

「分かりました。では次に、キハルさまのお姿を決定してください」

 少女は希榛の目の前に大きな鏡を出現させた。希榛はその前に立ったが、何も映し出されていない。

「私にはまだ、キハルさまのお姿が見えません。この鏡はタッチパネルになっていますので、そこでお姿を作成してください。年齢、性別、身長、体格、顔、声、服装まで、何でもお好みに設定することができます」

 希榛が鏡に触ると、人型の輪郭線だけが鏡に表示された。《身長》《顔》《声》など、いくつかのカテゴリが書かれたボタンが表示され、身長をタップするとホログラムの調節ツマミが現れた。右に回すと高く、左に回すと低くなる。輪郭線の頭部分の上に身長が数値で表示される。希榛はとりあえず現実通りの179㎝に設定した。

「これ、いちからやらなきゃいけないのか? 面倒くさい……」

『頑張ってよ』

「仕方ない、適当に作るか」

 考えるのが面倒だったため、髪型も顔も服装も現実のままにした。声は地声をベースに調整して変えられるようだったが変えなかった。

『これさあ、思いっきりいろいろ変えて美少女になることもできちゃうんじゃないの? 実際、そうしてる人もいるんじゃないかな』

 ここで遊び心を出して普段と全く違う自分に設定することは可能だったし、そんな遊び方こそ仮想空間の醍醐味だろう。だが、希榛にはそんな変身願望はなかった。仮にあったとしても、それを友達に全て見られてしまうのは恥ずかしい。

「これでいい」

 キャラクターメイクを確定させ、終了のボタンをタップした。

「わあぁ……!」

 すると少女が、希榛を見て目を輝かせた。手を胸の前で組んで、頬を紅潮させている。

「とっても恰好いいです! これからよろしくお願いいたします、ご主人さま!」

 なんだか、アパレルショップでホログラム試着をしたときの店員が言う「とてもよくお似合いです」と同じ感じがして少し嫌だった。案内人はいわばパートナーとなるのだから、プレイヤーに好意的なのが前提であり、この反応は決められたテンプレート通りのものであるのだろうが、それを差し引いてもあまり好みの反応ではなかった。

「お前の性格も、変えられるんだったな」

「はい。キハルさま好みの私になります」

 プロポーズの言葉のようだが、ここではそのままの意味だ。この少女の性格を、希榛が細かく設定して変更することができる。

『ちょっと、今この子をもっと静かな子にしようとしたでしょ。ダメだよ、そんなことしたら会話が続かなくなっちゃうじゃん。希榛、もともと人に話しかけるの苦手なんだから、会話のきっかけは常に向こうが与えてくれるようにしとかないと。それに、向こうが多弁なほうが情報を手に入れやすいよ。調査のためにも、お喋りなパートナーにしときなって』

 健吾の言うことにも一理あった。よく喋る異性とあまり接したことがないため苦手に思っているが、希榛の目的は飽くまで調査だ。そのためなら、多少の我慢も必要である。

「……やっぱりこのままでいい。どうするかはもう少ししてから決める」

「キハルさまのペースでいきましょう。――次はこの世界の環境を作成します」

 すると真っ暗だった世界が明転し、3DのCG画像を作るときのような、高さと幅と奥行きを表すマス目状のグリット線が現れた。

「これも、さきほどの質問の答えからある程度初期設定をこちらでいたします」

 すると、まず床が作成される。薄いグレーの無地の絨毯だ。さきほどまで何の感触もなかったが、ここで絨毯の上に靴を履いて立っているという感触が急に感じられるようになった。

 次に、オフホワイトの壁と白い天井。白いシーツの簡素な木製ベッドに、小さな四角いサイドテーブル。その上にはシンプルなランプシェイド。全体の照明は天井にいくつか埋め込み型の電球があるだけの簡素なものだ。部屋の中央にはマホガニー製の丸テーブルに、同じ色の椅子が二脚。希榛から見て左側の壁には大きな出窓がある。そこからはまだ外は見えない。正確にはまだ外といえるような物がない。グリッド線の空間が広がっているだけだ。部屋の広さは二十畳ほどだ。

『ホテルのスイートルームって感じかな。それにしてはシンプルすぎるけど』

「これはとりあえず作成したものですので、好みには合っていないかもしれません」

「また、さっきの鏡で細かく作るのか」

 いい加減、うんざりしてきた。

「いいえ、キャラクターメイク以外は、私に声でご要望をお伝えいただければその通りに作成いたします。建築や、気候の操作も一瞬でできますよ」

 それはありがたかった。希榛はもともと、美術的な作業が苦手だ。

「Spiegelとは、ドイツ語で鏡という意味です。ここは何でも、キハルさまの思いがそのまま反映される世界。つまりキハルさまご自身を投影した像の世界なのです。鏡を見つめ、その像を変化させることでキハルさまの心そのものを見つめることになります」

 分かるような分からないようなコンセプト説明だった。しかしもう、詳しく話を聞く気力がない。一旦終了して、健吾と相談しつつ頭を整理したい。

「今日はここまでにしようと思う。ログアウトしたい」

「ログアウトも、案内人、つまり私にお申し付けくださればすぐに……。あの、でも……」

 少女が何か言いたげにもじもじとしている。

「何だ」

「いえ……最後に一つ」

 そして勇気を振り絞るように、上目遣いで希榛を見た。

「私に、名前をつけてください!」

「……ああ」

 忘れていた。

『それ、さっきから思ってたけどまさか忘れてたの? ひどいなあもう』

 気づいていたなら指摘してほしかった。とはいえ、確かに名前がないと呼びにくい。しかし何も思いつかない。

「こうなったら最近習った、響きのいい単語でも当てはめるか」

 希榛は大学で二年生までフランス語の講義を受けていた。その場のテスト対策に精いっぱいで全く身につかなかったが、なんとか簡単な単語を記憶から引っ張り出す。

「……フィーユ」

 《少女》という意味だ。猫に《ネコ》と名付けるようなものだが、呼びやすく、日本人からすればかわいらしい名前と言えなくもない。

「後で変更できるんだろ? とりあえずこれでどうだ」

「……あの」

「嫌か。なら――」

「いいえ! とてもいい名前です!」

 大声で、必死で訴えるフィーユ。少しびっくりした。

「かわいい名前……。なんだか感慨深くて。これで私も、案内人としてスタートラインに立てました。ありがとうございます。そして、改めてよろしくお願いいたします、キハルさま」

 とても満足げで、嬉しそうな笑みを浮かべた。悪い気はしない。

「――だが今日は帰る。もうお前が何と言おうとも帰るぞ」

 少しいい気分にはなったが、疲労が溜まっていることには変わりない。

「は、はい。ではログアウトします。またのお越しをお待ちしております」

 すると景色は明転のあと暗転し、最初のタイトル画面に戻った。希榛はギアを外した。



「ああ疲れた」

 そこは、もとの殺風景な希榛の部屋だ。希榛は自室の固い椅子に座っていただけだ。隣の健吾がコンピューターの終了作業を終えた。

「お疲れさま。どう? どんな感じだった? もしかして気に入らなかったとか?」

「そんなことはないが」

「いや、だってさ、ずーっとつまんなそうな顔してたじゃん。目の前にいきなりかわいい女の子が現れてもリアクション薄かったしさ。普通もうちょっと浮かれるよ? 観察する側としては冷静なのは助かるけど、希榛がつまんないなら続けるのも悪いし」

 テンションは確かにいつも通り、冷静なものだったと思う。しかし、決して退屈だったわけではなかった。

「初っ端から情報量が多すぎて疲れただけだ。なかなか奥が深いと思うぞ。まあまだ奥どころかほとんど何も見えてないが」

 なーんだ、と健吾は安心したように笑った。

「よかった。一応、気に入ってもらえたんだ。僕も、希榛に新しい刺激を持ってきたかったからさ。その甲斐があったよ」

「別に俺は刺激に飢えているわけじゃないぞ」

「だっていっつも無表情なんだもん。僕は、もっといろんな顔してる希榛が見たいの。それには、このSpiegelがうってつけかなって思ったんだよ」

 Spiegelは鏡。鏡の像を自分で作り、そこに実像の心を発見する。確かにこれなら、自然に仏頂面以外の顔ができるようになる日も来るかもしれないな、と希榛は思った。










 


 









 

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