ファースト・コンタクト
ざあ、と鼓膜を震わせる雨の音。
彩度を失ったモノクロームの世界に、八束はたった一人で立ち尽くしていた。雨以外に聞こえてくる音はなく、人の気配もない。全身に降り注ぐ水滴と生ぬるい空気の温度だけが、肌から身の内に染み渡っていく。
――ここは、どこだろう。
見渡してみても、見知らぬ町並み。「知らない」ことそのものが、八束にとっては何よりも恐ろしい。八束が立っているのは灰色の世界の真ん中、いくつもの道が交わる場所だった。
どこに行けばいいのか。そもそも、どこに行こうとしていたのか。わからない。何もかも、わからない。
けれど、立ち止まってはいられない、ということだけははっきりしている。
胸の奥で、誰かが、絶えず急き立てているのだ。前に進め、立ち止まるな、追いつかれるわけにはいかない、と。
追いつかれる。何に?
ふと、振り返る。
振り返って、しまった。
ぽっかりと穴の空いた双眸を持つ頭蓋骨が。足のない、真っ白な衣を纏う幽霊が。息がかかるほど近くで、八束を虚ろに見据えていて――。
「~~~~っ!!」
詰まっていた息を一気に吐き出して、飛び起きる。
そこで、初めて、自分が眠っていたのだということに気づいた。朦朧とする頭を振り、目をこすって、何とか視界を確保する。
目に入る景色は、灰色ではない。人気のない町並みでもない。ただ、背の高い棚が立ち並ぶ倉庫然としたこの部屋が「知らない場所」という点は変わりなかった。
知らない部屋の、知らないソファの上。自分が置かれた状況が、寝起きのぼんやりとした頭のせいもあって、さっぱりわからない。
「ここ、は……?」
唇から漏れた、ほとんど無意識の呟きに対し、
「待盾警察署」
予想外にも明確な返答があって、「ふえっ」と間抜けな声を上げてしまう。すると、ソファの背の向こう側から何かがぬっと現れて、八束を見下ろした。
何か。そう、それが「何」であるのか、すぐには判別できなかったのだ。
だから、それが髪一つ生えていない頭を持ち、そのてっぺんから顎の先まで土気色をした、死人じみた顔の男であって。そんな男の、血走った双眸に見据えられているのだ、と気づいた瞬間。
声もなく、気絶していた。
「いやー、流石に少し傷つくな」
「南雲くんも傷つくことがあるんですねえ」
「ありありですよ。グラスハートですよ」
「それ、防弾硝子製ですよね絶対」
ぽつり、ぽつりと。耳に入る言葉は柔らかい響きを帯びていた。鼻をくすぐるのは、慣れ親しんだ珈琲の香りだ。
八束は、恐る恐る、堅く閉じていた目を開く。今度こそ、夢ではない場所、八束にとっての「現実」で目覚めることができると信じて。
が。
「あ、やっと起きた。おはよ、元気?」
ソファの背に腕をかけ、ひらひらと目の前で手を振っているのは、先ほど視認してしまった、土気色の顔をしたスキンヘッドの男であった。黒縁眼鏡の下の細く凶悪な目つきといい、その目を縁取るやたら濃い隈といい、見れば見るほど妖怪然とした顔つきをしている。
流石に二回目なので恐怖に意識を飛ばすことはなかったとはいえ、息を呑んで硬直し、ただただ男を凝視することしかできない。すると、その後ろから、もう一人、知らない男が顔を出した。
こらこら、と男のつるりとした頭を小突いたその男は、細められた目が特徴的な、どこか狐を思わせる顔立ちに穏やかな笑みを湛えていて、緊張に満ち満ちていた八束は拍子抜けしてしまう。
「また脅かしてどうするんですか……。怯えてるじゃないですか」
「何度かやれば慣れるかなと」
「きちんと話をする方が先でしょう? すみません、驚かせてしまって」
男の言葉の後半は、八束に向けられたものだった。八束ははっと我に返り、ぴんと背筋を伸ばして声を張り上げる。
「い、いいえ! わたしは、大丈夫です」
「だいじょぶには見えなかったけどなあ」
いやに気の抜けた声で言う妖怪男を横目に、後から現れた男は、恐怖に凝り固まっていた八束をほっとさせる、柔らかく人好きのする笑みを向ける。
「いやはや、転属初日から事故に巻き込まれるとは、何とも災難でしたね、八束くん」
八束もつられるようにへにゃっと口元を緩め、「いえ」と言い掛けたところで、違和感に気づく。
「あれっ、どうして、わたしの名前」
「ああ、申し遅れました」
男は目を糸のように細め、優雅に一礼する。
「僕は待盾警察署刑事課神秘対策係係長の、綿貫栄太郎と申します。ようこそ、神秘対策係へ」
「え」
――神秘対策係。
警察の一部署らしからぬ奇妙な名の係は、しかし、八束結が本日付で配属となる係であって。
ソファの上で足を投げ出したまま、これからの上司と相対していたのか。慌てて立ち上がろうとして、体にかかっていた大判のタオルケットが胸元から落ちかけて。
そこで、初めて、上半身に何も纏っていないことに気づいた。
いや、上半身だけではない。下に穿いていたはずのスカートも失われていて、凹凸のないぺったりとした裸体に下着一枚という、とんでもない格好であった。
「あ、ええっ!? ど、どうして」
慌ててタオルケットで体を隠しながら、何とか記憶を手繰り直す。最低でも、八束の記憶が正しければ――八束に限って、記憶が「正しくない」はずはないのだが――気を失う直前までは、きちんと前部署からの仕事着であるスーツに身を包んでいたはずではないか。
すると、一応目を逸らしてくれていたらしい禿頭の男が、ぼそっと言った。
「服はびしょ濡れだったから、交通課の子に脱がせてもらって、こっちで預かってるよ。風邪引いちゃうといけないから」
「早く言いましょうよ」
「ごめんね?」
男は、ちょいと首を傾げてみせる。ただ、のんびりとした言葉に対して表情は依然として険しく、虚空を睨む視線は厳しい。もしかして、迷惑がられているのだろうか、と不安になりながらも、タオルケットを胸元に抱いたまま、頭だけを下げる。
「こんな格好ですみません。本日付で待盾署刑事課神秘対策係に配属になりました、八束結巡査です。これから、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします、綿貫係長。と……」
「こっちは、主任の南雲彰くんです。うちの、今のところ唯一の係員ですね」
「よろしく」
そう言って手を挙げる南雲は、それでも眉間の皺を崩さず、じっとりとした目つきで八束を見下ろす。
――これは、もしかしなくとも、怒らせてしまったのではないだろうか。
さあっ、と頭の上から血の気が引く。
ここまで来れば、流石に八束も目の前の男が生きた人間であり、自分の直属の「先輩」であるという程度までは理解が及んでいる。
いくら寝ぼけていたからといって、その先輩を夢から飛び出してきた妖怪と誤認して勝手に怯え、それどころか気絶までしたのだ。それが、とびきりの失礼に値することくらい、八束にだってわかる。
気づいてしまったからには、黙っていることなんて出来なくて。八束は勢いよく、南雲に向かって頭を下げた。
「南雲さん、先ほどはすみませんでした!」
「え、何が?」
きょとん、という効果音が聞こえてくるかのごとき動きで、南雲が再び首を傾げる。仏頂面だけはそのままに。
怒られるとばかり思っていただけに、八束も言葉を失ってしまう。
しばし、奇妙な沈黙が流れ、やがて、南雲がぽんと手を打った。
「もしかして、怒ってるように見えた?」
「はいっ」
正直に頷くと、南雲は無造作に手を伸ばし、八束の頭を軽く叩いた。その手は大きく、ひんやりとしてこそいたが、それでも生きた人間の感触をしていた。当然ではあるが。
「悪いね、俺、いつもこういう顔なんだ。色々言われ慣れてるし、別に気にしてないよ」
「そう、なんですか?」
「そうなの。だから、まあ、慣れて」
慣れて、と言われても。
何ともいえずに南雲を見上げるものの、南雲は暗い顔で八束の頭をぐりぐり撫でるばかりで、やはり、何を考えているかはさっぱりわからない。声のトーンや仕草から判断するに、怒っていない、というのは嘘ではなさそうだが。
そんな二人を苦笑混じりに眺めていた綿貫は、南雲が手を離したところで、声をかけてきた。
「さて、八束くんも、落ち着きましたか?」
「は、はい、何とか」
多少の混乱は残っているものの、撫で回されているうちに当初の恐慌は収まった、と思う。小さく頷くと、綿貫はほっと息をついてみせた。
「しかし、無事でよかったです。事故現場に倒れていたと聞いた時には肝を冷やしましたよ」
「事故現場に、倒れていた……?」
「ええ。覚えていませんか?」
「いえ」
――そう、覚えていない、わけではない。
確かに、気を失う前の最後の記憶は、雨の中、横倒しになっていたバイクと、倒れ伏す運転手と見られる男の姿だった。それに、もう一つ、記憶にちらつく白い影。
ぞくり、と。全身に走る怖気に、タオルケットを強く抱きしめる。
違う、思い出してはいけない。あれはただの見間違いであって、何も恐ろしいものではない。
そう思いたいのに、たぐり寄せた記憶に焼き付いた何者かが、じっと、こちらをのぞき込んでいる。眼球のない、吸い込まれそうな闇色の二つの穴が、八束を捕らえて離そうとしない――。
「積もる話は、着替えてもらった後の方がいいんじゃないすか? そのまんまじゃ、お互い話しづらいでしょう」
突然、投げ込まれる、いやに明るい南雲の声。その声に導かれ、記憶の奥深くに落ちかかっていた意識が浮上し、白い影の幻影も目の前から掻き消える。
顔を上げると、何かが顔に覆い被さってきた。慌てて顔にかかったものを剥がすと、目の前に立っていた南雲が、八束の手元を差す。
「それ、交通課の子から借りた服。サイズ大きいかもだけど、濡れてるのよりは幾分マシかと思って」
手にしたものをよくよく見れば、それは柔らかな素材のブラウスに、紺のスカートだった。きっちりとアイロンがかけられた服は、ほのかな温もりを八束の指先に伝えてくれる。その温もりが、今は、何よりもありがたかった。
「あ、ありがとうございますっ」
南雲はただでさえ細い目をさらに細め、「ん」とだけ言って、のっそりと八束に背を向ける。綿貫も八束が服を受け取ったのを見届けると、軽く手を振る。
「それでは、我々は外で待っていますね。着替え終わったら声をかけてください」
「はい、わかりました!」
背筋を伸ばして返事をすると、綿貫は満足げに微笑み、南雲を連れて部屋の外に出て行った。
きいぃ、と蝶番の軋む音、次いで扉の閉まる音が響き、後には静寂が残る。
ただ一人、残された八束は、改めて部屋を見渡す。圧迫感のある背の高い棚に収められているのは、ほとんどが書籍と書類のようだった。硝子張りの戸越しに確認できる本のタイトルが、『UFOの謎』だとか『妖怪大全』だとか、およそ警察署とは思えないラインナップであるのが、気にかかるところではあったが。
そして、八束が寝かされていたソファのすぐ後ろには、作業用と思しきデスクが三つ置かれている。そのうち、手前の一つ、パソコンのディスプレイが置かれただけの机が、今日から八束の席となるのだろう。それは言われるまでもなくわかる。
しかし、正面に置かれたもう一つの机の上は、一瞬、ディスプレイの姿すら確認することができなかった。そこに積み上がっているものが何なのか、八束が理解するまでには数秒を要した。
「……くま、さん?」
そう、八束の見間違いでなければ、それらは、間違いなく、無数のテディベアであった。
机の上を占拠している熊――それに混ざって兎や犬、猫にペンギンの姿もあるが――は、色とりどり、模様も様々で、一つとして同じものはないように見えた。
――もしかして、手作りなのだろうか。
仮にそうだとしても、誰がこんなに大量のテディベアをはじめとしたぬいぐるみを作り、机の上に積み重ねているのだろうか。そもそも、これほどまでのぬいぐるみを、一体何に使うというのだろう。
しばし、そのまま硬直していた八束だったが、ふと、自分が上半身裸のままであったことを思いだし、顔を赤くする。実際に誰に見られているというわけでもないが、無数のテディベアの視線に晒されていると思うと、何となく気恥ずかしくなってしまう。
とりあえず、さっさと着替えてしまうべきだ。外で待っている二人のためにも。
そう思いながらも、ついつい、そちらに気を取られないわけにはいかない。ただ、その分、他のこと――例えば、先ほど目にした白い影のことを考えずに済んだのは、ありがたかった。
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