八束さんの不機嫌

 ――今日は、八束の機嫌がすこぶる悪い。

 

 南雲彰は、腕に抱えたアザラシのぬいぐるみ越しに、正面に座る八束結を恐る恐る見やる。キーボードを叩くテンポ自体はこれまでとほとんど変わらないが、その打鍵の音は普段の五割増、短い眉は釣りあがり、頬はぷっくりと膨らんでいる。ぷんすこ、という効果音が今にも聞こえてきそうなほどに、八束の不機嫌は歴然としていた。

 触らぬ豆柴に祟りなし、と言いたいところだが、かの老婦人との約束もある。相手がひとでなしであろうと、約束は約束だ。俺もまあ、変なところで義理堅いよね、と内心で苦笑しながら、覚悟を決めてこつこつと指先で机を叩く。

「ねえねえ、八束」

「何ですか」

 ぎろり、という幻聴が聞こえる睨みっぷり。これはどうも、確実に自分が何か八束の気に障ることをしでかしたらしい、と口の中で溜息を一つ。八束の機嫌を悪化させることなどしょっちゅうだが、いつもと大きく違うのは、南雲の側にその心当たりが全くないということだった。

 とはいえ、心当たりが無い以上、変に構えても仕方がない。地雷を踏んだらその時考えることにして、さくっと本題を切り出す。

「この前の、綿貫さんの話覚えてるよな? にゃんこが大変だって話」

 依然頬を膨らませたままではあったが、南雲の話が普段より幾分真面目なものであることを察したのか、八束はきっぱりと頷くことで南雲の言葉に応える。

「はい、記憶しています。あれから、まだ解決したという話は聞いてませんね」

「だよな。あの事件、ちょっと、気になっててさ」

「……南雲さんが、ですか?」

 八束の眉間に、不機嫌さとはまた別の皺が刻まれる。言うなれば「怪訝」といったところか。秘策の仕事を真面目にやろうとした例のない南雲が、秘策の領分ですらない「野良猫の毒殺未遂事件」に興味を持つ、というのは日ごろの南雲をよくよく知る八束に違和感しか与えないのだろう。

 南雲自身、らしくないと思ってはいるのだが、何とか八束には納得してもらわなければならない。今回ばかりは、どうしても南雲一人では解決できそうになかったから。

「相手が人間なら正直どうでもよかったんだけどさあ」

「それ、警察官として極めてどうかと思う発言ですよ南雲さん」

「でも、にゃんこが酷い目に遭ってるってのは、何かやだなあって思うわけよ」

 これは、かの老婦人からの頼み云々とは関係の無い、南雲の本心であった。人の手によって動物が害されるというのは、どんな理由があったところで胸糞悪い、という感想にしかならない。

 そんな南雲の率直な気持ちを八束も理解してくれたのだろう、「確かに」と深く頷く。いつの間にか、八束のほっぺたもしぼんでおり、一旦南雲に対する不機嫌さは横に置いたものとみられる。

「わたしも、その問題に関しては遺憾に思っていました。もし、南雲さんが積極的に調査をされるというのであれば、わたしも協力させてください」

「ありがと、ほんと助かる。俺、にゃんこ相手だと弱くてさあ」

「弱い?」

「アレルギー。めっちゃ目がかゆくなってくしゃみが止まらなくなる。だから猫には近づけないし猫がいた場所も毛が舞ってるだけでダメみたいでさ。猫好きなのになー」

 南雲の言葉に、なるほどそうでした、と八束が唸る。猫好きなのに猫アレルギー、というのはなかなか切ないが、そうそう治るようなものでもないので仕方ない。猫とは画面越しに、もしくはできる限り遠くから観賞するものである、と割り切るしかないのであった。

 ついさっき、生活安全課から「秘策の仕事に必要」と言い張って借り受けてきた、件の事件の資料を机越しに八束に投げ渡す。危うげなくキャッチしてみせた八束は、ほとんど見てないんじゃないか、と疑いたくなるような速度で資料を流し読み、顔を上げて一つ頷いた。これで完全に頭に入っているというのだから末恐ろしい。

「まずは件の現場から見てみようと思うんだけど、どうかな」

「はい、異論はありません!」

 ぴしっ、と背筋を伸ばした姿勢で返事をする八束のクソ真面目っぷりには、南雲も感心するばかりである。正直、もうちょっと肩の力を抜いてくれた方が南雲も気が楽なのだが、言ったところで八束が「肩の力を抜く」という言葉を理解してくれるとも思えなかったので早々に諦める。

 そして、奥の机で書類と向き合っていた係長の綿貫栄太郎に視線を投げる。

「じゃ、早速今から八束借りていいっすか、綿貫さん」

「ええ。急ぎの仕事もないので、構いませんよ」

「本来の秘策の業務ではありませんが、今から調査に向かってよいのですか?」

 八束が当然の問いを投げかけると、綿貫はいつも笑っているような顔をほんの少しだけ苦笑に変えて言う。

「本来はあまりよいことではありませんが、例の事件に関してはどうも情報が少なくて、担当している側も身動きが取れないようなんですよね」

「ついでに、猫より人に関わる事件の方が優先度は上ってところっすかね」

 南雲の言葉に「そういう言い方はしたくありませんが、その通りです」と綿貫は頷く。仕方がない、秘策は常に暇だが、他の部署はいつだって大忙しだ。人と人との問題は、いつどこにでも転がっているのだから。

「ですから、例の件に関しては『猫の手も借りたい』そうなので、例外的に南雲くんと八束くんには調査を許可しようと思います。よろしくお願いいたしますね」

「はいっ」

「へいへい」

 許可が出たなら、だらだらと時間を潰す理由は無い。てきぱきと準備を始める八束を横目にジャケットを羽織り、その上からコートを着込んでいると、綿貫がこちらを意味ありげな笑みで見つめていることに気づいた。

「しかし、珍しいですね。南雲くんが自分から動こうとするとは」

「まあ、ちょっと、頼まれたってのもあります」

 あえて「誰に」というのは言う理由がないから伏せておく。言ったところで、綿貫はともかく、この会話を聞いている八束を混乱させてしまうだけだったから。

「それに、うちらの仕事じゃないとはいえ、無関心を装うにはあまりにも身近すぎますしね。被害に遭ってるのが人でなくにゃんこならなおさらです」

「南雲くん、意外と真面目ですからねえ。そういうところ、僕も好ましいと思いますよ」

 綿貫さんに好かれても全然嬉しくないですよ、と南雲は眉間の皺を一段階深めるが、綿貫はただにこにこと――もしくはにやにやと、狐じみた笑みを向けてくるだけだ。南雲は、綿貫のそういうところをとりわけ嫌っているわけではないが、時々無性に気に入らない。

「ああ、もし、例のご婦人にお会いしたら、よろしくお伝えください」

 そうやって、当たり前のように南雲の腹の内を見透かしてくるところも。

「なんだ、全部お見通しですか、やっぱり」

「そういう情報を収集するのも、僕の仕事ですからね」

 綿貫は、ただでさえ細い目を更に細めてみせる。そこまでわかっているなら、もう少し便宜を図ってくれればいいと思うのだが、そのあたりは、綿貫の立場上色々と難しいということがわからない南雲でもないので、喉の奥に押し込んでおく。

 そんな南雲の葛藤を知らない八束は、黒目がちの目をぱちぱちさせて、びしっと敬礼する。

「それでは、行ってまいります」

「ええ、行ってらっしゃい。八束くん、南雲くんのお守りお願いしますね」

「お任せください!」

 ――ああ、やっぱりお守りされるのはこっちなのか。

 とはいえ、ほとんどの場合それで間違っていないので、異論を差し挟むのはやめた。そういうところでカロリーを使うことも面倒くさい。

 見送る綿貫の笑顔を見ないようにして、対策室を後にして。少々薄暗い廊下を歩きながら、お手本のように手を振って歩く八束を見下ろす。南雲に対する機嫌の悪さなど、すっかり忘れてしまったようだ。実際に「忘れた」ということは八束に限ってありえないわけだが、最低限、意識には上っていないものと見える。

 ――今なら、聞いてみてもいいだろうか。

「そういえば、八束」

「はい」

「さっき、どうしてあんなに不機嫌だったの? 俺、何か悪いことしたかな」

 びくうっ、と八束の肩が跳ねた。その大げさな反応を見る限り、南雲の見立て通り、先ほどまでの不機嫌は、八束の中で遥か遠くの方に追いやられていたものと見える。

 しかも。

「……その、それは」

 口ごもり、ついと視線を逸らすその姿は、今まで南雲が見てきた「八束らしさ」からはあまりにもかけ離れていて、逆に南雲の方が面食らう。南雲の知っている八束とは、どこまでも真っ正直で、思ったことは即座に言葉にしてしまうような、猪突猛進という言葉を体現したようなお嬢さんであったから。

 しかし、次の瞬間、八束はきりっと眉を吊り上げて、きっぱりはっきりと言った。

「秘密なのです!」

「ひみつ?」

 八束の口からそんな言葉が出るとは思わなかったので、つい、間抜けな声が漏れてしまった。

「はい、秘密にすると約束したので、南雲さんにも言えません」

 しかも、約束、と来たか。

 南雲は顎に手を当てて、その言葉を吟味する。

「『約束』ってことは、誰かに何か吹き込まれて、その上で『黙ってろ』って言われたってことか」

「うっ」

 八束も、そこでやっと自らの失言を悟ったようで、顔を青くする。これは、もう少しつついてやれば、すぐに「秘密」とやらも瓦解するだろうなあ、とは思うのだが。

 南雲は、その代わりにぽんぽんと八束の頭を叩いた。

「誰に何言われたのかは知らないけど、秘密じゃあ仕方ないな」

 八束が自分に何かを隠している、というのは少々気に入らないが、しかし、交わした約束を愚直に守ろうとするのは、それはそれで八束のあるべき姿であり、あえて暴き立てるような気持ちにもなれなかったのだ。

「南雲さん……」

「それに、お前が黙ってるってことは、正義に悖るようなことじゃあないんだろうしね。なら、約束を守る方が大事だろ」

 八束は、それはもう不器用で危なっかしい娘ではあるが、彼女が持ち合わせている倫理観は、いささか杓子定規ながらも決してぶれることはないし、その点においては南雲も信頼を置いている。その八束が「黙っていてよい」と判断したということは、八束が隠していることは、それ自体が誰かの脅威になる内容じゃないということなのだろう。

 ぐりぐりと頭を撫でてやると、八束は、唇を噛んで、何かを必死に堪えているようだった。だが、それ以上の言葉が八束の口から出ることは、なかった。

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