足跡は闇にきらめいて

 失礼します、と一言断り、履物を脱いで上がる。

 中は薄暗く、外より気温が下がったような気がしてぶるりと震える。空気の匂いも、肌に感じられる質感も、一歩建物の中に足を踏み入れただけで随分変わった気がする。これが、神の気配というやつだろうか――と考えてしまい、恐れ多さに身が竦む。

 対する、横の南雲はいたって自然体であり、一つ、大きく欠伸をしたと思えば、二つ目のチロルチョコをコンビニ袋から取り出すところだった。

「……南雲、飲食禁止な」

「ちぇー」

 とはいえ、ここの主である菊平の指摘に、渋々ながらも出しかけたチョコを再び袋の中に収め、入り口の柱の辺りにもたれかかった。

 いつものことではあるが、南雲の挙動の危なっかしさには、はらはらせずにいられない。こんな神聖な場所で神の怒りにでも触れたらどうするのだ、と考えるのだが、「何言ってんの八束、神様なんているわけないじゃない」と真顔で返す南雲の姿がまざまざと想像できてしまったので、喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。

 ぎしりぎしりと床板を鳴らしながら、菊平は奥に置かれた台の前に立つ。そこには古びた木の箱が置かれていた。ところどころが朽ちかけているところを見るに、相当長い年月を過ごしてきたのだろう、ということがわかる。

「こいつが、河童の入っていた箱だ。この中にもう一つ箱があったんだが……」

「内側の箱ごと消えていた、ということですね」

 菊平が今にも壊れそうな蓋を開け、八束は台の上の箱を覗き込む。そして、菊平の言うとおり、もう一つ何か四角いものが入っていたのだろう、ということは箱の内側に染み付いた痕から判断できた。

 しかし、それ以上に八束の注意を引いたのは、内側に残されたもう一つの「何か」だ。

「神主さん、このきらきら光るものは何ですか?」

 薄暗いから詳細はわからないが、八束の目には、箱の縁の辺りに、微かに光沢を持つ何かが付着しているように見えたのだ。一目ではそれが「何」かを判断することはできそうになかった。

 しかも、よく見ればその光沢を帯びた何かは、八束には見えていなかった箱の側面、そして床の上にもぽつりぽつりと落ちているようだった。何か小さなものを引きずっては持ち上げる、そんな痕跡に見えて、極めて不気味だ。

 それを不気味だと感じたのは、何も八束だけではなかったらしい。

「それが、俺にもわかんねえんだ。ただ……」

 菊平が、言いづらそうに口をもごもごさせていたが、やがて意を決したように八束に視線を向けて言った。

「ある地域の河童は、水銀の足跡を残すって話だ。もしかすると、これも……」

 その言葉に、八束もはっとした。

 ――だから、「歩いて逃げた」なのか。

 背中に戦慄が走り、にわかに足が震えだす。河童など存在しない、架空の生物である。そう思えば何も怖くない、そのはずだった。だが、目の前に河童が歩いていった痕跡が残っている以上、確かにこの場には河童が存在したということになる……。

 ぎょろりとした目玉が、拝殿の薄闇の向こう側からこちらを見つめているような感覚に、唇を噛み締めた、その時だった。

「んなアホな話があるかって」

 南雲の明朗な声が、八束を不毛なイメージの海から引きずり上げた。

「水銀の足跡って、牛久の河童じゃねっすか。茨城と一緒にしないでいただきたい」

「南雲さんがどうして茨城県をそんなに敵視するのか不思議で仕方ないです」

 それに、南雲はオカルト嫌いと豪語する割に意外とオカルトそれ自体に詳しいのが不思議ではある。八束より神秘対策係にいる期間が長い分、その手の事件に多く接してきたからだろうか――とは思うが、南雲がまともに仕事をしているところを見たことない以上、その姿が全く想像できないのが困りものである。

 南雲はぺたぺたと箱の前まで歩み寄ると、箱に付着した銀色の何かを睨む。

「それに、これ、本物の水銀なの?」

 俺は水銀ってよくよく見たことないからわかんないけど、と南雲が眼鏡の下から八束に視線をやる。南雲の顔はどう見ても不機嫌そうにしか見えなかったが、実際に考えていることはいつだって、表情とは裏腹だ。

 今だって、そう。

 八束は、内心の恐怖を理性で押さえ込み、南雲に一つ頷く。そして、背負っていたナップザックを下ろして、中から取り出すのは一対の白い手袋とペンライトだ。それを見た南雲が、半ば呆れたような声音で言う。

「お前、そんなもん持ち歩いてんのな」

「いつ事件が起こるかわかりませんから。備えあれば憂いなしです」

「仕事熱心だよねー、ほんと」

 南雲の揶揄を聞き流し、手袋を嵌めてライトをつけ、箱に付着したものを観察する。ライトの光を動かして、反射の加減を確かめる。

「水銀ではなさそうです」

「それはよかった。まあ、本当に河童が水銀を生産するっていうなら、俺、とっくのとうに乱獲して売り払ってるだろうけどな」

「南雲さんの発想って時々斜め上ですよね」

 河童の希少性と水銀の価値の関連については議論の余地がありそうだが、それはそれとしてもう少しじっくりと銀色に煌く何かを観察する。

「そうですね……。見た目から判断するなら、顔料と展色材の混合物。つまり、水彩絵の具の銀色、だと思います」

 本当は、きちんと鑑識に回して調べたいところだが、今回は正式な捜査ではなく単なるお節介なのだから、わがままは言えない。目に見えている事象と、八束の脳内に綴じこまれている情報と照らし合わせて判断を下す。

 菊平は八束の言葉を聞いて、ぼさぼさの頭を振って眉を寄せる。

「水彩絵の具、ってことは、何だ、いたずらってことか?」

「おそらくは」

 八束はこくりと頷いて返す。わざわざ絵の具で河童が歩いたような痕跡を残している以上、誰かの手によるいたずらとしか考えられない。

 顎に手を当てて、思案げにする菊平に対して言葉を続ける。

「この偽物の『足跡』をつけた人物が、ミイラを持ち去ったのでしょうか。神主さん、河童が消えたのは、昨日から今日までの間なのでしょうか」

「あ、ああ。昨日までは確かにミイラはここにあった。何人か見に来たから、そこは間違いない。で、暗くなってきた辺りで箱を締めて、戸に鍵をかけて帰った。今日来た所で河童が消えていたことに気づいたんだ」

「戸の鍵はどちらに?」

「家がすぐそこだからな、いつも持ち帰ってる」

 なるほど、と八束は頭の中で菊平の言葉を反芻しながら、ぐるりと視線を巡らせる。入り口に大きな戸。こちらは外側から鍵をかける仕組みらしい。また、窓はあるものの、光を入れたくないのか現在は雨戸で固く閉ざされている。こちらは内側から鍵がかかっている。

「雨戸はずっと閉じたままだったのでしょうか」

「そうだな。昨日はずっと閉めておいた。ミイラに光を当てるのもよくないからな」

 雨戸を検分してみる。どこか一つくらい鍵が壊れている可能性を考えたが、どの窓もきちんと鍵がかかっていたことは間違いないようだ。

 そして、帰り際、戸にも確かに鍵をかけたと菊平は言っている――。

「では、誰かが侵入して河童を盗んだ、と考えるのは難しいということですか」

 菊平の言葉だけを聞く限り、そうとしか思えない。この拝殿は昨夜から菊平が河童の不在を知った今朝まで密室だったということになる。

 だが、その場で事件が起こっている以上、完全な密室はあり得ない。

 そう言った、かつての上司を思い出す。八束が本部の捜査一課に所属していた頃も、不可解な事件に直面することは多かった。もちろん、河童などという奇妙な存在が関わることはなく、「人の手によるもの」であることがはっきりしている犯罪ではあったけれど。

 それでも、人はこちらが思う以上に突飛な方法で、犯罪の証拠を隠すことがある。そのくらいは、八束も経験上嫌というほどわかっている。

 消えた河童のミイラ。まるで河童の足跡のように残された銀の絵の具の痕跡。それを追いかけても、そちらにあるのは雨戸だけ。そこにはもちろん鍵がかかっている。

 残された銀色の痕跡に意味がない、ということはないだろう。そこに誰かがいた紛れもない証拠であり、また痕跡を残すだけの理由があったことも示している。しかし、それ以上のこと――例えば「誰が」それを残したのか、「何故」それを残したのか、という点に関しては、全く考えが及ばない。

 どうも思考の材料が足らないようだ。これでは河童が消えた理由は判断できそうにない。だが、今のままでは一体「何」が足らないのかも見当がつかない。

 腕を組み、堂々巡りを始めた思考を改めて手繰りなおそうとしたその時。

「あのー、すみませーん」

 入り口の辺りから、声が聞こえた。八束の知らない男の声だ。

 八束と一緒に腕を組んで考え込んでいた菊平が、慌ててそちらに向かう。

「いらっしゃい。昨日はほとんどお相手できなくて悪かったね」

「いえ。こちらこそお忙しいところお邪魔して申し訳ない」

 見れば、ダークグレーのニットの帽子を被った男が、ぺこりと先客である八束と南雲に対して頭を下げていた。八束も反射的に深々とお辞儀をして、改めて男を見やる。

 年齢は二十代の前半といったところだろうか。近場の住人なのだろう、軽装で肩掛けの鞄を提げている。目尻の垂れた、人のよさそうな青年だ。青年は、強張った顔つきの菊平に気づいていないのか、笑顔を浮かべて続ける。

「それで、改めて河童のミイラを見せていただきたいと思ったのですが」

「あ、ああ……」

 菊平はしどろもどろになりながら、青年に対して申し訳なさそうな顔を向ける。

「本当にすまないんだが、ちょっと色々立て込んじまっててな。ミイラの公開を差し止めてるんだわ」

 河童のミイラが消えた、ということをきちんと伝えなくてよいのだろうか。声をあげかけた八束の口は、ぬっと突き出された大きな手によって塞がれた。

「む、むむむぅー!」

「余計なこと言わないでいいんだよ」

 もちろん、八束の口を塞ぐ手は南雲のものだ。不審げにこちらを見る菊平と青年に「おかまいなく」と返した南雲は、八束の頭の上から囁きかけてくる。

「先輩は、ことを大きくしたくないんだろ。河童が消えたって事実を知られるのが、先輩にとって不都合なのかどうかは知らんけど」

「……そうなのです? 通常、皆さんに知ってもらった方が情報は集めやすいと思いますが」

「通常はね。そうできないだけの理由が、先輩にはあるのかもしれないな。でも」

「でも?」

 南雲は一つ、大きく欠伸をして、眼鏡を押し上げて目を擦りながら言う。

「まあ、俺らがそこを気にしてちゃ話にならんからね。先輩の事情は先輩の事情、河童が消えたという事実とは別のお話でしょ」

「む……」

 確かに、南雲の言う通りではある。あるけれど、どうも何か引っかかるものを感じている。その引っ掛かりを、八束は臆することなく――とはいえ、もう一度口を塞がれるのは不本意だったので、出来る限りの小声で――囁く。

「しかし、完全に無関係ではないと思います。河童のミイラが、神主さんにとってどのような存在なのか。それによって、河童が消えた『理由』は変わるのではないかと考えます」

 具体的なことは何一つわかってはいないものの、河童のミイラが歩いて逃げたわけではない、という立場を取る以上、それは何者かに持ち去られたのだ。何者かが持ち去ったなら、その人物には河童を盗みだすだけの理由がある。そして、その理由は必ずしもその個人で完結した思惑であるとは限らない。

 例えば、持ち去った人物と、持ち主の間に因縁がある場合だとか。

 南雲は、今にも人を殺しそうな目で八束を睨んだ、もとい「見つめた」後、ふと息をついて存外穏やかな声で言った。

「何だ、そこまで気が回ってたんだ。ちょっと意外」

「わたしだって、考えて発言をしているつもりですっ!」

 むっとして頬を膨らませる八束だったが、南雲はそのぷくぷくのほっぺたをつついて、軽い口調で言い放つ。

「でも、それを論じるのは今じゃない。先輩の口を割らせるにも、それ相応の準備が要ると思うのよね」

「準備、とは?」

「言いたがらないことを、そう簡単に明かしてくれるわけないでしょ? だから、先輩がどうして河童の紛失を知られたくないのか、理由を証拠と合わせて示す必要がある。そうするくらいなら、河童が誰に盗まれたのかはっきりさせる方が手っ取り早いかもしれないけど」

 八束は、南雲の言葉をゆっくりと噛み締めるように吟味する。とはいえ、今この段階で、八束が言えることは一つだった。

「……どちらも、難しそうですね」

「そりゃな。まずは地道に河童を探すしかないだろうな。探してるうちにわかってくることもあるでしょ、きっとね」

 いつものことながら頼りない物言いだ、と思いながら南雲を見上げると、南雲はぺこぺこと頭を下げあっている菊平と青年の方を見ていた。

 南雲に気を取られて向こうの会話の流れはよくわからなかったが、青年の声が、ふと八束の耳に飛び込んできた。

「では、ミイラの展示を再開したら、ご連絡いただければと思います」

「ああ。わざわざ来てくれたのに本当に申し訳ない。必ず連絡する」

「ありがとうございます。それでは、また」

 青年はもう一度深く頭を下げて社を後にした。その背中が石段を降りていくのを見届けた後に、彼の連絡先であろうメモを片手に溜息をつく菊平に問うた。

「今の方は?」

「近くの大学に通ってる学生だ。民俗学を専攻してるらしくて、それでうちの河童のミイラに興味があるそうだ」

 なるほど、と八束は頷く。河童といえば柳田国男の『遠野物語』にも記述されているように、民間伝承の定番ともいえるテーマだ。河童と一言で言っても日本各地でそれぞれ違う姿をしていたり、性質が異なったりと、突き詰めればなかなか奥の深いテーマなのかもしれない。

 思いながらちらりと菊平の手元に視線を走らせてみる。薄暗い中でも、ノートの切れ端に書かれた文字列は見て取ることができた。

 梅川恭一、という名前と十一桁の携帯電話の電話番号。それを一秒足らずで脳味噌の片隅に焼き付けて、視線を上げる。

「昨日もいらしていたのですか?」

「そ。だけど間が悪くてな、昨日はちょうど面倒くさい客が来てるところで、そっちの対応に追われちまったんだ。で、河童の話を詳しく聞きたきゃ今日もう一度来いって言ったんだがこのザマだ」

 軽く肩を竦める菊平の言葉に、どうにも引っかかるものを感じて八束は首を傾げずにはいられない。

「面倒くさい客、ですか?」

「こういうのを見せてると、ケチつけてくる奴も少なくないんだ。それで、昨日は特に面倒な奴だったから、追い払うのに苦労した」

 言いながら、菊平は深々と溜息をつく。偽物とわかりきっているとはいえ「河童のミイラ」という奇妙なものを見せるというのは、面倒とは切り離せないらしい。その時のことを思い出したのか、苦々しい顔つきで虚空を睨んでいた菊平だが、すぐ気を取り直したようで、こちらに視線を戻してきた。

「で、これからどうすればいい?」

 どうすればいい、と言われても今のところ手がかりが少なすぎる。

 少しでも、情報を得なければならないことだけは、はっきりしているのだが――。

 助けを求めるように南雲に視線を向けてみるも、南雲は立ったままゆらゆら船をこぎ始めている。甘いものを食べていない時の南雲は、大体においてこんなものである。

 そんなわけで。

「……河童の足取りを追いましょう」

 今の八束が思いつく限りのことを、言葉にした。

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